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第14話「通じない轉魂」
しおりを挟む「なんとか逃げ切ったみたいね」
神和の古い神社の社務所で、瑠璃が窓の外を警戒しながら言った。蒼は古くて味のある畳の上で息を整えていた。
「綾音が大丈夫か心配だ」蒼は眉をひそめた。「あの少女は...尋常じゃない」
「雪村千冬」神主が茶を入れながら言った。「彼女は伝説の『感情凍結』の使い手だ。数十年に一人現れるかどうかという特殊能力者じゃよ」
茶を受け取った蒼は、その温かさで冷えた体を少しずつ温めながら、図書館での出来事を思い返していた。あの冷たい目、感情の欠片もない表情、そして全身を包み込む白い制服...
「感情凍結...どんな能力なんですか?」蒼は神主に尋ねた。
神主は老いた目を細め、記憶を手繰り寄せるように沈黙した後、口を開いた。
「相手の感情を一時的に凍らせる術じゃ。恐怖、怒り、喜び...あらゆる感情が氷のように凍りつき、人は自分の感情にアクセスできなくなる。感情が凍結された者は、思考が鈍り、体の動きも遅くなる」
「まさにそれだ」蒼は頷いた。「彼女の術を受けた瞬間、自分の中から感情が消えていくような感覚があった」
「しかも凍らせる対象を選ぶこともできる」瑠璃が補足した。「恐怖だけを凍らせ、怒りは残すとか...そうすれば相手はバランスを崩して暴走するわ」
蒼は思わず身震いした。「恐ろしい能力だ...」
「で、君は何をしようとしたんだ?」神主が鋭い視線で蒼を見つめた。
「私は...彼女と魂契約を結ぼうとした」蒼は正直に答えた。「でも、契約が成立しなかった」
「当然じゃろう」神主は納得したように頷いた。「轉魂契約は相手の感情があってこそ成立する。感情のない者、あるいは感情を凍結された者とは契約は結べん」
蒼は右手の轉魂の紋様を見つめた。「だから轉魂の力が使えなかったのか...」
「しかし」神主は物思いにふけるように言った。「雪村千冬が全く感情を持たないというのも奇妙なことじゃ。術で感情を抑制していると考えるのが自然だが...」
その時、社務所の扉が勢いよく開いた。蒼たちが驚いて振り返ると、そこには息を切らせた綾音の姿があった。
「綾音!」蒼は思わず立ち上がった。「無事だったのか!」
綾音は少し疲れた表情を見せながらも、蒼を見て安堵の表情を浮かべた。「なんとか逃げ切ったわ。千冬の追跡をかわせたみたい」
彼女の腕には小さな切り傷がいくつか見えたが、命に関わるような怪我はないようだった。
「座りなさい」神主が綾音に茶を勧めた。「今、雪村千冬の話をしていたところだ」
綾音は感謝の意を示し、蒼の隣に座った。彼女は一息ついた後、真剣な表情で話し始めた。
「彼女の能力は恐ろしいわ。私の魂の炎にも微塵も動じなかった...むしろ、炎を凍らせようとさえしていた」
「魂の炎を...凍らせる?」瑠璃が驚いた声を上げた。「それは聞いたことがない」
「千冬が特別な存在である証拠だな」蒼は物思いにふけるように言った。「蒼、彼女と契約しようとしたが、成立しなかったと言っていたぞ」神主が綾音に説明した。
綾音は小さく頷いた。「感情のない者とは契約できないわ。それが轉魂の大原則」
「しかし、彼女の感情はどこへ行ったんだ?」蒼は疑問を投げかけた。「完全に感情がないというのは...人間としてあり得るのか?」
部屋に沈黙が広がった。瑠璃がしばらく考えた後、口を開いた。
「一つ可能性がある。彼女自身が自分の感情を凍結しているのかもしれない」
「自分の感情を...?」蒼は驚いて瑠璃を見た。
「ええ。魂器回収機関では、感情は任務の妨げになるという考えがあるわ」瑠璃が説明した。「特に重要な任務を担う者は、感情を捨てることを要求される」
