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捌 明治十年
憎悪滾ル荒木ノ家
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すずの一日は、古火傷の跡を布で隠すことから始まる。
それは右目の辺りに広くあった。なまじ端整な顔つきであるだけに、その対比はなおさら人目に晒せるようなものではなかった。この日も慣れた手つきで、白濁した右目と黒く変色した皮膚を眼帯のような要領で器用に隠し、後ろ手で布を縛った。そして、そのまま朝餉の準備に取り掛かる。
すずの母はずっと前に死んだ。故に、この家では彼女が炊事を担当している。すずは荒木家の長女だった。それを呪わなかった日は、一日とて無い。
彼女が用意しているのは、雑穀へ米を少し混ぜたものと、薄い色をした汁物だった。すずの家は、村の中でも特に作物が出来ないところにある。食べる物に困るのは、いつもの事だった。
「おはよう、姉ちゃん。手伝おうか」
妹のあさが起きてきて、姉を気遣う振りをする。彼女が起きてくるのは、決まって朝餉が整う直前だ。手伝うつもりなど微塵もないのは明白だった。
「いいわよ、もう出来るから。あなたは、お父さんたちを起こして頂戴」
すずは、あさの方を見もしないで言う。
「はぁい」
間延びした声であさは答えると、今自分が開けた障子の方へ戻っていった。一番手前で寝ている父親の子三郎の布団を蹴る音が、すずの耳に届く。
「おら、朝飯だとよ。起きろ親父」
寝床の子三郎は、それを受けて力なく呻く。
「てめえ。毎日毎日、よくも自分の父親を足蹴に出来るな」
「あんたにだけは言われたくないね。ほら、牛兵衛も寅之助も起きな。朝だよ」
あさは父に続いて、弟たちにも床を出るように促す。それはこの家にとって、いつもの朝の光景だった。
子三郎の床を中心に膳が並べられ、朝餉となった。子三郎は数年前から病に侵されており、もうずっと床から出ていない。
「体を起こせますか、お父さん」
「大丈夫だ、余計な世話を焼くな」
「すず姉、よくやるな」
父を介抱する姉を見ながら牛兵衛が言った。彼は、悪くしている左足を投げ出すようにして膳の前に座る。
すずが全員分の膳を並べ終わったところで、思い思いに箸を持ち食事を始めた。
大した量ではないが、皆ゆっくりと時間をかけて食べている。特にあさは左手が不自由で、椀に口を近づけて飯をかきこんでいる。器用に箸を使っているが、やはりどこか危なっかしい。
そのあさを子三郎がしげしげと見つめていた。これにすずが気づき、声をかける。
「あさが、どうかしましたか」
尋ねられた子三郎は、鼻で笑って言った。
「いや、何度見ても犬みてえな食い方だなって思ってよ」
それを聞くとあさは体を起こし、箸を膳に投げつけた。反動で、寅之助の膳に箸が片方飛ぶ。寅之助は何も言わず、箸をあさの膳に戻した。
「あさ、落ち着いて」
「てめえ、よくもそんな事が言えたな」
あさは押し殺した声で言うと、すずの制止を無視してその場に立った。
腹を立てた様子なのは彼女だけではなかった。牛兵衛もあさに倣うようにしてぎこちなく立ち上がると、子三郎の後ろに回った。
「おい、何するつもりだ」
彼はしかめ面をする子三郎の後ろ襟に手をかけると、片足が悪いとは思えない力で軽々と彼を立ち上がらせた。
「おい、こら。こら」
「牛兵衛、そのままな」
「あいよ」
あさははしたなく片足を上げると、子三郎の下っ腹を思い切り蹴りつけた。
子三郎の口から、醜い悲鳴が漏れる。
「あさ。牛兵衛。やめなさい」
すずの言葉に、二人を思い留まらせる効果は全くなかった。牛兵衛は子三郎を羽交い絞めにして動けないようにし、あさはそれに応えるようにして何度も父親の腹を蹴った。
「あんたがあたしの腕を折ったからこんな食べ方してるんじゃないか。あんた、自分が何をしたのか覚えてねえのか」
「やめろ、馬鹿野郎。そんなに思い切り蹴られたら死んじまうだろうが」
「牛兵衛の足も、姉ちゃんの目も、あんたが癇癪を起して駄目にしたんだろうが。もしこれでボケた振りして忘れたなんて言ってみろ。半殺しじゃすまねえぞ」
「しつけじゃねえか。親が子に手を出して何が悪い」
「一生もんの不自由背負わせといて何がしつけだ。ふざけるな」
言っている間にも、あさの脚は何度も子三郎の腹を捉える。
「分かった。分かったからやめろ。死んじまう」
「あさ、もうやめなさい。お父さん本当に死ぬわよ」
見るに見かねて、すずはあさと子三郎の間に割って入った。あさは憎々しげな視線を容赦なく父親に浴びせつつも、ようやくその腹を責めるのをやめた。
「牛兵衛も、離しなさい」
「ちぇ。すず姉は甘いんだよ」
渋々ながら、牛兵衛も子三郎から離れる。
「はぁ。はぁ。すまんな、すず」
「謝る相手が違いますよ、お父さん」
すずに促され、子三郎はあさを見た。あさの目は未だ、子三郎を激しく責めている。
その視線を直視出来ずに、子三郎はそっぽを向いた。
全員が、その場で黙り込んだ。聞こえてくるのは、寅之助が汁をすする音のみだった。
