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第1話「平凡な日常と突然の契約者」
しおりを挟む「深宮、また一人で帰るの?」
カバンを片手に教室を出ようとした時、クラスメイトの声に振り向く。質問に答える前に、彼らは既に他の話題に移っていた。
深宮蒼は特に気にせず廊下へ出た。高校二年生になっても、周囲との距離は縮まらない。クラスの中で彼の存在は、まるで透明な影のようだった。
教室を出た蒼は、日が沈みかけた校庭に目を向けた。放課後の部活動で賑わう運動場と、それを囲む桜並木。その光景に何かを思い出そうとするが、頭の中には靄がかかったようにぼんやりとした記憶しかない。
「また、思い出せないか...」
蒼は10歳の時、大きな事故で家族と記憶を失った。施設で育ち、今は下宿先から学校に通う日々。誰かに心を開くことなく、静かに生きてきた。
帰り道、蒼はいつもと違う路地を選んだ。何気なく曲がった先で、彼は立ち止まった。
路地の奥で、一人の老人が息を切らして走っていた。その後を、黒いスーツを着た男たちが三人、追いかけている。
「何だ...?」
蒼は身を隠し、状況を窺った。老人の顔には恐怖が浮かび、追手は冷酷な表情で迫っていた。逃げるべきか、助けるべきか迷う間もなく、老人が蒼の隠れる場所の前で倒れ込んだ。
「くっ...」
老人は血を吐き、苦しそうに呼吸をする。蒼が慌てて駆け寄ると、老人は驚いたように目を見開いた。
「若者...」老人はかすれた声で言った。「お願いだ...私と契約してくれ」
「契約?何を言って—」
言葉を遮るように、老人は力尽きた腕を伸ばした。蒼は咄嗟にその手を握る。
その瞬間だった。
「ぐああッ!」
蒼の体を電流のような痛みが貫いた。脳裏に見知らぬ光景が次々と流れ込む。寺院めいた建物、武術の型、そして老人自身の記憶—彼の名は「葛」、伝統武術の使い手で何かを守っている...
痛みが収まった時、蒼は冷たい地面に膝をついていた。息を整えて顔を上げると、黒スーツの男たちが目の前に立っていた。
「おい、あの老人はどこだ?」
彼らは蒼を見るが、まるで葛を探しているかのようだった。蒼自身が葛に見えていないのだろうか。
「知りません」と蒼は答えた。
男たちは周囲を素早く見回し、「こっちじゃない」と言って立ち去った。
不思議に思いながら蒼が葛に目を向けると、老人はさらに弱々しくなっていた。
「ありがとう...若者」葛は微笑んだ。「契約が成立した...私の記憶と能力の一部が、今あなたの中にある」
「何の話ですか?私には—」
「時間がない」葛は懐から小さな木箱を取り出した。「これを私の孫娘に届けてほしい。名前は七海。霧原町の東の端にある古い神社に住んでいる...」
蒼が木箱を受け取った時、葛の息は既に絶えかけていた。
「この箱には大切なものが...そして彼女なら、あなたの力について教えてくれるだろう...」
老人の最後の言葉と共に、風が路地を吹き抜けた。葛の体が光の粒子となって風に溶けていく。蒼の目の前で老人は完全に消え去り、残ったのは木の匂いのする小箱だけだった。
「何が...起きたんだ...?」
蒼は震える手で箱を握りしめ、周囲を見回した。夕暮れの路地に人影はなく、老人が消えた場所には何も残っていなかった。
体の中に流れ込んだ記憶が断片的によみがえる。蒼はその記憶に導かれるように、立ち上がった。
右手の甲に、不思議な紋様が浮かび上がっているのに気づいたのは、下宿に戻る途中だった。幾何学的な金色の線が、まるで古代文字のように手の甲に浮かび、かすかに光を放っていた。
「契約...」
老人の言葉が頭に響く。混乱する心と裏腹に、蒼の体は新たな力を宿したことを感じていた。孤独な日常に突然訪れた異変。深宮蒼の運命は、この日から大きく動き始めたのだった。
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