「自ら感情を捨てるだなんて...」蒼は言葉を失った。
神主が重々しく言った。「それはまさに感情の鏡の力の一つじゃ。感情を映し出し、時には封じ込めることもできる」
蒼たちは顔を見合わせた。「つまり...」
「雪村千冬は既に感情の鏡の力の一部を使っているか、あるいは鏡によって感情を奪われた可能性がある」神主は結論づけた。
「となると、彼女を追跡すれば感情の鏡に近づけるかもしれない」瑠璃が提案した。
「いや、危険すぎる」蒼は首を振った。「まず彼女の能力に対抗する手段を見つけなければ」
神主はしばらく黙考した後、立ち上がって奥の部屋に向かった。戻ってきた時、彼は古びた巻物を手にしていた。
「これを見るがよい」神主は巻物を広げた。「感情凍結への対策が記されておる」
四人は巻物を覗き込んだ。そこには古代の文字で様々な術式が書かれており、その中に「感情の炎」という術があった。
「感情の炎...」綾音が呟いた。「私の魂の炎に似ているわ」
「似ているが異なる」神主が説明した。「魂の炎が魂そのものの力なら、感情の炎は感情を燃やして生み出される炎じゃ。凍結された感情を溶かす効果がある」
「それを使えば、千冬に対抗できる?」蒼が希望を持って尋ねた。
「理論上はな」神主は少し渋い顔をした。「だが、この術を習得するのは容易ではない。特に今の君のように、轉魂の力がまだ完全に開花していない状態では...」
「でも、やるしかない」蒼は決意を込めて言った。「父の使命を継ぐために、七大魂器を集めなければ」
神主は蒼の決意に満ちた表情を見て、ゆっくりと頷いた。
「よかろう。明日から訓練を始めよう。今日はもう遅い。安全な場所で休む必要がある」
「ここは...?」瑠璃が尋ねた。
「ここも長くは安全ではない」神主は首を振った。「雪村千冬は必ず神社にもやってくる。私の結界も彼女の能力には長くは持たないじゃろう」
「では、宿に戻りましょう」綾音が提案した。「明日の朝、また来ます」
四人は短い相談の後、蒼たちが宿泊先のホテルへ戻ることにした。神主は彼らに護符を渡し、「身につけていれば、一時的に気配を隠せる」と説明した。
------
神和の夜の街は、昼間とは違う顔を見せていた。無数のネオンが輝き、人々が行き交う雑踏。高層ビルの谷間を抜ける風は冷たく、蒼たちの頬を撫でていった。
三人は人混みに紛れながら、慎重に移動した。神主から受け取った護符のおかげか、今のところ追手の気配はない。
「魂器回収機関について、もっと教えてくれないか」蒼は歩きながら瑠璃に尋ねた。
瑠璃は少し警戒しながら周囲を見回し、小声で答えた。
「魂器回収機関は、七大魂器を集めることに特化した秘密結社よ。表向きは『古代文化研究財団』という名前で活動している」
「いつから存在しているんだ?」
「少なくとも50年以上は」瑠璃が答えた。「最初は小さな研究グループだったけど、桐生が参加してから急速に拡大したわ」
「桐生が...」蒼は眉をひそめた。「父が裏切られたのもその頃か」
「おそらくね」瑠璃は頷いた。「でも詳しい経緯は私も知らない。私が組織に入ったのはずっと後だから」
蒼は考え込むように黙った。桐生との対決後、彼は記憶の杯の力で父との記憶を取り戻したが、それはごくわずかな断片に過ぎなかった。
「彼らの目的は何なんだ?」蒼が再び尋ねた。「ただ魂器を集めるだけ?」
「その先にあるものよ」綾音が静かに言った。「七大魂器をすべて集めれば、使い手は神のような力を得る。世界の法則さえも書き換えられるとされているわ」
「だから彼らはそれを狙っている...」
「世界を支配するためかもしれないし、別の目的かもしれない」瑠璃が言った。「一般の構成員には真の目的は知らされていないわ」
