20 / 24
第20話:「準々決勝—氷炎のセラフィムとの再戦」
しおりを挟む神宴祭三日目の朝、神殿の大広間は前日以上の緊張感に包まれていた。
準々決勝の試合。本来なら司は「砂漠の魔術料理人・サハラ」と対戦するはずだったが、神官長サプライズの裏工作により、対戦相手は「氷炎のセラフィム」に変更されていた。この突然の変更に観客の間でも様々な憶測が飛び交っていたが、「神意による」という説明の前には、誰も公然と疑問を呈することはできなかった。
「準備はいいですか?」
エリシアが心配そうに尋ねた。彼女は昨日のフロラとの対決で見事勝利し、準々決勝に進出していた。しかし今の彼女の関心は、自分の次の試合よりも司の危険な対決にあった。
「ああ」
司は静かに頷いた。昨夜、彼はアルテミスから受け取った「記憶の花」の種を使い、特別な調理準備を整えていた。「神聖いちご」との相性を確かめ、最適な使い方を研究し尽くしたのだ。
「セラフィムは強敵だぞ」
グスタフが厳しい表情で言った。
「あの『神授の料理』の力は、食べた者の精神を神の意のままに操る。マルコもその力に屈したのだからな」
マルコは病院から戻り、彼らと共にいたが、まだ完全に回復していないようだった。彼の目にはわずかに虚ろな色が残っていた。
「自分の意思を保つことができませんでした」
マルコは悔しそうに言った。
「彼の料理を口にした瞬間、私の中に神々の声が響き、意思が乗っ取られていくような感覚だった…」
司は黙って彼の言葉を聞いていた。セラフィムの料理の恐ろしさを改めて実感する。
「しかし、司なら大丈夫」
グスタフは確信を込めて言った。
「あなたの『神馳せの饗宴』と『烙印を解く』力なら、セラフィムの料理にも対抗できるはずだ」
司は静かに頷いた。彼の料理には人々を解放する力がある。それは関所でのセラフィムとの初対決でも証明されていた。あの時、審査員のラミアス卿は一時的にせよ、神々の支配から解放されたのだ。
大広間の中央に神官長サプライズが姿を現した。
「本日の準々決勝第一試合を始める」
彼の声が厳かに響く。
「『暁の料理人・ソル』対『氷炎のセラフィム』。課題は『神聖いちごを使ったデザート』だ」
司とセラフィムが調理台の前に立った。司は冷静さを保とうとしていたが、セラフィムは余裕の表情で、どこか高みから見下ろすような態度だった。彼の左目は氷のように青く、右目は炎のように赤い。その目は司を捉え、獲物を狙う捕食者のような鋭さを持っていた。
「再会だな、『暁の料理人・ソル』」
セラフィムが微笑みながら言った。
「関所での我々の勝負は、君の勝利だった。だが今回は違う。神殿の中、神々の力が最も強い場所での対決…結果は見えているだろう?」
その言葉に挑発の意図を感じたが、司は平静を装った。
「結果は料理が決める」
彼は簡潔に答えた。セラフィムは興味深そうに司を見て、小さく頷いた。
調理台に「神聖いちご」が運ばれてきた。それは通常のいちごよりも大きく、鮮やかな赤色が宝石のように輝いていた。その香りは甘く官能的で、一度嗅いだだけで心が高揚するような不思議な力を持っていた。
「神聖いちご」は神々の庭園でのみ栽培される特別な果実で、通常の人間が口にすることはほとんどないという。その果実には神々の祝福が宿り、食べた者に一時的な幸福感と高揚感をもたらすと言われていた。
「両者、準備はいいか?」
サプライズの問いに、司とセラフィムは頷いた。
「制限時間は45分。始め!」
鐘の音と共に、準々決勝の対決が始まった。
二人はまず「神聖いちご」を注意深く観察した。司は果実を手に取り、その香りと手触りを確かめる。表面は滑らかで、わずかに脈動しているかのような生命感があった。セラフィムも同様に観察し、満足げな表情を浮かべた。
司は「神聖いちご」を丁寧に洗い、へたを取り除いた。そして慎重に切り分け始めた。彼は普通の料理人のような包丁さばきではなく、果実の繊維に沿って、精密な角度で切り進めていく。それは「記憶を呼び覚ます料理」の技法の一つで、食材本来の記憶を最大限に引き出すための切り方だった。
