『白夜学園の呪い:鏡の向こうの守護者』

ソコニ

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第2話「赤い手形」

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白夜学園での二日目の朝は、濃い霧に包まれていた。寮の窓から見える校舎は、霧の中にぼんやりと浮かぶ影のようだった。真琴は前夜、不思議な夢に悩まされた。音楽室のピアノが勝手に鳴り、無数の手が鍵盤を叩く夢。目覚めた後も、その不気味な感覚が残っていた。

制服を整え、鏡の前で髪を整えていると、寮の廊下から生徒たちの話し声が聞こえてきた。

「赤い手形、また見つかったって本当?」
「うん、図書室の鏡に…」
「今度は誰なんだろ…」

声は遠ざかり、真琴には会話の続きが聞こえなかった。しかし、昨日葉月が言っていた「赤い手形」という言葉が気になった。

朝食を済ませ、真琴が職員室に向かっていると、廊下で葉月に出会った。

「おはよう、葉月さん」

葉月は真琴に気づくと立ち止まり、周囲を見回してから小声で言った。

「先生、今朝図書室の鏡に赤い手形が見つかりました」

「赤い手形って、昨日も言っていたけど…何なの?」

葉月は少し考えるように黙った後、「赤い手形を見た人は七日後に消えます」と言った。

「消えるって…どういう意味?」

「転校するんです。でも実際は…」

葉月がそれ以上話そうとした時、廊下の角から佐伯教頭が現れた。

「朝倉、授業の準備は?」

佐伯の冷たい声に、葉月は一瞬怯えたような表情を見せた。

「すみません」

葉月は真琴に一瞥をくれると、急いで教室の方へ向かっていった。佐伯教頭は真琴に向き直り、薄く笑った。

「高遠先生、生徒と親しくなるのはいいことですが、朝倉には気をつけた方がいい」

「何か問題があるのですか?」

「彼女は…想像力が豊かすぎるのです。不必要な噂話に耳を貸さない方がいい」

佐伯はそれだけ言うと、立ち去っていった。真琴は不安を感じつつも、職員室へ向かった。

職員室では、教師たちが小声で何かを話し合っていた。真琴が入ると一瞬会話が止み、皆が真琴を見た。

「おはようございます」

挨拶をしても、返事をする教師は少なかった。真琴が自分の席に着くと、昨日警告的な言葉をかけてきた百瀬先生が近づいてきた。

「高遠先生、図書室で何かあったの知ってる?」

「赤い手形が見つかったとか…」

百瀬の表情が一瞬硬くなった。

「誰から聞いた?」

「生徒の会話で…」

百瀬は深いため息をついた。

「その話は気にしない方がいい。この学校には色々な噂があるから」

真琴は百瀬の様子に違和感を覚えた。表面上は取るに足らない噂だと言いながらも、その目には明らかな懸念が浮かんでいた。

「百瀬先生、その赤い手形って何なんですか?」

百瀬は周囲を見回してから、小声で答えた。

「学校の怪談みたいなものよ。鏡に血のような赤い手形が現れて、それを最初に見た人が七日後に失踪するという…」

「失踪?」

「ほら、転校する生徒もいるでしょう。それが噂になっただけ」

百瀬は話を切り上げるように席を立った。真琴はますます混乱していた。

最初の授業が始まり、真琴は3年B組の教室に向かった。生徒たちは昨日と同じく礼儀正しく挨拶したが、教室内には妙な緊張感が漂っていた。特に、図書委員を務めているという中村俊介という生徒の周りには、奇妙な空気が流れていた。他の生徒たちが少し距離を置くように座っている。

授業中、真琴は中村に質問をすると、彼は震える声で答えた。明らかに動揺しているようだった。授業の後、真琴は中村を呼び止めた。

「中村君、具合が悪いの?」

中村は真琴を見つめ、唇を噛んだ。

「先生…昨日、図書室の鏡を掃除していたら…」

「赤い手形を見たの?」

中村の顔が青ざめた。

「誰から聞いたんですか?」

「噂で…本当に見たの?」

中村は頷いた。

「突然、鏡に手形が…赤くて…まるで血のような…」

中村の声は震えていた。真琴が何か言おうとした時、教室の後ろから声がした。

「中村、次の授業の準備するよ」

振り返ると、そこには葉月が立っていた。中村は安心したように頷き、葉月と共に教室を後にした。真琴は二人の後ろ姿を見送りながら、不安が増していくのを感じた。

昼休み、真琴は図書室に向かった。図書室は学校の西棟にあり、広く静かな空間だった。入口で図書室を担当する年配の女性教師・森本に挨拶をすると、彼女は明らかに緊張した様子で応えた。

