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第3話「消えた記憶の断片」
しおりを挟む夜が明けても、霧間村から霧は晴れなかった。真一は窓辺に立ち、ぼんやりとした外の景色を眺めていた。昨夜の出来事が頭から離れない。夕方になると一斉に消える村人たち、そして耳元で囁かれた「紅い部屋」という言葉。
「記憶を取り戻さなければ」
真一は決意を固め、祖母の家の隅々まで探索することにした。手がかりはどこかにあるはずだ。
まず手をつけたのは、一階の居間の押し入れ。古い布団や着物の山を掘り起こしても、特に変わったものは見つからなかった。続いて台所の戸棚、祖母の寝室と探しても、手がかりらしきものは出てこない。
「もっと隠れた場所か…」
真一は床や壁を叩いて隠し部屋がないか調べたが、何も見つからなかった。半ば諦めかけた頃、目に入ったのは天井の一角にある小さな入り口だった。物置のようだ。
脚立を使って上り、埃まみれの物置に頭を突っ込んだ真一の目に、古い段ボール箱が飛び込んできた。箱には「真一」と祖母の筆跡で書かれている。
「これだ」
箱を下ろし、中を開けると、子ども用の服や靴、おもちゃなどが出てきた。そして一番下に、小さな鍵のかかった木箱があった。何か重要なものを示すかのように、赤い紐で厳重に縛られていた。
「鍵はどこだ…」
真一は箱を調べ、底に小さな引き出しを発見した。そこから見つかったのは古ぼけた真鍮の鍵。ぴったりと木箱に合い、カチリと音を立てて開いた。
中から出てきたのは、小学生のノートだった。表紙には「高槻真一の日記」と幼い字で書かれている。
「俺の日記…」
真一は懐かしさと不安が入り混じった複雑な感情で、ページをめくり始めた。
最初のページには、7歳の真一の日常が無邪気に綴られていた。
『今日は川で遊んだ。健太くんがカエルをつかまえた。すごかった。』
続くページも同様に、普通の子どもの日記だった。しかし、9歳の記録からトーンが変わり始める。
『今日、健太くんたちと秘密基地で遊んだ。「紅の游び」をしたよ。楽しかった。でもちょっと怖かった。』
「紅の游び…」
その言葉は記憶の糸を引っ張るが、まだはっきりとは思い出せない。日記をさらに読み進める中で、真一は不可解な事実に気づいた。数ページおきに綺麗に切り取られているページがあるのだ。
そして10歳の記録は特に不穏だった。
『今日も紅い部屋に行った。みんな変な顔してた。』
次のページは切り取られ、その後にこう続く。
『健太くんが言った。「次は本当のを使おう」って。怖い。でも言えない。』
また数ページが切り取られ、最後のページにはこう書かれていた。
『明日、秘密基地に行かなきゃいけない。でも行きたくない。怖いよ。誰か助けて。』
これが最後の記述だった。そして、この直後に真一は村を出たはずだ。
「何があったんだ…」
真一の手は震えていた。日記が語る「紅の游び」、「紅い部屋」、そして最後の恐怖の記述。これらが意味するものは何なのか。切り取られたページには何が書かれていたのか。そして、誰がページを切り取ったのか。
考え込む真一の耳に、急に玄関のドアをノックする音が響いた。
「高槻さん、いらっしゃいますか?」
玄関に出ると、そこには昨日神社で会った宮司・河合明彦が立っていた。
「お邪魔します」と言って、河合は勝手に上がり込んできた。
「お茶でも」と言おうとする真一を制し、河合は居間に座った。
「高槻さん、あなたがここに戻ってきたことは、村にとって意味のあることです」
真一は混乱しながらも、この機会に疑問を解消しようと思った。
「河合さん、『紅い部屋』って何ですか?」
宮司の表情が一瞬硬くなったが、すぐに穏やかな微笑みに戻った。
「思い出さないのも、無理はないでしょう。あなたが最後に『紅い部屋』に入ったのは、村を出る直前でしたから」
「僕が入った?」
