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第30話「楓長老の記憶」
しおりを挟む朝靄が雲隠れの里を覆う早朝、蒼は静かに客舎を抜け出した。
昨日、碧川楓から父についての話を聞くよう招かれたのだ。蒼は千冬にも綾音にも詳しいことは話さず、「少し早く修行に行く」と告げただけだった。
楓の住まいは里の東側、小高い丘の上にあった。朝の静けさの中、蒼は階段を一段一段上っていった。頭の中は昨日の古文書で読んだことと、これから聞くであろう父の話で一杯だった。
丘の上に着くと、そこには小さな庭に囲まれた古風な家があった。庭では朝露を帯びた花々が風に揺れていた。
蒼が門の前で躊躇っていると、ふすまが開き、楓の姿が現れた。
「よく来たね、蒼」彼女は優しく微笑んだ。「朝早くからすまないね」
「いえ...」蒼は首を振った。「こちらこそ、お時間をいただいて」
楓は蒼を家の中へと招き入れた。内部は質素ながらも品のある調度品で整えられており、窓からは里の景色が一望できた。
「お茶を淹れたよ」楓は蒼に座布団を勧め、茶器を用意した。
二人は向かい合って座り、緑茶を一口すすった。清々しい香りが部屋に広がる。
「さて...」楓はゆっくりと茶碗を置いた。「深宮零王について、何を知りたい?」
蒼は少し考えてから口を開いた。「父はどんな人だったのですか?なぜ『背信者』と呼ばれるようになったのか...全てを知りたいです」
楓は遠い目をして、ゆっくりと語り始めた。
「零王が里に現れたのは約二十年前のことだ。彼は二十歳そこそこの若者だったが、既に並外れた魂術の才能を持っていた」
楓の目に懐かしさの色が浮かぶ。
「彼は特に轉魂の力に卓越していた。轉魂は深宮一族に代々伝わる力だが、彼ほどの使い手は百年に一人と言われるほどだった」
「轉魂の使い手として、何が特別だったのですか?」蒼が尋ねた。
「通常、轉魂使いは一度に一人としか契約できない。しかし零王は...」楓は少し言葉を選ぶように間を置いた。「複数の契約を同時に結ぶ方法を研究していた」
蒼は驚いた。それは彼自身も最近になって少しずつできるようになってきたことだった。
「彼は『轉魂共鳴』という技術を開発した」楓は続けた。「複数の契約者の能力を同時に引き出し、さらにそれらを増幅させる技術だ。これが彼の最大の業績と言われている」
「父は...研究者だったんですね」
「ああ、熱心な研究者だった」楓は微笑んだ。「彼は日夜、魂術の研究に没頭していた。特に轉魂の力を極限まで高める研究に」
楓は立ち上がり、小さな箪笥から古い写真を取り出した。それは黄ばんだ写真で、中央に一人の若い男性が立っていた。凛とした瞳、凛々しい顔立ち、そして右手には明確な轉魂の刻印が見えた。
「これが...父?」蒼は息を呑んだ。
「そう、零王だ」楓は優しく言った。「この写真は彼が里に来て三年目、研究成果を発表した日のものだ」
写真の零王の周りには数人の術者たちが立っており、みな彼を敬意の眼差しで見つめていた。その中に若かりし日の楓の姿もあった。
「父は...尊敬されていたんですね」
「ああ、彼は組合の希望の星だった」楓は懐かしそうに言った。「実際、彼は次期当主候補として有力視されていた」
「それが...なぜ」蒼は言葉を詰まらせた。
楓の表情が少し暗くなった。
「転機となったのは、彼が『魂災の本質』について衝撃的な発見をした時だ」
彼女はため息をついて続けた。
「零王は古文書の研究と自らの実験から、魂災の正体を突き止めた。それは単なる負の感情の集合体ではなく、『魂界の歪み』だと」
「魂界の歪み?」
「そう」楓は頷いた。「彼の理論によれば、人間の強い負の感情は魂界と現実世界の境界を歪め、その歪みから魂災が生まれるという。そして彼は『魂災を完全に滅ぼす方法』を見つけたと主張した」
楓は再び茶をすすり、静かに語り続けた。
「彼の方法は、七大魂器の力を一つに集め、特殊な『魂術式』を用いて魂界の歪みそのものを修復するというものだった」
「それなら...良い方法ではないですか?」蒼は疑問に思った。
楓は首を振った。「理論上は素晴らしい。だが、それは極めて危険な方法だった。七大魂器の力を一つに集めれば、使い方次第では世界そのものを破壊できる力になる。また、魂界に直接干渉するということは、宇宙の法則に触れることを意味する」
「長老会は反対したのですね」蒼は察した。