「何かお探しですか?」

「いえ、ちょっと見て回りたくて」

森本は不安そうに頷いた。

「自由にどうぞ。ただ…奥の鏡のある部屋は掃除中なので…」

真琴はその言葉に興味を持った。

「鏡のある部屋?」

「古い蔵書を保管している部屋です。湿気対策で鏡を置いているんですが…今は入れません」

森本の態度に明らかな隠し事があると感じた真琴は、他の教師や生徒が図書室にいないのを確認すると、書架の間を進み、奥へと向かった。

図書室の最奥には小さな扉があり、「特別蔵書室」と書かれていた。扉は少し開いており、中から微かな光が漏れていた。真琴はそっと扉を開け、中を覗いた。

特別蔵書室は丸い部屋で、壁一面に本棚が並び、その間に数枚の古い鏡が掛けられていた。部屋の中央には閲覧用の机と椅子が置かれていたが、誰もいない。

真琴は静かに部屋に入り、鏡を見て回った。どれも古びた金縁の鏡で、時代を感じさせる。しかし、赤い手形らしきものは見当たらなかった。

最後に、部屋の一番奥にある大きな姿見の前に立った時、真琴は息を呑んだ。鏡の右下には、確かに手のひらサイズの赤い染みがあった。近づいてみると、それは確かに手形のように見えた。しかし、インクか何かで付けられたようにも見える。

真琴が手形に触れようとした瞬間、背後から声がした。

「そこに触らない方がいい」

振り返ると、そこには百瀬が立っていた。

「百瀬先生…」

「なぜここに?立ち入り禁止だと森本先生から聞いていないの?」

「すみません、でも…これが噂の赤い手形?」

百瀬は鏡を見て、深いため息をついた。

「単なるいたずらよ。毎年こういうことをする生徒がいるの」

「でも、中村君は本当に怯えていました」

「だからよ。こういう噂が広まると、真に受ける生徒が出てくる。特に今年は…」

百瀬は言葉を切った。

「今年は?」

「…何でもないわ。ここは教職員も立ち入り禁止になったの。出ましょう」

百瀬は真琴の腕を引いて部屋から出ようとした。真琴が最後に鏡を振り返った時、不思議なことに手形が消えていた気がした。

職員室に戻った真琴は、図書室での出来事について考えていた。百瀬の言うように単なるいたずらなのか、それとも葉月や中村の怯える様子には何か理由があるのか。

「高遠先生」

声をかけられて顔を上げると、佐伯教頭が立っていた。

「校長先生がお呼びです」

真琴は不安を感じながらも、校長室へと向かった。

校長室では、神崎校長が窓の外を見つめていた。真琴が入室すると、振り返って微笑んだ。

「高遠先生、学校には慣れましたか?」

「はい、生徒たちも良い子ばかりで」

神崎は頷きながら、真琴の顔をじっと見た。

「図書室に行かれたそうですね」

真琴は一瞬息を呑んだ。

「はい…少し見て回りたくて」

「特別蔵書室にも入られたとか」

「すみません、立ち入り禁止だと知らなくて…」

神崎は優しく笑った。

「気にしないでください。ただ、あの部屋は古い本が多く、保存状態も良くないので、今後は入らないようにしてください」

「はい」

神崎は机から一冊の本を取り出した。古いレザーカバーの本で、「白夜学園史」と金で刻まれていた。

「この学校の歴史が書かれています。良かったら読んでみてください」

真琴は本を受け取った。

「それから、高遠先生。学園内では様々な噂が飛び交っています。教師として、そういった噂に振り回されないよう、冷静さを保ってください」

「はい、分かりました」

「特に、赤い手形の話は…」

神崎は言葉を切り、窓の外を見た。

「あれは50年前に起きた不幸な事件から生まれた噂です。気にする必要はありません」

真琴は頷いたが、神崎の言葉に疑問を感じた。50年前の事件?単なるいたずらではないのか?

