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第8章 第1話「白い糸」
しおりを挟む「触れてはいけない。決して、糸に触れてはいけない——」
モニター越しに語りかける女性研究者の声には、切迫した緊張感が滲んでいた。結城翔真は、視聴者からのリクエストで訪れたこの廃工場に、何か並々ならぬものを感じていた。
旧・東光紡績工場。1985年の閉鎖以来、誰も近づかなくなった場所だ。工場正門には、「危険・立入禁止」の看板が掛けられている。しかし、奇妙なことに、その看板は新しく、つい最近取り付けられたものだった。
「みなさん、こんばんは。怪異蒐集録の結城です。今回は、視聴者のMさんから情報提供いただいた廃工場、旧・東光紡績を訪れています」
カメラに向かって話しかける翔真の背後で、スタッフの山田が周囲を警戒するように見回している。いつもの心霊スポット取材とは、何かが違う。それは、事前取材で出会った田中美咲という繊維研究者の警告が、あまりにも具体的すぎたからだ。
「糸に触れると、あなたの体が糸を紡ぎ始めます。そして——その糸は、決して切れません」
その言葉が、翔真の頭から離れなかった。
工場の正門をくぐると、異様な静けさが漂っていた。夜の工場に虫の音一つしないのは不自然だった。建物の輪郭が月明かりに浮かび上がる。四階建ての巨大な建造物は、まるで息を潜めているかのようだった。
「カメラの具合は?」翔真が山田に確認する。
「問題ありません。でも……なんか、レンズが曇りやすいです」
確かに、カメラのレンズには薄い膜がかかったように見える。拭き取っても、すぐに曇ってしまう。まるで、工場全体が湿った空気に包まれているかのようだった。
工場の入り口は、施錠されていなかった。ドアを開けると、かび臭い空気が押し寄せてきた。床には、白い糸くずのようなものが散乱している。山田がライトを照らすと、その糸くずが風もないのに、かすかに揺れた。
「これ、なんか……生きてるみたいですね」山田の声が震える。
翔真は懐中電灯で周囲を照らした。工場内部は、まるで時が止まったかのようだった。紡績機が整然と並び、作業台には半端な作業の痕跡が残されている。まるで、従業員たちが突然、工場から消えてしまったかのようだった。
「1985年8月15日。この工場で、原因不明の事故が起きました」翔真がカメラに向かって解説を始める。「作業中の従業員15名が忽然と姿を消し、以来、工場は操業を停止。その後、複数の従業員が白い糸に覆われた姿で発見されましたが——」
その時、工場の奥から、かすかな機械音が聞こえた。紡績機が動いているような音だ。しかし、この工場の電源は40年前に完全に切られているはずだった。
「山田さん、音がする方向に——」
言いかけた翔真の言葉が途切れた。山田の右手が、作業台に触れた瞬間、白い糸が指先から伸び始めたのだ。
「え? あ、あの、結城さん……これ……」
山田の声が上ずる。白い糸は、まるで生きているかのように指先から伸び続け、作業台に絡みついていく。そして、その糸は次第に太さを増していった。
「動かない! 手が、手が動かない!」山田が叫ぶ。
翔真は急いで山田の元へ駆け寄ろうとしたが、田中美咲の警告が頭をよぎった。「決して、糸に触れてはいけない」
白い糸は、今や山田の手首まで覆い始めていた。その様子は、まるで蜘蛛の糸が獲物を包み込んでいくかのようだ。しかし、これは蜘蛛の仕業ではない。糸は、確かに山田の体内から生み出されているのだ。
「カメラ! カメラを回し続けてください!」翔真は即座に判断を下した。これは、記録しなければならない。たとえ、それが恐ろしい結末を迎えようとも。
工場内の湿度が急激に上昇する。まるで、巨大な紡績機が稼働を始めたかのような熱気が充満していく。そして、山田の悲鳴が工場内に響き渡った。
「あ、熱い! 中から、中から糸が……!」
翔真のカメラが捉えたのは、山田の皮膚の内側から、白い糸が次々と突き出てくる様子だった。それは、人間の体が、文字通り糸を紡ぎ始めた瞬間だった。
「持って、持っちゃいられません! 結城さん、助け……」
その時、工場の奥から、機械音が轟音となって響き渡った。まるで、40年前の事故が再現されようとしているかのように。
轟音が工場中に響き渡る中、翔真は急いで後退した。山田の体から伸びる白い糸が、まるで触手のように周囲に広がっていく。その先端は、紡績機や壁、床——あらゆるものに絡みつき、新たな糸を紡ぎ出していた。