「ああ」楓は悲しげに頷いた。「長老会は『魂災は完全に消し去るものではなく、封じ込めるもの』という立場だった。魂界との均衡を保つためには、魂災の力を完全に消すのではなく、適切に管理すべきだと」
「でも、父はそれに納得しなかった...」
「そうだ」楓は深いため息をついた。「零王は『一時的な封印では不十分だ、根本的な解決が必要だ』と主張した。彼の目には、長老会が保守的で臆病に映ったのだろう」
楓は窓の外を見つめながら続けた。
「長老会との対立が深まる中、零王は独自の行動を取り始めた。彼は秘密裏に魂器を探し始め、自らの理論を実証しようとした」
「そして...」蒼は言葉を促した。
「事件が起きたのは十年前」楓の声が沈んだ。「零王は『霧原』という小さな町で実験を行った。その実験は...失敗した」
蒼の心臓が高鳴った。彼が記憶を失った場所と時期だ。
「何が起きたんですか?」
「詳細は分からない」楓は正直に答えた。「彼は自らの家族を連れて実験に臨んだ。だが、何かが制御を失い、小規模な魂災が発生した。町は大きな被害を受け、多くの犠牲者が出た...」
「僕の記憶喪失も...」
「ああ、恐らくはその時の事故の影響だろう」楓は蒼を見つめた。「零王が何を試みたのか、どうして失敗したのかは誰も知らない。だが、その後、彼は『背信者』のレッテルを貼られ、里を追われた」
「父は...死んだのですか?」蒼は恐る恐る尋ねた。
楓は複雑な表情をした。「公式には『行方不明』とされている。だが...」
彼女は言葉を途切れさせた。何か言いたいことがあるように見えたが、口にはしなかった。
「楓長老...」蒼は真剣な眼差しで尋ねた。「あなたは父をどう思っていましたか?」
楓は少し驚いたように蒼を見つめ、やがて柔らかな表情になった。
「零王は...傲慢だったが、心根は優しかった」彼女は静かに答えた。「彼は本当に世界を救おうとしていた。ただ、その方法が...」
「危険すぎた」蒼が言葉を補った。
「そう」楓は頷いた。「彼は良い意図を持ちながらも、危険な道を選んだ。蒼...」
彼女は真剣な表情で蒼を見つめた。
「お前には父と同じ血が流れている。父と同じ才能も持っている。だが、同じ過ちを繰り返さないでほしい」
蒼は黙って頷いた。
「父の研究について、もっと詳しく知ることはできますか?」
楓は少し考えた後、立ち上がり、床の間の一部を動かした。そこには小さな隠し場所があり、古い革表紙のノートが収められていた。
「これは零王の研究ノートの一部」楓は蒼にそれを手渡した。「正式には全て没収されたことになっているが、私が一冊だけ隠しておいた」
蒼は恐る恐るノートを開いた。そこには父の筆跡による緻密な研究内容が記されていた。魂術の図解、実験データ、そして轉魂についての深い考察。
「これを...僕に?」
「零王の息子として、知る権利がある」楓は言った。「だが、くれぐれも慎重に。この内容が長老会に知られれば、お前も危険な目に遭うかもしれない」
蒼はノートを大切に抱きしめた。これは父との繋がり、失われた過去への手がかりだった。
「ありがとうございます」蒼は深く頭を下げた。
「もう一つ」楓は小さな木箱を取り出した。「これも零王の遺品だ」
箱を開けると、中には小さな水晶のペンダントが入っていた。それは淡い青色の光を放っていた。
「これは?」
「『記憶結晶』と呼ばれるもの」楓は説明した。「零王が作った特別な結晶で、彼の記憶の一部が封じ込められている」
蒼は息を飲んだ。「父の記憶...」
「いずれ使い方が分かるだろう」楓は微笑んだ。「轉魂の力が成長すれば、この結晶内の記憶にアクセスできるはずだ」
蒼はペンダントを首にかけ、その冷たさを感じた。
「あと一つ、聞きたいことがあります」蒼は決意を固めて尋ねた。「父には...妻と子供がいたと古文書には書かれていました。僕の母と...妹について、何か知っていますか?」
楓の表情が複雑になった。「彼の妻・彩は美しく聡明な人だった。そして娘の綾音は...」
彼女は言葉を選びながら続けた。「零王は家族を深く愛していた。特に綾音は病弱で、彼女を守るために零王は多くの研究を行った」
「綾音は...今も?」
楓は悲しげに首を振った。「霧原の事件の後、零王の家族について正確な情報はない。公式には全員が行方不明とされている」
蒼はため息をついた。もし現在の綾音が自分の妹なら、彼女も記憶を失っているのだろうか?それとも...別の説明があるのだろうか?