対するセラフィムの調理法は全く異なっていた。彼は「神聖いちご」を二つのグループに分け、一方は極限まで冷やし、もう一方は炎であぶるという極端な処理を施していた。彼の左手からは青い冷気が、右手からは赤い熱気が放出されているように見えた。それは単なる錯覚ではなく、彼の「神授の料理」の力の表れだった。
「これはすごい…」
観客席から感嘆の声が上がった。セラフィムの調理技術は確かに圧巻だった。彼の周りには青と赤のオーラが交互に現れ、その中で「神聖いちご」が変化していく。
司も負けじと自分の技術を駆使していた。切り分けたいちごを特製のシロップに漬け込み、次に「記憶の花」の種から抽出した液体を少量ずつ加えていく。シロップは透明から徐々に淡い金色に変わり始めた。
「彼は何をしているんだ?」
観客の間でささやかれる声。司の料理法は地味に見えるかもしれないが、彼はいちごの中に眠る記憶を呼び覚ますという繊細な作業を行っていたのだ。
時間が経過するにつれ、二人の料理のスタイルの違いがより鮮明になっていった。
セラフィムは「神授の料理」の力を全開にし、氷と炎の両極端の温度と力を自在に操っていた。彼の作るデザートは、高さのある三層構造のパルフェのようだった。底には青く透き通った氷のような層、中央には赤い炎のように燃え上がる層、そして最上部には白銀の泡のような層。その美しさは圧倒的で、神々の祝福を受けたかのようだった。
対して司の料理は、より控えめながらも深みのある構成だった。透明な器の底にいちごのシロップを敷き、その上に金色に輝くジュレを流し込む。さらにその上にはスライスしたいちごと、特殊な技法で作った「記憶の泡」と呼ばれる軽い泡が浮かんでいた。見た目は素朴だが、近づくほどに複雑な香りと輝きを放っていた。
「残り15分!」
サプライズのアナウンスに、調理のテンポが上がる。
セラフィムは最後の仕上げとして、氷のように冷たい青い光を放つシロップを垂らし、炎のように赤く輝くソースで飾り付けていた。彼の動きは華麗で、周囲の観客を魅了していた。
司はより集中した様子で、最後の重要な工程に入っていた。彼は「神馳せの饗宴」の力を使い、デザートに特別な「記憶と真実」の力を込めていく。それは目に見える変化ではなかったが、彼の指先から微かな金色の光が漏れ、料理全体に馴染んでいくのが分かった。最後に「記憶の花」の花びらを一つ、飾りとして最上部に添えた。
「残り5分!」
最後の追い込みに入った二人。セラフィムは「神授の料理」の力を極限まで高め、彼のデザートからは青と赤の光が強く放たれ、周囲の温度まで変化させているようだった。
司も最後の力を振り絞り、デザートに込めた「記憶と真実の力」を完成させようとしていた。彼の料理からも微かな金色の光が放たれ、静かながらも確かな存在感を示していた。
「時間切れ!手を止めなさい!」
鐘の音と共に、両者は調理を終えた。彼らの前には、まるで別世界から来たかのような二つの全く異なるデザートが完成していた。
「作品の説明をしなさい」
サプライズの指示に、まずセラフィムが前に進み出た。
「私の料理は『神の意志を宿す氷炎のパルフェ』」
彼の声は力強く、広間全体に響き渡った。
「最下層は『神の静寂』を表す青の層。神聖いちごを極限まで冷やし、神々の静かなる力を宿しています。中層は『神の情熱』を示す赤の層。炎で香ばしく焼き上げたいちごが神々の活力と熱意を表現。最上層は『神の慈悲』を象徴する白銀の層。全てを包み込む神々の優しさを表しています」
彼の説明は荘厳で、まるで神殿での儀式を解説するような雰囲気だった。
「この料理は食べる者に神々の意志を直接伝え、その心を清め、神の道へと導く力を持っています」
彼はわざわざ「食べた者の精神を操る」とは言わなかったが、その意図は明らかだった。
次に司が前に進み出た。
「私の料理は『記憶と真実を映す神聖いちごのミラージュ』」
司の声は穏やかながらも、確かな力強さがあった。
