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第13話「角と牙の使い手」
しおりを挟む満月の儀式から三日後、朝霧がまだ農園を覆う早い時間に、レインは珍しい光景を目にした。フィリアとリーフィアが二人で朝日に向かって静かに座り、目を閉じている。二人の間には満月の夜に現れた幻影の花は消えていたが、その代わりに小さな白い花が咲いていた。
「精霊との朝の挨拶です」前日にリーフィアが説明していた通りだ。
フィリアが精霊と交信する術を学び始めてから、彼女は少しずつ変わってきていた。普段の鋭い眼差しに、時折見せる柔らかな表情。魔竜としての威厳は失わないまま、どこか穏やかな雰囲気が彼女を包むようになっていた。
レインは二人を邪魔しないよう、静かに朝食の準備を始めた。小屋から漂う料理の香りに誘われてか、やがてフィリアとリーフィアが戻ってきた。
「おはよう」フィリアの声には珍しい明るさがあった。「今朝は水の精霊と話せた気がする」
「素晴らしい進歩です」リーフィアは嬉しそうに微笑んだ。「フィリアさんの感覚は鋭いですね」
三人が朝食のテーブルを囲んでいると、リーフィアが突然何かを思い出したように言った。
「そういえば、今日は友人が訪ねてくる予定なんです」
「友人?」レインは興味を示した。「エルフの方?」
リーフィアは首を横に振った。「いいえ、獣人族の友人です。彼の名前はガルム」
「獣人?」フィリアが食事の手を止めた。「どんな人なの?」
「彼は...」リーフィアは言葉を選ぶように少し考えた。「少し荒々しいところはありますが、心優しい友人です。それに、彼の力はきっとこの農園にも役立つはず」
「力?」レインは尋ねた。
「ガルムは狼の獣人で、信じられないほどの力持ちなんです」リーフィアは説明した。「そして、彼には特別な才能があります。後でのお楽しみに」
リーフィアの神秘的な微笑みに、レインとフィリアは顔を見合わせた。
---
それから数時間後、農園に向かう道から大きな足音が聞こえてきた。レインとフィリアが畑の作業を中断して見上げると、彼らの視界に巨大な影が入ってきた。
道を歩いてくるのは、レインの身長よりも一回り以上大きな男性だった。灰色がかった毛皮に覆われた体、突き出た狼のような口先、頭からは二本の立派な角が生えている。背中には大きな革の袋を背負い、腰には工具のようなものがぶら下がっていた。
「あれがガルムか」フィリアは小声で言った。「迫力がある」
「ああ」レインも同意した。「でも、リーフィアを信じよう」
巨大な獣人は農園の前で立ち止まり、鋭い目で周囲を見回した。そのとき小屋からリーフィアが姿を現し、手を振った。
「ガルム!こっちよ!」
獣人の表情が一変した。厳しい顔つきが崩れ、まるで子供のような笑顔になる。
「リーフィア!」
その声は予想外に温かく、優しいものだった。彼は大きな足で地面を踏みしめながら、リーフィアに近づいた。リーフィアの前に来ると、彼は片膝をついて、彼女と目線を合わせた。
「無事で何よりだ。森を離れると聞いて心配していたんだ」
「ありがとう、ガルム」リーフィアは彼の手を取った。「ここは素晴らしい場所よ。さあ、友人を紹介するわ」
リーフィアはレインとフィリアを呼び寄せた。
「こちらがレインさん、元勇者で今はこの農園の主人。そしてこちらがフィリアさん、魔竜族の方よ」
ガルムは二人を見つめ、深く頭を下げた。
「初めまして、レイン殿、フィリア殿。リーフィアから話は聞いていました。異種族が共に暮らすこの農園のことを」
彼の丁寧な言葉遣いと礼儀正しい態度は、その巨体と荒々しい外見からは想像できないものだった。レインは思わず微笑んだ。
「こちらこそ、ようこそガルムさん。リーフィアの友人なら、私たちの友人でもあります」
フィリアも頷いた。「獣人族にも会えるとは思っていなかった。嬉しいわ」
「魔竜殿から歓迎の言葉をいただけるとは光栄です」ガルムは敬意を込めて言った。
「フィリアでいいわ」彼女は微笑んだ。「ここでは皆、平等な友人だから」
ガルムの目が驚きと喜びで輝いた。
「さて」リーフィアが言った。「ガルム、あなたの腕前を二人に見せてあげたら?」
ガルムはちょっと照れたように頭をかいた。「そうだな...でも、何か良い木はあるか?」
