『白夜学園の呪い:鏡の向こうの守護者』

ソコニ

文字の大きさ
1 / 20

第1話「新任教師」

しおりを挟む
プロローグ

霧の中に佇む白夜学園は、まるで異界への入り口のようだった。石畳の小道を進む高遠真琴の足音だけが、静寂を破る。

「こちらが白夜学園です」

運転手の言葉に真琴は顔を上げた。そこには、霧に覆われた古い洋風校舎が不気味な影を落としていた。明治時代に建てられたというこの学校は、その荘厳な佇まいの裏に、何か禍々しいものを隠しているように思えた。

バスは去り、真琴は一人取り残された。スーツケースを引きずりながら、彼女は学園への坂道を上り始めた。

「新任の先生ですか」

突然の声に真琴は振り返った。坂道の途中に、制服を着た少女が立っていた。長い黒髪を風に揺らし、青白い顔で微笑んでいる。

「ええ、そうよ。あなたは?」

少女は答えず、ただ微かに首を傾げた。その目は深く、何かを訴えるように真琴を見つめていた。

「気をつけて」少女は囁いた。「鏡を見ないで」

「え?」

真琴が問い返そうとした時、少女の姿は消えていた。

風が強くなり、木々が不気味に揺れる。遠くから鈴の音が聞こえ、それは次第に大きくなった。真琴は不安を押し殺して歩を進めた。

校門に立つと、そこからは学園全体が見渡せた。西洋建築の本館、日本家屋風の東棟、そして森に囲まれた古い寮。しかし、どこか違和感があった。窓から漏れる光が赤く、屋根の上には烏が数十羽も止まっていた。



第1話「新任教師」

雨音が車窓を叩く音だけが、山道を進む古びたバスの車内に響いていた。高遠真琴は窓の外を眺めながら、これから赴任する学校についての資料に目を通していた。「白夜学園」——山間に佇む名門私立学校。古い歴史と伝統を持ち、卒業生の多くが名だたる大学へ進学するという実績を誇っていた。

「次は終点、白夜学園前です」

運転手のアナウンスに真琴は顔を上げた。車窓の外には深い霧がかかり、杉木立が両側から迫ってくるような山道が続いていた。バスは徐々に速度を落とし、やがて完全に停車した。

「お嬢さん、ここが白夜学園です。お気をつけて」

真琴は小さく頭を下げると、重いスーツケースを引きずりながらバスを降りた。冷たい雨が頬を打つ。目の前には石畳の坂道が霧の中へと続いており、その先にはぼんやりと洋風の建物の輪郭が見えていた。

バスが去っていく音が遠ざかると、辺りは雨音と風に揺れる木々の音だけが聞こえる静寂に包まれた。真琴は深呼吸をすると、石畳の坂道を上り始めた。

坂道を登りきると、鉄格子の大きな門が現れた。「白夜学園」と刻まれた銘板が雨に打たれて光沢を帯びている。門は開いており、真琴はためらいながらもその中へと足を踏み入れた。

正門から続く石畳の道の両側には西洋風の庭園が広がり、その奥に見えるのは大きな洋館のような校舎だった。明治時代に建てられたという校舎は、白い外壁と赤い瓦屋根のコントラストが雨の中でも美しく見えた。しかし、どこか不気味さも漂っている。特に二階の窓から三階の窓へと順に視線を移していくと、最上階の一つの窓だけがカーテンで覆われず、暗い空洞のように見えた。

真琴がそれを見つめていると、突然その窓に人影が浮かび上がった。霧と雨で輪郭はぼやけているが、誰かが立っている。真琴が目を凝らすと、その人影はゆっくりと手を上げた。まるで真琴に手を振っているようだ。

「あなたが高遠先生ですね」

不意に後ろから声がかけられ、真琴は思わず小さな悲鳴を上げた。振り返ると、黒い傘を差した中年の男性が立っていた。

「失礼しました。驚かせるつもりはなかったのですが。私は教頭の佐伯と申します」

「あ、はい。高遠真琴です。今日からお世話になります」

真琴は慌てて頭を下げた。佐伯教頭は無表情のまま頷くと、校舎へと向かうよう手で示した。

「では、校長室へご案内します。校長先生がお待ちです」

校舎内は外観から想像されるよりも明るく、廊下には生徒たちの作品やトロフィーが飾られていた。しかし、生徒の姿はほとんど見えない。授業中なのだろうか。

佐伯教頭に導かれ階段を上がると、「校長室」と書かれた扉の前に到着した。教頭はノックをすると、中から「どうぞ」という声が聞こえてから扉を開け、真琴を中へと招き入れた。

