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第2話「村の不可解な掟」
しおりを挟む朝霧が窓の外に立ち込め、薄暗い部屋に冷たい光を落としていた。真一は重い瞼を開け、一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。天井から垂れ下がる古い電灯、すり減った畳の感触、かすかに漂う湿った木の匂い。祖母の家だと思い出すまでに数秒かかった。
枕元に昨夜の写真はなかった。真一は慌てて押し入れに向かい、アルバムを確認した。「紅の遊び」の写真はそこにあったが、昨夜見たものとは違っていた。子どもたちは7人、確かにそこにいる。夢だったのか。それとも記憶違いか。
「何がなんだか…」
身支度を整えた真一は、村を散策することにした。朝食を探しに台所に向かうと、テーブルの上に新しいパンと牛乳が置かれていた。昨夜は確かに何も買い置きしていなかったはずだ。玄関には一枚のメモが挟まれていた。
「朝食を置いていきました。ミヨさんのお孫さんが戻ってきて、村は喜んでいます。何かあったら、いつでも声をかけてください。水野より」
真一は複雑な表情でメモを眺めた。歓迎してくれるのはありがたいが、少し踏み込み過ぎではないか。しかし、田舎の人情なのだろうとも思う。パンを頬張りながら、昨日見た不思議な出来事を思い返した。赤い服の子ども、写真の謎、そして村人たちの様子。
「少し村を見て回ろう」
外に出ると、朝の活気に満ちた村の様子が広がっていた。畑で作業する老人たち、井戸端会議をする主婦たち、犬を連れて散歩する男性。しかし、不思議なことに子どもの姿が一人も見当たらない。
真一が通りを歩いていると、村人たちは皆、彼に気づき、笑顔で挨拶をしてきた。「真一くん、おはよう」「高槻のお孫さん、元気そうでなによりだ」。初対面のはずなのに、まるで昨日会ったかのように親しげだ。
とある家の前で立ち止まった真一は、玄関に下がる小さな赤い札に気づいた。よく見ると、「魔除け」と細かい字で書かれている。目を凝らして周囲を見回すと、全ての家の玄関に同じ赤い札が下がっていた。
「珍しいものを見てるね」
突然、背後から声をかけられ、真一は驚いて振り返った。そこには白髪の老人、鷹野丈一郎が立っていた。皺だらけの顔に鋭い目が光っている。
「鷹野さん、ですか?」
「覚えとらんかったか。私は村の長老だ。お前が赤ん坊の頃から見てきたよ」
真一は頭を下げた。「あの、この赤い札は何ですか?」
鷹野は一瞬、硬い表情になった。「魔除けだよ。この村には昔から、魔を払う風習がある」
「全ての家にあるんですね」
「当たり前だ。誰だって身を守りたいからな」
「何から守るんですか?」
鷹野は沈黙した。その目がわずかに揺れ、真一の表情を探るように見つめる。「お前は覚えていないのか? 子どもの頃のことを」
「あまり…はっきりとは」
鷹野は深いため息をついた。「お前は子どもの頃に『紅い部屋』にも入っただろう。村の子はみな入るものだ」
「紅い部屋?」
真一が問いかけると、鷹野の表情が急に閉ざされた。「もう行かなきゃならん。畑の仕事がある」
そう言って鷹野は足早に立ち去った。真一は「紅い部屋」という言葉に違和感を覚えながらも、さらに村を探索することにした。
散策を続けると、ある違和感に気づいた。どの家にも不自然なほど鏡がないのだ。洗面所にすら鏡がない家があった。村人に聞こうとしても、「昔からの習慣で」「必要ないから」と曖昧な返事ばかりで、話題が変わるとすぐに会話が途絶えてしまう。
午後、真一は村の中心にある古びた神社を訪れた。朱色の鳥居をくぐると、静寂に包まれた境内が広がっていた。落ち葉が地面に積もり、苔むした石灯籠が並ぶ。ところどころ朽ちかけた狛犬の横を通り過ぎ、真一は本殿に向かった。
