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第8章 第3話「温度の罠」
しおりを挟む「ここで8名が凍死し、12名が重度の火傷を負いました。しかし——当日の温泉の温度は、通常と変わらなかったそうです」
温泉街の古い旅館「菊乃湯」の前で、翔真はカメラに向かって語りかけていた。2月の冷たい風が頬を撫でる。
「この事件については、田中さんから詳しい説明を」
カメラを向けると、田中美咲が一歩前に出た。彼女の手には、古い新聞の切り抜きが握られている。
「1972年2月14日の出来事です。当時、この温泉で20名の客が同時に温度異常に見舞われました。8名は、42度の温泉に入っていたにも関わらず、重度の凍傷で死亡。12名は同じ湯船で重度の火傷を」
その時、旅館の玄関から、小柄な老婆が姿を現した。菊乃湯の現オーナー、綾瀬ユキ子だ。
「よく来てくださいました」
ユキ子の声は、か細かった。
「実は、また始まったんです。あの異常が」
翔真は息を呑む。先日、視聴者から寄せられた情報。「温泉の温度が、触れる場所によって極端に変化する」という証言。まさか、50年前の事件が——。
「今回は、どんな状況でしょうか」
「はい。昨日の夕方から、お客様の間で噂になっていまして」
ユキ子は言葉を選びながら続ける。
「同じ湯船なのに、場所によって温度が全く違うと。冷たすぎる場所があったり、逆に熱すぎる場所が」
「計測は?」
美咲が質問を投げかける。
「温度計での確認は」
「それが不思議なんです」
ユキ子は首を振る。
「計測値は常に42度。でも、実際に入ると」
話の途中、旅館の中から悲鳴が響いた。
「!?」
三人は即座に旅館の中へ駆け込む。悲鳴は女性浴場の方から。しかし、その前に——男性用の浴場から、異様な寒気が漂ってきた。
「この寒さ……」
美咲が腕を擦る。
「まるで、冷凍庫の中のよう」
その時、女性浴場のドアが勢いよく開き、若い女性が飛び出してきた。彼女の右腕には、大きな火傷の痕。しかし、左腕には、凍傷のような青黒い痕が残されていた。
「お客様!」
ユキ子が駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
「湯が、湯が変だ!」
女性は混乱した様子で叫ぶ。
「右手は火傷するほど熱くて、左手は凍えるように冷たくて」
医療班を呼ぶ間もなく、今度は男性浴場から悲鳴が響いた。
「調べます!」
翔真が男性浴場に向かおうとした時、美咲が腕を掴んだ。
「待って! その前に——これを」
彼女が差し出したのは、小さな温度計。しかし、通常のものとは違う。
「特殊な温度感知器です。人の体温の変化を記録できる」
翔真は頷き、装置を受け取る。そして、男性浴場のドアを開けた。
中から押し寄せる空気は、まるで極寒の地のよう。湯気が立ち込めているはずの浴場内が、完全に白く凍りついている。
「これは……」
脱衣所の温度計は、42度を示したまま。しかし、肌で感じる寒さは、明らかにマイナス20度を下回っている。
浴場内に足を踏み入れると、床には薄い霜が広がっていた。湯船からは、違和感のある湯気が立ち上る。白い湯気なのに、見ていると寒気が走る。
「誰か、いますか!?」
翔真の声が、凍てついた空間に響く。
返事はない。しかし、湯船の向こうで、何かが動いた。
「!」
慎重に近づいていく。湯船の縁には、凍りついた手形が残されている。まるで、誰かが必死に這い上がろうとしたかのように。
「あ……」
湯船の中で、人影を見つけた瞬間、翔真の背筋が凍る。若い男性が、完全に凍りついた状態で沈んでいる。その表情には、想像を絶する恐怖の色が刻まれていた。
しかし——その男性の下半身は、まるで熱湯で茹でられたかのように、赤く腫れ上がっていた。
「急いで! 救助を!」
翔真の叫び声が、凍てついた浴場内に響き渡る。しかし、その声は途中で途切れた。湯船から立ち上る白い湯気が、突然、動きを変えたのだ。
まるで生きているかのように、湯気が翔真に向かって伸びてくる。
