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第2話「奇妙な住人たち」
しおりを挟む老婆は真っ赤な爪先で下唇をなぞりながら、受付カウンターから一枚の用紙を取り出した。それは意外なほど普通の入居申込書だった。
「入居審査をするわ。名前、年齢、職歴を書きなさい」
零は躊躇いながらペンを取った。職歴の欄で手が止まる。最近のバイトクビや、大学中退の経歴を書くべきか迷ったが、唯一誇れる経験を記入した。
「剣道…全国チャンピオン?」
老婆の目が妖しく輝いた。
「面白いわね。剣の心得がある人間は久しぶり」
老婆は申込書をろくに見もせず、引き出しにしまい込んだ。
「合格よ。今日から30階の3002号室」
審査の簡単さに零は戸惑った。信用調査も、収入証明の提示も求められない。常識に反していた。
老婆は血のように赤い金属製の鍵を零に手渡した。冷たく、妙に重い感触が掌に残る。
「21時までに部屋に戻るのが賢明よ」
その言葉の意味を問う間もなく、老婆は奥の暗がりへと消えていった。
---
エレベーターに乗り込むと、零は自分の疲れた姿を鏡に映した。髪は雨でぬれそぼち、目の下にはクマができていた。深いため息をつきながら「30」のボタンを押す。
エレベーターが上昇を始めた瞬間、照明が一瞬だけ点滅した。その刹那、鏡に映ったのは自分ではない男の顔だった。痩せこけた頬、くぼんだ目窩、そして血の気のない青白い肌。零が驚いて目をこすると、鏡には再び自分の姿だけが映っていた。
「疲れてるのか…」
30階に到着し、エレベーターから出ると、廊下に漂う異様な静けさに零は息を飲んだ。マンションの最上階なのに、人の気配が全くない。壁紙には黒ずんだシミが無数に広がり、天井の照明は微かに明滅していた。
「3002号室…」
部屋番号を確認しながら廊下を進むと、壁に触れた指先が湿り気を感じた。見ると、黒いシミから何かが滲み出ていた。
「なんだこれ…」
気味悪く思いながらも、零は3002号室の前に辿り着いた。赤い鍵を差し込むと、ドアは重々しく開いた。
部屋は予想以上に広かった。ワンルームながらも十五畳ほどはあり、ベッド、机、椅子、テレビ、キッチン設備と一通りの家具が揃っていた。しかし、すべてが古びており、使われなくなって久しいことがわかる。空気中には埃と湿気の混じった異臭が漂っていた。
「まあ、家賃タダなら文句ないか…」
零はボストンバッグを床に置き、竹刀の箱をベッドの横に大事そうに置いた。一通り部屋を確認し、シャワーを浴びようとバスルームへ向かった。しかし蛇口をひねると、最初に出てきた水は錆びた茶色で、異臭を放っていた。しばらく流し続けるとようやく透明な水が出てきたが、それでも微かに金属臭がした。
「まあ、仕方ない」
零は簡単にシャワーを済ませ、持ってきた数少ない着替えの中から寝間着を取り出した。時計を見ると20時30分。疲れた体を横たえようとしたその時、突然ドアをノックする音が響いた。
「誰だ…?」
誰も来るはずがない。零は警戒しながらドアに近づいた。覗き窓から見ると、廊下に立っていたのは若い女性だった。
ドアを開けると、そこには凛とした佇まいの美女が立っていた。二十代半ば、すらりとした長身に、鋭い眼差し。黒髪は肩で切り揃えられ、白いブラウスとスラックスという出で立ちは、どこか冷たさすら感じさせた。
「新入り?」
女性の声は低く、凜とした響きを持っていた。
「ああ…今日入居した鬼堂零だが」
「氷室凛よ。生きたいなら話があるわ」
その言葉に零は眉をひそめた。
「生きたい…?」
「無駄話をしている時間はないわ。共用ラウンジに来て」
そう言い残すと、氷室凛と名乗った女性は踵を返し、廊下の奥へと歩き始めた。零は困惑しながらも、部屋のドアを閉め、彼女の後を追った。
---