「時間が経ってしまった」楓は窓から差し込む光を見て言った。「そろそろ修行の時間だ」
蒼は立ち上がり、深く礼をした。「今日は本当にありがとうございました」
「いつでも来なさい」楓は優しく微笑んだ。「だが、今日話したことは...」
「分かっています」蒼は頷いた。「誰にも言いません」
楓は蒼を玄関まで送り、見送った。蒼はノートとペンダントを大切に抱え、丘を下りていった。
***
一方、千冬は朝の修行を終え、昼食のために食堂に向かっていた。
「あれ、雪村さん」
声をかけられ、千冬は振り返った。そこには同じ修行場で学ぶ若い術者「椿」が立っていた。
「一緒に食べない?」椿は微笑んだ。
千冬は少し戸惑ったが、頷いた。彼女はまだ里の人々と親しく交わることに慣れていなかった。
二人が食堂に入ると、数人の若い術者たちが既にテーブルを囲んでいた。椿は千冬を彼らに紹介した。
「こちらが雪村千冬さん。氷結院で修行中よ」
「初めまして」千冬はぎこちなく挨拶した。
若者たちは彼女を歓迎し、話の輪に加えた。千冬は少しずつ緊張がほぐれ、彼らとの会話を楽しみ始めた。
「それにしても、深宮蒼と一緒に来たんだって?」一人の青年「雫」が尋ねた。「深宮零王の息子だよね」
千冬は頷いた。「ええ...あなたたちは零王のことを知っているの?」
「噂としてね」雫は肩をすくめた。「ほら、あまり公に話すことじゃないけど...」
「零王は伝説的な術者だったって聞くわ」椿が小声で言った。「でも『背信者』として里を追われたんでしょ?」
「彼の研究は禁断だったらしいね」別の術者「風馬」が加わった。「七大魂器を使って危険な実験をした...」
千冬は興味深く聞き入った。蒼が探し求めていた情報が、こうして若い術者たちの間で噂として流れていたのだ。
「でも、本当の真相は闇の中なんだろうね」雫は続けた。「長老たちは多くを語らない」
「実はね...」風馬が周囲を見回し、声を落とした。「零王は『魂器回収機関』と関わりがあったという噂もあるんだ」
千冬の体が硬直した。「魂器回収機関...と?」
「ああ」風馬は頷いた。「零王が里を追われた後、彼は魂器回収機関を設立したという説があるんだ。もちろん、公式には否定されているけどね」
千冬は言葉を失った。魂器回収機関——それは彼女自身が所属していた組織であり、今は蒼たちと共に逃れている敵だった。もし零王がその創設に関わっていたとしたら...
「あ、でも単なる噂だからね」椿が千冬の表情の変化に気づき、急いで付け加えた。「真実かどうかは誰も知らないわ」
「そうね...」千冬は無理に微笑んだ。
会話は別の話題へと移っていったが、千冬の心はその衝撃的な情報に縛られていた。蒼の父と魂器回収機関...もしこれが真実なら、蒼にどう伝えるべきか。
***
午後、蒼は轉魂堂での修行に向かった。彼の頭は朝に聞いた父の話でいっぱいだった。
修行中、蒼は楓から受け取ったノートの内容を思い出していた。そこには轉魂の高度な技術が記されており、特に「轉魂共鳴」の詳細な説明があった。
「深宮、集中しろ」剣神一真の厳しい声が蒼の思考を中断させた。
「すみません」蒼は慌てて謝った。
一真は蒼をじっと見つめた。「どうした?何か心配事でもあるのか?」
「いえ...」蒼は言葉を濁した。
一真はわずかに表情を和らげた。「楓に会ったな?」
蒼は驚いて顔を上げた。「どうして...」
「この里では秘密はあまり長く保たれない」一真は淡々と言った。「特に零王の息子が楓の家を訪れるなど、注目を集める出来事はな」
蒼は黙って頷いた。
「楓は零王の良き理解者だった」一真は続けた。「だからこそ、彼女の話は鵜呑みにしないほうがいい」
「父の研究は本当に危険だったのですか?」蒼は思い切って尋ねた。
一真は重々しく頷いた。「彼の意図は高潔だったかもしれん。だが、その方法は破滅的だった」
彼は蒼の肩に手を置いた。「お前は父とは違う道を選ぶべきだ。七大魂器の力を暴走させるのではなく、適切に使うべきだ」
「はい...」蒼は答えたが、心の中では様々な疑問が渦巻いていた。
修行が終わると、蒼は急いで客舎に戻った。千冬と綾音に今日聞いたことを伝えるべきか迷っていた。特に綾音...彼女が本当に自分の妹なら、真実を知る権利がある。
客舎に着くと、千冬が一人で庭に座っていた。彼女の表情は暗く、何か思い悩んでいるようだった。
「千冬」蒼は声をかけた。「どうしたの?」
千冬は顔を上げ、少し驚いたように蒼を見た。「蒼...話があるの」
二人は並んで座り、今日得た情報を交換し始めた。
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