「神聖いちごの中に眠る本来の記憶と力を呼び覚まし、食べる者の心に映し出すデザートです。下層のシロップは『過去』、中層のジュレは『現在』、上部の泡は『未来』を表しています。食べる者は自分自身の真実の記憶と向き合い、本来の姿を思い出すでしょう」
彼の説明は神々への敬意を表しながらも、人間の自由と真実を重視する意図が込められていた。
「審査を始める」
サプライズとアルテミスが前に進み出た。まずはセラフィムの料理から試食する。
サプライズが一口食べると、彼の表情が崇高さに満ちたものに変わった。まるで神々と直接対話しているかのような恍惚とした表情だ。
「素晴らしい…神々の意志が直接伝わってくる…」
彼の声には感動と畏敬の念が込められていた。セラフィムの料理は確かに「神授の料理」の力を最大限に発揮し、食べた者の精神を操る効果を持っていたのだ。
次にアルテミスがセラフィムの料理を試食した。彼女も一瞬、恍惚とした表情を見せたが、すぐに平静を取り戻した。「神の舌」としての彼女は、その料理の力を感じながらも、完全には支配されないようだった。
「確かに神々の意志を感じます。技術も完璧…」
彼女の評価は高かったが、どこか抑制されているようにも感じられた。
次に司の料理。サプライズが一口食べると、彼の表情が一変した。最初は驚き、次に混乱、そして何かを思い出したような懐かしさに変わっていく。彼の目から一筋の涙が流れ落ちた。
「これは…私の…記憶…」
彼は言葉を詰まらせた。司の料理が彼の中の何かを呼び覚ましたのだ。しかし彼はすぐに我に返り、厳しい表情に戻った。
「技術的には申し分ない。だが、神々への敬意が足りない」
彼の評価は厳しかったが、その声には微かな動揺が感じられた。
アルテミスが司の料理を口にすると、彼女の目から涙が溢れ出した。それは単なる感動の涙ではなく、封印された記憶が蘇る時の痛みと喜びが混ざり合った複雑な感情の表れだった。
「この料理には真実がある…」
彼女の声は震えていた。
「食べる者の本来の姿、記憶、心を呼び覚ます力…これこそが真の料理の姿」
彼女の評価はセラフィムのものを上回るほど高かった。サプライズは彼女を疑わしげに見たが、「神の舌」の判断に公然と異議を唱えることはできなかった。
二人の審査員は一度席に戻り、短い協議を行った。サプライズの表情は厳しく、アルテミスは静かながらも強い意志を示しているようだった。観客たちは息を殺して結果を待っていた。
「審査結果を発表する」
サプライズが再び立ち上がった。広間は水を打ったように静まり返った。
「勝者は…『暁の料理人・ソル』」
広間から驚きと歓声が混ざった反応が起こった。セラフィムの圧倒的な存在感と「神授の料理」の力を考えれば、意外な結果だったのだ。
「理由を述べよ」
厳しい声で問うセラフィム。彼の表情には怒りと困惑が混ざっていた。
サプライズは不満げな表情を隠さずに答えた。
「『神の舌』アルテミス殿の評価による。彼女の判断は絶対だ」
そう言って、彼はアルテミスを見た。アルテミスは毅然とした態度で前に進み出た。
「二つの料理はどちらも素晴らしい技術と創造性を持っていました。しかし、『記憶と真実を映す神聖いちごのミラージュ』には、食べる者の真の心を呼び覚ます力がありました。それは神々が本来求める、人間の純粋な心と向き合う姿勢を体現していたのです」
彼女の説明は外交的ながらも、明確に司の料理を評価するものだった。セラフィムは不満げな表情を浮かべたが、「神の舌」の判断には従うしかなかった。
「次の試合の準備をせよ」
サプライズのアナウンスで、広間は次の対決への準備が始まった。司はエリシアたちの待つ観客席へと戻ろうとした。
「ソル」
背後から声がかけられ、司が振り返るとセラフィムが立っていた。彼の表情は複雑で、怒りと敬意、そして何か別の感情が混ざり合っていた。
「私は敗北を認める。だが、これで終わりではない」
彼の声は低く、司にだけ聞こえるようだった。
「君の料理には…特別な力がある。それは私の中の何かを…」
