『白夜学園の呪い:鏡の向こうの守護者』

ソコニ

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第3話「失踪した生徒」

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霧に包まれた白夜学園の朝。真琴は寮の窓から外を眺めていた。昨夜見た赤い手形のことが頭から離れず、眠れない夜を過ごした。窓に付いていた手形は朝になると消えていたが、真琴にはそれが幻ではなかったという確信があった。

鏡の前で髪を整えながら、真琴は今日の行動計画を立てていた。まずは中村俊介に話を聞こうと思った。彼も赤い手形を見たと言っていた。二人で情報を共有すれば、何か手がかりが得られるかもしれない。

「七日後に消える…」

真琴は呟きながら、制服のネクタイを締めた。もし噂が本当なら、中村にも同じ危険が迫っている。自分も含めて。

朝食を終え、真琴が職員室に向かうと、ちょうど百瀬先生が出てきたところだった。

「おはよう、高遠先生」

百瀬の表情には疲れが見えた。まるで昨夜も眠れなかったかのように。

「おはよう、百瀬先生。あの…中村俊介君のことで聞きたいんですが」

百瀬の顔が一瞬強張った。

「中村?」

「はい、昨日彼が赤い手形を見たと言っていて…」

「中村俊介…」

百瀬は眉を寄せ、何かを思い出そうとするように頭を傾げた。

「3年B組に中村という生徒はいないわ」

真琴は驚いて百瀬を見つめた。

「いえ、昨日まで確かに…図書委員の中村俊介君です」

百瀬は困惑した表情を浮かべた。

「高遠先生、大丈夫?3年B組に中村という名前の生徒はいないわよ」

真琴は言葉を失った。昨日まで確かに中村俊介という生徒がいた。授業で名前を呼び、放課後に話をした生徒だ。その生徒が「いない」とはどういうことなのか。

「すみません、私の勘違いかもしれません」

真琴は取り繕いながら、急いで3年B組の出席簿を確認しに職員室へ向かった。

職員室のデスクで出席簿を開くと、真琴は驚愕した。確かに昨日まであったはずの「中村俊介」の名前が、出席簿から消えていた。まるで最初から存在していなかったかのように。

真琴は動揺しながらもなんとか冷静さを保ち、昨日の授業ノートを確認した。自分が書いた出席確認のメモには「中村」の名前があった。しかし公式の出席簿からは完全に消えていた。

「ありえない…」

真琴のつぶやきに、隣の席にいた若い男性教師・川島が顔を上げた。

「何かあったんですか?」

真琴は少し迷った後、川島に聞いてみることにした。

「川島先生、3年B組に中村俊介という生徒はいましたよね?」

川島は首を傾げた。

「中村?いませんよ。3年B組の担任は高遠先生なのに、生徒を忘れるんですか?」

その答えに真琴は背筋に冷たいものを感じた。まるで中村俊介という存在が一夜にして消されたかのようだ。そして誰もそれを不思議に思っていない。

最初の授業が始まる時間。真琴は不安を抱えながら3年B組の教室へ向かった。教室に入ると、生徒たちは昨日と同じように立ち上がり、「おはようございます」と挨拶した。

真琴は中村の席を見た。空席になっているはずだったが、そこには別の生徒が座っていた。女子生徒で、真琴は彼女の顔を見たことがなかった。

「着席」

生徒たちが席に着くと、真琴は名簿を見ながら出席を取り始めた。中村俊介の名前は本当になく、代わりに「斎藤美咲」という名前があった。それは中村の席に座っている女子生徒の名前だった。

出席を取り終え、真琴は斎藤美咲をじっと見た。彼女は普通に授業を受けており、周囲の生徒たちも彼女がそこにいることを当然のように受け入れていた。まるで彼女がずっとそこにいたかのように。

授業中、真琴は何度か中村俊介の名前を出そうとしたが、その度に言葉が喉に詰まった。この状況があまりにも非現実的で、自分の記憶を疑い始めていた。

授業の終わりに、真琴は思い切って質問した。

「皆さん、昨日まで図書委員をしていた中村俊介君はどうしましたか?」

教室内が不思議な静寂に包まれた。生徒たちは互いに顔を見合わせ、困惑した表情を浮かべた。しかし、その表情はどこか作られたものに見えた。

しばらくして、窓際の席に座っていた朝倉葉月が静かに手を上げた。

「先生、中村君は転校しました」

その言葉に、他の生徒たちも一斉に頷いた。

「そうです、転校しました」
「急に転校が決まったそうです」
「昨日の放課後に挨拶に来ましたよ」

生徒たちの言葉は少しずつ異なるが、「転校した」という結論は同じだった。しかし、なぜ真琴は挨拶を受けていないのか。昨日の放課後、中村は確かに真琴と話をしていた。

「転校先はどこですか?」

真琴の質問に、生徒たちは再び顔を見合わせた。今度は美咲が答えた。

「東京の学校だったと思います」

その答えは妙に曖昧で、具体性に欠けていた。真琴は美咲をじっと見つめた。彼女はなぜかどこか葉月に似ていた。長い黒髪と青白い顔色。視線が合うと、美咲は小さく微笑んだが、その目は笑っていなかった。

