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第7話「もう一人の生徒」
しおりを挟む雨は夜通し降り続き、朝になっても止む気配はなかった。真琴は窓から滴る雨粒を見つめながら、昨夜の悪夢と百瀬先生の警告を思い出していた。「あと三日」——白夜祭まであと三日、そして自分が「救い手」として何かを選ばなければならない。
制服を着て鏡の前に立った真琴は、自分の憔悴した顔を見つめた。赤い手形を見てから五日が経過していた。普通なら既に消されているはずなのに、自分はまだここにいる。それだけでも異常なことだった。
「封印か…解放か…」
鏡に向かってつぶやいた言葉が、部屋の中で虚しく響いた。
朝食を取らず、真琴は雨の中を校舎へと急いだ。校門をくぐると、いつもより多くの生徒が行き交っていた。白夜祭の準備が始まっているのだろう。廊下には装飾用の紙や布が積まれ、あちこちに手作りの看板が立てかけられていた。
職員室に向かう途中、真琴は葉月の姿を探した。昨日から彼女とはまともに話せていない。百瀬先生は「葉月を信じて」と言ったが、本当に信じていいのだろうか。
職員室では教師たちが白夜祭の打ち合わせをしていた。真琴が入ると、会話が一瞬途切れたが、すぐに再開された。佐伯教頭は真琴をじっと見つめていたが、何も言わなかった。百瀬先生の姿はなかった。
「高遠先生、おはようございます」
川島先生が声をかけてきた。彼は理科を担当する若い男性教師で、いつも真琴に親切にしてくれる。
「おはよう、川島先生」
「今日から白夜祭の準備が始まりますね。高遠先生も3年B組の出し物を担当することになりました」
川島は真琴にプリントを渡した。それには白夜祭のスケジュールと各クラスの担当が書かれていた。3年B組は「鏡の部屋」というタイトルの展示を担当することになっていた。
「鏡の部屋…?」
「ええ、毎年の伝統なんですよ。3年B組は古い鏡を使った心霊体験コーナーを担当するんです」
川島の説明に、真琴は不安を感じた。鏡…それは学園の秘密の中心にあるものだ。心霊体験と称して、何か別の目的があるのではないか。
「百瀬先生は?」
「ああ、今日は体調不良で休みです。メールが入っていました」
その言葉に真琴は不安を覚えた。百瀬先生は昨日まで元気だったのに。何かあったのだろうか。
最初の授業のチャイムが鳴り、真琴は3年B組の教室へと向かった。教室のドアを開けると、生徒たちは普段通り立ち上がって挨拶した。
「おはようございます」
一斉に揃った声に応えながら、真琴はふと違和感を覚えた。教室の最後列、窓際の席に見知らぬ生徒が座っていた。長い黒髪の女子生徒で、制服の着こなしが他の生徒よりも少しだけ古風に見える。
「着席」
生徒たちが席に着くと、真琴は出席簿を開いた。そこには知らない名前があった。「佐々木美咲」——確かにその名前は昨日までなかったはずだ。
「えっと…出席を取ります」
名前を読み上げていくと、最後に「佐々木美咲」という名前があった。真琴が名前を呼ぶと、最後列の見知らぬ少女が静かに立ち上がった。
「はい」
その声は低く、どこか懐かしいような響きを持っていた。真琴は佐々木美咲をじっと見た。彼女は斎藤美咲にも似ているが、どこか違う。より古風で、目の光が鋭い。そして何より、真琴には確かにこの生徒を見たことがないという確信があった。
「佐々木さん、あなたは…」
言いかけて真琴は言葉を飲み込んだ。教室の生徒たちが一斉に真琴を見つめていたからだ。彼らの目には警戒心と不思議そうな表情が混ざっていた。
「あの、先生」朝倉葉月が手を上げた。「今日の白夜祭の準備について説明していただけますか?」
葉月の言葉に、真琴は我に返った。授業中に生徒の身元を疑問視するのは避けたほうがいい。真琴は白夜祭の準備について説明し始めた。
「3年B組は『鏡の部屋』という展示を担当します。古い鏡を使った…」
説明中、真琴は何度も佐々木美咲に目が行った。彼女はただ静かに座って聞いているが、時折真琴を見つめ返し、かすかに笑うことがあった。その微笑みには何か意味があるようだった。
授業が終わり、休み時間になると、生徒たちは白夜祭の準備で盛り上がり始めた。真琴は佐々木美咲の動向を観察していた。彼女は他の生徒たちとあまり交流せず、窓の外を見つめていることが多かった。