しかし本殿の奥に、もう一つの小さな社があることに気づいた。朱色の柵で囲まれ、「立入禁止」の看板が掲げられている。何か引き寄せられるように近づいた真一の耳に、かすかな声が聞こえた。
「そこには行っちゃダメ」
背後を振り返ると、そこには誰もいなかった。幻聴だろうか。しかし、境内の木々の間に赤い布のようなものが見え隠れするのを真一は見逃さなかった。
「誰かいるのか?」
声をかけるが返事はない。不思議に思いながらも、真一は禁断の社に再び目を向けた。近づくにつれ、なぜか心臓の鼓動が早くなる。柵の前まで来ると、社の扉には「紅き御子の社」と書かれた古い札が下がっていた。
「紅き御子…」
その言葉は何か記憶の奥底を揺さぶるようだったが、具体的な思い出は浮かんでこない。扉には頑丈な南京錠がかけられている。真一は柵越しに内部を覗き込もうとしたが、暗すぎて何も見えなかった。
「ここが紅い部屋なのか?」
鷹野の言葉を思い出しながら、真一は社の周りを歩いてみた。裏側に回ると、わずかに開いた小さな窓があった。中を覗こうとした瞬間—
「見てはいけません」
厳かな声が背後から聞こえ、真一は驚いて振り返った。そこには神社の宮司らしき老人が立っていた。
「あ、すみません。ちょっと気になって…」
「この社は村の禁忌です。中を見ることも、近づくことも許されていません」
宮司は冷たい目で真一を見下ろした。
「何か、特別な社なんですか?」
「あなたはミヨさんのお孫さんですね。村に帰ってきたからには、ルールを守ってください」
宮司は真一の質問を無視し、そう告げると立ち去った。不可解な対応に首をかしげながらも、真一は神社を後にした。
一日中村を歩き回った真一は、夕方になって疲れを感じ始めていた。しかし、日が暮れるにつれて村の雰囲気が一変したことに気づく。
まず気づいたのは、まるで申し合わせたように、村中の家の明かりが一斉に消えたことだった。時計を見ると、ちょうど午後6時。そして通りにいた人々が次々と家の中に入り、ドアを閉める音が村中に響いた。わずか数分で、村には人影が一人もなくなった。
「どうなってるんだ?」
不思議に思った真一は、近くの民家のドアをノックした。しかし応答はない。別の家に行っても同じだ。窓から覗くと、住人はいるようだが、まるで真一の存在に気づかないふりをしている。
村全体が沈黙の中に閉ざされたようだった。風もなく、虫の声すら聞こえない。異様な静けさの中、真一は祖母の家に急いで戻ることにした。
家に戻る途中、真一は一瞬、赤い服を着た子どもたちが一斉に顔を窓から覗かせるのを見た気がした。しかし、目を凝らすと、そこには何もなかった。
家に辿り着き、急いで玄関のドアを開けようとしたが、鍵がかかっていた。昨日は鍵がかかっていなかったはずだ。
「なんだこれは…」
どうやら自分も村の掟に従うしかないようだ。真一はポケットからキーを取り出し、ドアを開けた。家の中は暗く、静まり返っていた。
その夜、真一は暗闇の中で考え込んだ。村の不可解な掟、「紅い部屋」、赤い札、鏡のない家々、そして夕方になると消える村人たち。すべてが何かの謎を隠しているようだ。そして何よりも気になるのは、自分の記憶の空白だった。
「僕はこの村で、何を見て、何を忘れたんだろう」
窓の外から聞こえるのは、ただ風の音だけ。いや、風の音に紛れて、かすかに聞こえる子どもたちの笑い声。真一は耳を澄ませた。確かに誰かが囁いている。
「真一くん、明日も遊ぼうね。紅い部屋で…」
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