「結城さん! そこから離れて!」
廊下から、美咲の警告が響く。
しかし、既に遅かった。湯気が翔真の右手に触れた瞬間、激しい痛みが走る。見ると、手の平が真っ赤に腫れ上がっていた。
「くっ!」
咄嗟に左手で払いのける。今度は、凍傷のような痛み。両手が、正反対の温度で蝕まれていく。
「これが、50年前の——」
温度感知器が警告音を鳴らし始めた。画面には信じられない数値が表示されている。右手周辺が120度、左手周辺がマイナス40度。しかし、浴場の温度計は、依然として42度を示したままだ。
「結城さん! これを!」
美咲が何かを投げ入れてきた。小さな装置。先日の霧吹きに似ている。
「温度を、安定させる装置です! 早く!」
翔真は痛む手でスイッチを押し込んだ。すると、装置から青白い光が放たれ、浴場内に広がっていく。
その瞬間。
「あぁ……」
年老いた女性の声が、どこからともなく響いた。湯気の中から、一人の女性の姿が浮かび上がる。
「ユキ子さん!?」
確かに、菊乃湯のオーナーだ。しかし、若い。50年前と同じ姿の。
「あの日、私は、ここで」
彼女の声が、湯気と共に揺らめく。
「温度の感覚を、奪われました」
突然、浴場全体が大きく軋む。天井から、氷柱が落下し始める。そして同時に、床からは熱湯が噴き出す。
「結城さん、危ない!」
美咲が浴場に飛び込んできた。彼女の手には、もう一つの装置が。
「これ以上、記憶が具現化すると」
「記憶、ですか?」
「ええ。50年前の事故の記憶が、温度として残されている。そして、それが今、目覚め始めた」
若きユキ子の姿が、ゆっくりと近づいてくる。
「あの日、私は見てしまった。温泉の中で蠢くモノを」
その時、湯船の中で、何かが大きく動いた。湯面が激しく波打ち、そこから、得体の知れない影が浮かび上がる。
「あれ、です」
ユキ子の声が震える。
「温度を、食べるモノ」
影は、まるで巨大なウナギのような形をしていた。しかし、その体は半透明で、中には無数の温度計のようなものが埋め込まれている。
「これが、菊乃湯に棲みついた怪異」
美咲が説明する。
「温度の感覚を餌とする存在。50年前の事故も、このモノが」
影が、うねるように動く。その動きに合わせ、浴場内の温度が激しく乱れ始めた。熱と寒気が、渦を巻くように交錯する。
「でも、なぜ今」
「きっと、私のせいです」
現在のユキ子が、入り口から声をかける。
「旅館を、息子に譲ろうとした時から、おかしくなり始めて」
「譲る?」
「ええ。50年間、私が抑え込んでいた『何か』が、解放されようとしている」
その言葉が終わるか否か、影が一気に三人に向かって襲いかかってきた。
「装置を!」
美咲の声に反応し、翔真は持っていた装置を影に向けて放り投げる。青白い光が、影を包み込む。
「あの日、私がしなかった事を」
若きユキ子の姿が、現在のユキ子と重なる。
「今、あなたたちの手で」
光が浴場内を埋め尽くす。影は悲鳴のような音を上げ、そして——湯船の中へと消えていった。
静寂が訪れる。
浴場内の温度が、ゆっくりと正常に戻っていく。湯船の中の男性も、無事に救出された。体の火傷と凍傷は、不思議なことに跡形もない。
「これで」
美咲が安堵の表情を浮かべる。と、その時。
「いいえ」
ユキ子が首を振る。
「これは、始まりです」
彼女は、一枚の古い写真を差し出した。そこには、菊乃湯と同じような建物が、いくつも写っている。
「この温泉街には、かつて七つの温泉が」
「まさか」
「ええ。このモノは、きっと他の場所でも」
翔真は、写真に写る建物群を見つめた。温度の怪異は、まだ終わっていない。むしろ、これは連鎖の始まりなのかもしれない。
「田中さん、これから」
「ええ、調査しましょう」
美咲は頷く。
「他の温泉で、何が起きているのか」
窓の外では、夕暮れの空が赤く染まっていた。その色が、まるで熱を帯びているように見えた。
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