彼は言葉を詰まらせ、一瞬、困惑したような表情を見せた。司の料理が彼の中の何かを揺り動かしたのだろうか。しかし、すぐに彼の目が再び冷たく澄み渡り、もとの高慢な態度に戻った。
「次に会う時は、神々の意志に従い、君を排除する」
その言葉を残し、セラフィムは立ち去った。司は彼の背中を見送りながら、複雑な思いを抱いていた。
観客席に戻ると、エリシアが駆け寄ってきた。
「司さん、勝ちましたね!本当におめでとうございます!」
彼女の声には心からの喜びがあった。グスタフとマルコも安堵の表情を浮かべていた。
「見事な一勝だ」
グスタフが司の肩を叩いた。
「だがこれで安心するな。サプライズの策略はまだ終わっていない」
マルコも警戒の言葉を付け加えた。
「セラフィムの態度が気になります。彼は完全に敗北を認めていないようでした」
司は頷いた。彼もセラフィムの言葉が気になっていた。「神々の意志に従い、君を排除する」。それは単なる再戦の予告ではなく、もっと危険な何かを示唆しているようだった。
「今日の試合は終わりましたね」
エリシアが言った。彼女の準々決勝は明日に予定されていた。
「宿に戻って休みましょう。明日はエリシアの試合ですから」
グスタフの提案に皆が同意し、四人は神殿を後にした。しかし司の心には、セラフィムとの対決で見えた何かが引っかかっていた。彼の料理が、セラフィム自身の心にも影響を与えたように見えたのだ。「神授の料理」の使い手であっても、「記憶と真実」の力の前には心を開かざるを得なかったのかもしれない。
---
神殿から程なく離れた場所、四人は静かな路地を通って宿への帰路を急いでいた。日が沈み始め、街には夕闇が忍び寄っていた。
「今日の試合で、あなたの『烙印を解く』力が一段と強くなったようですね」
マルコが司に語りかけた。
「サプライズの反応を見ても、明らかに彼の記憶が呼び覚まされていました」
「ああ」
司は静かに頷いた。
「『記憶の花』の力も大きかったと思う。アルテミスに感謝しないと…」
その時、突然の気配を感じ、司は立ち止まった。路地の先、宿への道を塞ぐように一人の人影が立っていた。月明かりに照らされたその姿は、「氷炎のセラフィム」だった。
「やはり来たか…」
グスタフが警戒の声を上げた。セラフィムからは強烈な殺気が放たれていた。それは試合中の彼とは全く異なる、冷酷な暗殺者の様相だった。
「神々の意志により、『神殺しの料理人』は排除されねばならない」
セラフィムの声は感情のない機械的なものに変わっていた。彼の両目は異様に輝き、青と赤の光を放っていた。
「彼は操られている…」
マルコが小声で言った。
「試合後に神々の意志で完全に支配されたのでしょう」
セラフィムは左手に氷の刃、右手に炎の剣を具現化させていた。それは料理の技術を武器として転用した、恐るべき力だった。
「司、逃げろ!」
グスタフが叫んだ瞬間、セラフィムが驚異的な速さで襲いかかってきた。司は咄嗟に身を翻し、氷の刃をかわした。しかし彼の動きはあまりにも速く、炎の剣が司の腕をかすめ、衣服が焦げた。
「くっ…」
司は痛みに顔をしかめながらも、冷静さを保とうとした。どう対処すべきか。彼は料理人であって、戦士ではない。
「司さん!」
エリシアが叫び、彼女の周りに緑色の風が渦巻き始めた。彼女の「風の力」だ。彼女は腕を振り、風の刃をセラフィムに向けて放った。しかしセラフィムは氷の壁を作り出し、風の刃を完全に防いだ。
「手を出すな、少女」
セラフィムの冷たい声。彼は再び司に向かって突進してきた。今度は両手から氷と炎の混合した渦が放たれる。その攻撃は路地全体を焼き尽くさんばかりの威力だった。
「みんな、伏せろ!」
司の叫びに、一同は身を低くした。攻撃は彼らの頭上を通り過ぎ、後ろの建物に激突。壁に大きな穴が開いた。この騒ぎで、近隣の住民たちが気づき始めるだろう。
「君を殺す前に確認させてもらおう」
セラフィムの声が司に向けられた。
「君は本当に『神殺しの料理人』なのか?」
