怪異住居 ゼロ円の家―タダほど怖いものはない

ソコニ

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第11話「天井から伸びる手」

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救出作戦は失敗に終わった。だが零たちに休む間もなく、再び28階への挑戦が始まろうとしていた。

前回の恐怖が鮮明に蘇る。28階の天井全体を覆い尽くす無数の腕。それらは全て人間の腕だったが、既に人のものとは言えない状態に変容していた。どの手も腐敗が進み、皮膚は青紫色に変色し、所々で剥がれ落ち、下からは黄ばんだ骨や赤黒い筋肉が露出していた。さらに恐ろしいことに、手の一部は赤く腫れ上がり、指の間や関節から黄緑色の膿が滴り落ちていた。その膿が床に落ちると、微かな煙を立て、腐食するような音を立てた。

「行くか?」

30階のラウンジで、静馬が零に小声で尋ねた。彼らを含めた5人—零、凛、静馬、蓮、そして住人の一人である田村—は再び28階に向かう準備をしていた。

「ああ、行くしかない」

零の返答は静かだったが、確固たる決意が籠っていた。前回の救出作戦で見た光景は、彼の心に深い恐怖の傷を残していた。しかし同時に、もう一度挑戦しなければならないという使命感も育んでいた。

「蓮、大丈夫か?」凛が心配そうに蓮を見た。

蓮は青白い顔で頷いた。彼女は前回の救出作戦から立ち直ったとは言い難かったが、「仲間のために」と再び28階に向かうことを強く希望していた。

「私は…大丈夫です。案内できます」

5人はエレベーターに乗り込んだ。誰も声を発しなかったが、全員の緊張は空気として充満していた。零はポケットの銀の鈴に手を当て、もう片方の手には封魔竹刀を握りしめていた。凛はグローブを調整し、静馬は軍用ナイフの刃を確認していた。

「28」のボタンを押すと、エレベーターはゆっくりと下降を始めた。

「作戦を確認する」静馬が緊張した面持ちで言った。「核を見つけ、それを破壊する。まず中央ホールを目指す。前回の情報から、核は天井の中央にあると推測される」

「前回より詳しいマップを作ったわ」凛が小さな図面を取り出した。「エレベーターから中央ホールまでの最短ルートと、非常時の脱出経路」

全員が頷いた。しかしその瞬間、エレベーターが大きく揺れ、一瞬停止した。天井から何かが這うような音がする。

「来た…!」

零が上を見上げると、エレベーターの天井部分が波打ち、何かが中に入ろうとしているようだった。

「焦るな、まだ28階じゃない」静馬が制した。「怪異は階を超えられない」

そう言いながらも、彼の表情には不安が浮かんでいた。前回、零たちが遭遇した時点では、既に怪異が活動を始めていた。今回も同様に、28階に着く前から怪異の気配を感じるのは不吉な兆候だった。

到着を告げるベルが鳴り、エレベーターが停止した。ドアが開く前、零は深く息を吸い込んだ。

「いくぞ」

ドアが開くと、そこには前回と同様の恐怖が待ち構えていた。28階の廊下は薄暗く、空気は重く湿っていた。天井は通常より高く設計されており、そこには無数の腕が蠢いていた。

「これが…天井から生える手の怪異…」

零の呟きに、全員が息を呑んだ。幾百もの手が天井全体を覆い尽くし、それぞれが独立して動き、何かを掴もうとしているかのように指を曲げたり伸ばしたりしていた。

「前回より…数が増えてる」静馬の声が震えた。

その通りだった。前回見た時よりも明らかに手の数が増えており、より密集していた。まるで天井一面が生きた腕の絨毯で覆われているようだった。

「あの時の…」

蓮が震える指で指し示した先には、前回の救出作戦で犠牲になった男性が飲み込まれた場所があった。天井の一部が膨らみ、人の形のように盛り上がっていた。恐らくそれが、天井に飲み込まれた犠牲者の姿だろう。

「気をつけろ」静馬が囁いた。「音を立てるな」

5人は慎重に廊下を進んだ。天井の手は彼らに気づいていないようだったが、時折激しく痙攣し、何かを感知しようとしているように見えた。

中央ホールの扉まであと数メートルというところで、突然天井の手が一斉に動き始めた。

「見つかった!」

無数の手が零たちに向かって伸び、彼らを掴もうとする。零は咄嗟に封魔竹刀を振り上げ、最も近い手を切り払った。切断された手からは黒い血が噴出し、腐敗した肉の腐臭が辺りに広がった。

