あなたの記憶、買います。

鴨居ダンテ

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彼我認識の向こう側

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 眼前に聳え立つ人外の塔。人にとり形の異なる壁《ウォール》。

 老人にとってのそれは塔の形を成していた。屹立する一本の塔。ここからではその大きささえまともに掴むことはできず、まるで天から地上に降り立ったかのようにも見える。それはさながら人間と科学、絶対の不可侵領域を守る智天使《ケルビム》の剣のように、人を人たらしめている。

 塔の周囲を取り囲む洋燈《ランプ》の炎は、それ自体が炎であり、塔と同じく微動だにしない。存在が確立されていて、それでいて形而上化されてもいる。触れることはできても、何かを与えることはできない。それができるのは暗号《コード》を破る者だけ。それが科学と人を選り分ける最後の砦であった。

 ここには距離がない。少なくともあるようには感じられない。遠方にあるはずの洋燈は、わたしの焦点の先になく、それでいて存在としては確立している。

 人と科学のパラドクス、科学の確実性と人間の不完全性の。なぜかという愚問が生まれるも、それは科学にとって無に等しい疑問だ。現象を現象として起こすことと現象を現象として理解することは乖離する。
 
 それでも人はwhyを求め続ける、希求せずにいられない。

 ここには時間が永遠と生きていた。終わることのない時間空間。時間感覚を狂わせる、科学者の追い求めた楽園《ユートピア》。〈外〉と違うのは、同じ時間だけが繰り返されるということ。いつなんどきどこからダイブしようと、ここには同じ時間(とき)が流れている。

 科学の希求したユートピアはいつの間にか人にとってのあたりまえになる。それは科学の使命だ。実態が分からないからこそ人は魅了される。実態を知ってしまえば、それは既知〈known〉の存在となってしまう。未知〈Unknown〉だからこそ、科学には価値が生まれ、そしてその先が探求される。終わりのない真理こそ人の求める本当の楽園《エデン》。

 それを妨げるものは排除されるのが運命であり、記憶もそのひとつに過ぎなかった。人は核兵器を捨てるよりも先に記憶を捨てた。それは記憶の持つ固有性、つまるところの確実性が故であった。人は過去を淘汰できないままに科学を探求してきた。

 人は生き急ぎすぎた、何もかもにおいて。致し方のないことではある。常に上へ。他者より先へ。それが人であり、そんな人の創った最適合社会だった。

 「猿猴月を取る」とはよくいったもので、その資格すら持たぬ我々を科学は追い越しすぎた。それでも人は求めるための障害物を葬ってきた。そう、そしてそれはこの先も常闇の中で繰り返され続けるのだろう。

 ここへ来るたびに自分が幻視者になったような思いがする。電気海馬への壁破り《ハッキング》に視覚的な変動が起こるはずはない。それはまだ未来の話。十年か、三十年か、はたまた百年か。分からないがやってくるのだ、必ず。

 しかし、壁は今まさに私の眼前に聳え立っている。そっと手を触れてみる。そこにあってそこにない。「壁がある」という事実だけが壁と私を繋いでいる。

 老人の残した記憶はまさにこの壁の先にある。

 彼がどんな人生を歩み、残酷な最期を迎えたか。

 壁は開き、私は広大な記憶の向こう側へ、彼我認識の向こうへと一歩を踏み出した。
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