「木?」レインは不思議そうに尋ねた。
「ガルムは素晴らしい彫刻家なんです」リーフィアは説明した。「特に木彫りの名手よ」
「農園の東の境には大きな倒木があるわ」フィリアが言った。「先月の嵐で倒れた樫の木」
「樫の木か...」ガルムの目が輝いた。「それは素晴らしい。案内してくれないか?」
四人は東の境へと向かった。確かにそこには、立派な樫の倒木があった。根元は地面から引き抜かれ、太い幹は横たわっていた。
「これは...」ガルムは木に手を当て、目を閉じた。「良い木だ。まだ命の残り香がする」
彼は背中から革袋を下ろし、中から様々な彫刻道具を取り出した。大きなものから繊細なものまで、種類も豊富だった。
「何を作るつもりだ?」レインが尋ねた。
ガルムはしばらく考え、それから笑顔で言った。「この農園にはまだ看板がないようだな。立派な看板を作らせてほしい」
「看板?」フィリアは少し驚いた様子だった。「確かに、私たちの農園には名前すらついていなかったわね」
「ぜひお願いします」レインは喜んで答えた。「どれくらい時間がかかりますか?」
「明日の日没までには完成させよう」ガルムは自信を持って言った。「その間、他のことでお役に立てれば」
「実は」レインは少し躊躇いながら言った。「新しい区画を開拓しようと思っていたんだ。でも、根っこを抜くのが大変で...」
ガルムの顔が明るくなった。「それは私の得意分野だ!木彫りの合間に手伝おう」
---
その日の午後、農園の西側では信じられない光景が繰り広げられていた。
ガルムは上半身の衣服を脱ぎ、筋肉質の体を露わにしていた。彼の力は想像以上だった。人間なら数人がかりで抜かなければならない古い切り株を、彼はほとんど一人で引き抜いていく。
「すごい...」レインは汗を拭いながら呟いた。
「獣人族の力だ」フィリアも感心した様子で見ていた。「私も力はあるけれど、あんな風に使いこなせない」
ガルムは黙々と作業を続け、あっという間に大きな区画が開拓されていった。時折、彼は作業を中断し、東の境に戻って彫刻作業を進める。そしてまた力仕事に戻ってくる。
夕方になると、新しい農地がほぼ完成していた。ガルムの力のおかげで、レインの予想では一週間はかかるはずだった作業が、たった半日で終わったのだ。
「ガルムさん、本当にありがとう」レインは心から感謝した。「これでリーフィアとフィリアが育てた特別な種を、もっと植えることができる」
「お役に立てて嬉しい」ガルムは汗を拭いながら笑った。
彼が去ると、リーフィアがレインとフィリアに近づいてきた。
「ガルムの本当の力は、まだ見ていません」彼女は微笑んだ。「明日の看板をお楽しみに」
その夜、四人は小屋で夕食を共にした。テーブルには、リーフィアとフィリアの力で育てた色鮮やかな野菜料理が並び、ガルムはそれを美味しそうに平らげていた。
「こんな味は初めてだ!」彼は感動した様子で言った。「エルフと竜の力が生み出した作物...素晴らしい」
食事の後、彼らは農園の未来について語り合った。
「力を合わせれば、この場所はもっと特別になる」ガルムは真剣な表情で言った。「獣人、エルフ、竜、そして人間...四つの種族がひとつの目的のために協力する。これは歴史的なことだ」
「確かに」リーフィアも頷いた。「各地で種族間の対立が絶えない中、ここでは共存と協力が実現している」
「それもこの男のおかげだ」フィリアはレインを見た。「彼が心を開いてくれなければ、始まらなかった」
レインは少し照れながらも、誇らしげに言った。「これは私一人ではなく、みんなで作り上げたものだよ」
その夜、ガルムは小屋の近くに設えられた簡易テントで休むことになった。彼は夜遅くまで、松明の灯りの下で彫刻を続けていた。
---
翌朝、レインが目を覚ますと、ガルムはすでに姿を消していた。テントは空で、彼の荷物もなかった。
「ガルムはどこへ?」彼はリーフィアに尋ねた。
「彼は仕事を終えると、こっそり去るのが習慣なの」リーフィアは微笑んだ。「でも、きっとすぐに戻ってくるわ」
朝食後、三人は普段の農作業に戻った。リーフィアは新しく開拓された西の区画に、エルフの秘薬で処理した種を植え、フィリアはその上に優しく息を吹きかけた。レインは水やりと土寄せを担当した。