「ホールへ!急げ!」

静馬の指示で5人は走り出した。だが、天井からの手が次々と降りてきて彼らの行く手を阻む。凛のグローブが赤く光り、彼女の蹴りが複数の手を吹き飛ばした。

ホールの扉に辿り着き、中に飛び込むと、そこはさらに恐ろしい光景だった。前回より広く感じられるホールの天井には、より多くの腕が集中しており、その数は千を超えていた。

「何だあれは…」

田村が指差した先には、前回の救出対象だった男性が天井に完全に埋め込まれ、下半身だけがわずかに突き出していた。男性の腹部は裂け、内臓が垂れ下がっていた。

「健太…」蓮の声が震えた。

その瞬間、男性の体が激しく痙攣し始めた。「助け…」という弱々しい声が聞こえたかと思うと、男性の体が天井にさらに引き込まれ、内臓が飛び散る絶叫と共に姿を消した。

「逃げろ!」

静馬の叫びも虚しく、天井から無数の手が一斉に降りてきた。5人は散り散りになり、手の猛攻から逃れようとする。

零は封魔竹刀を振るい、次々と伸びてくる手を切り裂いた。斬られた手からは黒い血と黄色い膿が噴出し、床は見る間に血の海と化した。

「田村!後ろだ!」

零の警告が遅れ、田村の肩に一本の手が掴みかかった。彼は悲鳴を上げながら振り払おうとしたが、次々と新たな手が彼の体を掴んでいく。

「助けて!」

田村は必死に抵抗したが、十数本の手に全身を掴まれ、徐々に天井へと引きずり上げられていった。

「田村!」

零は駆け寄り、手を切り裂こうとしたが、田村は既に天井近くまで引き上げられていた。恐怖に歪んだ田村の顔。彼の体が天井に接したとき、恐ろしい光景が広がった。

天井の表面が波打ち、まるで生きた肉のように田村の体を包み込み始めた。

「やめろ!離せ!」

田村の悲鳴が響き渡る中、彼の体は徐々に天井に埋め込まれていった。足、腰、胸と、次第に飲み込まれていく。天井との境界で、彼の肌が裂け、血が吹き出した。

最も恐ろしい瞬間が訪れた。骨の砕ける鈍い音と共に、天井に半分埋め込まれた田村の下半身が引きちぎられたのだ。

「ぎゃああああ!」

絶叫と共に、大量の血と内臓が零たちに降り注いだ。引きちぎられた下半身が床に落下し、大量の血が四方に飛び散った。

「逃げるぞ!」

静馬が叫び、残りの4人はエレベーターに向かって走り出した。だが、廊下に出ると、そこも既に天井一面に手が広がっていた。手は壁を伝って下降し、床にまで達しようとしていた。

「囲まれた!」

凛の声に、全員が足を止めた。エレベーターへの道は完全に塞がれていた。

「別の出口を探せ!」

4人は反対方向に走り出したが、そこも手によって塞がれていく。どこを見ても、逃げ場はなかった。絶体絶命の状況。

突然、蓮が立ち止まった。

「手は天井の中心から生えている。核がある」

彼女の目は虚ろだったが、声には確信があった。

「中心…?」

零がホールを見回すと、確かに手は天井の中央部から放射状に広がっているように見えた。その中心には、何か光るものがあるように思えた。

「核を壊せば…」

零は決断した。「俺が囮になる。静馬さんと凛さんは蓮を守って」

「馬鹿な!」静馬が制止しようとしたが、零は既に走り出していた。

「生きて戻れよ!」凛の叫びが背後から聞こえた。

零は銀の鈴と封魔竹刀を手に、中央ホールに戻った。そこでは天井の手がより激しく動き、彼を捕まえようと伸びてきた。

零は鈴を鳴らし、一時的に手を退けながら、ホールの中央に向かって走った。天井に近づくために、彼は倒れた棚や机を積み上げて即席の足場を作った。

「来い!」

零は手を挑発するように叫んだ。無数の手が彼に向かって伸びてくるが、零はそれらをかわしながら進む。時には竹刀で切り払い、時には鈴の力で一瞬怯ませる。

その動きは剣道の型を基にしていたが、より流動的で予測不能なものだった。零は子供の頃から剣道一筋で生きてきたが、ここではそれだけではない何かを見せていた。まるで本能的に、あるいは武器そのものに導かれるかのように動く零。