30階の共用ラウンジは意外にも手入れが行き届いていた。清潔なソファセット、大型テレビ、キッチン設備が整い、マンションの他の部分から受ける印象とは異なっていた。
そこには既に数人の人間が集まっていた。
「こいつが新入りか」
低い声で話したのは、筋骨隆々とした中年男性だった。短く刈り上げた頭髪と鋭い眼光、そして姿勢の良さから、軍人上がりであることが容易に想像できた。
「九条静馬だ。元自衛隊特殊部隊所属」
「鬼堂零です」
零が挨拶をすると、次に痩せこけた青年が黙々とノートパソコンを打ちながら名乗った。
「月島タクミ。ITエンジニア…一応」
二十歳そこそこに見える月島は、長い前髪で目元を隠し、爪を噛む癖があるようだった。
「榊原だ。よろしく頼むよ」
白髪の老紳士が微笑みながら握手を求めてきた。六十代半ばといったところか、品のある物腰が印象的だった。
ラウンジには他にも数人の住人がいたが、彼らは零に関心を示さず、それぞれ本を読んだり、窓の外を眺めたりしていた。
「座りなさい」
凛がソファを指し示し、零は言われるままに腰を下ろした。
「ここに来た理由は?」と凛が尋ねる。
「家賃が払えなくて追い出されて…友人から紹介されて」
零が答えると、九条と月島が意味ありげな視線を交わした。
「みんな似たようなもんだ」と九条が言った。「俺は除隊後に借金を抱えて。月島は引きこもりで実家追放。榊原さんは詐欺に遭って財産を失った」
「要するに、行き場のない人間が集まる場所ってわけね」と凛が補足した。
零は周囲を見回した。確かに、ここにいる人々の目には共通して何かを失った虚ろさがあった。しかし、それ以上に彼らの緊張感が気になった。全員が時折時計を確認し、落ち着きのない様子だった。
「質問がある」と零は切り出した。「なぜ家賃がタダなんだ?どこかに罠があるはずだ」
その問いに、部屋の空気が凍りついた。住人たちの表情が一様に強張る。
「夜が来れば分かる」と九条が低い声で答えた。
「21時以降は絶対に部屋から出るな」と凛が厳しく言い放った。「どんな音が聞こえても、誰かが助けを求めても、ドアを開けてはいけない」
「何が起きるんだ?」と零が問うと、月島が神経質にキーボードを叩きながら答えた。
「『夜の顔』が現れる…このマンションの本当の姿がね」
老紳士の榊原が懐中時計を取り出し、カチリと音を立てて開いた。
「あと15分だ。皆、自室に戻った方がいい」
住人たちは慌ただしく立ち上がり、ラウンジを後にし始めた。零は混乱しながらも、流れに従って立ち上がった。
「待って」
凛が零の腕を掴んだ。彼女の手は氷のように冷たかった。
「守るものはある?」
「え?」
「大切にしているもの。あなたの心の拠り所になるようなもの」
零は竹刀のことを思い出した。
「ある。高校時代の竹刀だが…」
「それを肌身離さず持っていなさい。いざという時、それがあなたを守るかもしれない」
凛の真剣な眼差しに、零は言葉を失った。
「もう行きなさい。21時まであと10分よ」
零は自室へと急いだ。廊下の照明は先ほどより暗くなった気がした。黒いシミはさらに広がり、壁を伝って床にまで達している。
部屋に戻り、ドアをロックした零は、窓の外を見た。月明かりに照らされた森の光景は、不思議と美しかった。しかし、その静けさの中に何か異質なものが潜んでいる予感がした。
時計は20時45分を指していた。
零は竹刀の箱を開け、中から大切に手入れされた竹刀を取り出した。かつて全国大会で優勝した時に使っていたもので、柄には「一刀両断」と彫られていた。
「守るものか…」
零が呟いた瞬間、部屋の電灯が突然明滅した。そして、廊下から奇妙な音が聞こえ始めた。
何かが床を引きずって移動する音。そして、かすかな呻き声。
零は竹刀を握りしめ、ドアを見つめた。時計の針が21時に近づいていた。
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