それは右目の辺りに広くあった。なまじ端整な顔つきであるだけに、その対比はなおさら人目に晒せるようなものではなかった。この日も慣れた手つきで、白濁した右目と黒く変色した皮膚を眼帯のような要領で器用に隠し、後ろ手で布を縛った。そして、そのまま朝餉の準備に取り掛かる。
すずの母はずっと前に死んだ。故に、この家では彼女が炊事を担当している。すずは荒木家の長女だった。それを呪わなかった日は、一日とて無い。
彼女が用意しているのは、雑穀へ米を少し混ぜたものと、薄い色をした汁物だった。すずの家は、村の中でも特に作物が出来ないところにある。食べる物に困るのは、いつもの事だった。
「おはよう、姉ちゃん。手伝おうか」
妹のあさが起きてきて、姉を気遣う振りをする。彼女が起きてくるのは、決まって朝餉が整う直前だ。手伝うつもりなど微塵もないのは明白だった。
「いいわよ、もう出来るから。あなたは、お父さんたちを起こして頂戴」
すずは、あさの方を見もしないで言う。
「はぁい」
間延びした声であさは答えると、今自分が開けた障子の方へ戻っていった。一番手前で寝ている父親の子三郎の布団を蹴る音が、すずの耳に届く。
「おら、朝飯だとよ。起きろ親父」
寝床の子三郎は、それを受けて力なく呻く。
「てめえ。毎日毎日、よくも自分の父親を足蹴に出来るな」
「あんたにだけは言われたくないね。ほら、牛兵衛も寅之助も起きな。朝だよ」
あさは父に続いて、弟たちにも床を出るように促す。それはこの家にとって、いつもの朝の光景だった。
子三郎の床を中心に膳が並べられ、朝餉となった。子三郎は数年前から病に侵されており、もうずっと床から出ていない。
「体を起こせますか、お父さん」
「大丈夫だ、余計な世話を焼くな」
「すず姉、よくやるな」
父を介抱する姉を見ながら牛兵衛が言った。彼は、悪くしている左足を投げ出すようにして膳の前に座る。
すずが全員分の膳を並べ終わったところで、思い思いに箸を持ち食事を始めた。
大した量ではないが、皆ゆっくりと時間をかけて食べている。特にあさは左手が不自由で、椀に口を近づけて飯をかきこんでいる。器用に箸を使っているが、やはりどこか危なっかしい。
そのあさを子三郎がしげしげと見つめていた。これにすずが気づき、声をかける。
「あさが、どうかしましたか」
尋ねられた子三郎は、鼻で笑って言った。
「いや、何度見ても犬みてえな食い方だなって思ってよ」
それを聞くとあさは体を起こし、箸を膳に投げつけた。反動で、寅之助の膳に箸が片方飛ぶ。寅之助は何も言わず、箸をあさの膳に戻した。
「あさ、落ち着いて」
「てめえ、よくもそんな事が言えたな」
あさは押し殺した声で言うと、すずの制止を無視してその場に立った。
腹を立てた様子なのは彼女だけではなかった。牛兵衛もあさに倣うようにしてぎこちなく立ち上がると、子三郎の後ろに回った。
「おい、何するつもりだ」
彼はしかめ面をする子三郎の後ろ襟に手をかけると、片足が悪いとは思えない力で軽々と彼を立ち上がらせた。
「おい、こら。こら」
「牛兵衛、そのままな」
「あいよ」
あさははしたなく片足を上げると、子三郎の下っ腹を思い切り蹴りつけた。
子三郎の口から、醜い悲鳴が漏れる。
「あさ。牛兵衛。やめなさい」
すずの言葉に、二人を思い留まらせる効果は全くなかった。牛兵衛は子三郎を羽交い絞めにして動けないようにし、あさはそれに応えるようにして何度も父親の腹を蹴った。
「あんたがあたしの腕を折ったからこんな食べ方してるんじゃないか。あんた、自分が何をしたのか覚えてねえのか」
「やめろ、馬鹿野郎。そんなに思い切り蹴られたら死んじまうだろうが」
「牛兵衛の足も、姉ちゃんの目も、あんたが癇癪を起して駄目にしたんだろうが。もしこれでボケた振りして忘れたなんて言ってみろ。半殺しじゃすまねえぞ」
「しつけじゃねえか。親が子に手を出して何が悪い」
「一生もんの不自由背負わせといて何がしつけだ。ふざけるな」
言っている間にも、あさの脚は何度も子三郎の腹を捉える。
「分かった。分かったからやめろ。死んじまう」
「あさ、もうやめなさい。お父さん本当に死ぬわよ」
見るに見かねて、すずはあさと子三郎の間に割って入った。あさは憎々しげな視線を容赦なく父親に浴びせつつも、ようやくその腹を責めるのをやめた。
「牛兵衛も、離しなさい」
「ちぇ。すず姉は甘いんだよ」
渋々ながら、牛兵衛も子三郎から離れる。
「はぁ。はぁ。すまんな、すず」
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すずに促され、子三郎はあさを見た。あさの目は未だ、子三郎を激しく責めている。
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全員が、その場で黙り込んだ。聞こえてくるのは、寅之助が汁をすする音のみだった。
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