校長室内は古い洋書が並ぶ本棚と重厚な木製の机が置かれ、書斎のような雰囲気だった。机の後ろには窓があり、雨に煙る庭園が見えた。

机に座っていた白髪の老人が立ち上がり、真琴に向かって微笑んだ。

「ようこそ白夜学園へ。私は校長の神崎です。高遠先生の赴任を心待ちにしておりました」

「よろしくお願いいたします」

真琴が挨拶を終えると、神崎校長は佐伯教頭に目配せをした。教頭は無言で頷くと、部屋を出ていった。

「さて、高遠先生。当校は長い歴史と独自の教育方針を持つ学校です。他の学校とは少々異なる点もありますが、すぐに慣れていただけるでしょう」

神崎校長はそう言いながら、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。

「あなたには3年B組の担任をお願いしたいと思います。前任の先生が急な病気で退職されたため、生徒たちは少々不安定になっているかもしれません」

真琴は頷きながら、校長の言葉を聞いていた。しかし、校長の表情や言葉の端々に何か隠されているような違和感を覚えた。

「ところで、高遠先生。当校には特別な校則があります。夜間の校舎内立ち入りは厳禁です。また、西棟の三階は改装中のため、立ち入りを禁止しています。それから…」

神崎校長は真琴の顔をじっと見つめた。

「好奇心は時に命取りになることもあります。分からないことがあれば、必ず教職員に相談してください」

その言葉には明らかな警告が含まれていた。真琴は不安を感じつつも、努めて明るく返答した。

「ありがとうございます。気をつけます」

神崎校長は満足げに頷くと、机の上のベルを鳴らした。すぐに扉が開き、先ほどの佐伯教頭が入ってきた。

「佐伯先生、高遠先生を職員室へ案内してください。そして、3年B組の授業にも同行してあげてください」

佐伯教頭に導かれて職員室へ向かう途中、廊下では数人の生徒とすれ違った。生徒たちは真琴を見ると、一瞬驚いたような表情を見せた後、深々と頭を下げた。その礼儀正しさに真琴は感心したが、どこか不自然な緊張感も感じ取った。

職員室では数人の教師が真琴を迎えた。しかし、その歓迎は表面的で冷たいものに感じられた。特に、窓際の席に座っていた年配の女性教師・百瀬は、真琴に対して明らかに警戒的な視線を向けていた。

「では、授業が始まる時間です。3年B組へご案内します」

佐伯教頭に導かれて職員室を出ると、廊下には先ほどよりも多くの生徒たちがいた。昼休みが終わり、次の授業に向かう時間なのだろう。生徒たちは皆、真琴を見ると静かに頭を下げた。その模範的な態度には感心したが、どこか生気がないようにも感じられた。

3年B組の教室の前に立ち、佐伯教頭はノックをしてから扉を開けた。

「失礼します。皆さん、今日から担任の高遠先生が赴任されました」

教室内の生徒たちは一斉に立ち上がり、「よろしくお願いします」と揃って挨拶した。その整然とした様子に、真琴は少し驚いた。

「高遠先生、ではこれからはお任せします」

佐伯教頭はそう言い残すと、教室を後にした。真琴は教壇に立ち、緊張した面持ちで生徒たちを見渡した。30人ほどの生徒たち。男女比はほぼ均等で、全員が同じ紺色の制服を着ていた。

「初めまして、高遠真琴です。今日から皆さんの担任を務めさせていただきます。よろしくお願いします」

真琴が挨拶を終えると、生徒たちは再び一斉に挨拶をした。しかし、その声は同時に終わる不自然さがあった。まるで練習したかのように。

授業を始めようとしたとき、真琴は窓際の席に座る一人の少女に気づいた。長い黒髪を持ち、顔色は青白い。他の生徒たちとは違い、彼女だけは真琴を見つめていなかった。窓の外を見つめ、虚空を見るような表情をしていた。

出席簿を見ると、その席には「朝倉葉月」と名前が記されていた。

「では、自己紹介を兼ねて出席を取ります」

真琴が名前を呼ぶと、生徒たちは一人ずつ立ち上がり、短く自己紹介をした。しかし、朝倉葉月の名を呼んだとき、彼女はゆっくりと立ち上がったものの、何も言わなかった。教室内の空気が一瞬凍りついたように感じられた。

