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第11話:「時の神殿と虚空の亀裂」
しおりを挟む海底の神殿でポセイドンの詩を手に入れてから一週間が過ぎた。レナスたちの乗る「潮風号」は、目的地である北方の港町クロノシアへと近づいていた。
甲板の上、レナスは空に広がる亀裂を見つめていた。ポセイドン神殿での出来事以来、亀裂はさらに大きく広がり、その向こうに見える「楽園の影」はより鮮明になっていた。水晶のような塔、浮かぶ島々、そして光り輝く建造物—それは神秘的でありながら、どこか懐かしさを感じさせる風景だった。
「美しいものですね」
振り返ると、フィリアが静かに近づいてきていた。彼女の白い髪が朝の光を受けて輝いている。
「ああ」レナスは再び空を見上げた。「だが、あれが何なのかはまだ分からない」
「楽園の一部だと、兄は言っていました」フィリアは隣に立った。「神々が去った後に残した最後の贈り物」
レナスは黙ってうなずいた。彼の右腕から全身に広がった文様は、今はかすかに脈動するだけだったが、空の亀裂を見るたびに反応して熱を持った。
「心配なのは、あの亀裂だ」レナスは静かに言った。「日に日に広がっている。このまま広がり続けると…」
「世界はどうなるのでしょうか」フィリアの声には不安が混じっていた。
その時、イグニスが二人に近づいてきた。彼の表情は常に冷静だったが、目には鋭い光があった。
「危険な状況です」イグニスは空の亀裂を見上げながら言った。「神々の詩が集まれば集まるほど、虚空の亀裂は広がります。それは神々の力が再び世界に戻ってきている証拠」
「それは良いことなのか?」レナスは彼を見つめた。
「両刃の剣です」イグニスは慎重に言葉を選んだ。「神々の力は世界を救う可能性を持ちますが、同時に破壊をもたらすかもしれない。だからこそ、次の詩を集めることが急務なのです」
彼は小さな地図を広げた。そこにはクロノシアの先にある山々が描かれ、その中心に「時の神殿」と記されていた。
「時の神クロノスの神殿です」イグニスは説明した。「そこには時を司る神の詩が残されています」
---
クロノシアは奇妙な町だった。建物は古風でありながら、一部は未来的な様相を呈していた。住民たちも普通に見えたが、時折彼らの姿が透けて見え、別の時代の衣装を着た姿が重なって見えることがあった。
「この町は時間の流れが不安定になっています」イグニスは港から町の中心へと向かいながら説明した。「クロノス神の力が漏れ出しているのでしょう」
「まるで複数の時代が重なっているようだ」ヴァルターが周囲を警戒しながら言った。
町の広場では、さらに奇妙な光景が広がっていた。空中に半透明の映像が浮かび、そこには神々の時代らしき光景が映し出されていた。白い建物、空を飛ぶ乗り物、そして金色の瞳を持つ存在たちの姿。
「神々の時代の幻影…」フィリアは息を呑んだ。
「これほど顕著な現象は初めてだ」ヴァルターが眉をひそめた。「亀裂の影響が強まっている」
レナスは黙って幻影を見つめていた。その光景は彼の中に奇妙な懐かしさを呼び起こした。まるで彼自身がかつてそこにいたかのような感覚。
「先を急ぎましょう」イグニスが促した。「神殿までは半日の道のりです」
---
クロノシアを出発した一行は、「時の森」と呼ばれる古い森を通り抜けていった。森の中は薄い霧に覆われ、木々の間から時折光が差し込んだ。
「この森も時の神殿の影響を受けています」イグニスが説明した。「一部の場所では時間が速く流れ、別の場所では遅く流れている」
「どういう意味だ?」ヴァルターが尋ねた。
「つまり、気をつけないと何日も迷う可能性がある」イグニスは真剣な表情で言った。「私たちにとっては半日の旅が、実際には数週間になることもあります」