「山田さん!」
叫び声は、機械音にかき消された。しかし、それは紡績機の音ではない。どこからともなく響く音は、むしろ人間の呻き声に近かった。まるで、工場そのものが呻いているかのように。
翔真は、まだカメラを回し続けていた。この状況を記録に残さなければならない。しかし、ファインダー越しに見える光景は、あまりにも非現実的だった。
山田の体は、今や白い繭のように糸に包まれている。その繭から無数の糸が伸び、天井や壁を這うように広がっていた。そして、恐ろしいことに、その糸は工場内の湿気を吸収するかのように、どんどん太くなっていく。
「これが、1985年の事故の真相……」
翔真は背筋が凍る思いだった。40年前、この工場で失踪した15名の従業員たち。彼らも同じように、糸を紡ぎ始めたのだろうか。
突然、ポケットの中で携帯が振動した。田中美咲からの着信だ。
「結城さん! まだ、大丈夫ですか?」
「田中さん、山田が……山田さんが糸を……」
「触れてしまったんですね」美咲の声が沈む。「でも、まだ間に合うかもしれません。山田さんの体から出ている糸は、まだ何色ですか?」
「白いです。純白の……」
「それなら希望があります。黒く変色する前なら、まだ元に戻せる可能性が」
その時、工場の壁を伝う糸が、ゆっくりと色を変え始めた。純白だった糸が、灰色に、そして漆黒へと変化していく。
「田中さん、糸が、糸が黒くなり始めました!」
「まずい! すぐにそこから——」
通話が途切れた。工場内の異変が、通信にも影響を及ぼし始めたようだ。
黒い糸は、まるで意思を持つかのように動き始めた。その先端が、ゆっくりと翔真に向かって伸びてくる。逃げなければ。しかし、足が竦んで動かない。
「くっ……!」
翔真は持っていたカメラを工場の出口付近に投げた。最悪の場合、せめて記録だけでも残さなければ。そして、山田の方へ向き直る。
「山田さん! 私が、なんとか……!」
その時、工場の入り口から、一筋の光が差し込んだ。
「危ない!」
女性の声と共に、何かが翔真の体に衝突した。転がるように床を転がる。そして、咄嗟に振り返ると、そこには田中美咲の姿があった。
「これを!」
彼女が投げてよこしたのは、小さな霧吹きだった。中には透明な液体が入っている。
「山田さんに、それを——」
説明が終わる前に、黒い糸が美咲の足首に絡みついた。彼女は悲鳴を上げることもなく、ただ翔真に向かって頷いた。
決断の時だ。翔真は霧吹きを握りしめ、山田の元へと走り出した。黒い糸が次々と伸びてくる。それをかわしながら、必死で距離を詰める。
そして——。
「山田さんっ!」
霧吹きの液体が、白い繭に向かって放たれた。すると、驚くべきことが起こった。液体がかかった部分から、糸が溶け始めたのだ。
「これは……」
「製糸工場で使う溶解液を、特殊な配合にしたものです」
美咲が苦しそうな声で説明する。「でも、時間との勝負。早く、山田さんを——」
翔真は躊躇なく、繭全体に液体を吹きかけた。すると、溶け落ちる糸の中から、山田の姿が現れ始めた。意識はあるようだが、ぐったりとしている。
「良かった……」
安堵の声が漏れた時、工場全体が軋むような音を立てた。天井や壁を覆っていた黒い糸が、一斉に動き出す。まるで、獲物を逃がすまいとするかのように。
「急いで! 出口まで!」
翔真は山田を担ぎ、美咲の手を引いて走り出した。黒い糸が追いすがる。床に落ちていたカメラを拾い、必死で出口を目指す。
そして——工場の外へ。月明かりの下、三人は倒れるように地面に転がった。
振り返ると、工場の窓という窓から、黒い糸が這い出してくる。しかし、不思議なことに、それは工場の敷地を超えることはなかった。まるで、目に見えない壁に阻まれているかのように。
「なぜ……」
「工場の範囲内でしか、活動できないんです」
美咲が呟いた。「1985年の事故以来、ずっと」
「田中さん、いったい、これは……」
「ここで話すのは危険です。まずは、安全な場所へ」
そう言って美咲は立ち上がった。「それに——次は、もっと危険な場所を調べなければなりません」
翔真は工場を最後に見やった。月明かりに照らされた建物は、今や黒い糸で覆われ、まるで巨大な繭のようになっていた。
そして、どこからともなく、紡績機の音が響いてくる。
まるで、次の獲物を待ち焦がれているかのように——。
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