彼の目は狂気じみていたが、その中にわずかな自分自身が残っているようにも見えた。司は立ち上がり、彼と対峙した。
「私は、料理で人々を幸せにしたいだけだ」
司は静かに答えた。
「神々の支配に苦しむ者たちを、料理の力で解放したい。それが『神殺しの料理人』と呼ばれるのなら、私はそうだ」
セラフィムの表情が一瞬揺らいだ。司の料理によって呼び覚まされた彼の本心と、神々の意志による支配が争っているようだった。
「そうか…やはり…」
彼はつぶやき、再び攻撃の構えを取った。しかし、その動きはわずかに鈍っていた。
「神々の意志を…否定するものは…排除せねば…」
彼の言葉は断片的になり、まるで自分自身と戦っているかのようだった。
その時、突然、別の気配が現れた。路地の向こうから数人の神官たちが駆けつけてきたのだ。
「何事だ!?」
先頭の神官が叫んだ。セラフィムは一瞬迷った様子を見せ、そして司たちを見限ったように後退した。
「今回は見逃す…だが次は必ず…」
そう言い残し、彼は信じられない速さで路地を駆け抜け、夜の闇に消えていった。
「大丈夫か?」
神官たちが司たちに近づいてきた。おそらく騒ぎを聞いて駆けつけたのだろう。
「ええ、何とか…」
司は腕の傷を押さえながら答えた。表面的な火傷だけで、大きな怪我ではなかった。
「何があったのです?」
「野犬に襲われました」
グスタフが即座に嘘をついた。セラフィムの暗殺未遂を報告しても、神官たちが味方になる可能性は低い。むしろ逆効果になるだろう。
「野犬が…」
神官は怪訝な表情を浮かべたが、それ以上追及はしなかった。彼らは周囲を調べ、大きな問題がないことを確認すると、立ち去っていった。
「すぐに宿に戻ろう」
マルコが急かした。
「セラフィムがまた来る可能性もある」
四人は急いで宿に戻った。司の腕の手当てをし、部屋の戸締まりを厳重にした。
「セラフィムは神々に完全に操られている」
グスタフが厳しい表情で言った。
「今回は偶然神官たちが来たから助かったが、次はない。もっと用心しなければならない」
「でも、彼の中に少しだけ自分自身が残っていた気がする」
司は考え込みながら言った。
「料理で彼の本心を呼び覚ましたことが、かえって神々の操りを強くさせてしまったのかもしれない」
部屋の中は重苦しい空気に包まれていた。エリシアは心配そうに司の腕の包帯を見つめていた。
「明日からもっと注意しましょう」
彼女は静かに言った。
「神宴祭が終わるまで、一人で行動するのは避けるべきです」
その言葉に全員が同意した。この事件で一つ明らかになったことがある。司が「神殺しの料理人」であることは、もはや神々にとって公然の事実となり、彼らは露骨に排除に動き始めたのだ。
窓の外、満月が神の国ファルミラを照らしていた。それは美しい光景だったが、司たちにとっては危険が潜む夜の始まりでもあった。
神宴祭は次の段階へと進む。それは料理の技術を競う祭典であると同時に、神々と「神殺しの料理人」の命を賭けた戦いへと変わりつつあった。
---
神殿の最上階、天帝シェフ・ゼウルの私室。神官長サプライズが膝を突いて報告していた。
「セラフィムの暗殺は失敗しました」
彼の声には恐れが混じっていた。ゼウルの怒りを買うことを恐れてのことだろう。しかし、ゼウルは意外にも穏やかな様子だった。
「予想通りだな」
彼は窓の外を眺めながら言った。
「『神殺しの料理人』は簡単には倒せぬ。それがわかっていたからこそ、試してみたのだ」
「では、次の策は?」
サプライズが尋ねると、ゼウルはゆっくりと振り返った。
「準決勝での対戦相手を変更せよ。『潮風のスシマスター・カツミ』ではなく、『毒見のヘカテ』にせよ」
「ヘカテは既に一回戦で敗れたはずですが…」
「構わん。『神意による』という理由で変更せよ」
ゼウルの命令に、サプライズは黙って頷いた。二度目の対戦相手変更は明らかに異例だったが、神々の意志に逆らう者はいない。
「また、アルテミスの監視を強化せよ」
ゼウルの声は厳しくなった。
「彼女は『神殺しの料理人』に協力しているようだ。彼女の記憶の封印が解かれつつある」