彼の言葉通り、森の中の道のりは奇妙なものだった。時には数時間歩いているように感じても、太陽はほとんど動いていなかった。また別の時には、ほんの数分歩いただけで、空が夕暮れから夜へと変わった。
レナスは前を歩くイグニスを観察していた。彼との出会いからまだ日は浅く、完全には信頼していなかった。だが、これまでのところ彼の案内は正確だった。
「気になることがあるか?」イグニスが振り返った。
「兄妹の血筋に、何か特別なものがあるのか?」レナスは率直に尋ねた。
イグニスは歩みを緩めた。
「記憶の守り人の中には、神々の時代から続く血筋があります」彼は静かに答えた。「私たちの家系も、その一つです」
「だからフィリアには神託の力があるのか」
「おそらく」イグニスは少し躊躇ったように見えた。「だが、彼女の力は特別です。母は彼女を『詩を紡ぐ者』と呼んでいました」
レナスは思わず立ち止まった。「詩を紡ぐ者…」その言葉は彼の中で何かと反応した。
突然、空に大きな変化が起きた。虚空の亀裂が一瞬大きく広がり、森全体が青白い光に包まれた。それと同時に、レナスの全身の文様が強く輝き始めた。
「また始まる…!」レナスは痛みに顔を歪めた。
周囲の時間が歪み始め、木々の成長と枯死が繰り返され、地面から花が咲き乱れては枯れていくのが見えた。フィリアは慌ててレナスに駆け寄り、彼の手を握った。
「大丈夫ですか?」
その瞬間、二人の接触点から光が広がり、周囲の時間の乱れが安定し始めた。
「これは…」イグニスは驚いた表情で二人を見つめた。
「二人の力が共鳴している」ヴァルターが言った。「互いに影響し合っているようだ」
光が収まると、レナスはやや息を切らしながらも立ち上がった。彼の目に映ったのは、森の向こうに聳える巨大な塔だった。それは半透明で、時折姿が揺らぎ、別の形に変わるように見えた。
「時の神殿だ」イグニスが言った。「予想より早く到着しました」
「あの塔が…揺れている」フィリアが言った。
「時間の流れの中で、神殿自体が揺れ動いているのでしょう」イグニスは説明した。「時の神クロノスは常に変化する神。彼の神殿も一定の形を保たないのです」
---
時の神殿は近づくにつれ、より実体を持ち始めた。それは白い大理石と水晶で作られた塔で、その高さは雲の上にまで達していた。塔の周囲には巨大な歯車と振り子が浮かび、絶えず動き続けていた。
神殿の入り口には石の扉があり、その上には古代文字で何かが刻まれていた。レナスは文字に触れ、その意味を理解した。
「『過去と未来の間に立つ者よ、時の試練に耐えうる者だけが、真実を知る資格を持つ』」
彼が言葉を読み終えると同時に、扉が開き始めた。内部は青白い光で満ちていた。
「警戒して」ヴァルターが言った。「これまでの神殿と同じく、何らかの試練があるだろう」
四人は慎重に内部へと足を踏み入れた。内部は外観から想像する以上に広大で、無数の歯車と振り子が動く巨大な空間が広がっていた。中央には光の柱が立ち、その周囲を時計の針のような巨大な刃が回転していた。
「誰だ…」
空間に声が響いた。それは老人のような、しかし威厳に満ちた声だった。
「神の器として来たのか、破壊者として来たのか…」
光の柱から一人の姿が現れた。それは古風な衣装を身にまとった老人だったが、その瞳は金色に輝き、顔には時計の文様が刻まれていた。
「時の番人…」イグニスが畏敬の念を込めて言った。
「我は時を見守る者」老人は言った。「汝らが求めるものは何か」
レナスは一歩前に進み、右腕を掲げた。文様が輝きを増した。
「私はレナス。神の器として選ばれた者です。クロノス神の詩を求めて来ました」
時の番人はレナスをじっと見つめ、やがて頷いた。