三人はさらに歩を進め、ようやくホテルに到着した。部屋に入ると、蒼はぐったりとベッドに身を投げ出した。今日一日の緊張と疲労が一気に押し寄せてきたようだった。
「少し休んだら、食事に行きましょう」綾音が提案した。「力を回復しないと」
「そうだな」蒼は頷いたが、ポケットから記憶の杯を取り出した。力を失ったとはいえ、この魂器は彼にとって特別な存在だった。
「杯を使って何かできるかな...」蒼は呟いた。
「力は失われているはずだけど...」綾音が傍に座った。「でも、試してみる価値はあるわ」
蒼は記憶の杯を両手で持ち、目を閉じた。轉魂の力を微かに集中させ、杯に流し込む。
最初は何も起こらなかったが、数分後、杯がわずかに温かくなり始めた。蒼の右手の轉魂の紋様も、かすかに光を放ち始める。
「反応してる...」瑠璃が驚いた声を上げた。
蒼はさらに集中を深め、心の中で父の姿を思い浮かべた。「父さん...感情の鏡について...何か教えてください...」
すると、杯の中に薄い光が現れ、それが蒼の意識を包み込んでいった。
------
断片的な映像が蒼の脳裏に浮かび上がる。
父・零王が神和の街を歩いている。彼の隣には若い桐生の姿。二人は何かを熱心に話し合いながら、古い建物へと入っていく。
場面が変わり、父が古文書を調査している。そこに「感情宮」という言葉と、八角形の鏡の図が見える。父が何かを書き留めている...「月下の湖、八本の柱...」
さらに場面が切り替わる。大きな湖のほとりで、父が一人、月を見上げている。湖面に月が映り、その反射が特定の場所を指し示しているようだ。
最後に、父の声だけが聞こえてきた。
「蒼...感情の鏡は感情の本質を知る者にしか見つけられない。自分の心に問え...」
------
「蒼!蒼!」
綾音の声に呼び戻され、蒼は目を開いた。記憶の杯はもう冷たくなり、光も消えていた。
「何か見えた?」瑠璃が緊張した面持ちで尋ねた。
蒼はゆっくりと頷き、見たものを二人に伝えた。父が神和を訪れていたこと、桐生との関係、そして「月下の湖、八本の柱」という手がかり。
「月下の湖...」綾音が考え込んだ。「神和に大きな湖はあるの?」
「神和中央公園に人工湖があるわ」瑠璃が答えた。「でも...」
「八本の柱...」蒼が続けた。「何か特別な建物かもしれない」
三人は地図を広げ、神和の主要スポットを確認した。中央公園の湖のほか、いくつかの候補地が浮上した。
「明日、中央公園から調査を始めましょう」綾音が提案した。「満月の夜なら、湖に映る月の光が何かを示すかもしれない」
蒼は頷き、記憶の杯を大事にしまった。「父の記憶が教えてくれた...感情の鏡への道を」
「でも油断はできないわ」瑠璃が警告した。「千冬もまた、同じ場所を探しているはず」
「それに、感情凍結への対策も必要だ」蒼は真剣な表情で言った。「明日は神主から『感情の炎』を学ぶ。それができれば...」
蒼の言葉は途中で切れた。彼はふと窓の外を見て、身構えた。
「どうしたの?」綾音が察して立ち上がった。
「気のせいかもしれないが...」蒼は窓に近づきながら言った。「見られている気がする」
三人は緊張して窓の外を見たが、そこには神和の夜景が広がるだけだった。高層ビルの窓に映る無数の光。その中のどこかに、白い制服の少女が彼らを見つめているかもしれない...
蒼は窓のカーテンを閉め、深く息をついた。「明日から本格的に感情の鏡の捜索を始めよう。そして、轉魂の力を使えるようになるために...千冬への対策を見つけなければ」
綾音と瑠璃は頷き、三人は静かに明日への準備を始めた。窓の外では、神和の夜が深まり、都市の喧騒さえも徐々に静まっていった。
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