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第1話:死神の影、執事に転生す
しおりを挟む鮮血が夜の闇に溶け込む。
「これが最後だ」
男はそう呟いた。黒く染め上げた髪と、漆黒のスーツに身を包んだ彼の姿は、今宵も闇に完璧に同化していた。
クロヴィス・マーシュ——世界の裏社会では「死神の影」として恐れられる暗殺者。彼の手にかかった標的は百を超え、その全てが完璧な暗殺と記録されていた。痕跡なし。証拠なし。まるで影のように現れ、影のように消える——それがクロヴィスの仕事だった。
今夜の標的は世界的な軍需企業の会長、ヴィクター・ハウエル。彼の死は、新たな世界紛争の引き金となるはずだった。依頼主の顔も知らない。ただ、莫大な報酬と引き換えに、一つの命を刈り取る。それがクロヴィスの生きる道だった。
「セキュリティシステム、無効化完了。警備員の巡回まであと3分」
クロヴィスは冷静に状況を分析しながら、高級マンションの最上階へと音もなく侵入した。ペントハウスの豪華な調度品が月明かりに照らされている。標的はマスターベッドルームで就寝中のはずだ。
「任務完了後は身を隠す。このキャリアにもようやく終止符を打てる」
彼は静かに寝室のドアを開けた。
ベッドには一人の男が横たわっていた。呼吸は規則正しく、深い眠りの中にある。クロヴィスは無音で近づき、特殊な薬品を浸した細い針を取り出した。心臓に直接打ち込めば、自然死に見せかけることができる。何百回と行ってきた完璧な手順。
針を構え、標的の上に静かに立つクロヴィス。しかし、その時だった。
「パパ……?」
小さな声が部屋の片隅から聞こえた。
クロヴィスは瞬時に身構えた。情報には誤りがあった。標的は一人ではなかった。
暗闇から現れたのは、幼い少女だった。金色の髪を持ち、青い瞳が月明かりに映える。およそ5、6歳だろうか。パジャマ姿で、ぬいぐるみを抱きしめている。
「あなたは誰?パパに何をするの?」
少女の瞳に恐怖の色が浮かび始めた。
クロヴィスの頭の中で警報が鳴り響く。目撃者の排除——それが鉄則だった。しかし、何かが違った。今までの彼なら躊躇なく処理していたはずだ。だが、この少女の青い瞳に映る恐怖が、彼の手を止めていた。
「逃げろ」
クロヴィスは自分でも信じられない言葉を口にしていた。
「パパを起こして、すぐに逃げるんだ」
少女は混乱した表情を浮かべたが、クロヴィスの真剣な目に何かを感じ取ったのか、急いでベッドに駆け寄った。
「パパ!起きて!悪い人がいるの!」
標的の男が跳ね起きる。クロヴィスは身を翻すが、すでに遅かった。隠されたアラームが作動し、マンション全体に警報が鳴り響いた。
「くっ!」
クロヴィスは咄嗟にバルコニーへ飛び出した。しかし、待ち構えていたかのように、ヘリコプターのサーチライトが彼を捉える。警備のエリート部隊がすでに建物を包囲していた。
「罠か…!」
銃声が夜空に響き、クロヴィスの胸を貫いた。彼は手すりから転落する体を支えきれず、地上へと落下していく。
「なぜ助けた…?」
最後の瞬間、彼の脳裏に浮かんだのは、あの少女の青い瞳だった。幼い命を守るという、生涯で初めての感情的判断。それがクロヴィス・マーシュ、「死神の影」の最後の行動となった。
◆◆◆
「……ヴィス様、クロヴィス様」
声が闇の向こうから聞こえてくる。
「朝食の準備が整いました」
クロヴィスは目を開いた。頭上には見慣れた天蓋付きベッドの装飾が広がっている。
「また、あの夢か」
彼は静かに呟いた。手のひらを見つめる。かつて無数の命を奪ったその手に、今は白い手袋が嵌められている。
「おはようございます、ウィリアム」
クロヴィスは淀みなく起き上がり、丁寧に挨拶を返した。
「本日のスケジュールを」
「はい。午前中はレティシア様の乗馬レッスン、その後、昼食を挟んで作法指導が午後2時から。夕刻には伯爵家からのお招きで、レティシア様と共にティーパーティーへの出席が予定されております」
クロヴィスは頷きながら、手早く身支度を整えた。黒の燕尾服に身を包み、銀のポケットウォッチを胸ポケットに収める。鏡に映る自分の姿は、完璧な執事そのものだった。
ルーベンシュタイン家——この国でも指折りの名門貴族の屋敷に、クロヴィスは執事として仕えている。
彼の記憶は鮮明だった。暗殺者として命を落とした瞬間の痛み、そして目覚めた時には、すでにこの世界の執事養成機関で学んでいたこと。前世の記憶を持ちながら、この世界で十数年を過ごしてきた。
「レティシア様は起きておられますか?」
「はい、すでに朝の支度を済ませ、書斎で読書をされております」
クロヴィスは微笑んだ。「さすがは我が令嬢」
クロヴィス・アーヴィン——それが今の彼の名前。ルーベンシュタイン家の令嬢、レティシア・フォン・ルーベンシュタインに仕える専属執事だ。彼女が幼い頃から彼が育て上げ、今や16歳の美しい令嬢へと成長していた。
クロヴィスはレティシアの書斎へと足を運んだ。ノックの後、丁寧にドアを開ける。
「レティシア様、おはようございます。朝食の準備が整いました」
窓際の椅子に座る少女が顔を上げた。金色の巻き毛が朝日に輝き、青い瞳が彼を見つめる。
「おはよう、クロヴィス」
その瞬間、クロヴィスの胸に懐かしい感覚が走った。彼女の青い瞳は、あの夜の少女を思い起こさせた。偶然か、あるいは運命か——彼は今、前世で命を懸けて守った少女に似た令嬢に仕えていた。
「本日は乗馬レッスンがございます。軽めの朝食をご用意いたしました」
「わかったわ。少し待って」
レティシアは優雅に本を閉じ、立ち上がった。絢爛たる朝のドレスに身を包み、気品溢れる佇まいで歩く彼女の姿は、まさに高貴な令嬢そのものだった。
クロヴィスは一歩下がり、彼女の後ろを静かに付いていく。彼の役割は完璧に果たす——それが執事としての誓いであり、前世での最後の選択への贖罪でもあった。
◆◆◆
「お嬢様、もう少し背筋を伸ばしてください」
乗馬レッスンは屋敷の広大な裏庭で行われていた。レティシアは純白の乗馬服に身を包み、気高く美しい姿で馬を操っていた。
クロヴィスは彼女の姿を見守りながら、常に周囲に注意を払っていた。警戒は暗殺者時代の習慣であり、今は主への忠誠として生かされていた。
「クロヴィス、見ていた?今のジャンプは完璧だったわ!」
レティシアは誇らしげに微笑み、クロヴィスに手を振った。彼は礼儀正しく頷き返す。
「素晴らしいものでした、お嬢様」
彼女は心から喜び、馬を駆って再び障害物に挑戦する。その姿に、クロヴィスは心の奥底で何かが温かくなるのを感じていた。
「守る喜び」
それは前世では知り得なかった感覚だった。人を殺めることしか知らなかった男が、今は一人の少女を守ることに生きがいを感じている。皮肉な運命だと、クロヴィスは時折思う。
しかし、そんな平穏な時間は突如として破られた。
「アーッ!」
レティシアの悲鳴が響き、クロヴィスの意識が一気に研ぎ澄まされる。彼女の乗る馬が突然暴れ出し、制御不能になっていた。
「レティシア様!」
クロヴィスは一瞬のうちに状況を把握した。馬の鞍の下に何かが—おそらく針か尖った物体が仕込まれていたのだろう。事故に見せかけた暗殺未遂。前世の彼なら使ったかもしれない手段だ。
彼の中で何かが切り替わった。
暗殺者時代の本能と技術が目覚め、クロヴィスの動きは一般の執事のそれとは明らかに違っていた。彼は驚異的な速さで馬の進路を計算し、木陰から飛び出して暴走する馬の前に立ちはだかった。
「フォールド!」
鋭い声と共に、彼は特殊な手の動きで馬の視界を操作する。暗殺者時代に覚えた動物制御技術だ。馬は混乱しながらも速度を落とし始めた。
クロヴィスは躊躇なく跳躍し、走る馬の背に飛び乗った。レティシアを片腕で確保しながら、もう一方の手で手綱を掴む。
「お嬢様、私にお任せください」
彼は冷静な声でそう告げ、見事に馬を制御した。馬はゆっくりと速度を落とし、やがて完全に静止した。
「クロヴィス…あなた…」
レティシアの青い瞳には驚きと安堵が混ざっていた。
クロヴィスは丁寧に彼女を馬から降ろし、すぐに鞍の下を調べた。案の定、細い針が仕込まれていた。彼はそれを素早く処理し、証拠を確保した。
「大丈夫ですか、お嬢様」
「ええ…ただ少し驚いただけよ」
彼女は動揺を隠そうとしたが、震える手がその恐怖を物語っていた。クロヴィスは静かに膝をつき、彼女の前でひざまずいた。
「レティシア様、私の誓いを改めて申し上げます」
彼は真摯な眼差しで彼女を見上げた。
「この命に代えても、あなたをお守りすることを誓います。どのような危険が訪れようとも、私はあなたの影となり、盾となります」
レティシアは黙ってクロヴィスを見つめ、やがて小さく頷いた。
「……ありがとう、クロヴィス」
彼女は珍しく素直な言葉を口にした。それはクロヴィスの胸に、ある種の決意を強めるものだった。
◆◆◆
その夜、クロヴィスは自室で馬の鞍から取り出した針を詳しく調べていた。一般的には見えないが、これは専門的な暗殺道具だった。彼がかつて使っていたものと酷似している。
「令嬢を狙った者がいる…」
彼は冷静に分析を続けた。針には微量の毒が塗られていたが、致死量には達していない。即死ではなく、事故による重傷を狙ったものだろう。
「なぜレティシア様が狙われる…?」
クロヴィスの脳裏に様々な可能性が浮かんだ。ルーベンシュタイン家の政治的立場、レティシア自身の地位——彼女は王太子アレクシスの婚約者だ。その立場を狙う者は少なくないだろう。
「私が守る」
クロヴィスは静かに誓った。前世で犯した罪を贖うように、今世では一人の命を守り抜く。それが彼の生きる意味だった。
彼は窓辺に立ち、月明かりに照らされた屋敷の庭を見下ろした。どこかに潜む敵の気配を探るように。
その時、彼は不意に頭痛を覚えた。視界がちらつき、奇妙な映像が脳裏に浮かぶ。
——レティシアが涙を流しながら、王太子の前に立っている。
——彼女が処刑台に立たされる姿。
——そして、「聖女」と呼ばれる美しい銀髪の少女の微笑み。
幻影は一瞬で消え、クロヴィスは冷や汗を流していた。
「今のは…何だ?」
彼は動揺を抑えきれず、銀のポケットウォッチを強く握りしめた。時計の針が、まるで彼の運命を指し示すように、静かに刻み続けている。
「お嬢様の未来に、何かが起ころうとしている…」
クロヴィスは直感的にそう感じた。そして、それを防ぐために彼にできることは何でもするつもりだった。たとえ、暗殺者としての本能を再び呼び覚ますことになったとしても。
月明かりの下、黒衣の執事は静かに誓いを新たにした。
(続く)
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