神崎はそれ以上何も言わず、真琴を解放した。廊下に出た真琴は、手に持った本を見つめた。白夜学園の歴史の中に、何か手がかりがあるのだろうか。

放課後、真琴は自分の教室に戻ると、中村俊介が一人で座っているのを見つけた。

「中村君、まだ帰らないの?」

中村は顔を上げ、真琴を見た。その目には涙が浮かんでいた。

「先生…僕、怖いんです」

真琴は中村の隣に座った。

「赤い手形のこと?」

中村は頷いた。

「あれを見た人は七日後に消えるんです。去年も、前の年も…」

「消えるって、どういう意味?」

「転校するんです。でも実際は…」

中村は周囲を見回してから、小声で続けた。

「消えた人は、どこにも転校していないんです。完全に存在が消えるんです。家族も友達も、その人のことを覚えていない…」

真琴は中村の話に戸惑いを覚えた。

「そんなことあるわけ…」

「本当なんです!僕の友達の山下も、去年…」

その時、教室のドアが開き、佐伯教頭が現れた。

「中村、まだいたのか。部活動の時間だぞ」

中村は急いで立ち上がり、真琴に一瞥をくれると教室を出ていった。佐伯は真琴に向き直った。

「高遠先生、生徒に変な話を聞かせないでください」

「いえ、中村君が怖がっていたので…」

「彼は想像力が豊かすぎるのです。そういった話に付き合うのは教育上よくありません」

佐伯はそう言い残すと、立ち去った。真琴は不安を抱えながらも、校長から借りた本を開いてみることにした。

その夜、寮の自室で真琴は「白夜学園史」を読んでいた。本には学園の創立から現在までの歴史が詳細に記されていた。創立者の神崎家の話や、学園の教育方針の変遷など、表面上は普通の学校史だった。

しかし、真琴が気になったのは、50年前の記述が妙に簡潔だったことだ。「学園改革期」と題されたその章には、当時の校長や教育方針の変更などが書かれているが、具体的な出来事については触れられていなかった。特に、生徒に関する記述が一切なかった。

真琴がページをめくっていると、一枚の古い写真が挟まっているのを見つけた。それは校舎前で撮られた集合写真で、制服を着た生徒たちと教師たちが写っていた。写真の裏には「昭和45年 白夜祭」と書かれていた。およそ50年前の写真だ。

真琴が写真を見つめていると、前列中央に立つ少女に目が止まった。長い黒髪と青白い顔…それは現在の朝倉葉月にそっくりだった。

写真を見ながら、真琴はベッドに横になった。窓の外は月明かりが薄い雲に遮られ、時折かすかな光が部屋に差し込む。真琴は50年前の写真と葉月の関係、赤い手形の噂、中村の恐怖について考えていた。

ふと窓の方を見ると、カーテンが風もないのに揺れているような気がした。部屋の中の空気が妙に冷たくなり、鳥肌が立つ。真琴は身を起こし、窓に近づいた。

カーテンを開けると、窓ガラスに映る自分の姿が見えた。背後の部屋は暗く、自分の輪郭だけがかすかに光っている。真琴がそれを見つめていると、突然自分の影とは別の暗い影が窓に映ったような気がした。

驚いて振り返ったが、部屋には誰もいない。再び窓に目を向けると、今度は窓ガラスに何かが付いているのに気づいた。

窓の内側、真琴の目の高さに、赤い手形が付いていた。インクではなく、濡れた血のような鮮やかな赤色。まるで今しがた誰かが窓に手を押し付けたかのように鮮明だった。

真琴は思わず悲鳴を上げそうになり、口を押さえた。心臓が激しく鼓動し、体全体が震えている。赤い手形。噂では、それを見た者は七日後に消えるという。

恐怖に駆られて後ずさりした真琴は、部屋の電灯のスイッチに手を伸ばした。明かりが付くと、窓ガラスに映る自分の姿だけが見えた。そして、窓には確かに赤い手形が付いていた。

真琴は勇気を振り絞って手形に近づき、指で触れてみた。しかし、指には何も付かなかった。手形は窓の内側にあるように見えるのに、触れても湿り気はなく、まるでガラスの内部に染み込んでいるようだった。

恐怖で眠れなくなった真琴は、枕元に置いてあった学園史の本を再び手に取った。50年前の写真を見つめながら、中村の言葉を思い出した。

「あれを見た人は七日後に消えるんです」

真琴は窓の赤い手形を再び見た。七日後…それは何を意味するのか。この学園で本当に何が起きているのか。そして、なぜ自分が標的になったのか。

真琴は懐中電灯を取り出し、写真を照らした。前列中央の葉月そっくりの少女の隣には、「朝倉葉月」と書かれていた。現在の葉月と同じ名前…これは偶然なのか、それとも何か関係があるのか。

その夜、真琴は一睡もできなかった。窓の赤い手形は夜明けとともに薄れていったが、それが幻だったのか現実だったのか、真琴にはもう区別がつかなかった。ただ一つ確かなのは、白夜学園には何か恐ろしい秘密が隠されているということだった。

朝、真琴は決意した。この謎を解明するために、今日からは積極的に探索を始めよう。そして何より、葉月と詳しく話をする必要がある。昨日、葉月は中村を連れ出した。二人は何か知っているはずだ。

準備を終え、鏡の前に立った真琴。その背後には何もなかったが、真琴は一瞬、鏡の中に朝倉葉月が立っているような錯覚を覚えた。振り返っても誰もいない。

「七日…残り六日…」

真琴はつぶやくと、重い足取りで部屋を出た。白夜学園の二日目が始まろうとしていた。
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