休み時間になると、真琴は葉月を呼び止めた。

「葉月さん、ちょっといいかな」

葉月は周囲を見回してから、真琴に近づいた。

「先生、中村のことを聞きたいんですね」

「そう。彼は本当に転校したの?」

葉月は小さな声で答えた。

「いいえ。消えたんです」

「消えた?」

「赤い手形を見たから」

真琴は息を呑んだ。葉月の表情は真剣で、嘘をついているようには見えなかった。

「葉月、何か知っていることがあれば教えて。私も赤い手形を見たの」

葉月の目が大きく見開かれた。

「先生も…。その手形はどこで?」

「寮の窓に。昨晩」

葉月は唇を噛んだ。

「先生、七日しかありません。私に会いに来てください。放課後、誰もいない音楽室で」

そう言うと、葉月は急いで教室を出て行った。真琴は葉月の言葉の意味をつかめず、混乱したまま次の授業に向かった。

昼休み、真琴は図書室に向かった。中村が最後に目撃された場所だ。図書室には森本先生がいたが、真琴が中村について尋ねると、彼女も「転校した」と答えるだけだった。

特別蔵書室は鍵がかけられており、入ることができなかった。真琴は図書室の貸出記録を確認させてもらったが、中村俊介の名前は完全に消されていた。まるで彼が一度も本を借りたことがないかのように。

