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1話「故郷からの呼び声」
しおりを挟む濃霧が山間の細い道路を覆い尽くし、視界は前方わずか数メートルほどしかなかった。高槻真一は車のスピードを落とし、ハンドルを握る手に力を入れた。カーナビは「目的地まであと2キロ」と告げていたが、霧の向こうに村の姿は見えない。
「本当に人が住んでるのかな、こんな場所」
真一は独り言を呟きながら、15年前に去った故郷・霧間村への不安を募らせていた。
東京で活動するフリーカメラマンとして、彼はこれまで数々の辺境の地を訪れてきた。しかし、自分の生まれ故郷が最も見知らぬ土地に思えるという皮肉。幼少期の記憶は断片的で、霧間村での暮らしをほとんど思い出せないのだ。
一週間前、東京の真一のもとに一通の電報が届いた。祖母・高槻ミヨが亡くなったという知らせだった。実家を継いだ親戚もなく、遺品整理は彼しかできない。長く疎遠だった後ろめたさもあり、真一は仕事の行き詰まりから一時的に逃れるつもりで、故郷への帰還を決めたのだった。
霧の中、突然道の先に朱色の鳥居が姿を現した。その奥に古びた村の入口の標識が見える。「霧間村」と書かれた木製の看板は、雨風に晒されて色が剥げかけていた。
村に入ると、霧はさらに濃くなった。両側に並ぶ古い家々は、まるで時が止まったかのように静寂に包まれている。通りには誰の姿もなく、しかし窓の影で誰かが動くのを真一は感じた。
「あら、高槻さんのお孫さんじゃないの」
突然、背後から声がした。振り返ると、60代くらいの女性が立っていた。真一は記憶を探ったが、見覚えがない。
「ああ、はい。高槻真一です」
「まあ、立派になって。ミヨさんもさぞ喜んでるでしょうね」
女性は懐かしげに真一を見つめた。
「すみません、あの…」
「あら、覚えてないの?私は水野よ。あなたが小さい頃、よく飴をあげたでしょ」
記憶にない。しかし真一は愛想よく微笑んだ。
「すみません、子どもの頃のことはあまり…」
「そりゃそうよね。あなたが村を出たのは確か10歳の時だったもの」
水野は真一の腕を取り、「さあ、ミヨさんの家までご案内するわ」と言った。
村の中を歩きながら、真一は不思議な感覚に襲われた。見知らぬはずの風景なのに、どこか懐かしい。折れた枝のように曲がりくねった小道、苔むした石段、赤く色褪せた鳥居。すべてが記憶の奥底から浮かび上がろうとしているようだ。
通りすがりの村人たちは皆、真一に気づくと足を止め、「あら、真一くん?」「高槻のお孫さんだね」と声をかけてきた。誰一人として名乗らなくても、彼のことを知っている。しかも皆、どこか安堵したような表情を浮かべていた。
「みんな、私のこと覚えてるんですね」
「当たり前じゃない。この村で最後の子どもだったもの」
水野の言葉に、真一は首を傾げた。
「最後の子ども?」
「ああ、何でもないの。ほら、着いたわよ」
水野は話題を変え、小高い丘の上にある一軒の古い日本家屋を指さした。真一の祖母の家だ。
玄関の引き戸は鍵がかかっておらず、水野は「中に入りなさい。何か必要なら、いつでも声をかけてね」と言い残して去っていった。
真一は重い足取りで家の中へ入った。埃っぽい空気が鼻をつく。廊下を進むと、障子を通して薄暗い光が差し込む居間に辿り着いた。そこには仏壇が置かれ、祖母・ミヨの遺影が飾られていた。
「ただいま、ばあちゃん」
真一は仏壇に手を合わせた。祖母の顔を見つめていると、なぜか胸が締め付けられるような感覚がした。幼い頃の記憶が曖昧なのに、この感情だけははっきりしている。何か大切なことを忘れているような、罪悪感に似た感覚。
夕暮れが迫り、真一は祖母の家の中を探索し始めた。二階の押し入れから、古いアルバムを見つけ出した。埃を払い、ページをめくると、そこには幼い自分の写真がいくつも収められていた。
村の祭りで法被を着た5歳頃の自分。川で遊ぶ7歳の自分。どれも笑顔だ。しかし、アルバムの最後のページに挟まれていた一枚の写真に、真一は息を飲んだ。
それは10歳頃の自分と、赤い服を着た7人の子どもたちの集合写真だった。全員が手をつないで輪になり、中央には何かが置かれている。写真の真一は笑っていたが、他の子どもたちは無表情で、その目が異様に黒く写っていた。
「これ…誰だろう」
真一は写真の裏を見た。そこには祖母の筆跡で「紅の遊び、最後の日」と書かれていた。
外は完全に暗くなり、村は闇に沈んでいた。真一は疲れた体を引きずって二階の寝室に布団を敷き、横になった。村の静けさは都会で暮らす彼にとって不気味なほどだった。風の音すら聞こえない。
真一は目を閉じ、今日の出来事を整理しようとした。なぜ村人たちは全員、自分のことを知っているのか。なぜ祖母は突然亡くなったのか。そして、アルバムの赤い服の子どもたちは誰なのか。
考えているうちに、真一は眠りに落ちた。
どれくらいの時間が経ったのか。
「おかえり」
かすかな子どもの声に、真一は目を覚ました。時計を見ると、深夜2時を指している。
「誰かいるのか?」
声の方向、窓の外を見た真一は凍りついた。月明かりの中、庭に赤い服を着た子どもの姿があった。それは一瞬、真一と目が合うと、くすくすと笑い、家の影に消えた。
「待て!」
真一は飛び起きて窓を開け、外を見た。しかし、そこには誰もいなかった。錯覚だったのか、と思った瞬間、背後で床板がきしむ音がした。
振り返ると、部屋の隅に小さな人影が立っていた。月明かりに照らされ、赤い服を着た子どもの姿がはっきりと見えた。しかし、その顔はぼんやりとしていて、特徴を捉えることができない。
「誰だ?」
真一が問いかけると、子どもの姿はゆっくりと後ずさり、壁に吸い込まれるように消えた。慌てて駆け寄り、壁を調べるが、そこは普通の壁でしかなかった。
心臓が激しく鼓動する。真一は冷や汗を拭いながら、自分に言い聞かせた。
「疲れてるんだ。気のせいさ」
しかし、もう一度布団に横になった時、枕元に何かが落ちていることに気づいた。それは、先ほどアルバムで見た「紅の遊び」の写真だった。二階の押し入れに仕舞ったはずなのに、なぜここに?
そして写真をよく見ると、真一は息を呑んだ。アルバムで見た時には確かに7人の子どもが写っていたのに、今手にした写真には6人しかいない。一人が消えているのだ。そして残りの子どもたちの顔が、こちらを見つめているような気がした。
「何だこれは…」
窓の外から霧が部屋に流れ込み、真一の視界を覆っていく。その中から、かすかに子どもたちの笑い声が聞こえた。
「おかえり、真一くん。また一緒に遊ぼうね」
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