「朝倉さん?」

真琴が声をかけると、葉月はようやく真琴の方を向いた。その瞳は深い闇のように暗く、何かを訴えるような強い光を宿していた。

「朝倉葉月です」

その声は教室内に不気味に響き渡った。真琴は一瞬、背筋に冷たいものを感じた。葉月の周りの生徒たちが少しだけ席を離すような素振りを見せたことも、真琴の目には入っていた。

授業は比較的順調に進んだ。生徒たちは真琴の問いかけに適切に答え、授業態度も良好だった。しかし、全体的に活気がなく、まるで演技をしているかのような不自然さがあった。

放課後、真琴は担任業務の引き継ぎのために職員室に戻った。職員室には数人の教師がまだ残っており、皆それぞれの仕事に集中していた。真琴は自分の席に座り、生徒の資料に目を通していた。

資料によると、3年B組には特に問題を抱えた生徒はいないようだった。成績も比較的良好で、生徒間のトラブルもほとんど報告されていない。しかし、朝倉葉月の資料だけは異様に薄く、基本的な情報以外はほとんど記載がなかった。

「高遠先生」

声をかけられて顔を上げると、先ほど警戒的な視線を向けていた百瀬先生が立っていた。

「初日はいかがでしたか?」

「ええ、生徒たちは皆さん礼儀正しく、特に問題はありませんでした」

百瀬は小さく笑ったが、その笑みは目元まで届いていなかった。

「そうですか。でも、あまり深入りしない方がいいですよ」

「深入りとは?」

「生徒たちのことや、この学校のことに」

百瀬はそれ以上何も言わず、自分の席に戻っていった。その謎めいた警告に、真琴は不安を覚えた。

職員室を出た真琴は、校舎内を少し歩き回ることにした。生徒たちはほとんど帰宅したのか、廊下は静まり返っていた。ふと、二階の音楽室から微かにピアノの音が聞こえてきた。

「放課後に練習している生徒がいるのかな」

真琴は音の方へ歩いていった。音楽室の扉の前に立つと、確かに中からショパンのノクターンが流れてきていた。しかし、その演奏には微妙な違和感があった。まるで水中で聴いているような、遠くから響いてくるような音色だった。

そっと扉を開けると、音楽室内は薄暗く、誰もいないようだった。しかし、グランドピアノの蓋は開いており、鍵盤が見える位置だった。音はしていたのに、演奏者はいない。

真琴が部屋に足を踏み入れた瞬間、ピアノの音は突然止んだ。室内は不気味な静寂に包まれた。

「誰かいますか?」

声をかけても返事はない。真琴はピアノに近づき、鍵盤に手を伸ばした。すると、窓ガラスに映った自分の姿の後ろに、もう一つの影が見えた気がした。振り返ると、そこには誰もいなかった。

不安を感じた真琴は急いで音楽室を出ようとした。扉に手をかけたその時、背後から声が聞こえた。

「先生」

振り返ると、そこには先ほどの朝倉葉月が立っていた。彼女がいつの間にか部屋に入ってきたのか、真琴は気づかなかった。

「葉月さん、驚いたよ。君がピアノを弾いていたの?」

葉月は首を横に振った。

「私じゃありません。あの人です」

「あの人?」

「先生、見えましたか?」

葉月の問いかけに、真琴は言葉を失った。

「何が見えたかって?」

「赤い手形が」

葉月はそう言うと、不気味な笑みを浮かべた。その瞳には何か暗い知識が宿っているようだった。

「何の話?」

「すぐに分かります。先生も選ばれたんですから」

葉月はそれだけ言うと、音楽室を後にした。残された真琴は、葉月の言葉の意味を理解できずにいた。

窓の外を見ると、日が傾き始めていた。校舎に長い影が伸び、どこか不吉な雰囲気を醸し出していた。初日から不可解な出来事に遭遇し、真琴は不安を感じていた。

寮に向かう途中、真琴は再び音楽室の方を振り返った。三階の一室の窓に人影が見えた気がしたが、すぐに消えた。雨は上がっていたが、霧は依然として学園全体を包み込んでいた。

白夜学園での新しい生活が始まったばかりだが、真琴は既に何か重大な事柄に巻き込まれつつあることを、この時点ではまだ知らなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か

雪兎
BL
第二性が存在する世界。 Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。 しかし入学初日、彼の前に現れたのは―― 幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。 成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。 だが湊だけが知っている。 彼が異常なほど執着深いことを。 「大丈夫、全部管理してあげる」 「君が困らないようにしてるだけだよ」 座席、時間割、交友関係、体調管理。 いつの間にか整えられていく環境。 逃げ場のない距離。 番を拒みたいΩと、手放す気のないα。 これは保護か、それとも束縛か。 閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...