廊下から様子を窺っていた静馬は驚愕した。

「あいつ…剣道だけじゃない」

確かに零の動きは、単なる剣道の技術を超えていた。それは生存への本能と、守護武器との一体化が生み出した新たな力だった。

零は次々と手をかわし、時に切り裂きながら、天井の中心に近づいていく。無数の手が彼を取り囲むが、どれも彼を捕らえることができない。

彼の周りでは血の雨が降り続け、切断された手が床に落ちては痙攣していた。零の制服は血で真っ赤に染まり、顔にも黒い血が飛び散っていた。

ついに彼は天井の中心近くまで到達した。そこには予想通り、何か結晶のようなものが埋め込まれていた。それが「核」に違いなかった。

「見つけた!」

零は封魔竹刀を高く掲げ、核に向かって振り下ろそうとした。だが、その瞬間—

天井全体が波打ち、これまで以上の数の手が零に向かって伸びてきた。鈴を鳴らしても、もはや全てを退けるのは不可能だった。

「くっ!」

零の腕、足、胴体に次々と手が絡みつき、彼を引きずり上げようとする。零は必死に抵抗するが、手の力は強く、徐々に持ち上げられていく。

「まだだ…!」

零は自由な右腕で封魔竹刀を握りしめ、核に向かって投げた。竹刀は勢いよく飛び、核に命中した。するとその瞬間—

「うおおおおっ!」

零の雄叫びと共に、封魔竹刀から眩い光が放たれた。核が砕け散ると同時に、天井全体が大きく揺れ始めた。

「来るぞ!」

静馬の警告通り、天井の手は悲鳴を上げ、痙攣しながら消えていった。零を掴んでいた手も力を失い、彼は床に落下した。

「やった…」

零はよろよろと立ち上がった。ホール全体が振動し、天井から埃と血の雨が降り注ぐ。周囲の手は既に消え、残ったのは切断された腕と黒い血だけだった。

「零!」

廊下から凛の声がした。彼女たちは無事だったようだ。零は安堵のため息をついた。

しかし安心もつかの間、天井から巨大な何かが落下してきた。

「うわっ!」

零は咄嗟に身をかわしたが、落下物は彼の足元に激突した。それは人間の上半身だった。田村だ。

「田村…」

しかし彼は既に息絶えていた。天井で何か恐ろしい変化を被ったのか、皮膚は青白く、目は飛び出し、口からは黒い泡が溢れていた。

「零!無事か?」

凛と静馬、蓮が駆け寄ってきた。彼らも血まみれだったが、大きな怪我はないようだった。

「ああ、なんとか…」

零は疲れ切った様子で頷いた。彼の全身は傷だらけで、制服は裂け、血に塗れていた。

「核を破壊したのか?」静馬が尋ねた。

「ああ、終わったはずだ」

しかし、その言葉とは裏腹に、ホールはまだ振動を続けていた。何かが崩れるような音が響き、床にひびが入り始めた。

「ここも崩壊する!早く出るぞ!」

4人は急いでエレベーターへと向かった。廊下を走る途中、天井から何かが落下してきた。見上げると、天井に埋め込まれていた人々の体が次々と落ちてきていた。

「避けろ!」

彼らは落下物をかわしながら走った。エレベーターに辿り着き、急いで「30」のボタンを押す。ドアが閉まり、上昇が始まると、全員が安堵のため息をついた。

「生きて戻れるなんて…」蓮の声は震えていた。

「零のおかげだ」静馬が肩を叩いた。「見事だった」

零はただ疲れた笑顔を浮かべた。しかし彼の喜びは長くは続かなかった。

「静馬さん!背中が…」

凛の声に、全員が振り向いた。静馬の背中から血が滲み出していた。

「くっ…」

静馬は苦しそうに壁に寄りかかった。「気づかなかった…バケモノに背中を掴まれたらしい…」

零が静馬の制服を脱がせると、そこには恐ろしい光景があった。彼の背中には五本の深い爪痕があり、皮膚は引き裂かれ、肉が露出していた。傷口の周りは既に黒ずみ始めていた。

「毒か…」零は呟いた。「急いで手当てを」

エレベーターが30階に到着すると、待機していた住人たちが彼らを迎えた。静馬は急いで医務室に運ばれ、応急処置が施された。

「こんな傷、初めて見る…」凛は戸惑いながら包帯を巻いた。

「治るのか?」零は不安げに尋ねた。

「わからない」凛の表情は暗かった。「でもあんたは既に一度、影の毒を浄化したわ」

零は守護鈴を握りしめた。前回、静馬の傷を癒したのは鈴の力だった。今回も同じように彼を救えるのだろうか。

「絶対に治す」

零の決意の言葉が、静かに医務室に響いた。

28階の封印は成功したが、その代償は大きかった。田村の命、そして静馬の重傷。零は階長としての重責をさらに強く感じていた。

しかし、これで一つ前進したことは確かだった。このまま下層へと進めば、いずれマンションの秘密に辿り着けるはずだ。

零は窓の外を見上げた。見えない月が照らす夜空。そこには希望があるのだろうか。彼はそう思いながら、再び守護鈴を握りしめた。
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