黄泉小径 -ヨモツコミチ-

小曽根 委論(おぞね いろん)

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漆 明治十一年

五、

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 泰四郎の言葉にゆいの心が揺り動かされた気配は全くなかった。まるで無視でも決め込んだかのような無反応に、泰四郎の方が折れた。

 彼は仕方なさそうに笑うと、酒を持って立ち上がる。

「すでに何度も聞いた質問には答えぬ、か」

 瓢箪を再び腰に括り付けると、彼は饅頭を手に取った。

「親も大事に出来ぬような家など滅びてしまえばいい。そうだったな」

 そして、提灯は置き去りのままゆいの方へ歩み寄ろうとしたその時、二人の間を割って入るかのようにして、白く小さな獣の影が現れた。

 いつの間に近くにいたのかは分からない。ただその獣は、ゆいになつくようにして足元に座り、太い尾を振りながら泰四郎の方を見上げていた。

 それは、月に照らされた一匹のキツネであった。

「ゆい。そちらが、おきつねさまか」

 泰四郎は訊いた。

「ええ。あんまりあなたがこんなところで長くいるものだから、少々お怒りですよ」

「これは失礼。わしはどうすれば良いのかな」

 ゆいは、泰四郎の質問に答えなかった。それまでの沈黙とは少し違う、なにやら決まりの悪そうな感じで彼女は口を閉ざす。

 泰四郎は察したのか、両の口角を少し上げると、空いている方の手をゆいの肩に置いた。

 うら若き少女のそれとは思えぬ、ぶよりとした感触だった。が、彼はそれを気にする様子もなく言う。

「大丈夫。もとより今日はそのつもりで来たのだ。余計な気を使わせてしまってすまんな」

 泰四郎のその言葉を理解したのか、キツネはゆいから離れると竹藪の入り口まで走っていき、そこで身を翻した。

「後ろについていけばよいのか」

 老人が聞くと、少女は無言で頷いた。

 泰四郎はおきつねさまの傍へ歩み寄る。が、少し手前で一度立ち止まった。

「ゆい、最後に頼まれても良いか」

「この期に及んで、何ですか」

 もとより力のこもらない喋り方をする少女であったが、この時の応えは特に元気がなかった。

「その提灯は、源一郎のところから借りてきたやつなんだ。後で返しておいてくれないか」

 ゆいは、泰四郎が置き去りにした提灯に目をやった。

「なんで私がわざわざ」

「必ず返すと約束したんだ。ここに捨てておくわけにもいかんだろう」

「分かりました。では、私があとで家の前にでも放り投げておきます」

「おいおい。借りものなんだから丁重に扱ってくれよ」

「うるさいなあ。分かりましたよ」

「すまん。手間かけるな」

「どういたしまして」

 おきつねさまが、泰四郎の周りをぐるぐる回りだした。

 急かしているのだろうと悟った泰四郎は背筋をただし、竹藪の向こうの暗闇を見据えた。

「ゆいよ」

 姿勢を動かさぬまま、少女の名を呼ぶ。

「お前には、兄らしいことなど何ひとつしてやれなかったな」

 泰四郎からは、少女の顔は見えない。

「重ね重ね、色々とすまなかった。達者でやれよ」

 老人は、竹藪に足を進めだした。焦れた様子のおきつねさまは十歩ぶんほど先まで一気に駆け、そこで振り返って泰四郎を待っている。

 暗がりにも関わらず、おきつねさまの白い姿はよく見えた。泰四郎は迷うことなくそれを目印に歩いていく。

 その、刹那。

「待って、兄さん」

 後ろから聞こえたのは、妹の叫び声だった。

「それは違う。私にとって兄は、あなただけでした。他のやつらなんかそれこそどうでも良い。でも、あなただけは私の味方でいてくれたじゃありませんか。どうかそんな事おっしゃらないで」

 しかし、今度は兄が妹の言葉に耳を貸さない番だった。

 泰四郎は一切立ち止まることなく、おきつねさまに従い足を進めた。

 彼はそのまま最後まで振り返ることなく、黄泉径の闇に消えていった。
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