三人の息はすっかり合っていた。それぞれの特技を活かし、互いを補い合いながら作業を進める。まるで長年一緒に働いてきたかのような調和があった。
「誰か来たようだ」
昼過ぎ、フィリアの鋭い耳が道からの足音を捉えた。見ると、ガルムが何かを担いで戻ってきたところだった。
「みんな!見てくれ!」
彼の声には子供のような興奮が込められていた。担いでいたのは、大きな木の看板だった。彼はそれを丁寧に地面に置いた。
三人が近づくと、思わず息を呑んだ。
看板には驚くほど精巧な彫刻が施されていた。中央には竜と人間が並んで立つ姿が彫られ、その周りを様々な野菜や植物が取り囲んでいる。竜は優美で力強く、人間は穏やかな笑顔を浮かべている。彼らの足元には、エルフと思われる姿も小さく彫られていた。
「素晴らしい...」レインは言葉を失った。
「こんな短時間で...」フィリアも驚きを隠せなかった。
看板の上部には美しい文字で「竜と勇者の農園」と彫られていた。
「名前は...」ガルムは少し照れくさそうに言った。「リーフィアと相談して決めたんだ。気に入ってもらえるだろうか」
「完璧だ」レインは心から言った。「これ以上の名前はない」
フィリアも静かに頷いた。彼女の目には、感動の色が浮かんでいた。
「設置しよう」ガルムは言った。「農園の入り口に」
四人は協力して看板を農園の入り口に運び、ガルムが持ってきた特製の支柱に取り付けた。看板を設置し終えると、四人は少し離れた場所から見上げた。
「竜と勇者の農園」...その名前は、この場所の全てを象徴していた。かつては敵対していたはずの存在同士が、共に平和を育む場所。そしてそこに集う様々な種族の友情。
「これで正式に名前を持つ農園になったな」レインは嬉しそうに言った。
「由緒正しい名前だ」フィリアも満足げだった。
ガルムはリーフィアの方を見た。「私も...ここに留まってもいいだろうか」
「もちろん」レインとフィリアが同時に答えた。
「あなたの力は農園にとって大きな助けになります」レインは続けた。「それに、あなたの彫刻の才能も素晴らしい」
「私は...」ガルムは感動した様子で言った。「長い間、自分の居場所を探してきた。獣人は見た目で恐れられることが多く、私の力は時に恐怖の対象になってきた。だが、ここでは違う。ここでは私の力が役立ち、私の芸術が評価される」
「ここは皆の居場所だ」フィリアは静かに言った。「種族に関係なく」
リーフィアは三人を見渡し、満足げに微笑んだ。「四つの種族の協力...これは始まりに過ぎないわ」
その日の夕方、村からトモやムラタ長老を含む何人かの村人たちがやって来た。新しい看板に気づいたのだ。
「すごい看板だ!」トモは目を輝かせて言った。「これは誰が作ったの?」
「私の友人、ガルムだ」リーフィアは彼を紹介した。
村人たちは最初、巨大な獣人の姿に驚いたが、彼の穏やかな物腰と芸術的才能に気づくと、すぐに打ち解けていった。
「『竜と勇者の農園』...素晴らしい名前だ」ムラタ長老は看板を見上げながら言った。「この名前が広まれば、さらに多くの人が訪れるだろう」
確かに、すでに噂は広がりつつあった。魔竜と元勇者が営む農園には、エルフの知恵と獣人の力も加わり、驚異的な作物が育っているという噂が...
その夜、新しく命名された「竜と勇者の農園」の小屋では、四人の異なる種族が輪になって座り、未来について語り合っていた。彼らの前には、協力して育てた作物でつくった料理が並び、ガルムが彫った木製の器に盛られていた。
「乾杯しよう」レインはカップを持ち上げた。「新しい仲間と、新しい農園の名前に」
四人のカップが空中で触れ合い、小さな音を響かせた。
窓の外では、彼らの手で植えられた色とりどりの作物が月明かりに照らされ、静かに育っていた。そして入り口には、「竜と勇者の農園」という名前を刻んだ看板が、訪れる人々を優しく迎えていた。
かつては孤独だった者たち—勇者を引退した男、人間に恐れられていた魔竜、森を離れたエルフ、そして居場所を求めていた獣人—が、ここで新たな絆を結び、共に何かを創り出す喜びを分かち合っていた。
彼らの冒険は、まだ始まったばかりだった。
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