「そうです。あなたは特別だった。村の子どもたちの中で、一番『紅い御子様』に愛されていた」
河合の言葉に、真一の頭がぐるぐると回った。何の話をしているのか理解できない。
「村を出る直前に何があったんですか?」
河合は深いため息をついた。
「それは…あなた自身が思い出すべきことです。ただ、お伝えしておきたいのは、明日は月例祭だということ。村の伝統行事です。あなたも必ず参加してください」
「月例祭?」
「毎月一度、『紅い御子様』に感謝を捧げる祭りです。明日の夕方、神社に来てください」
河合はそれ以上の説明をせず、立ち上がって去っていった。
真一はさらに混乱を深めた。「紅い御子様」とは何なのか。なぜ自分が「特別」なのか。そして、月例祭とは何のためのものなのか。
日が暮れ、また村から人影が消えた。真一は早々と家に戻り、明かりをつけずに二階の窓から村を見下ろした。静まり返った村のどこかで、かすかに赤い光が灯っているような気がした。そして、祠のような建物から、子どもの歌声が風に乗って届いてくる。
「あの歌、聞いたことがある…」
真一は突然、激しい頭痛に襲われた。断片的な記憶が押し寄せる。赤い服を着た子どもたち、輪になって歌う姿、そして中央に何かが置かれている…
頭痛が収まると、真一は日記を再び手に取った。切り取られたページが気になる。誰がページを切り取ったのか。祖母だろうか。それとも自分自身か。
そのとき、部屋の気温が急に下がった。窓の向こうから、子どもの笑い声が聞こえてきた。
「真一くん、外を見て」
恐る恐る窓の方を見ると、庭に赤い服を着た子どもたちが輪になって立っていた。月明かりに照らされた彼らの姿は、まるで古い写真のように色あせて見える。
「みんなで遊ぼう、真一くん」
子どもたちは手をつなぎ、歌いながら回り始めた。その歌は、どこか懐かしく、同時に背筋が凍るような不気味さを帯びていた。
「紅い紅い 紅いお部屋 誰が入るの 私が入るの みんな入ろう 紅いお部屋」
真一は恐怖で動けなくなった。子どもたちの輪が次第に小さくなり、中央に何かが形作られていく。それは赤い点から始まり、次第に広がって、「部屋」のような形になっていった。
突然、子どもたちが一斉に真一の方を向いた。彼らの目は暗闇で黒く光っていた。
「真一くん、一緒に遊ぼう? 紅い部屋で待ってるよ」
真一は思わず目をこすった。瞬きの間に、庭の子どもたちの姿は消えていた。幻だったのか、と思った瞬間、足元に違和感があった。
見下ろすと、床には小さな赤い手形が残されていた。真一は震える手でそれに触れた。まだ湿っている。指先に付いた赤い液体は、血のようにも見えた。
「これは…」
慌てて手を拭こうとした真一の耳に、再び子どもの声が届いた。
「明日は月例祭だね。来てね、真一くん。みんなで紅の游びをしよう」
声は空気の中に溶けるように消えていった。真一は震えを止められなかった。日記の最後のページを再び見る。
『明日、秘密基地に行かなきゃいけない。でも行きたくない。怖いよ。誰か助けて。』
15年前、自分はなぜ怯えていたのか。「紅の游び」とは何だったのか。そして、「紅い部屋」とは。
真一は決心した。明日の月例祭に参加し、この村の秘密を暴くことを。そして自分の失われた記憶を取り戻すことを。
窓の外には相変わらず霧が立ち込めていた。その霧の中に、真一は赤い影が揺れ動くのを見た気がした。
「明日、全てが分かる…」
床に残された赤い手形を見つめながら、真一は長い一日の終わりを迎えた。手のひらより小さな手形。それは幼い子どものものだった。過去からの、あるいは幽霊からの、メッセージのように。
夜が深まり、真一は不安な眠りに落ちた。夢の中でも、赤い服の子どもたちの歌声が響いていた。
「紅い紅い 紅いお部屋 誰が入るの 私が入るの みんな入ろう 紅いお部屋」
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