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第2章 第3話「温泉旅館の怪」
しおりを挟む山間の古い温泉旅館「菊乃湯」は、八月の夜に似つかわしくない深い霧に包まれていた。
「──本日は山奥の廃旅館、菊乃湯からの生配信となります」
結城翔真は、玄関前の朽ちた灯籠を映し出す。チャンネル登録者数は50万人を超え、先週の廃校での出来事は既にネット上で都市伝説と化していた。コメント欄には「笑顔の怪異」を検証する投稿が相次ぎ、オカルト系サイトでも取り上げられている。
「実は今回の配信場所は、玖堂レイからの直接指定です」
翔真はスマートフォンに届いたメッセージを読み上げる。夜の山中とは思えない蒸し暑さの中、額に汗が滲む。
『菊乃湯をご存知ですか?
1972年8月16日、宿泊客28名全員が失踪。
当時はカルト集団による集団自殺説も囁かれましたが、遺体は一つも見つかっていない。
不可解なのは、チェックアウト時の記念写真には全員写っていたこと。
しかも、その笑顔は──人間のものとは思えなかった』
霧が濃くなり、灯籠の明かりが不気味に揺らめく。石灯籠の苔むした表面には、まるで人の顔のような模様が浮かび上がっている。
「前回の廃校に続き、写真と笑顔の怪異か」
翔真は持参した機材を確認する。今回は固定カメラ6台を設置予定。大浴場、廊下、ロビー、そして問題の写真が撮られたという宴会場にも配置する。前回の教訓から、全てのカメラにバックアップ電源を用意した。
「まずは、建物の状態を確認します」
カメラを構えながら、翔真は建物の外観を撮影していく。築100年を超える木造建築は、意外なほど原形を留めていた。しかし、その保存状態の良さが、かえって不気味さを際立たせる。
チャット欄には、早くも不安げなコメントが流れ始めていた。
『また笑顔の話?』
『前回の配信、怖すぎた』
『菊乃湯って、あの失踪事件の……』
『近所に住んでるけど、夜になると灯りが見えるって噂』
『私の祖父も、昔ここに』
突如、館内から三味線の音が響いてきた。かすかな調べは、どこか懐かしい演歌の一節のようだ。
「音楽ですか?前回の廃校でも、最初はピアノの音から始まりましたね」
翔真は慎重に玄関をくぐる。腐食した床を踏むたび、年代物の木材特有の軋みが響く。
広々としたフロントには、カビの生えた宿泊名簿が残されていた。不思議なことに、1972年8月16日のページが開いたままになっている。
「失踪した宿泊客の記録でしょうか」
名簿には28人の名前が、美しい筆跡で記されていた。個人客は少なく、ほとんどが「○○会社慰安旅行」の団体客だ。最後の欄には赤ペンで「祝・記念撮影」との書き込みがあった。
その時、チャットに見慣れた名前が現れる。
『私の名前、見つかりました?
佐藤美咲です』
翔真の背筋が凍る。前回の廃校に現れた少女の名前。しかし名簿には、その名前はない。
「大浴場を確認しましょう」
廊下を進むと、どこからともなく湯気が立ち込めてくる。配管は朽ち果て、温泉は完全に涸れているはずなのに。
湯気の向こうから、女性の笑い声が聞こえてくる。
チャットが突如、活発になる。
『もうすぐ、記念撮影です』
『私も写真に、写りたい』
『素敵な思い出に』
『笑顔で、永遠に』
『この世とあの世の、境目を超えて』
翔真は立ち止まり、固定カメラの映像を確認する。大浴場のカメラに、異変が映っていた。
「これは……」
湯気の向こうに、浴衣姿の人影が写り込んでいる。しかし、壁や柱が人影を透かして見える。まるでフィルムを重ねたように、過去の映像が現実に重なっているかのようだ。
大浴場に入ると、異様な光景が広がっていた。腐食した浴槽には、濁った湯が満ちている。
「ありえない。配管は完全に止まっているはずなのに」
水面に近づくと、さらなる異変が起きた。湯気の中から人影が次々と現れ始めたのだ。着物姿の女将、浴衣の客たち、そして子供連れの家族。しかし、その姿は半透明で、まるで古いフィルムを上映しているかのよう。
浴槽を覗き込むと、水面に映る景色が歪み始める。そこには、まるで別世界が広がっていた。
「これは、1972年の……」
水面に映るのは、当時の菊乃湯の姿。賑わう宴会場、笑顔の客たち、活気に満ちた仲居たち。しかしその表情が、徐々に、そして確実に歪んでいく。
人々の顔が、まるで蝋で作られた人形のように不自然に。笑顔は甘美な恍惚感に満ち、目は焦点を失っていく。遊園地や廃校で見た、あの異形の表情へと変貌していくのだ。
チャットが狂ったように流れる。
『もうすぐ、あの世へ』
『永遠の、思い出を』
『みんなで、笑顔で』
『写真に、残そう』
『境界が、溶けていく』
館内に三味線の音が鳴り響く。しかし今度は、まるで弦が切れたような不協和音。その調べは次第に歪み、人の悲鳴のようにも聞こえ始める。
翔真が振り返ると、廊下に浴衣姿の人々が立ち並んでいた。その顔は、これまでに見た笑顔と同じ。歓喜に満ちた、しかし明らかに人間離れした表情。
「やはり、全ては繋がっている」
記憶が蘇る。5年前、テレビ局ADとして心霊特集を撮影していた時の映像。廃病院で見つかった古い写真。そこにも、同じ歪んだ笑顔が写っていた。そして妹が失踪した日の、最後の写真も。
宴会場から、写真撮影を告げる声が響く。人々は一斉にその方向へ動き始める。その足音は、まるで水の中を歩くような、不自然な響きを立てていた。
一着の浴衣が、翔真の足元に置かれている。
「さあ、あなたも記念写真に」
声の主は美咲だった。制服姿のまま、不自然な笑顔を浮かべている。
「どうして、君がここに」
「だって、私たち、みんな写真に写るの。永遠の思い出として。この世とあの世の境界を超えて──ねえ、お姉さんも、そうだったでしょう?」
翔真の瞳が見開かれる。妹のことを、なぜ。
背後の水面が大きく波打つ。浴槽から、無数の手が伸びてくる。その先には、歪んだ笑顔が浮かんでいる。
「ほら、早く着替えて。記念写真の時間です」
チャットに最後のコメントが流れる。
『さあ、最高の笑顔で──永遠の記念写真を』
カメラは全てを記録し続ける。その映像は、これまでに類を見ない鮮明さで、異界の光景を捉えていた。
スマートフォンに新たなメッセージが届く。今度は動画が添付されていた。
『結城さん、真相まであと一歩。
記録されるべきは、永遠の笑顔。
この世とあの世の境界を溶かす、至高の瞬間。
添付の動画をご覧ください。
貴方の妹さんが、最後に見せた笑顔です。
あの病院で、私が撮影した特別な一枚。
次は地下鉄廃線跡で。
そこで、全ての謎が繋がります』
差出人は、やはり玖堂レイ。
再生ボタンに触れる指が、微かに震えていた。
(第3話 完)
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