「対策を…」
「まだ手を出すな」
ゼウルは静かに言った。その目には奇妙な光が宿っていた。
「彼女の動きを見守れ。そして『神殺しの料理人』がどこまで成長するか…どこまで真実に近づくか、見届けたい」
サプライズは不可解な思いを抱きながらも、主の命令に従った。彼には、ゼウルが何を考えているのか、まるで見当がつかなかった。
---
同じ頃、神殿の小さな部屋でアルテミスは一人、窓の外を見つめていた。彼女の前には小さな花瓶があり、そこには「記憶の花」の花びらが一枚浮かんでいた。司の料理から持ち帰ったものだろう。
「記憶が蘇る…」
彼女は静かに呟いた。
「ゼウル…あなたの中にも、かつての記憶が残っているはず」
彼女の紫水晶の瞳には、懐かしさと悲しみ、そして強い決意が混在していた。
「司さん…あなたは本当の『神殺しの料理人』…私の託した希望…」
彼女の言葉は風のように静かに部屋に漂い、やがて闇の中に消えていった。
---
翌朝、神宴祭四日目。エリシアの準々決勝の試合日だった。
「お前の対戦相手は『砂漠の魔術料理人・サハラ』だな」
グスタフが宿で最後の確認をしていた。昨夜の事件以来、彼らは常に警戒を怠らずにいた。司の腕の火傷は軽く、すぐに回復しつつあった。
「はい」
エリシアは緊張しながらも自信を持って答えた。
「サハラさんは強敵ですが、私も頑張ります」
「油断するな」
マルコが忠告した。
「サハラの『砂の魔術料理』には特殊な力がある。砂と香辛料を操り、食べた者の心に砂漠の幻影を見せるという」
「でも、エリシアの『風の力』ならそれに対抗できるはずだ」
司が励ました。彼女の持つ「風の力」は砂を操る力に対する天敵とも言えた。
「私、負けません!」
エリシアの目には強い決意が宿っていた。
四人が宿を出ようとした時、突然ノックの音がした。警戒しながらドアを開けると、そこには一人の神殿使いの少年が立っていた。
「『暁の料理人・ソル』様に伝言です」
少年は恭しく頭を下げ、小さな巻物を差し出した。司はそれを受け取り、少年が去った後で開いた。
「なんと…」
司の表情が曇った。
「準決勝の対戦相手が変更になったようだ。『潮風のスシマスター・カツミ』ではなく、『毒見のヘカテ』と戦うことになる」
「ヘカテと!?」
グスタフが驚きの声を上げた。
「彼女は既に一回戦で敗れたはずだ。前例のない変更だぞ」
「サプライズの仕業でしょう」
マルコが厳しい表情で言った。
「セラフィムでは倒せなかったから、今度はヘカテを使って排除しようとしている」
「彼女の『死の調味料』は強力です」
エリシアが心配そうに言った。
「一度は勝ったとはいえ、二度目は前回とは違う戦いになるでしょう」
司は黙って巻物を見つめていた。神々が次々と障害を立ちはだからせてくる。それだけ彼らにとって「神殺しの料理人」が脅威だということだろう。
「まずはエリシアの試合に集中しよう」
司は静かに言った。
「一つずつ乗り越えていくしかない」
一同は頷き、神殿へと向かった。神宴祭は正念場を迎えようとしていた。
---
神殿の大広間は、前日同様の熱気に包まれていた。準々決勝の残りの試合が行われる中、観客は白熱した料理バトルに沸いていた。エリシアの試合は午後に予定されており、彼らは他の試合を観戦しながら時間を過ごしていた。
「やはり発表されましたね」
マルコが広間の掲示板を指さした。そこには明日の準決勝の対戦カードが掲示されていた。確かに司の対戦相手は「毒見のヘカテ」に変更されていた。理由は相変わらず「神意による」とだけ書かれている。
「彼らの焦りが見える」
グスタフが小声で言った。
「通常のルールを無視してまで急いでいる。それだけお前の存在が脅威なのだろう」
司は黙って頷いた。エリシアの試合が始まる前に、彼は心の準備を整えておく必要があった。ヘカテとの二度目の対決。前回の経験を生かしつつも、新たな戦略が必要だ。
「そうだ」
司は思いついたように言った。
「今のうちにマルコを見舞いに行こう」