失意のまま図書室を出ようとしたとき、真琴は貸出カウンターの下に小さな鍵が落ちているのに気づいた。森本先生が席を外した隙に、真琴はその鍵を拾い上げた。

鍵には「特」と刻まれていた。特別蔵書室の鍵だろうか。真琴はそれをポケットに滑り込ませた。後で調査するために。

職員室に戻ると、佐伯教頭が真琴を待っていた。

「高遠先生、校長先生がお呼びです」

真琴は緊張しながらも、校長室へと向かった。校長室では神崎校長が優しく微笑んで真琴を迎えた。

「高遠先生、生徒のことで質問があるそうですね」

真琴は驚いた。誰が校長に伝えたのだろう。

「はい…中村俊介という生徒についてです」

神崎は穏やかに頷いた。

「中村君は昨日、ご両親の転勤で急に転校することになりました。残念なことですが、やむを得ません」

「でも、なぜ私に挨拶もなく…そして出席簿からも名前が…」

神崎は真琴の言葉を遮った。

「高遠先生、あなたは昨日、中村君から転校の挨拶を受けましたよ。放課後、教室で」

真琴は混乱した。昨日中村と話した記憶はあるが、転校の挨拶ではなく、赤い手形の恐怖について話していたはずだ。

「私は…」

「疲れているのかもしれませんね。新任で緊張もあるでしょう。ゆっくり休んでください」

神崎の言葉には優しさがあったが、その目は冷たく光っていた。真琴は反論できず、校長室を後にした。

廊下を歩きながら、真琴は激しい頭痛を覚えた。自分の記憶が正しいのか、それとも周囲の言うことが正しいのか。真琴は混乱していた。

そんな時、廊下の角で美咲とすれ違った。彼女は真琴を見ると、不思議そうに首を傾げた。

「先生、具合が悪いんですか?」

その声は中村俊介のものに似ていた。真琴は驚いて美咲をじっと見た。彼女の瞳の色、話し方、立ち姿…どこか中村を思わせるものがあった。

「斎藤さん、あなたはいつからこのクラスに?」

美咲は微笑んだ。

「最初からですよ。先生、本当に大丈夫ですか?」

真琴は頭を振った。

「ええ、ちょっと疲れているだけよ」

美咲は真琴の腕に触れた。その手は異常に冷たかった。

「無理しないでくださいね、先生」

美咲はそう言うと、立ち去っていった。その後ろ姿を見送りながら、真琴は寒気を覚えた。

放課後、真琴は約束通り音楽室に向かった。葉月は既にそこで待っていた。窓際に立ち、外を眺めている姿は儚げで美しかった。

「葉月さん」

真琴の声に、葉月はゆっくりと振り返った。

「先生、来てくれたんですね」

「中村君のことを教えて。彼は本当に消えたの?」

葉月は静かに頷いた。

「赤い手形に選ばれたんです。七日目に」

「選ばれるって…誰に?」

「鏡の向こう側にいる者たちに」

葉月の言葉は神秘的で、真琴には理解しがたかった。

「鏡の向こう側?」

「そう。この学校には鏡を通して別の世界とつながっている場所があるんです。そこにいる者たちが、時々こちらの世界の人を連れて行くんです」

真琴は信じられない話だと思いながらも、ここ数日の不可解な出来事を考えると、完全に否定もできなかった。

「なぜ彼らは人を連れて行くの?」

「生きるためです。彼らは私たちの記憶を食べて生きているんです」

葉月の言葉に、真琴は戦慄を覚えた。

「記憶を?」

「はい。だから中村君は消えただけでなく、みんなの記憶からも消されてしまったんです。先生だけが覚えているのは…」

葉月は言葉を切った。

「なぜ私だけが?」

「先生も選ばれたからです。次は先生の番」

真琴は冷や汗を感じた。

「どうすれば助かるの?」

「私が手伝います。でも、まずは中村君のことを調べましょう」

葉月は真琴に、中村の寮の部屋を調べるよう提案した。寮の管理人は午後6時から夕食の準備で不在になる。その隙に中村の部屋を調べるチャンスがあるという。

真琴は少し躊躇したが、真相を知るためには必要だと判断した。

「分かった。今夜行ってみる」

葉月は安堵の表情を見せた。

「気をつけてください。彼らは常に見ています」

その言葉を最後に、葉月は音楽室を後にした。

その夜、真琴は寮の管理人が食堂に向かったのを確認してから、男子寮に忍び込んだ。廊下は薄暗く、足音が響かないよう気をつけながら進んだ。

中村の部屋は2階の角部屋だった。ドアには名札がなく、ただ「205」と番号だけが書かれていた。真琴はそっとドアノブを回してみた。驚いたことに、鍵はかかっていなかった。

部屋の中は完全に整理されていた。ベッドには新しいシーツがかけられ、机の上には何もなく、クローゼットも空っぽだった。まるで誰も住んでいなかったかのように。

真琴は部屋の中を詳しく調べ始めた。床板の下、マットレスの隙間、クローゼットの奥…何か手がかりがないか探した。しかし、中村の痕跡はどこにも見当たらなかった。

諦めかけたとき、真琴は机の引き出しを再度確認してみた。一見空っぽに見えたが、よく見ると引き出しの底に薄い紙が貼り付けられていた。

真琴は慎重にそれを剥がした。それは写真だった。特別蔵書室の鏡に映る赤い手形の写真。そして、その横には「助けて」と走り書きされていた。

写真を見つめていると、突然廊下から足音が聞こえてきた。真琴は急いで写真をポケットに入れ、身を隠した。足音は部屋の前で止まり、ドアがゆっくりと開いた。

入ってきたのは斎藤美咲だった。彼女は部屋の中を見回し、何かを探しているようだった。真琴はクローゼットの中に隠れ、息を殺して見ていた。

美咲は机の引き出しを開け、底を確認した。写真がなくなっているのに気づくと、彼女の表情が変わった。顔が歪み、目が異様に光った。

「見つけた…」

その声は美咲のものではなかった。低く、歪んだ声。美咲は部屋を出ていったが、その足音は廊下で消えた。まるで空中に消えたかのように。

真琴は恐怖で震えながらも、隠れ場所から出た。写真をもう一度確認すると、その裏に小さな文字で何かが書かれていた。

「地下への扉は音楽室の鏡の中」

真琴はその意味を考えながら、急いで自分の部屋に戻った。明日、音楽室を調べてみる必要がある。そして葉月にこの写真を見せなければ。

部屋に戻った真琴は、窓辺に立ち、外の夜景を見た。月明かりに照らされた校舎が静かに佇んでいる。その2階の一室に灯りが点いていた。音楽室だ。

真琴が見つめていると、窓に人影が現れた。それは朝倉葉月だった。彼女は真琴の方を見て、何かを手で示しているようだった。

その時、真琴の部屋のドアがノックされた。真琴は驚いて振り返った。

「高遠先生、います?」

声は佐伯教頭のものだった。真琴は慌てて写真をベッドの下に隠し、ドアを開けた。

「こんな時間に何か?」

佐伯は真琴の部屋の中を見回した。

「中村俊介のことを調べているそうですね」

真琴は驚いたが、冷静さを保とうとした。

「いいえ、ただ転校が突然で気になっただけです」

佐伯は真琴の顔をじっと見つめた。

「高遠先生、この学校の秩序を乱さないでください。あなたが何を知ったとしても、それは変えられないことです」

その言葉には明らかな脅しが含まれていた。

「何を言っているんですか?」

「明日から、中村俊介のことは口にしないでください。そして、朝倉葉月とも不必要に接触しないように」

佐伯はそれだけ言うと、部屋を出ていった。

残された真琴は、身の危険を感じ始めていた。この学校では確かに異常なことが起きている。中村は消され、誰もそれを覚えていない。自分も同じ運命をたどるのだろうか。

窓の外を見ると、音楽室の灯りは消えていた。そして、真琴の窓ガラスには、また新たな赤い手形が浮かび上がっていた。

「残り六日…」

真琴は呟きながら、恐怖と闘っていた。明日こそ、この学校の秘密を暴かなければ。そして、中村を救う方法を見つけなければ。
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