「確かに汝は神の器の資格を持つ」彼は言った。「だが、その資格に見合う力と覚悟があるかを試さねばならぬ」
彼は杖を掲げ、空間に大きな円を描いた。
「時の試練を与えよう。過去と未来の間で、真実を見極めよ」
突然、周囲の空間が揺れ動き、レナスたちの周りで景色が変わり始めた。彼らは神殿の中にいながら、別の場所と時代へと飛ばされたように感じた。
レナスの周りに広がったのは、巨大な円形の部屋だった。そこには七人の金色の瞳を持つ存在—神々—が集まり、中央に大きな光の玉を囲んでいた。その中の一人がレナスと目が合い、微かに笑みを浮かべた。
「時の試練が始まった」時の番人の声が遠くから聞こえた。「過去の記憶と向き合い、自らの存在意義を見出せ」
神々は言葉を交わし、その声はレナスの耳に届いた。
「我らの力を詩に込めねば、世界は均衡を失う」
「だが、それは我らの死を意味する」
「犠牲なくして、新たな世界は生まれぬ」
彼らの会話は断片的で、全体像をつかむことはできなかった。だが、レナスには彼らが重大な決断を前にしていることが分かった。
場面は変わり、今度は別の神殿のような場所が現れた。そこでは儀式が行われていた。白い衣装を着た人々が円を描き、中央には…小さな子供がいた。
レナスは息を呑んだ。その子供は彼自身だった。
「神の器として選ばれし者」儀式を執り行う者が言った。「汝の体に神々の意志を宿し、世界の均衡を守る者となれ」
子供の腕に文様が刻まれていくのを、レナスは見つめていた。それは彼の右腕にある文様と同じものだった。
「これが…私の過去?」レナスは呟いた。「私はどうして神の器に?」
場面は再び変わり、今度は混沌とした光景が広がった。神々が光になり、詩の言葉と共に消えていく様子。世界を包む大きな爆発と、空に開いた亀裂。
「神々は自らの存在を犠牲にした…」レナスは理解し始めた。「彼らは詩に力を込め、自らの神性を放棄した」
最後の場面では、レナスは時の神クロノスと向き合っていた。彼は老人と若者の中間のような姿で、その瞳は深遠な知恵を宿していた。
「時の流れの中で、全ては定められている」クロノスは語りかけた。「だが同時に、全ては変わりゆく」
「何を意味する?」レナスは尋ねた。
「神の器となった汝は、定められた道を歩む。同時に、その道を変える力も持つ」クロノスは微笑んだ。「それが時の真理。固定された未来はなく、可能性だけがある」
突然、幻影が消え、レナスは再び神殿の中央に立っていた。彼の全身が光に包まれ、新たな文様が彼の体に刻まれていくのを感じた。
時の番人が彼の前に立っていた。その姿は徐々に変化し、クロノス神の姿に近づいていた。
「汝は試練を乗り越えた」彼は言った。「時の記憶という力を授けよう」
レナスの意識に新たな力が流れ込んだ。それは時間を超えて神々の時代の記憶を見る能力だった。
「この力を使い、真実を見極めよ」時の番人—クロノス神の残留意識—は言った。「だが覚えておけ。時の流れを見ることは、時に大きな代償を伴う」
彼の姿が光に変わり、レナスの体に吸収されていくと同時に、神殿全体が震動し始めた。
「急いで出よう!」ヴァルターが叫んだ。「神殿が崩れ始めている!」
四人は急いで神殿の入り口へと向かった。外に出ると、空の亀裂がさらに広がり、「楽園の影」がより鮮明になっていた。
レナスは新たに得た「時の記憶」の力を感じながら、空を見上げた。彼の旅はまだ始まったばかりだったが、神々の真意と彼自身の運命が少しずつ明らかになり始めていた。
神の器として創られた自分。神々が自らを犠牲にした理由。そして「楽園」の謎。それらは全て繋がっているのだと、レナスは感じていた。
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