そして、不思議なことに、他の生徒たちも彼女に特に話しかけることはなかった。まるで存在を認識しつつも、意図的に距離を置いているかのようだった。
真琴が教室を出ようとした時、葉月が近づいてきた。
「先生、ちょっとよろしいですか?」
二人は廊下の隅に移動した。葉月は周囲を確認してから、小声で言った。
「気づきましたか?佐々木美咲のこと」
「ああ、昨日まで確かにいなかった。斎藤美咲は?」
「いなくなりました。代わりに佐々木が…」
葉月の説明によれば、斎藤美咲は「役目を終えた」ため消え、代わりに佐々木美咲が現れたのだという。これも鏡の向こう側からの侵入者の一人らしい。
「でも、佐々木は何か違う。普通の『影』ではないんです」
「どういうこと?」
「彼女は…五十年前の生徒なんです」
真琴は息を呑んだ。
「五十年前?でも、なぜ今…」
「白夜祭が近いからです。彼女は儀式に必要な存在なんです」
葉月が説明を続けようとした時、廊下の角から佐々木美咲が現れた。彼女は二人を見ると立ち止まり、葉月をじっと見つめた。
「朝倉さん、先生に変なことを言ってない?」
佐々木の声は教室で聞いたよりも冷たく、命令するような調子だった。葉月は一瞬怯んだように見えたが、すぐに表情を取り戻した。
「何も。白夜祭の準備の相談をしていただけです」
佐々木は二人を交互に見て、不気味に微笑んだ。
「そう。先生、あまり余計なことを気にしない方がいいですよ。特に『存在しないもの』については」
その言葉には明らかな警告が含まれていた。佐々木はそれだけ言うと、クラスメイトに呼ばれたように装い、立ち去った。
「怖い子ね」真琴はつぶやいた。
「注意してください。彼女は危険です」
葉月は真琴の腕を握り、真剣な表情で言った。
「昼休み、音楽室で会いましょう。重要なことがあります」
葉月もそそくさと立ち去り、真琴は一人廊下に残された。頭の中は混乱していた。佐々木美咲とは何者なのか。そして五十年前の生徒がなぜ今ここにいるのか。
次の授業では、真琴は集中できなかった。常に佐々木美咲の存在が気になり、何度も彼女の方を見てしまう。するとその度に、佐々木は真琴と目が合うのを待っていたかのように微笑んだ。その笑みはどこか挑発的で、「私の正体を知りたい?」と言っているようだった。
昼休み、真琴は約束通り音楽室に向かった。ドアを開けると、中は薄暗く、誰もいないように見えた。
「葉月さん?」
真琴が部屋に足を踏み入れると、ピアノの陰から葉月が現れた。彼女は明らかに疲れていて、顔色も優れなかった。
「先生、来てくれて良かった」
「どうしたの?具合が悪そう」
「昨夜から…彼女が現れてから、学園内の空気が変わりました。より重く、息苦しい」
葉月は窓際に移動し、外を見つめた。雨はまだ降り続いていて、校庭には白い霧が立ち込めていた。
「佐々木美咲は五十年前の儀式で最初の犠牲になった生徒です。彼女は特別な存在で、鏡の向こう側では高い地位にいます」
「でも、なぜ今になって?」
「白夜祭の本当の目的は、五十年前の儀式を再現すること。そのためには、同じ配役が必要なんです」
葉月の説明によれば、白夜祭では七人の特別な「鍵」が必要になるという。佐々木美咲はその一人で、彼女が現れたということは、儀式の準備が本格的に始まったことを意味する。
「先生も『鍵』の一人です。救い手として」
「私が?でも、私は…」
「あなたは選ばれました。赤い手形を見ても消えない。それはあなたが特別な力を持っているから」
葉月は真琴の手を取った。その手は冷たく、震えていた。
「先生、明日までに決断してください。私たちと一緒に儀式を阻止するのか、それとも…」
葉月の言葉は、音楽室のドアが開く音で遮られた。振り返ると、そこには佐々木美咲が立っていた。
「やっぱりここにいたのね、朝倉さん」
佐々木は部屋に入り、ドアを閉めた。彼女の姿は逆光で輪郭だけが浮かび上がり、不気味な存在感を放っていた。
「先生に変なことを吹き込んでない?」
「何も言ってません」葉月は佐々木から少し離れた。
「本当に?」佐々木は葉月に近づいた。「あなたも『鍵』の一人よ。役目を果たさなければ」
「知ってます」
佐々木は真琴の方に向き直った。
「高遠先生、朝倉さんの言うことをすべて信じないでください。彼女にも秘密があります」
「どういう意味?」
「彼女は本当のことを言っていません。特に自分自身について」