マルコはセラフィムとの試合後、完全回復したわけではなかった。彼は神殿の医務室で休養を取っていたのだ。
「そうですね」
エリシアも頷いた。
「試合まではまだ時間がありますし」
三人は医務室へと向かった。そこには数名の料理人が休んでいたが、マルコの姿はなかった。
「マルコさんは?」
エリシアが看護師に尋ねた。
「今朝方、退院されましたよ」
看護師の答えに三人は驚いた。マルコからは何の連絡もなかったのだ。
「どこに行ったのだろう…」
グスタフが不安げに呟いた。もしかすると、マルコは神々の意志によって操られ、セラフィムのように司を襲う任務を与えられたのではないか。そんな疑念が頭をよぎる。
「宿に戻っているかもしれない」
司が言った。彼もまた同じ疑念を抱いていたが、友を疑うことはしたくなかった。
「エリシアの試合が終わったら探そう」
そう決めた三人は大広間に戻った。エリシアの試合の時間が近づいていた。
「『花の料理人・フロラ』対『砂漠の魔術料理人・サハラ』の試合」
サプライズのアナウンスに、三人は驚いた。
「どういうことだ?」
グスタフが掲示板を再確認する。確かにそこには「エリシア対サハラ」と書かれていた。
「また対戦相手の変更か?」
司が厳しい表情で言った。
「エリシア!」
彼は彼女を呼んだが、彼女は既に調理台に向かっていた。どうやら事前の変更通知はなく、突然の変更だったようだ。フロラは昨日エリシアに敗れたはずだったが、彼女もまた「神意による」変更で復活したのだろう。
「これは…」
グスタフの表情が曇った。
「サプライズの狙いは明らかだ。二人同時に排除しようとしている」
司も暗い表情で頷いた。エリシアにとって、サハラよりフロラの方が強敵だったのだ。フロラの「花の料理」には心を魅了する力があり、エリシアの「風の力」に対して優位に立つと言われていた。
「エリシア…」
司は彼女を心配する気持ちを抑えられなかった。しかし今は彼女を信じるしかない。彼女は強くなった。一回戦でフロラを倒したように、今回も勝てるはずだ。
試合が始まり、エリシアとフロラは「月影茸を使った温前菜」という課題に挑んでいた。エリシアは落ち着いた様子で材料を扱い、フロラは花々を巧みに使い出した。
「奮闘しているな」
グスタフが見守る中、司は観客席を見回していた。そこでふと、彼は見覚えのある姿を見つけた。銀髪の美しい女性——アルテミスだった。彼女は審査員席ではなく、普通の観客として席に座っていた。司と目が合うと、彼女は微かに頷き、何かを伝えるように唇を動かした。
「危険…用心して…」
そう読み取れた。司は彼女の警告を胸に刻み、再びエリシアの試合に集中した。
神宴祭はいよいよクライマックスへ。それは料理の祭典であると同時に、神々と人間の壮絶な戦いの場となっていた。司たちの運命は、これからの料理バトルにかかっていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】剣の世界に憧れて上京した村人だけど兵士にも冒険者にもなれませんでした。
もる
ファンタジー
剣を扱う職に就こうと田舎から出て来た14歳の少年ユカタは兵役に志願するも断られ、冒険者になろうとするも、15歳の成人になるまでとお預けを食らってしまう。路頭に迷うユカタは生きる為に知恵を絞る。
異世界転生したらたくさんスキルもらったけど今まで選ばれなかったものだった~魔王討伐は無理な気がする~
宝者来価
ファンタジー
俺は異世界転生者カドマツ。
転生理由は幼い少女を交通事故からかばったこと。
良いとこなしの日々を送っていたが女神様から異世界に転生すると説明された時にはアニメやゲームのような展開を期待したりもした。
例えばモンスターを倒して国を救いヒロインと結ばれるなど。
けれど与えられた【今まで選ばれなかったスキルが使える】 戦闘はおろか日常の役にも立つ気がしない余りものばかり。
同じ転生者でイケメン王子のレイニーに出迎えられ歓迎される。
彼は【スキル:水】を使う最強で理想的な異世界転生者に思えたのだが―――!?