佐々木はそう言うと、ポケットから小さな鏡を取り出した。それは手のひらサイズの古い銀の鏡で、縁には不思議な文様が刻まれていた。
「これを見れば、真実がわかります」
佐々木が鏡を掲げると、真琴は思わず目を閉じた。葉月の警告を思い出したからだ。鏡を直接見ることは危険だという。
「見てください、先生。朝倉さんの本当の姿を」
真琴が目を閉じたまま頑なにいると、佐々木はため息をついた。
「まあいいわ。時間はたっぷりあります。白夜祭までにはわかるでしょう」
佐々木は鏡をしまい、真琴と葉月を交互に見た。
「二人とも、運命から逃げることはできません。特に高遠先生、あなたは重要な役割を担っている。『救い手』として」
佐々木はそれだけ言うと、部屋を出て行った。残された二人は、しばらく言葉を交わせなかった。
「葉月さん、彼女の言った『秘密』って…」
葉月は窓際に立ったまま、外を見つめ続けた。
「私には言えないことがあります。でも、それは先生を守るためなんです」
「本当に信じていいの?」
葉月は振り返り、真琴をじっと見た。その瞳には決意と哀しみが混ざっていた。
「信じるかどうかは先生次第です。ただ、私は先生を救いたいんです。この学園の呪いから」
葉月はそれ以上何も言わず、音楽室を後にした。真琴は一人残され、窓の外の雨を見つめた。誰を信じればいいのか。葉月か、佐々木か、それとも百瀬か。全ての人が真実の一部だけを教えているようで、全体像が見えない。
午後の授業では、3年B組は白夜祭の準備に取りかかった。「鏡の部屋」の設計図を描き、必要な材料をリストアップする。真琴は表向き生徒たちの活動を見守っていたが、心の中は混乱していた。
佐々木美咲は積極的に意見を出し、他の生徒たちをリードしていた。彼女の提案は「古い鏡を円形に配置し、中央に一つの大きな鏡を置く」というもの。生徒たちは彼女の意見に従い、詳細な図面を描いていった。
真琴はその光景を見て、不安を覚えた。これは単なる展示ではなく、儀式の準備なのではないか。
放課後、真琴は職員室に戻ろうとしていたが、廊下で佐々木美咲と遭遇した。彼女は一人で立ち、何かを待っているようだった。
「先生、ちょっといいですか」
真琴は警戒しながらも立ち止まった。
「なに?」
「私のことを怖がらないでください。私はあなたを助けたいんです」
「助ける?あなたは鏡の向こう側の存在でしょ?」
佐々木は悲しげに微笑んだ。
「そうです。でも全ての『影』が敵というわけではありません。私たちの中にも、この状況を終わらせたいと思っている者がいるんです」
「どういうこと?」
「五十年間、この学園では多くの生徒が犠牲になりました。私たちも自由ではないんです。どちらの世界でも」
佐々木は真琴に近づき、小声で言った。
「白夜祭の儀式で、あなたには選択の機会があります。封印を強化するか、解放するか」
「葉月も同じことを…」
「彼女は封印を強化する側です。でも、それは本当に正しいでしょうか?」
佐々木の問いに、真琴は答えられなかった。
「考えてみてください。五十年間、定期的に生徒が消えていく。それが続く世界と、全てが解決される世界、どちらが良いですか?」
佐々木はそれだけ言うと、「また話しましょう」と言い残し、立ち去った。
真琴は混乱したまま寮に戻った。部屋に入るとすぐに窓を確認し、鍵をかけた。今日は誰にも邪魔されず、じっくり考えたかった。
窓から見える学園は、雨に煙り、霧に包まれていた。どこか非現実的な光景だった。真琴は昨日の日記の内容、百瀬先生の警告、葉月の言葉、そして佐々木美咲の申し出を思い返した。全ての人が「選択」について語っている。封印か、解放か。
真琴は鏡の前に立ち、自分の顔を見つめた。「救い手」としての自分に何ができるのか。正しい選択とは何なのか。
その時、鏡に映る自分の後ろに、かすかな影が見えた気がした。振り返ると、そこには誰もいなかった。再び鏡を見ると、今度は自分の姿が少し違って見えた。まるで別人のように。
「私は一体、誰なの…」
真琴のつぶやきは、雨音に消されていった。白夜祭まであと二日。その時までに、全ての謎を解き明かさなければならない。そして、運命の選択をしなければならない。
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