※小説家になろう様にも掲載しています。
40歳のおじさん 旅行に行ったら異世界でした どうやら私はスキル習得が早いようです
カムイイムカ(神威異夢華)
ファンタジー
部長に傷つけられ続けた私
とうとうキレてしまいました
なんで旅行ということで大型連休を取ったのですが
飛行機に乗って寝て起きたら異世界でした……
スキルが簡単に得られるようなので頑張っていきます
1×∞(ワンバイエイト) 経験値1でレベルアップする俺は、最速で異世界最強になりました!
マツヤマユタカ
ファンタジー
23年5月22日にアルファポリス様より、拙著が出版されました!そのため改題しました。
今後ともよろしくお願いいたします!
トラックに轢かれ、気づくと異世界の自然豊かな場所に一人いた少年、カズマ・ナカミチ。彼は事情がわからないまま、仕方なくそこでサバイバル生活を開始する。だが、未経験だった釣りや狩りは妙に上手くいった。その秘密は、レベル上げに必要な経験値にあった。実はカズマは、あらゆるスキルが経験値1でレベルアップするのだ。おかげで、何をやっても簡単にこなせて――。異世界爆速成長系ファンタジー、堂々開幕!
タイトルの『1×∞』は『ワンバイエイト』と読みます。
男性向けHOTランキング1位!ファンタジー1位を獲得しました!【22/7/22】
そして『第15回ファンタジー小説大賞』において、奨励賞を受賞いたしました!【22/10/31】
アルファポリス様より出版されました!現在第四巻まで発売中です!
コミカライズされました!公式漫画タブから見られます!【24/8/28】
マツヤマユタカ名義でTwitterやってます。
見てください。
俺、何しに異世界に来たんだっけ?
右足の指
ファンタジー
「目的?チートスキル?…なんだっけ。」
主人公は、転生の儀に見事に失敗し、爆散した。
気づいた時には見知らぬ部屋、見知らぬ空間。その中で佇む、美しい自称女神の女の子…。
「あなたに、お願いがあります。どうか…」
そして体は宙に浮き、見知らぬ方陣へと消え去っていく…かに思えたその瞬間、空間内をとてつもない警報音が鳴り響く。周りにいた羽の生えた天使さんが騒ぎたて、なんだかポカーンとしている自称女神、その中で突然と身体がグチャグチャになりながらゆっくり方陣に吸い込まれていく主人公…そして女神は確信し、呟いた。
「やべ…失敗した。」
女神から託された壮大な目的、授けられたチートスキルの数々…その全てを忘れた主人公の壮大な冒険(?)が今始まる…!
酒好きおじさんの異世界酒造スローライフ
天野 恵
ファンタジー
酒井健一(51歳)は大の酒好きで、酒類マスターの称号を持ち世界各国を飛び回っていたほどの実力だった。
ある日、深酒して帰宅途中に事故に遭い、気がついたら異世界に転生していた。転移した際に一つの“スキル”を授かった。
そのスキルというのは【酒聖(しゅせい)】という名のスキル。
よくわからないスキルのせいで見捨てられてしまう。
そんな時、修道院シスターのアリアと出会う。
こうして、2人は異世界で仲間と出会い、お酒作りや飲み歩きスローライフが始まる。
処刑された勇者は二度目の人生で復讐を選ぶ
シロタカズキ
ファンタジー
──勇者は、すべてを裏切られ、処刑された。
だが、彼の魂は復讐の炎と共に蘇る──。
かつて魔王を討ち、人類を救った勇者 レオン・アルヴァレス。
だが、彼を待っていたのは称賛ではなく、 王族・貴族・元仲間たちによる裏切りと処刑だった。
「力が強すぎる」という理由で異端者として断罪され、広場で公開処刑されるレオン。
国民は歓喜し、王は満足げに笑い、かつての仲間たちは目を背ける。
そして、勇者は 死んだ。
──はずだった。
十年後。
王国は繁栄の影で腐敗し、裏切り者たちは安穏とした日々を送っていた。
しかし、そんな彼らの前に死んだはずの勇者が現れる。
「よくもまあ、のうのうと生きていられたものだな」
これは、英雄ではなくなった男の復讐譚。
彼を裏切った王族、貴族、そしてかつての仲間たちを絶望の淵に叩き落とすための第二の人生が、いま始まる──。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる