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ACT 2 サリーとローレンス卿
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ぼくはしばらく台所に残り、モリス夫人がハーブティーを用意してくれるのを待つことにした。
「もうすぐですよ。茶器はミスター・アーノルドのお気に入りの、ボーンチャイナにしましょうね」
やがて、ハーブの淡く甘いかおりが漂い始めた時。
「おはようございます、ミセス・ハリエット! お仕立てものを届けに来ましたぁ!」
明るい声がして、台所の勝手口が開いた。
涼しい風とともに、茶色の髪の若い娘が顔を出す。
「あら、おはよう、サリー。早いねえ」
ハウスメイドのメグより二、三才くらい年上だろうか。サリーと呼ばれた娘は、何枚ものシーツやテーブルクロスをきちんと畳んで積み重ねた大きなかごを抱えていた。
質素なブルーグレーのドレスに洗いざらしのエプロン、化粧っ気もなく、髪はシンプルなシニョンにまとめただけのその娘に、ぼくはどこか見覚えがあるような気がした。仔鹿のような茶色の眼と、鼻のあたまに薄く散ったそばかすが愛らしい。
モリス夫人はぽよぽよと弾むような足取りでサリーの前へ行き、かごを受け取った。
「おやまあ、あんた、これ全部仕上げちまったのかい?」
「もちろん! だって、金曜までに終わらせたら手間賃はずんでくれるって、ヘッティおばさん、言ったじゃない!」
「そりゃ言ったけど、サリー、今日はまだ水曜だよ」
かぎ裂きやほころびがきちんと繕われているか、ひとつひとつチェックしながら、モリス夫人は苦笑した。
「うちみたいに若い殿方を何人もお世話する下宿屋じゃあ、毎日山のように繕い物が出るから、仕事が速いのは大助かりだけどねえ」
こういう働く女性たちのおしゃべりの場に、男がいるのはよろしくない。ぼくはふたりに軽く挨拶をして、手ぶりでモリス夫人に「お茶が用意できたら上へ届けて」と合図すると、そのまま台所を立ち去ることにした。
――でも、誰だっけ、あの娘。たしかにどこかで見た気がするんだが。
「あんまり根を詰めすぎるんじゃないよ、サリー。体をこわしちまったら、元も子もないじゃないか」
モリス夫人が声をひそめるようにして、娘に忠告している。
「だいたいあんた、もうこんなに働かなくたっていいはずだろ? それともローレンス卿は、あんたにろくすっぽお手当をくれないのかい?」
「ううん、そんなことないよ。あたしひとりが食べてくには、充分すぎるくらいもらってる。家だって、ピカデリー広場のそばにすてきなコテージを借りてくれたし」
――ああ、そうか。
あのサリーという娘をどこで見たか、思い出した。数ヶ月前まで『王冠とアヒル』亭にいた、娼婦たちのひとりだ。
その時は派手に化粧をして、たいがいの娼婦がそうするように、カミーユ・マリとフランス風の源氏名を名乗っていた。そうか、あの娘の本名はサリーというのか。
会話から察するに、彼女はローレンス卿という紳士の囲われ者になったようだ。
娼婦たちにとって、金持ちの紳士の愛人になることは、たいそうな出世だ。衣食住の面倒をすべてみてもらえるし、なにより夜ごとに街へ出て、不特定多数の男の相手をしなくていい。
だが、紳士の囲われ者になっているのにまだ繕い物の賃仕事をしているなんて、それも妙な話だ。
「でもね、あたし、あの人からもらうお金は少しでも多く貯金しておきたいの」
思いがけない一言を聞いて、ぼくは思わず足を止めた。
貯金だって? 紳士の愛人ってのは、パトロンの金を湯水のように使い、ひとりでも多くの男を破産させるのを至上命題としているんじゃないのか?
「だってあの人、ほんとは自分の自由になるお金なんか、一ペニーもないのよ。卿だの男爵閣下だのって呼ばれてても、財産はみんな、奥さんの持参金と実家からの援助なんだもの。だからね、あたしも少しでも働いてお金貯めて、あの人の手助けがしたいんだ」
静かな言葉には、彼女の真心があふれていた。
――ぼくにはわかる。嘘が商売のぺてん師だからね。
貴顕の紳士が貧しい若い娘にささやく睦言には、千にひとつも真実なんかありはしない。生き馬の目を抜くロンドンで娼婦として生きてきたサリーにだって、それは充分にわかっているだろう。
それでも彼女は、ローレンス卿なる男の言葉を本気で信じているようだ。
「なのに彼、無理してあたしのためにコテージを借りて、ジムの薬代まで出してくれてるの」
「ジムのって……、じゃあ、まさか――」
「そうよ。ジムもいっしょに住まわせてもらってる」
「そうかい……。そりゃ良かったねえ。姉さんと弟がいっしょに住めるなら、安心だ。ローレンス卿は本当にあんたのことを大事にしてくれてるんだねえ」
ため息をつくように、モリス夫人が言った。彼女もローレンス卿の親切心を信頼したのか、それとも恋は盲目と、忠告するのを諦めたのか。
「だったらなおさら、あんたも体を大切にしなきゃ。繕い物に精出しすぎて、眼がしょぼしょぼの婆さんみたいになっちまったら、優しくてハンサムなローレンス卿に嫌われちまうよ?」
「それも大丈夫。あの人ね、あたしのどこに惚れたのって訊いたら、一番はあたしが作るミンスパイだって言ったのよ! あたしの作るパイはロンドン一だって!」
「おやまあ! たしかにそれなら大丈夫だ!」
モリス夫人もなかば呆れたように笑った。
「何が安心って、男は胃袋で惚れさせるのが一番だよ。年食って髪が真っ白になって、おっぱいが萎びちまっても、パイの味は変わらないからねえ」
「あら、彼、ほかにもいっぱい誉めてくれたわよ。いつも楽しそうに笑ってるとこがいいとか、あたしの歌を聴くだけで十才も若返った気分になるとか!」
「はいはい、ごちそうさま。おのろけ話はもうたくさんだよ。ほら、今週の手間賃。約束どおり上乗せしておいたからね。次は月曜日に来ておくれ」
ちゃり、ちゃりん、とわずかな硬貨の音がする。
「それと、これはジミー坊やにね」
「キドニーパイじゃない! いいの!?」
「ああ。あんたのミンスパイはロンドン一だろうけど、あたしのキドニーパイは英国一さ。これを食べれば、ジムもきっと元気になるよ」
「ありがとう、ヘッティおばさん! ありがと、ほんとに大好きよ!」
そしてサリーは、入ってきた時と同じく、風のように身軽に台所を飛び出していった。
台所は急に静まりかえり、モリス夫人のかすかなため息だけが聞こえる。
――ちょっと興味深い話だったな。
サリーが言っていたことがすべて本当なら、ロンドンじゃ滅多にない純愛だ。
彼女が騙されているのでなければいいが。他人事ながら、そう思ってしまう。
すると。
「今どき、珍しいくらい良い話じゃないか。あのサリーって娘が騙されてんじゃなきゃ、いいけどな」
ぼくの背後で、いきなり声がした。
「うわっ!?」
「男爵閣下のローレンス卿……て言うと、ミドルトン男爵かな? ローレンス・パウエル・ウェイクスリー・オブ・ミドルトン。ほかに誰かいたっけ」
「ね、ねぇ――いや、兄さん!?」
いったいいつの間に二階から降りてきたのか、姉さんがぼくのすぐ後ろに立っていた。
……驚いた。足音ひとつ聞こえなかった。
姉さんはすでにきちんと身支度を整え、髪もいつものように黒いサテンのリボンでひとつに括っている。クラヴァットは結んでいないが、昨夜ぼくがつけてしまった愛撫の跡は、ハイカラーのワイシャツで上手に隠していた。
「おまえが台所に降りていったきり、戻ってこねえからさ。きっとミセス・ハリエットにりんごの甘煮でも頼んでるんだろうと思って。そろそろできるころだろ?」
ああ、まったく。ぼくの浅知恵なんか、姉さんにはとっくの昔にお見通しってわけだ。
「ミドルトン男爵はかなりいい年齢で、ロンドンの社交界より田舎暮らしが好きな典型的な地方領主だったと思うけど。だから、社交シーズンになってもロンドンに来るのはレディ・ミドルトンと息子のジュリアンだけで、本人は田舎の領地に引っ込んだままだったはずだけどな」
「よく覚えてるね、兄さん」
「おまえもこのくらいは覚えとけ。なにがメシのタネになるか、わかんねえんだぞ」
「だからと言って、れっきとした紳士が台所で女中の話を盗み聞きなんて、誉められたことじゃございませんよ。ミスター・グレンフィールド」
しかめっ面のモリス夫人が廊下に顔を出した。
「ご兄弟揃って、なんてお行儀が悪いまねをなさるんです。お茶がご入り用でしたら、卓上鈴を鳴らしてメグをお呼びになってくださいまし」
「すまないね、ミセス・ハリエット。つい、待ちきれなくなっちゃって。あなたの作るアップルパイは世界一だから」
「ほんとにもう、お口がお上手でらっしゃいますこと。しかたありませんね、少しお待ちくださいな」
礼儀作法にやかましいベテラン家政婦も、アーノルド・グレンフィールド氏の人懐っこい無邪気な笑顔にはかなわない。モリス夫人はため息をつきながらいったん台所へ引っ込み、すぐにお茶とりんごの甘煮、おまけにスコーンまでワゴンに載せて戻ってきた。
「ねえ、ミセス・ヘッティ。あのサリーって娘、そんなに縫い物が上手なのかい? ならオレも、少し頼みたいものがあるんだけど」
「立ったままお菓子をつまみ食いなさってはいけません、ミスター・アーノルド」
ぼくたちを部屋に連れ戻すにはこれしか方法がないと思ったのか、モリス夫人は自分でワゴンを押して歩き出した。
そうやって二階のぼくたちの部屋に戻るまでの短いあいだに、姉さんはサリーのことをいろいろと聞き出してしまった。
もちろん、ぼくも協力したよ。姉さんが話を引き出す時間を稼ぐために、ワゴンを抱えて階段をあがる時、わざともたついたりしてさ。
ふつう、こういう時には男の従僕が呼ばれるものなんだが、
「いいよ、ミセス・モリス。ぼくが運ぶよ。スミザスも忙しいだろ? こんなことくらいでいちいち彼を呼んだら気の毒だ」
で、結局、従僕に運ばせるより二倍近い時間をかけて階段を登ってみたりして。
「ふうん、そうなんだ……。サリーは弟とふたり暮らしなんだね」
「ええ、弟のジムもそれはいい子で――。頭の良い子なんですよ。教会の慈善学校じゃあ、計算でも作文でもいつも一番で、先生に誉めていただいてるとか。ただ可哀想なことに、先月、馬車に轢かれて……」
「怪我したのかい?」
モリス夫人は涙をそっと抑えながら、小さくうなずいた。
「命はなんとか助かったんですけどね。足が……。可哀想に、あの子はまだ十になったばっかりだっていうのに……」
近年、人口が爆発的に増えているロンドンでは、それに比例して道の混雑もかなりひどくなっている。
貴族が乗る二頭立て、四頭立ての箱馬車に、二人乗りで車高が高く、安定感のないフェートン馬車。近郊から運ばれる野菜やビール樽を満載した荷馬車ものろのろ通る。速度も大きさもばらばらの車が道幅一杯に広がって、車体を擦りあわせんばかりにすり抜けようとするものだから、歩行者はおちおち道を横断することもできない。
馬車どうしの衝突事故や、歩行者が馬車の車輪に巻き込まれる交通事故は、日常茶飯事だった。
「お医者さまは、栄養をつけさせて、空気の良いところでゆっくり静養すれば、また歩けるようになるっておっしゃったんですけどね……」
そんな金、イーストエンドの娼婦に工面できるはずもない。
「サリーは今まで、ずっと苦労してきたんですよ。そりゃあ、イーストエンド育ちで苦労してない娘なんかいやしませんけれどね。でも、サリーはほんとに家族思いのいい娘なんです。小さい頃から働きづめで、親が死んでからは、自分の体を売って弟の面倒を見てきた。あの娘がやっと掴んだ幸せを、神さまにも、他の誰にも、そっとしておいてもらいたいんですよ……」
十才にもならない我が子を女衒に売り飛ばし、その金で飲んだくれる人でなしの親も多いなか、サリーはずっと幼い弟を守り続けてきたのか。かつてのリゼ姉さんのように。
だからだろうか。体を売り、教会の教えに背いて妻子ある男の囲われ者になり、世間から後ろ指をさされる女になっても、それでもサリーがあんなに明るく笑っていたのは。
愛する誰かを守ろうとする時、人はもっとも強くなる。どんな困難にも立ち向かう勇気を持てる。
「相手がローレンス・パウエル卿だっていうのは、たしかなのかい? まさか誰かが名前を騙ってるとか――」
「いいえ、それはございません」
姉さんの問いかけに、モリス夫人はきっぱりと断言した。
「私も心配になって、一度こっそり顔を確かめに行ったんですよ。間違いなく、ミドルトン男爵閣下ご本人でした。私もミセス・オルソンも、男爵閣下のことは若いころからよく存じ上げておりますから。閣下がご結婚なさってから十数年はお会いしておりませんでしたが、間違いございません」
モリス夫人やオルソン夫人が若き日に男爵閣下とどこで知り合いになったのかは、ぼくも姉さんも追求しなかった。
「それでは、お茶とお菓子のおかわりが欲しい時には、もうご自分で台所まで催促にいらしたりせずに、卓上鈴でメイドをお呼びくださいましね」
もう一度しっかり釘を刺してモリス夫人が居間を出ていくと、姉さんは待ちきれないようにさっそくテーブルについた。
ぼくはその左に立ち、いつもどおり給仕役を勤めながら、姉さんに尋ねた。
「なに考えてるの? 姉さん」
「別に、なにも。――あ、クロテッドクリーム取って」
「はい。ジャムは黒すぐりか。ぼくもスコーン一個もらおうかな。……だから、あのサリーって娘のこと。さっきから、やけに気にしてたじゃないか」
姉さんがこんなふうに誰かの話に興味を示す時は、たいがい面白い“仕事”のアイディアを思いついた時だ。
だが、ぼくの予想に反して、姉さんはひどく退屈そうな表情で言った。
「サリーが言ってたろ。ローレンス卿、ミドルトン男爵は、肩書きは持ってるけど、財布の中身は素寒貧だって。おおかた、夫人は土地成金か新興商人の出だろ。破産寸前の独身貴族を多額の持参金で釣って結婚して、レディの称号を手に入れたってわけさ。ま、よくある話だよな」
「うん、そうだね――」
男爵家の家計はすべて夫人の実家の援助によってまかなわれ、男爵は夫人に頭があがらない。その憂さを、外に若い女を囲うことによって晴らしている、か。たしかに、そんな話は英国中にごろごろしている。
「そんな貧乏貴族、どこを突っついたって金になんかなるもんか。あほらしい。興味持つだけ、時間の無駄。――あ、こら! このスコーンはミセス・モリスがオレのために焼いてくれたの! おまえにはあげない!」
「えー、いいじゃないか。一個くらい食べさせてよ」
「だめ! おまえみたいな節操なしの助平には、一個もやらない!!」
なんて、ひどく素っ気ないことを言っていたわりには、姉さんはオルソン夫人の下宿にサリーが来る日を指折り数えて待っていた。
「別になにも考えてねえよ。ただオレも、彼女に繕い物を頼みたいだけさ」
そう言って姉さんが引っ張り出してきたのは、真っ赤なサテンの手提げ袋をはじめ、絹のストッキングにレースのハンカチなどなど。みんな、姉さんが“仕事”でドレスを着る時に使う小物たちだ。どれも、あちこちほころびたり、小さなかぎ裂きができたりしている。
ぼくたちは商売柄、夜会用の盛装で全力疾走したり、ベランダから飛び降りたり、棘だらけの植え込みに飛び込んで身をひそめたり、ということがたびたびある。どんなに上等な恰好をしていても、かまっていられない。
そして、何でもそつなくこなす姉さんが、裁縫だけは苦手にしているのを、ぼくは知っている。
「繕い物はいいけど、サリーに何て説明するつもり? 紳士がこんな女性用の小間物ばかり持ってるなんて、どう見てもおかしいじゃないか」
「大丈夫。それもちゃんと考えてあるから」
そして月曜日。
階段の窓から勝手口を見おろしていた姉さんは、サリーが来たのを確認すると、さっそく台所へ降りていった。
補修が終わってきちんとアイロン掛けされたシーツを、モリス夫人がいそいそとリネン室へ運んでいったその隙に、廊下からこっそりサリーを手招きする。
「あたしになにかご用ですか? ミスター」
見知らぬ若い紳士に呼ばれて、サリーはいささか警戒しながら返事をした。
なぜぼくがこんなに事細かに知っているかと言えば、こっそり様子を見ていたからだ。階段の踊り場の陰から。姉さんがサリーになんて言い訳するか、興味があったしね。
「すまないけど、繕い物を頼みたいんだ。ミセス・モリスには内緒にしておいてほしい」
リネン室では姉さんからチップをもらったメグが、ネズミが出たのなんのと騒いで、五分ばかりモリス夫人を足止めしているはずだ。
「実は……、これなんだけどね」
「あら。みんな女物ですね」
「そうなんだ。どうやら、オレの留守に弟が部屋に連れ込んだ『一夜の恋人』たちの忘れ物らしいんだよ」
一夜の恋人、ヴィーナスの娘、夜のジュリエット――みやびな呼び方はいろいろとあるが、要は娼婦のことだ。
「彼女らにしてみれば、わざと古いのを置き忘れて、それを見つけたセディに新しいのをおねだりするつもりだったんだろうが……」
「ああ、たしかに良くある手ですね。あたしも……いえ、なんでもないです」
へえ、そうなんだ。
じゃあ姉さんも、おんぼろのをわざわざぼくに見せたってことは、もしかして新しいレティキュールが欲しかったの?
それなら、そんな回りくどいことをしなくても、言ってくれればいくらでもプレゼントしてあげたのに。
「こんなのがミセス・モリスやミセス・オルソンに見つかったら、セディのヤツ、大目玉だ。下手したらこの下宿を追い出されちまう。だからその前に、これを全部持ち主に返させて、二度とここへ連れ込まないよう、たっぷり説教してやらなけりゃ」
「ただ突き返すんじゃなく、繕ってあれば、弟さんも女の子たちにプレゼントを買わずに済むってことですね?」
「そのとおり。これ、チップだよ。その代わり、ミセス・モリスにはくれぐれも内緒にしておいてくれるね?」
姉さんはサリーに何枚もの硬貨を握らせた。
チップとすれば破格だが、口止め料というなら妥当な金額だろう。
「そういうことなら、わかりました。ヘッティおばさんには絶対見つからないようにしますから」
「ありがとう、助かるよ」
サリーは預かった繕い物の枚数を手早く数え、そして眉をひそめた。
「もしかしてこれ……、全部違う女の子の持ち物ですか? あたし、読み書きはできないんですけど――でも、このイニシャル、全部違う字ですよね?」
彼女はハンカチに刺繍された飾り文字を示した。
「ああ、本当だ。あいつ、いったい何人の女を部屋まで連れ込んだんだ?」
それは姉さんが“仕事”のたびに、女性家庭教師のミランダ・ハートだの、フランス帰りの高級娼婦ベル・セレストだの、オペラ歌手のグゥイネス・マグワイアだの、いろいろと違う名前を使うからだろ。
「本当にしょうがないヤツだ。娼婦にすらフラれまくってんのか」
心底うんざりしたように、姉さんは肩をすくめてみせた。
「意外ですねえ。弟さん、ちらっと見かけましたけど、背が高くてハンサムなのに」
「よっぽどナニかがお粗末なんだろ。……いや、失敬。女性の前で言うべきセリフじゃなかったな」
サリーが愉快そうにけたけたと笑い、姉さんもくすくす笑っていた。
まあ、いいさ。
イーストエンドで生まれ育ち、人には言えない辛酸を舐めて来た姉さんが、同じようにつらい思いをしてきたサリーを少しでも応援したいと思う気持ちは、ぼくにも痛いほどわかる。
ローレンス卿を愛し、愛されているサリーは、イーストエンドの娘なら誰もが夢見る幸せを掴んだんだ。
お上品なご婦人がたや教会の神さまはきっと、サリーのしていることを、ふしだらな、不道徳な、と責めるだろう。
けれど、サリーと同じ社会のどん底ではいずり回っていたぼくたちは、けしてそんなことは思わない。
祭壇の前での誓いがなんだ。結婚証明書なんて、一枚の紙っきれじゃないか。そんなものより、ローレンス卿のために働いて、一ペニーでも貯金したいと言うサリーの気持ちのほうがずっと尊く、美しいんだ。
けなげで可愛いサリーのポケットが少し重たくなって、そして姉さんがちょっぴり幸せな気持ちになれるなら、ぼくの評判が少々悪くなるくらい、今は我慢してやるさ。
もっとも、この埋め合わせは今夜たっぷりと姉さんに――それとも高級娼婦のベル? オペラ歌手のグゥイネス?――してもらうけどね。
ぼくのなにがそんなにお粗末なのか、とことん教えてもらおうじゃないか。泣いて謝ったって、今夜は許してやるもんか。
そんなことがあってから、ぼくたちはサリーと次第に仲良くなった。
姉さんはレティキュールなどの小物のほかにも、シーツやカーテンの修理や、仕事用のドレスの裾かがりまでサリーに頼んでいた。……シーツはともかく、あの花柄のドレスはいったい何と言って、サリーに補修を頼んだんだろう?
仕事を離れても、散歩の途中で会えば挨拶を交わし、時には彼女の家の前でちょっと立ち話をしたりする。
ローレンス卿が彼女のために借りたコテージはピカデリー広場のそばにあり、ぼくたちが劇場や行きつけのコーヒーハウスに出かける時のちょうど通り道にあたるのだ。
近隣の住人も、帽子屋、手袋屋などの看板を出しながら、その実、サリーと同じような立場の女性や、あるいはそういった商売を引退し、蓄えた財産で悠々自適の生活に入ったご婦人などが多いようだ。サリーにとってはまあまあ居心地の良い街だろう。
そして、サリーがオルソン夫人の下宿に繕い物を届けに来た時には、
「お待ち、サリー。外はひどい雨じゃないか。もう少し小やみになるまで、雨宿りしておゆき」
モリス夫人がそう言ってお茶に誘うのに、ぼくたちも混ぜてもらったりもした。
秋から冬に変わろうとしているこの時期、ロンドンに降る雨はひどく冷たい。空気に混じる煤煙が溶け込んで、べたべたと全身にまとわりつくのだ。まだ陽も高い時間だというのに、窓の外は夕暮れのように薄暗い。
「あたしね、ジムのほかにも四人、弟や妹がいたんです。でもみんな、小さいころに死んじまって……。母さんも、最後の弟を産む時に、一緒に天国へ逝っちまいました。生き残ったのはあたしとジムだけ――」
熱いお茶を飲みながら、サリーがそんな打ち明け話をしたくなるのも、わかる気がした。
「だからね、あたし、ジムと約束したんです。先に逝っちまった弟や妹たちの分まで、あたしたちふたりがうーんと長生きするって。あたしが白髪で歯抜けの婆さんになって、ジムも頭のてっぺんが修道士の剃髪みたいなまぁるいハゲになるまで、絶対に長生きして、お互いを笑ってやるんだって」
「そうだね、そりゃいいや」
哀しい過去を、まるでなんでもないことのように話して、笑ってみせるサリー。そうやって笑えるようになるまで、いったいどれほど涙を流しただろう。
けれどその涙に同情されることを、サリーはけして喜ばないに違いない。
つらい過去を嘆いているだけでは、生きていけない。どんなに苦しくても、笑っていなければ、明日は見えてこないのだ。
「ああ、雨があがったみたい。ほら、西の空が明るい。明日はきっと晴れますよ!」
サリーの笑顔に、ぼくたちも笑顔でうなずいた。
晴れた日にはコテージの庭に洗いたてのシーツを干しながら、サリーはいつも明るく歌を口ずさんでいた。
「ロンドンデリーだね、その歌」
「ええ! あたし、この歌が一番好きよ。……というより、ほかの歌は知らないの」
茶目っ気たっぷりに笑うサリーの瞳は、茶色の水晶みたいに輝いていた。
ぼくたちも散歩の途中でしばし立ち止まり、幸せそうなサリーの歌声に聞き入った。ローレンス卿が「聞くだけで十才も若返る」と言った意味がよくわかった。
そうするうちに、ぼくと姉さんは、サリーの弟のジムとも知り合いになった。
交通事故の後遺症に苦しむ少年は、天気の良い日には良く玄関先の花壇のそばに長椅子を出して座り、道行く人を飽きもせずに眺めているのだ。
人見知りがちの少年は気安くうち解けてはくれなかったものの、それでもぼくたちが家の前を通りかかるたびに、ひょこりと頭を下げて挨拶するようになった。
サリーに良く似た茶色の髪にナッツ色の瞳。鼻のあたまにうっすらと散るそばかすまでサリーにそっくりだ。
風通しの良い木陰に座るジムの手元には、たいがい子ども向けの絵本や小冊子があった。
「本が好きかい?」
コーヒーハウスで何紙もの新聞を読みあさって――新聞は一紙あたり五ペンスから七ペンスもする。個人で何紙も買えるものじゃない。あれこれ読みたいと思ったら、コーヒーハウスでねばるのが一番だ――きた帰り道、ぼくはジムに声をかけてみた。
母さんが生きていたころは、ぼくもよく“仕事”帰りの母さんからお土産に小冊子をもらった。内容は単純な説話や聖人の伝説、おとぎ話などだ。
ジムは少しとまどった様子を見せながらも、こくんと小さくうなずいた。
「おじさんが……いっぱい持ってきてくれるんだ」
「おじさん?」
おそらく、ミドルトン男爵ローレンス卿のことだろう。
「おじさんのこと、好きかい?」
その質問にも、ジムはやはりうなずいた。
「最初は……いやだった。だっておじさん、髪なんか真っ白で、死んだ父ちゃんよりも年上に見えたし――。でも、姉ちゃんを大事にしてくれる。優しい人だ」
ジムは、前歯が生え替わりかけている口元で、照れくさそうに笑った。
そしてある雨の夕暮れ、ぼくと姉さんはジムが言ったとおりの光景を見た。
冬の訪れが間近いことを告げる冷たい雨に降りこめられて、あたりは日没前からすっかり暗くなっていた。
ぼくと姉さんはインヴァネスコートの衿を立て、慣れた道を走ってオルソン夫人の下宿へ戻る途中だった。
道すがら、ふと見上げると、サリーの家の窓にはあたたかな灯火が揺れていた。
突然、玄関のドアが開き、サリーの声が響く。
「だめだって言ったでしょ、ジム! うちじゃ猫なんか飼えないの」
玄関へあがる階段にジムの姿がある。その腕には、小さな仔猫が抱かれていた。
「だってこいつ、まだこんなにちっちゃいよ。うちの前で泣いてたんだよ。きっと親が死んじゃったんだ」
「可哀想なのはわかるけど、でもね……」
すると、奥から落ち着いた声が聞こえた。
「いいじゃないか、サリー。男の子はたいがい、犬や猫を飼いたがるものだよ」
「サー・ローレンス……」
「おいで、ジム。家の中で猫を飼うには、小さな頃からの躾が大事だ。私が教えてあげよう」
「いいの? おじさん」
ためらいがちにジムが訊ねる。
「もちろんだよ。さあ、まずはその子を洗ってやろう。でないと、家の中がノミだらけになるぞ」
「うん!」
「良かったね、ジム。あんたがきちんと面倒を見るのよ。それと、サー・ローレンスにお礼を言いなさい」
「ありがとう! ありがと、おじさん!」
「おじさんじゃなくて、サー・ローレンス! ちゃんと敬称をつけなさい!」
「いいんだよ、おじさんで。おじいさんでなくて、嬉しいくらいだ」
ジムを手招きするローレンス卿の姿は、逆光になってぼくたちからはその表情を見ることはできなかった。わかったのは、ひょろっと背の高いその体つきくらいだ。
サリーとジムとローレンス卿、三人が並んで、オレンジ色の灯火の中に寄り添うシルエットとなって浮かび上がる。
「今夜はゆっくりしていけるんでしょ? あたし……ミンスパイを焼いたの」
「ミンスパイ? クリスマスはまだ先だよ、姉ちゃん」
「いいんだよ、ジム。私が食べたいと言ったんだ。きみのお姉さんが焼くミンスパイは、ロンドン一だからね。毎日でも食べたいくらいだ」
「うん、おれも! おれも、姉ちゃんのミンスパイが一番好きだ!」
家へ入っていったジムの嬉しそうな声を聞けば、ほかには何の説明もいらなかった。
あそこにいるのは、幸福な家族だ。
世間一般で言う家族とは少し違うだろう。法律も、教会も、認めてはくれない。
けれど間違いなくあの三人は、ささやかな幸せを大切にわかちあう、一組の家族だ。
玄関の扉が閉じられた。暗い道には、窓からの灯火がわずかに届くだけになる。
ぼくと姉さんは、黙って目と目を見交わした。
姉さんが微笑む。嬉しそうに、あったかそうに、子どもみたいにあけっぴろげの笑顔で。
――幸せだね。良かったね。
リゼの、声にならない言葉が聞こえるようだ。
ぼくはそっと彼女を抱き寄せた。
サリーのささやかな幸せを、自分のことのように喜ぶこのひとが、いじらしくて、いとおしくて。
そうだね、良かったね。サリーは幸せそうだよ。
ジムも、ローレンス卿も、まだ少し照れくさそうなぎこちなさは残るものの、嬉しそうだ。
そして、ぼくたちもね。
こんなに冷たい霧雨の中でも、ほら、こうしてふたりで寄り添えば、あったかい。
ぼくは姉さんが濡れないように、インヴァネスコートを開けてそっと包み込んだ。
ほっそりとしてしなやかな体を腕に抱き、やわらかな金髪にほほを押し当てる。はちみつ色の髪は霧に湿って、凍り付いたように冷たくなっていた。
「可哀想に。寒いだろ?」
が、姉さんはぷくっとほほをふくらませた。
「なんでおまえ、そんなにでっかいんだよ」
「え?」
「初めて会った時は、こーんながりがりのやせっぽちだったのに。背丈だって、オレのほうがちょっと高かったんだぞ。それがいつの間にか、おまえだけやたらのっぽになりやがって」
「そりゃ、まあ……」
それはね。きみをこうして包んであげたかったからだよ。
きみをこの腕に抱いて、守りたいんだ。もう二度と、凍えて眠る夜がないように。きみの優しさが、純粋さが、卑劣で強欲な人間に踏みにじられることのないように。
ねえ、リゼ。ぼくはきみを守れているか? ぼくの体温はきみをちゃんとあたためているか?
姉さん。ぼくの大切なアネリーゼ。ぼくがここにいることで、きみは少しでも心安らぐことができているかい? きみがぼくに与えてくれた優しさや安らぎや、この身に余る多くのものに、ぼくは半分でも酬いることができただろうか?
「可愛くない」
ぶんむくれた顔で、姉さんはつぶやいた。
「オレよりでっかい弟なんて、ちっとも可愛くない」
でもぼくは、そんなあなたが可愛くてしょうがないよ。
「そう? じゃあ役割を替えようか? ぼくが兄貴で、リゼが弟で」
「なんだと!?」
リゼはぼくの腕の中から手を伸ばし、ぼくの鼻面をきゅうっと抓った。
「生意気だぞ、セディのくせに!」
「あっ! あいたたたっ! ひどいよ、姉さん!」
「この恰好の時は姉さんて呼ぶなって言ったろーが!! こんな間抜けが兄貴だなんて、百年早いっての!」
ぼくの腕の中で、リゼが小鳥のように笑う。
ああ、そうだ。きみがそうして笑っていてくれるなら。
ぼくは何だってできる。
街灯の光を避け、人目を忍んで暗がりに隠れながら、ぼくたちはそっとキスをした。
「帰ろう」
「うん」
ぼくたちは、サリーの家の灯りを分けてもらったみたいに胸の奥にあたたかいものを抱えながら、家路についた。
ああ、そうだね。こんな寒い夜はひとりでも多くの人が、安心する我が家で、愛する人とともに眠れるといいね。
あたたかい幸せを、分かち合えるといいね。
けれど、サリーとジムのささやかな幸せは長くは続かなかった。
ロンドンの街に、この冬初めての雪が舞った日。
――サリーこと、もと娼婦のサラ・ホワイトは、無惨な他殺体となって発見された。
その日は朝からどんよりと曇り、日中でも室内ではランプの光が必要なくらいだった。
ぼくと姉さんは心地よい暖かさを求めて、昼過ぎからずっと階下のキッチンにいた。
モリス夫人の城ともいうべきキッチンは、広くはないけれど機能的に整えられ、鍋やフライパンはいつもぴかぴかだ。大きなかまどは、メイドのメグが朝一番に火を入れてから、モリス夫人が就寝するまで燃え続けている。そこではいつもお湯が沸いていて、お願いすればモリス夫人ご自慢のジンジャーブレッドや焼きたてのスコーンもすぐに出て来る。
こんな寒い、思わず人恋しくなるような日の午後には、最高の居場所だ。
モリス夫人もそれをちゃんとわかっていて、こういう時はやかましいことはあまり言わず、ぼくたちを迎え入れてくれるのだ。
だがその日は、
「どうしたんだろう……。遅いねえ」
モリス夫人は柱に架けられた振り子時計を見上げ、何度も同じ言葉をつぶやいていた。
「どうかしたの、ミセス・モリス」
「いえね、何でもないんですよ、ミスター・セオドア。ただ……サリーが――」
「サリーがどうかしたのかい?」
姉さんの問いかけに、モリス夫人は深くため息ををついた。
「来ないんですよ。今日の午前中、また繕い物を取りに来る約束だったのに」
時計の針はすでに午後2時をさしている。
「こんなこと、初めてです。家で寝込んでいるんでもなけりゃいいんだけど……。いいえ、そうだとしても、なにか連絡をよこすはずですよ。ジムはまだ良く走れなくても、そこらの子どもに使い走りを頼むなり、何なり……」
モリス夫人は居ても立っても居られない様子で、キッチンの中をうろうろと歩き回り始めた。
「ほんとに、なんかあったんでなけりゃ良いんだけど。今日は霧でだいぶ見通しも悪いし……」
ぼくと姉さんは小さく目を見交わし、軽くうなずいた。
「なら、ぼくたちがちょっと様子を見てくるよ」
「いえ、そんな……。でも、あの――申しわけございません、お願いできますでしょうか」
「心配しないで、ミセス・モリス。サリーはぼくらにとっても大事な友達だからね」
早くも姉さんは廊下へ出て、従僕のスミザスに外套とステッキの用意を頼んでいる。
「大丈夫だよ。サリーはきっと、風邪かなんかでちょっと寝込んでるだけさ。使いを頼んだ子どもが、忘れてそのへんで遊びほうけているんだよ」
「ええ……。ええ、私もそう思います。そうだと良いんですけど――」
不安そうに玄関まで見送りに出たモリス夫人に、笑顔で軽く手を振って、ぼくたちは街へと走り出した。
ロンドンの霧は重たく、冷たい。その中を数分歩いただけで、衣服がじっとりと湿ってくる。
この濃い霧の中では、建物も馬車も人もすべて灰色のおぼろな影法師でしかなく、物音さえも吸収されてしまう。
「急ごう」
シルクハットを目深にかぶって、姉さんは言った。
「嫌な予感がする」
「あ、待って、姉さん! 今、辻馬車を拾うから――」
「走ったほうが早い!」
ぼくも姉さんのあとを追い、濡れた石畳を蹴って走り出した。
冷たい風の吹く街角には、人影もない。
刻一刻と暗くなっていく中、ぼくたちは白い息を吐きながらサリーのコテージへと向かった。
馬車道から細い路地へ入り、角を曲がる。
途中で姉さんを追い越し、ぼくは先にサリーの家の前へ立った。
そして。
「姉さん、これ……!」
思わず息を呑む。
言葉が出てこない。
サリーとジムが暮らすこぢんまりしたコテージは、まるで暴徒の略奪に遭ったかのような有様だった。
庭の花壇はめちゃくちゃに踏み荒らされ、玄関の扉は半分外れて、冷たい風にぎいぎいと音をたてて揺れていた。二階の窓ガラスが割れ、引き裂かれて風に吹かれるカーテンがまるで幽霊のようだ。
「な、なんだ、これ……。いったいなにが――」
「セディ! 中に入るぞ!」
姉さんはぼくを押しのけるようにして、先にコテージへ駆け込んだ。
「待って、姉さん! ひとりじゃ危ない!」
慌ててぼくも跡を追う。
室内はさらに酷い状態だった。
家具はことごとくたたき壊され、床一面に割れた食器の破片が散乱している。クッションやカーテンは刃物でずたずたに切り裂かれ、ソファーは一部が真っ黒く焦げていた。床には泥だらけの乱雑な足跡。
これは、尋常じゃない。
「サリー……? サリー、いないのか!? サリー! ジム!!」
灯りもない家の中で、姉さんとぼくは声を張り上げた。
返事はない。
不気味な沈黙が重くのしかかる。
指先が震える。息が詰まりそうだ。
「ね、姉さん。これ……」
「おまえは外を捜せ! オレは二階を見てくる!」
「う、うん、わかった!」
命じられるまま、ぼくは家の外へ飛び出した。
外はもう、夕闇に閉ざされようとしていた。濃い霧ともあいまって、自分の靴の爪先さえ良く見えないくらいだ。
「ジム! サリー! いないのか!? 返事をしてくれ、サリー!!」
精一杯声を張り上げても、すべてが厚い霧のカーテンに吸い込まれてしまうみたいだ。
ふたりの名前を呼びながら、ぼくはコテージの裏手へ回り込んだ。
ここもかなり荒らされている。台所へ通じる勝手口のドアは完全に外れて、ふたつにへし折られていた。
そして勝手口の階段に点々と残された黒い染みは……あれは、血痕じゃないのか!?
いったい何があったんだ。
どす黒い不安が胸の中を浸食する。足元から恐怖が震えとなってこみ上げてくる。
「ジム――ジム! サリー!」
ふたりの名前を叫ぶ声が、まるで悲鳴のようになった時。
かすかに、物音がした。
こと……と、小さな小さなその音は、台所の横、半地下になった物置から、たしかに聞こえてきた。
「え……っ。ジム? ――ジムか!?」
ぼくは物置の扉に飛びついた。
半地下の物置は、暖炉で使うコークスや花壇にかぶせる藁などを保管しておくための、穴蔵のようなところだ。灯りもなく、中の温度は外と変わらない。人間が長時間居られる場所ではない。
さび付いた錠前は、きちんと鍵がかかっておらず、ただ引っかかっているだけだ。古びた扉は、すぐに開いた。
「ジム! ジム、ここにいるのか!? サリー! ぼくだ、セオドア・グレンフィールドだ!いたら返事をしてくれ!」
真っ暗な物置に向かって、ぼくは怒鳴った。洞穴のような暗がりを覗き込み、必死に目を凝らす。
暗闇の中、かすかに動くものがある。
白っぽい、寝間着の袖だ!
積み上げられたコークスの麻袋の陰に、小さな体が丸くうずくまっている。
「ジム!!」
ぼくは慌てて物置の奥へ駆け込んだ。
痩せっぽちの少年は薄い木綿の寝間着1枚で、冷たく湿った土間の上に倒れていた。
「ジム! ジム、しっかりしろ!!」
抱え上げた体は、氷柱みたいに冷たかった。唇は真っ青になり、小刻みにふるえるばかりで、いくら名前を呼んでも返事がない。手足は凍えきっているのに、額に手を当てると、そこだけは火のように熱い。呼吸も弱く浅く、ぜいぜいと喉に絡むような音がする。
ぼくは外套を脱ぎ、ジムの体をくるんだ。
「姉さん! 姉さん、ジムがいた!」
二階に向かって声を張り上げると、だだだ……ッと転げ落ちるような足音とともに、姉さんが駆け下りてきた。
「サリーは!?」
「わからない。ジムだけが、裏の物置に隠れていたんだ」
それを聞くと、姉さんは一瞬きゅっと唇を噛み、何かを推し量るような表情をした。
そしてすぐに顔をあげ、ぼくに走れとうながす。
「下宿へ戻ろう。ジムの手当てが先だ」
ぼくは黙ってうなずき、ジムの小さな体をしっかりと抱え直した。
運良く通りかかった辻馬車をつかまえ、ぼくたちはオルソン夫人の下宿へ戻った。
ぐったりとして意識のないジムを見ると、オルソン夫人は即座にスミザスに命じて医者を呼ばせ、モリス夫人は空いている使用人部屋のベッドを整えた。
もともとあまり丈夫ではなかった少年は、そのまま丸二日のあいだ高熱に浮かされ、生死の境をさまよった。
「しっかりおし、ジム。頑張るんだよ。早く元気になって、姉さんに無事な顔を見せておやり……!」
一睡もせずにジムに付き添っていたモリス夫人は、少年の手を握りしめ、懸命に声をかけ続けていた。
「そうだよ、サリーは無事だ。きっとどこかに身を隠してるんだよ。ねえジム、そうだよね。あんたがこうして、あたしたちのところに来てくれたんだもの。あんたの姉さんだって無事で生きてるよね……!」
が、彼女の祈りも虚しく、ぼくたちがジムを保護してから三日後。
サリーの遺体がテムズ河に浮かんだ。
見つかった時、サリーは飾り気のないシュミーズ一枚きりの姿だった。全身には惨い暴行の痕が残り、あのそばかすの似合う愛らしい顔立ちは、元の人相がわからなくなるほど青黒く腫れあがっていた。
革の死体袋に押し込められていたサリーは、その口を縛る紐が立ち合いの警察官の手でほどかれた時も、髪が冷たく湿ったままだった。
そしてその首にははっきりと、人の手で絞められた痕が残されていた。
「男だな」
ぼくにだけ聞こえるよう、小さな声で姉さんがつぶやいた。
ぼくたちはオルソン夫人とモリス夫人に頼まれ、遺族の代理としてサリーの亡骸を引き取りにロンドン警察へ出向いたのだ。
サリーのただひとりの肉親であるジムは、まだベッドから起きあがることもできないし、よしんば歩けたとしても、まさかあんな幼い少年をスコットランドヤードの死体安置所に来させるわけにはいかない。
そして、サリーにあのコテージを用意したミドルトン男爵ローレンス・パウエル・ウェイクスリーが、彼女の死を悼んでその亡骸を引き取るなんて、ぼくも姉さんも、サリーの関係者は誰ひとりとして思っていなかった。
「でかい手だ。女じゃない。サリーが小柄で、殴られて弱ってたとはいえ、人ひとり、素手で絞め殺せるんだ。犯人は爺さんや病人じゃないだろう」
ぼくも姉さんの推察に黙ってうなずいた。
だが警察は、サリーの素性を知ると、まともに捜査しよういう素振りさえ見せなくなった。
「殺されたのはイーストエンドの娼婦だったんだろう? どうせ金のことで客と揉めて、テムズに放り込まれたに決まってる。欲張るからこういう目に遭うんだ。自業自得だろう」
その偏見と侮蔑に満ちた態度を、ぼくたちは責めなかった。
ぼくたちだって、警察になど何の期待もしていない。ただ同様に、軽蔑に満ちた目でふんぞり返る制服連中を見返しただけだ。
しょせん警察は弱者の味方じゃない。金と権力を持つ者にのみ尻尾を振る飼い犬だ。今ここで、この怠惰な警官どもをぶん殴ってやったところで、サリーの無念は晴らせはしないのだ。
ぼくたちはやり場のない怒りに唇を噛みしめながら、物言わぬ姿になったサリーを毛布にくるんで荷馬車に乗せ、オルソン夫人の下宿へ連れ帰った。
サリーとジムが暮らしていたコテージは、すでに人の出入りができないよう戸口に板が打ち付けられ、「貸家」の札が架けられている。サー・ローレンスが賃貸契約をうち切ったのだろう。
オルソン夫人は不幸な娘のために、使っていない借間のベッドを空けてくれた。上等の寝具をひとそろい、無駄にしてくれたのだ。
「サリー……。可哀想に。寒かったねえ。怖かったねえ……。もう大丈夫だよ、安心おし……」
モリス夫人は涙で声をつまらせながら、裸同然のサリーに自分の若いころのドレスを着せてやり、髪もきれいに整えてやった。土気色の唇に紅を挿し、あまりに酷い傷には包帯も巻いてやる。死者が傷の痛みを感じているわけではないが、そうせずにはいられないモリス夫人の気持ちは、ぼくたちにも充分わかった。
涙を拭きながらサリーの身支度を整えてやっていたモリス夫人は、やがて、小さく声をあげた。
「サリー、あんた……!」
「どうかしたの、ミセス・モリス?」
姉さんの問いかけに、モリス夫人は返事をしなかった。ただ、サリーの死に顔を見つめたまま、ぼろぼろと大きな涙をこぼす。
「ミセス・モリス?」
「ひどい……。ひどい、あんまりだ、こんな――!」
モリス夫人は怒りに満ちた嗚咽を漏らし、サリーの腹部にそっと手を添えた。
サリーのおなかには、まだこの世の光を見ない小さな命があったのだ。
サリーを絞め殺した犯人は、知ってか知らずか、もうひとつの命をも奪った。ふたりの人間を同時に殺したのだった。
「そうだったのかい、サリー……。つらかったねえ……。悔しかったよねえ……っ!!」
モリス夫人の無念と犯人への怒りは、それ以上言葉にならなかった。温厚な料理人は冷たくなった娘の亡骸を抱きしめ、振り絞るような声をあげて泣き崩れた。
「こんなの……、ジムになんて言えばいいんだ――」
ぼくは思わずつぶやいた。
ジムはまだ、使用人部屋のベッドで眠っている。姉ともうひとり、小さな甥か姪の死を、あの少年は知らないのだ。
この事実を、誰が、何と言って伝えればいいんだろう。
姉さんも何も言わない。ただふるえる両手を強く握りしめ、叫びだしたいのを必死に堪えている。
ぼくたちは棒きれのように、無様に部屋の片隅に立ち尽くすしかなかった。
が、
「知ってたよ」
細い、けれどはっきりとした声がした。
「おれ、知ってたよ。姉ちゃんがもう生きてないって」
「――ジム!」
慌てて振り返った先には、痩せたジムの姿があった。
病みおとろえ、まるで幽鬼のような少年は、足を引きずり、片手を壁について体を支えながら、それでも両眼に強い光を宿し、しっかりと目の前のすべてのものごとを見据えていた。
「姉ちゃんのおなかにサー・ローレンスの赤ん坊がいたことも、あいつらが姉ちゃんを無理やり連れていって、殺したことも。……おれは全部知ってるんだ――!!」
「ジム!!」
ジムの体がぐらりと揺れた。
姉さんが駆け寄り、高熱で力を失った体を背後から抱きとめる。
「もういい。ベッドに戻れ。あとはオレたちが――」
「いやだ! 寝てなんかいられるもんか! おれはあいつらを殺しに行くんだ!!」
アーノルド・グレンフィールドの腕の中で、少年は火がついたように吠え、叫んだ。小さな手負いの野生動物みたいに暴れて、自分を捕らえる腕をふりほどこうとする。
「殺してやる! あいつらが姉ちゃんにしたのと同じように、おれがあいつらを殴って、縛り上げて、殺してやるんだ!」
「そんなこと言っちゃいけないよ、ジム! そんなことは神さまが……」
神さまがお許しにならない、と言おうとしたのだろう。だがモリス夫人は途中ではっと言葉を飲み込んだ。
人を殺したいと叫んだだけでお咎めになるというのなら、なぜ神さまは、サリーが酷たらしく殺されるのを黙ってお見過ごしになられたのか。ジムがこんなに泣き叫び、モリス夫人も祈り続け、神さまのお裁きを待っているのに、サリーを殺した犯人にどうしてまだ裁きの雷が降ってこないのか。
その疑問に答える言葉を、ぼくたちは誰も持っていない。
――いいや、違う。なにを甘いことを言っているんだ、セオドア・グレンフィールド。おまえは知っているはずじゃないか。この世界に、神さまなんかいやしないって。
今まで生きてきて、一度だって神さまの慈悲を感じたことなどありはしない。どんなに祈ったって、神さまも、誰も、ぼくたちを助けてはくれないんだ。
ぼくに手をさしのべてくれたのは、いつだって、黄金色の瞳をした魔女だった。
「離して! 離せ、離せよっ! 殺してやる、あいつらみんな、殺してやるんだあッ!!」
ジムは自分を拘束する腕をふりほどこうと、滅茶苦茶に暴れた。痩せた腕やこぶしが姉さんの顔や胸にあたる。
けれど姉さんは、少年をしっかりと抱きしめ、離さなかった。
涙に濡れて真っ赤になったジムの両眼を、そっと手のひらで覆う。
視野をふさがれ、ジムは一瞬もがくのをやめた。
その隙に、姉さんは低い声で歌い出した。
ロンドンデリーの歌。サリーがよく口ずさんでいた、あの歌だ。
普段の低く抑えた作り声とは違う、優しく澄んだアネリーゼの歌声が流れる。それはサリーの声より幾分低かったけれど、それでも激昂した少年にいとしい姉の面影を思い出させるには充分だった。
ジムの体から次第に力が抜け、やがて姉さんの腕にぐったりともたれかかる。
「大丈夫だよ、ジム」
低く、姉さんがつぶやいた。
もはや叫ぶ力もなくなり、その腕につかまってふるえるだけの少年を、しっかりと抱きしめて。
「思い出すんだ。きみが一番好きな、姉さんの顔を」
「おれが……好きな、姉ちゃん――?」
「そうだよ。笑ってるだろ? きみが知ってる姉さんは、いつだって明るく笑ってたはずだ。つぐみみたいに歌が上手で、あったかいいい匂いがして……」
仔鹿のような茶色の瞳、愛らしいそばかす。どんなにつらいことがあっても、明るい笑顔を忘れなかった娘。誰からも愛された、サリー・ホワイト。
アーノルド・グレンフィールドのささやきに導かれて、暗闇に閉ざされた少年の視界には、はっきりと姉の姿が見えていただろう。優しく笑う、たんぽぽみたいな姉の姿が。
「姉ちゃん……姉ちゃん、ねえちゃん――!」
言葉は嗚咽に飲み込まれて、消えた。
もう姉さんは、ジムを抑えつけている必要はなかった。ひとりぽっちになってしまった少年は、イーストエンドのぺてん師の腕にしがみつき、泣きじゃくった。
そのくせのある髪を優しく撫でながら、姉さんはつぶやくように言った。
「心配はいらない、ジム。おまえの気持ちはわかっているから」
姉さんは――アーノルド・グレンフィールドはもう、泣いてはいなかった。
金色の瞳が、廊下の薄暗がりを見つめ、燃えるように輝く。まるでそこに、彼女の許し難い敵がひそんでいるかのように。
「信じてくれ。たとえ神さまが見逃しても、誰かきっと、おまえの声を聞いているさ。――悪魔か、魔女か……誰かが、きっと」
「もうすぐですよ。茶器はミスター・アーノルドのお気に入りの、ボーンチャイナにしましょうね」
やがて、ハーブの淡く甘いかおりが漂い始めた時。
「おはようございます、ミセス・ハリエット! お仕立てものを届けに来ましたぁ!」
明るい声がして、台所の勝手口が開いた。
涼しい風とともに、茶色の髪の若い娘が顔を出す。
「あら、おはよう、サリー。早いねえ」
ハウスメイドのメグより二、三才くらい年上だろうか。サリーと呼ばれた娘は、何枚ものシーツやテーブルクロスをきちんと畳んで積み重ねた大きなかごを抱えていた。
質素なブルーグレーのドレスに洗いざらしのエプロン、化粧っ気もなく、髪はシンプルなシニョンにまとめただけのその娘に、ぼくはどこか見覚えがあるような気がした。仔鹿のような茶色の眼と、鼻のあたまに薄く散ったそばかすが愛らしい。
モリス夫人はぽよぽよと弾むような足取りでサリーの前へ行き、かごを受け取った。
「おやまあ、あんた、これ全部仕上げちまったのかい?」
「もちろん! だって、金曜までに終わらせたら手間賃はずんでくれるって、ヘッティおばさん、言ったじゃない!」
「そりゃ言ったけど、サリー、今日はまだ水曜だよ」
かぎ裂きやほころびがきちんと繕われているか、ひとつひとつチェックしながら、モリス夫人は苦笑した。
「うちみたいに若い殿方を何人もお世話する下宿屋じゃあ、毎日山のように繕い物が出るから、仕事が速いのは大助かりだけどねえ」
こういう働く女性たちのおしゃべりの場に、男がいるのはよろしくない。ぼくはふたりに軽く挨拶をして、手ぶりでモリス夫人に「お茶が用意できたら上へ届けて」と合図すると、そのまま台所を立ち去ることにした。
――でも、誰だっけ、あの娘。たしかにどこかで見た気がするんだが。
「あんまり根を詰めすぎるんじゃないよ、サリー。体をこわしちまったら、元も子もないじゃないか」
モリス夫人が声をひそめるようにして、娘に忠告している。
「だいたいあんた、もうこんなに働かなくたっていいはずだろ? それともローレンス卿は、あんたにろくすっぽお手当をくれないのかい?」
「ううん、そんなことないよ。あたしひとりが食べてくには、充分すぎるくらいもらってる。家だって、ピカデリー広場のそばにすてきなコテージを借りてくれたし」
――ああ、そうか。
あのサリーという娘をどこで見たか、思い出した。数ヶ月前まで『王冠とアヒル』亭にいた、娼婦たちのひとりだ。
その時は派手に化粧をして、たいがいの娼婦がそうするように、カミーユ・マリとフランス風の源氏名を名乗っていた。そうか、あの娘の本名はサリーというのか。
会話から察するに、彼女はローレンス卿という紳士の囲われ者になったようだ。
娼婦たちにとって、金持ちの紳士の愛人になることは、たいそうな出世だ。衣食住の面倒をすべてみてもらえるし、なにより夜ごとに街へ出て、不特定多数の男の相手をしなくていい。
だが、紳士の囲われ者になっているのにまだ繕い物の賃仕事をしているなんて、それも妙な話だ。
「でもね、あたし、あの人からもらうお金は少しでも多く貯金しておきたいの」
思いがけない一言を聞いて、ぼくは思わず足を止めた。
貯金だって? 紳士の愛人ってのは、パトロンの金を湯水のように使い、ひとりでも多くの男を破産させるのを至上命題としているんじゃないのか?
「だってあの人、ほんとは自分の自由になるお金なんか、一ペニーもないのよ。卿だの男爵閣下だのって呼ばれてても、財産はみんな、奥さんの持参金と実家からの援助なんだもの。だからね、あたしも少しでも働いてお金貯めて、あの人の手助けがしたいんだ」
静かな言葉には、彼女の真心があふれていた。
――ぼくにはわかる。嘘が商売のぺてん師だからね。
貴顕の紳士が貧しい若い娘にささやく睦言には、千にひとつも真実なんかありはしない。生き馬の目を抜くロンドンで娼婦として生きてきたサリーにだって、それは充分にわかっているだろう。
それでも彼女は、ローレンス卿なる男の言葉を本気で信じているようだ。
「なのに彼、無理してあたしのためにコテージを借りて、ジムの薬代まで出してくれてるの」
「ジムのって……、じゃあ、まさか――」
「そうよ。ジムもいっしょに住まわせてもらってる」
「そうかい……。そりゃ良かったねえ。姉さんと弟がいっしょに住めるなら、安心だ。ローレンス卿は本当にあんたのことを大事にしてくれてるんだねえ」
ため息をつくように、モリス夫人が言った。彼女もローレンス卿の親切心を信頼したのか、それとも恋は盲目と、忠告するのを諦めたのか。
「だったらなおさら、あんたも体を大切にしなきゃ。繕い物に精出しすぎて、眼がしょぼしょぼの婆さんみたいになっちまったら、優しくてハンサムなローレンス卿に嫌われちまうよ?」
「それも大丈夫。あの人ね、あたしのどこに惚れたのって訊いたら、一番はあたしが作るミンスパイだって言ったのよ! あたしの作るパイはロンドン一だって!」
「おやまあ! たしかにそれなら大丈夫だ!」
モリス夫人もなかば呆れたように笑った。
「何が安心って、男は胃袋で惚れさせるのが一番だよ。年食って髪が真っ白になって、おっぱいが萎びちまっても、パイの味は変わらないからねえ」
「あら、彼、ほかにもいっぱい誉めてくれたわよ。いつも楽しそうに笑ってるとこがいいとか、あたしの歌を聴くだけで十才も若返った気分になるとか!」
「はいはい、ごちそうさま。おのろけ話はもうたくさんだよ。ほら、今週の手間賃。約束どおり上乗せしておいたからね。次は月曜日に来ておくれ」
ちゃり、ちゃりん、とわずかな硬貨の音がする。
「それと、これはジミー坊やにね」
「キドニーパイじゃない! いいの!?」
「ああ。あんたのミンスパイはロンドン一だろうけど、あたしのキドニーパイは英国一さ。これを食べれば、ジムもきっと元気になるよ」
「ありがとう、ヘッティおばさん! ありがと、ほんとに大好きよ!」
そしてサリーは、入ってきた時と同じく、風のように身軽に台所を飛び出していった。
台所は急に静まりかえり、モリス夫人のかすかなため息だけが聞こえる。
――ちょっと興味深い話だったな。
サリーが言っていたことがすべて本当なら、ロンドンじゃ滅多にない純愛だ。
彼女が騙されているのでなければいいが。他人事ながら、そう思ってしまう。
すると。
「今どき、珍しいくらい良い話じゃないか。あのサリーって娘が騙されてんじゃなきゃ、いいけどな」
ぼくの背後で、いきなり声がした。
「うわっ!?」
「男爵閣下のローレンス卿……て言うと、ミドルトン男爵かな? ローレンス・パウエル・ウェイクスリー・オブ・ミドルトン。ほかに誰かいたっけ」
「ね、ねぇ――いや、兄さん!?」
いったいいつの間に二階から降りてきたのか、姉さんがぼくのすぐ後ろに立っていた。
……驚いた。足音ひとつ聞こえなかった。
姉さんはすでにきちんと身支度を整え、髪もいつものように黒いサテンのリボンでひとつに括っている。クラヴァットは結んでいないが、昨夜ぼくがつけてしまった愛撫の跡は、ハイカラーのワイシャツで上手に隠していた。
「おまえが台所に降りていったきり、戻ってこねえからさ。きっとミセス・ハリエットにりんごの甘煮でも頼んでるんだろうと思って。そろそろできるころだろ?」
ああ、まったく。ぼくの浅知恵なんか、姉さんにはとっくの昔にお見通しってわけだ。
「ミドルトン男爵はかなりいい年齢で、ロンドンの社交界より田舎暮らしが好きな典型的な地方領主だったと思うけど。だから、社交シーズンになってもロンドンに来るのはレディ・ミドルトンと息子のジュリアンだけで、本人は田舎の領地に引っ込んだままだったはずだけどな」
「よく覚えてるね、兄さん」
「おまえもこのくらいは覚えとけ。なにがメシのタネになるか、わかんねえんだぞ」
「だからと言って、れっきとした紳士が台所で女中の話を盗み聞きなんて、誉められたことじゃございませんよ。ミスター・グレンフィールド」
しかめっ面のモリス夫人が廊下に顔を出した。
「ご兄弟揃って、なんてお行儀が悪いまねをなさるんです。お茶がご入り用でしたら、卓上鈴を鳴らしてメグをお呼びになってくださいまし」
「すまないね、ミセス・ハリエット。つい、待ちきれなくなっちゃって。あなたの作るアップルパイは世界一だから」
「ほんとにもう、お口がお上手でらっしゃいますこと。しかたありませんね、少しお待ちくださいな」
礼儀作法にやかましいベテラン家政婦も、アーノルド・グレンフィールド氏の人懐っこい無邪気な笑顔にはかなわない。モリス夫人はため息をつきながらいったん台所へ引っ込み、すぐにお茶とりんごの甘煮、おまけにスコーンまでワゴンに載せて戻ってきた。
「ねえ、ミセス・ヘッティ。あのサリーって娘、そんなに縫い物が上手なのかい? ならオレも、少し頼みたいものがあるんだけど」
「立ったままお菓子をつまみ食いなさってはいけません、ミスター・アーノルド」
ぼくたちを部屋に連れ戻すにはこれしか方法がないと思ったのか、モリス夫人は自分でワゴンを押して歩き出した。
そうやって二階のぼくたちの部屋に戻るまでの短いあいだに、姉さんはサリーのことをいろいろと聞き出してしまった。
もちろん、ぼくも協力したよ。姉さんが話を引き出す時間を稼ぐために、ワゴンを抱えて階段をあがる時、わざともたついたりしてさ。
ふつう、こういう時には男の従僕が呼ばれるものなんだが、
「いいよ、ミセス・モリス。ぼくが運ぶよ。スミザスも忙しいだろ? こんなことくらいでいちいち彼を呼んだら気の毒だ」
で、結局、従僕に運ばせるより二倍近い時間をかけて階段を登ってみたりして。
「ふうん、そうなんだ……。サリーは弟とふたり暮らしなんだね」
「ええ、弟のジムもそれはいい子で――。頭の良い子なんですよ。教会の慈善学校じゃあ、計算でも作文でもいつも一番で、先生に誉めていただいてるとか。ただ可哀想なことに、先月、馬車に轢かれて……」
「怪我したのかい?」
モリス夫人は涙をそっと抑えながら、小さくうなずいた。
「命はなんとか助かったんですけどね。足が……。可哀想に、あの子はまだ十になったばっかりだっていうのに……」
近年、人口が爆発的に増えているロンドンでは、それに比例して道の混雑もかなりひどくなっている。
貴族が乗る二頭立て、四頭立ての箱馬車に、二人乗りで車高が高く、安定感のないフェートン馬車。近郊から運ばれる野菜やビール樽を満載した荷馬車ものろのろ通る。速度も大きさもばらばらの車が道幅一杯に広がって、車体を擦りあわせんばかりにすり抜けようとするものだから、歩行者はおちおち道を横断することもできない。
馬車どうしの衝突事故や、歩行者が馬車の車輪に巻き込まれる交通事故は、日常茶飯事だった。
「お医者さまは、栄養をつけさせて、空気の良いところでゆっくり静養すれば、また歩けるようになるっておっしゃったんですけどね……」
そんな金、イーストエンドの娼婦に工面できるはずもない。
「サリーは今まで、ずっと苦労してきたんですよ。そりゃあ、イーストエンド育ちで苦労してない娘なんかいやしませんけれどね。でも、サリーはほんとに家族思いのいい娘なんです。小さい頃から働きづめで、親が死んでからは、自分の体を売って弟の面倒を見てきた。あの娘がやっと掴んだ幸せを、神さまにも、他の誰にも、そっとしておいてもらいたいんですよ……」
十才にもならない我が子を女衒に売り飛ばし、その金で飲んだくれる人でなしの親も多いなか、サリーはずっと幼い弟を守り続けてきたのか。かつてのリゼ姉さんのように。
だからだろうか。体を売り、教会の教えに背いて妻子ある男の囲われ者になり、世間から後ろ指をさされる女になっても、それでもサリーがあんなに明るく笑っていたのは。
愛する誰かを守ろうとする時、人はもっとも強くなる。どんな困難にも立ち向かう勇気を持てる。
「相手がローレンス・パウエル卿だっていうのは、たしかなのかい? まさか誰かが名前を騙ってるとか――」
「いいえ、それはございません」
姉さんの問いかけに、モリス夫人はきっぱりと断言した。
「私も心配になって、一度こっそり顔を確かめに行ったんですよ。間違いなく、ミドルトン男爵閣下ご本人でした。私もミセス・オルソンも、男爵閣下のことは若いころからよく存じ上げておりますから。閣下がご結婚なさってから十数年はお会いしておりませんでしたが、間違いございません」
モリス夫人やオルソン夫人が若き日に男爵閣下とどこで知り合いになったのかは、ぼくも姉さんも追求しなかった。
「それでは、お茶とお菓子のおかわりが欲しい時には、もうご自分で台所まで催促にいらしたりせずに、卓上鈴でメイドをお呼びくださいましね」
もう一度しっかり釘を刺してモリス夫人が居間を出ていくと、姉さんは待ちきれないようにさっそくテーブルについた。
ぼくはその左に立ち、いつもどおり給仕役を勤めながら、姉さんに尋ねた。
「なに考えてるの? 姉さん」
「別に、なにも。――あ、クロテッドクリーム取って」
「はい。ジャムは黒すぐりか。ぼくもスコーン一個もらおうかな。……だから、あのサリーって娘のこと。さっきから、やけに気にしてたじゃないか」
姉さんがこんなふうに誰かの話に興味を示す時は、たいがい面白い“仕事”のアイディアを思いついた時だ。
だが、ぼくの予想に反して、姉さんはひどく退屈そうな表情で言った。
「サリーが言ってたろ。ローレンス卿、ミドルトン男爵は、肩書きは持ってるけど、財布の中身は素寒貧だって。おおかた、夫人は土地成金か新興商人の出だろ。破産寸前の独身貴族を多額の持参金で釣って結婚して、レディの称号を手に入れたってわけさ。ま、よくある話だよな」
「うん、そうだね――」
男爵家の家計はすべて夫人の実家の援助によってまかなわれ、男爵は夫人に頭があがらない。その憂さを、外に若い女を囲うことによって晴らしている、か。たしかに、そんな話は英国中にごろごろしている。
「そんな貧乏貴族、どこを突っついたって金になんかなるもんか。あほらしい。興味持つだけ、時間の無駄。――あ、こら! このスコーンはミセス・モリスがオレのために焼いてくれたの! おまえにはあげない!」
「えー、いいじゃないか。一個くらい食べさせてよ」
「だめ! おまえみたいな節操なしの助平には、一個もやらない!!」
なんて、ひどく素っ気ないことを言っていたわりには、姉さんはオルソン夫人の下宿にサリーが来る日を指折り数えて待っていた。
「別になにも考えてねえよ。ただオレも、彼女に繕い物を頼みたいだけさ」
そう言って姉さんが引っ張り出してきたのは、真っ赤なサテンの手提げ袋をはじめ、絹のストッキングにレースのハンカチなどなど。みんな、姉さんが“仕事”でドレスを着る時に使う小物たちだ。どれも、あちこちほころびたり、小さなかぎ裂きができたりしている。
ぼくたちは商売柄、夜会用の盛装で全力疾走したり、ベランダから飛び降りたり、棘だらけの植え込みに飛び込んで身をひそめたり、ということがたびたびある。どんなに上等な恰好をしていても、かまっていられない。
そして、何でもそつなくこなす姉さんが、裁縫だけは苦手にしているのを、ぼくは知っている。
「繕い物はいいけど、サリーに何て説明するつもり? 紳士がこんな女性用の小間物ばかり持ってるなんて、どう見てもおかしいじゃないか」
「大丈夫。それもちゃんと考えてあるから」
そして月曜日。
階段の窓から勝手口を見おろしていた姉さんは、サリーが来たのを確認すると、さっそく台所へ降りていった。
補修が終わってきちんとアイロン掛けされたシーツを、モリス夫人がいそいそとリネン室へ運んでいったその隙に、廊下からこっそりサリーを手招きする。
「あたしになにかご用ですか? ミスター」
見知らぬ若い紳士に呼ばれて、サリーはいささか警戒しながら返事をした。
なぜぼくがこんなに事細かに知っているかと言えば、こっそり様子を見ていたからだ。階段の踊り場の陰から。姉さんがサリーになんて言い訳するか、興味があったしね。
「すまないけど、繕い物を頼みたいんだ。ミセス・モリスには内緒にしておいてほしい」
リネン室では姉さんからチップをもらったメグが、ネズミが出たのなんのと騒いで、五分ばかりモリス夫人を足止めしているはずだ。
「実は……、これなんだけどね」
「あら。みんな女物ですね」
「そうなんだ。どうやら、オレの留守に弟が部屋に連れ込んだ『一夜の恋人』たちの忘れ物らしいんだよ」
一夜の恋人、ヴィーナスの娘、夜のジュリエット――みやびな呼び方はいろいろとあるが、要は娼婦のことだ。
「彼女らにしてみれば、わざと古いのを置き忘れて、それを見つけたセディに新しいのをおねだりするつもりだったんだろうが……」
「ああ、たしかに良くある手ですね。あたしも……いえ、なんでもないです」
へえ、そうなんだ。
じゃあ姉さんも、おんぼろのをわざわざぼくに見せたってことは、もしかして新しいレティキュールが欲しかったの?
それなら、そんな回りくどいことをしなくても、言ってくれればいくらでもプレゼントしてあげたのに。
「こんなのがミセス・モリスやミセス・オルソンに見つかったら、セディのヤツ、大目玉だ。下手したらこの下宿を追い出されちまう。だからその前に、これを全部持ち主に返させて、二度とここへ連れ込まないよう、たっぷり説教してやらなけりゃ」
「ただ突き返すんじゃなく、繕ってあれば、弟さんも女の子たちにプレゼントを買わずに済むってことですね?」
「そのとおり。これ、チップだよ。その代わり、ミセス・モリスにはくれぐれも内緒にしておいてくれるね?」
姉さんはサリーに何枚もの硬貨を握らせた。
チップとすれば破格だが、口止め料というなら妥当な金額だろう。
「そういうことなら、わかりました。ヘッティおばさんには絶対見つからないようにしますから」
「ありがとう、助かるよ」
サリーは預かった繕い物の枚数を手早く数え、そして眉をひそめた。
「もしかしてこれ……、全部違う女の子の持ち物ですか? あたし、読み書きはできないんですけど――でも、このイニシャル、全部違う字ですよね?」
彼女はハンカチに刺繍された飾り文字を示した。
「ああ、本当だ。あいつ、いったい何人の女を部屋まで連れ込んだんだ?」
それは姉さんが“仕事”のたびに、女性家庭教師のミランダ・ハートだの、フランス帰りの高級娼婦ベル・セレストだの、オペラ歌手のグゥイネス・マグワイアだの、いろいろと違う名前を使うからだろ。
「本当にしょうがないヤツだ。娼婦にすらフラれまくってんのか」
心底うんざりしたように、姉さんは肩をすくめてみせた。
「意外ですねえ。弟さん、ちらっと見かけましたけど、背が高くてハンサムなのに」
「よっぽどナニかがお粗末なんだろ。……いや、失敬。女性の前で言うべきセリフじゃなかったな」
サリーが愉快そうにけたけたと笑い、姉さんもくすくす笑っていた。
まあ、いいさ。
イーストエンドで生まれ育ち、人には言えない辛酸を舐めて来た姉さんが、同じようにつらい思いをしてきたサリーを少しでも応援したいと思う気持ちは、ぼくにも痛いほどわかる。
ローレンス卿を愛し、愛されているサリーは、イーストエンドの娘なら誰もが夢見る幸せを掴んだんだ。
お上品なご婦人がたや教会の神さまはきっと、サリーのしていることを、ふしだらな、不道徳な、と責めるだろう。
けれど、サリーと同じ社会のどん底ではいずり回っていたぼくたちは、けしてそんなことは思わない。
祭壇の前での誓いがなんだ。結婚証明書なんて、一枚の紙っきれじゃないか。そんなものより、ローレンス卿のために働いて、一ペニーでも貯金したいと言うサリーの気持ちのほうがずっと尊く、美しいんだ。
けなげで可愛いサリーのポケットが少し重たくなって、そして姉さんがちょっぴり幸せな気持ちになれるなら、ぼくの評判が少々悪くなるくらい、今は我慢してやるさ。
もっとも、この埋め合わせは今夜たっぷりと姉さんに――それとも高級娼婦のベル? オペラ歌手のグゥイネス?――してもらうけどね。
ぼくのなにがそんなにお粗末なのか、とことん教えてもらおうじゃないか。泣いて謝ったって、今夜は許してやるもんか。
そんなことがあってから、ぼくたちはサリーと次第に仲良くなった。
姉さんはレティキュールなどの小物のほかにも、シーツやカーテンの修理や、仕事用のドレスの裾かがりまでサリーに頼んでいた。……シーツはともかく、あの花柄のドレスはいったい何と言って、サリーに補修を頼んだんだろう?
仕事を離れても、散歩の途中で会えば挨拶を交わし、時には彼女の家の前でちょっと立ち話をしたりする。
ローレンス卿が彼女のために借りたコテージはピカデリー広場のそばにあり、ぼくたちが劇場や行きつけのコーヒーハウスに出かける時のちょうど通り道にあたるのだ。
近隣の住人も、帽子屋、手袋屋などの看板を出しながら、その実、サリーと同じような立場の女性や、あるいはそういった商売を引退し、蓄えた財産で悠々自適の生活に入ったご婦人などが多いようだ。サリーにとってはまあまあ居心地の良い街だろう。
そして、サリーがオルソン夫人の下宿に繕い物を届けに来た時には、
「お待ち、サリー。外はひどい雨じゃないか。もう少し小やみになるまで、雨宿りしておゆき」
モリス夫人がそう言ってお茶に誘うのに、ぼくたちも混ぜてもらったりもした。
秋から冬に変わろうとしているこの時期、ロンドンに降る雨はひどく冷たい。空気に混じる煤煙が溶け込んで、べたべたと全身にまとわりつくのだ。まだ陽も高い時間だというのに、窓の外は夕暮れのように薄暗い。
「あたしね、ジムのほかにも四人、弟や妹がいたんです。でもみんな、小さいころに死んじまって……。母さんも、最後の弟を産む時に、一緒に天国へ逝っちまいました。生き残ったのはあたしとジムだけ――」
熱いお茶を飲みながら、サリーがそんな打ち明け話をしたくなるのも、わかる気がした。
「だからね、あたし、ジムと約束したんです。先に逝っちまった弟や妹たちの分まで、あたしたちふたりがうーんと長生きするって。あたしが白髪で歯抜けの婆さんになって、ジムも頭のてっぺんが修道士の剃髪みたいなまぁるいハゲになるまで、絶対に長生きして、お互いを笑ってやるんだって」
「そうだね、そりゃいいや」
哀しい過去を、まるでなんでもないことのように話して、笑ってみせるサリー。そうやって笑えるようになるまで、いったいどれほど涙を流しただろう。
けれどその涙に同情されることを、サリーはけして喜ばないに違いない。
つらい過去を嘆いているだけでは、生きていけない。どんなに苦しくても、笑っていなければ、明日は見えてこないのだ。
「ああ、雨があがったみたい。ほら、西の空が明るい。明日はきっと晴れますよ!」
サリーの笑顔に、ぼくたちも笑顔でうなずいた。
晴れた日にはコテージの庭に洗いたてのシーツを干しながら、サリーはいつも明るく歌を口ずさんでいた。
「ロンドンデリーだね、その歌」
「ええ! あたし、この歌が一番好きよ。……というより、ほかの歌は知らないの」
茶目っ気たっぷりに笑うサリーの瞳は、茶色の水晶みたいに輝いていた。
ぼくたちも散歩の途中でしばし立ち止まり、幸せそうなサリーの歌声に聞き入った。ローレンス卿が「聞くだけで十才も若返る」と言った意味がよくわかった。
そうするうちに、ぼくと姉さんは、サリーの弟のジムとも知り合いになった。
交通事故の後遺症に苦しむ少年は、天気の良い日には良く玄関先の花壇のそばに長椅子を出して座り、道行く人を飽きもせずに眺めているのだ。
人見知りがちの少年は気安くうち解けてはくれなかったものの、それでもぼくたちが家の前を通りかかるたびに、ひょこりと頭を下げて挨拶するようになった。
サリーに良く似た茶色の髪にナッツ色の瞳。鼻のあたまにうっすらと散るそばかすまでサリーにそっくりだ。
風通しの良い木陰に座るジムの手元には、たいがい子ども向けの絵本や小冊子があった。
「本が好きかい?」
コーヒーハウスで何紙もの新聞を読みあさって――新聞は一紙あたり五ペンスから七ペンスもする。個人で何紙も買えるものじゃない。あれこれ読みたいと思ったら、コーヒーハウスでねばるのが一番だ――きた帰り道、ぼくはジムに声をかけてみた。
母さんが生きていたころは、ぼくもよく“仕事”帰りの母さんからお土産に小冊子をもらった。内容は単純な説話や聖人の伝説、おとぎ話などだ。
ジムは少しとまどった様子を見せながらも、こくんと小さくうなずいた。
「おじさんが……いっぱい持ってきてくれるんだ」
「おじさん?」
おそらく、ミドルトン男爵ローレンス卿のことだろう。
「おじさんのこと、好きかい?」
その質問にも、ジムはやはりうなずいた。
「最初は……いやだった。だっておじさん、髪なんか真っ白で、死んだ父ちゃんよりも年上に見えたし――。でも、姉ちゃんを大事にしてくれる。優しい人だ」
ジムは、前歯が生え替わりかけている口元で、照れくさそうに笑った。
そしてある雨の夕暮れ、ぼくと姉さんはジムが言ったとおりの光景を見た。
冬の訪れが間近いことを告げる冷たい雨に降りこめられて、あたりは日没前からすっかり暗くなっていた。
ぼくと姉さんはインヴァネスコートの衿を立て、慣れた道を走ってオルソン夫人の下宿へ戻る途中だった。
道すがら、ふと見上げると、サリーの家の窓にはあたたかな灯火が揺れていた。
突然、玄関のドアが開き、サリーの声が響く。
「だめだって言ったでしょ、ジム! うちじゃ猫なんか飼えないの」
玄関へあがる階段にジムの姿がある。その腕には、小さな仔猫が抱かれていた。
「だってこいつ、まだこんなにちっちゃいよ。うちの前で泣いてたんだよ。きっと親が死んじゃったんだ」
「可哀想なのはわかるけど、でもね……」
すると、奥から落ち着いた声が聞こえた。
「いいじゃないか、サリー。男の子はたいがい、犬や猫を飼いたがるものだよ」
「サー・ローレンス……」
「おいで、ジム。家の中で猫を飼うには、小さな頃からの躾が大事だ。私が教えてあげよう」
「いいの? おじさん」
ためらいがちにジムが訊ねる。
「もちろんだよ。さあ、まずはその子を洗ってやろう。でないと、家の中がノミだらけになるぞ」
「うん!」
「良かったね、ジム。あんたがきちんと面倒を見るのよ。それと、サー・ローレンスにお礼を言いなさい」
「ありがとう! ありがと、おじさん!」
「おじさんじゃなくて、サー・ローレンス! ちゃんと敬称をつけなさい!」
「いいんだよ、おじさんで。おじいさんでなくて、嬉しいくらいだ」
ジムを手招きするローレンス卿の姿は、逆光になってぼくたちからはその表情を見ることはできなかった。わかったのは、ひょろっと背の高いその体つきくらいだ。
サリーとジムとローレンス卿、三人が並んで、オレンジ色の灯火の中に寄り添うシルエットとなって浮かび上がる。
「今夜はゆっくりしていけるんでしょ? あたし……ミンスパイを焼いたの」
「ミンスパイ? クリスマスはまだ先だよ、姉ちゃん」
「いいんだよ、ジム。私が食べたいと言ったんだ。きみのお姉さんが焼くミンスパイは、ロンドン一だからね。毎日でも食べたいくらいだ」
「うん、おれも! おれも、姉ちゃんのミンスパイが一番好きだ!」
家へ入っていったジムの嬉しそうな声を聞けば、ほかには何の説明もいらなかった。
あそこにいるのは、幸福な家族だ。
世間一般で言う家族とは少し違うだろう。法律も、教会も、認めてはくれない。
けれど間違いなくあの三人は、ささやかな幸せを大切にわかちあう、一組の家族だ。
玄関の扉が閉じられた。暗い道には、窓からの灯火がわずかに届くだけになる。
ぼくと姉さんは、黙って目と目を見交わした。
姉さんが微笑む。嬉しそうに、あったかそうに、子どもみたいにあけっぴろげの笑顔で。
――幸せだね。良かったね。
リゼの、声にならない言葉が聞こえるようだ。
ぼくはそっと彼女を抱き寄せた。
サリーのささやかな幸せを、自分のことのように喜ぶこのひとが、いじらしくて、いとおしくて。
そうだね、良かったね。サリーは幸せそうだよ。
ジムも、ローレンス卿も、まだ少し照れくさそうなぎこちなさは残るものの、嬉しそうだ。
そして、ぼくたちもね。
こんなに冷たい霧雨の中でも、ほら、こうしてふたりで寄り添えば、あったかい。
ぼくは姉さんが濡れないように、インヴァネスコートを開けてそっと包み込んだ。
ほっそりとしてしなやかな体を腕に抱き、やわらかな金髪にほほを押し当てる。はちみつ色の髪は霧に湿って、凍り付いたように冷たくなっていた。
「可哀想に。寒いだろ?」
が、姉さんはぷくっとほほをふくらませた。
「なんでおまえ、そんなにでっかいんだよ」
「え?」
「初めて会った時は、こーんながりがりのやせっぽちだったのに。背丈だって、オレのほうがちょっと高かったんだぞ。それがいつの間にか、おまえだけやたらのっぽになりやがって」
「そりゃ、まあ……」
それはね。きみをこうして包んであげたかったからだよ。
きみをこの腕に抱いて、守りたいんだ。もう二度と、凍えて眠る夜がないように。きみの優しさが、純粋さが、卑劣で強欲な人間に踏みにじられることのないように。
ねえ、リゼ。ぼくはきみを守れているか? ぼくの体温はきみをちゃんとあたためているか?
姉さん。ぼくの大切なアネリーゼ。ぼくがここにいることで、きみは少しでも心安らぐことができているかい? きみがぼくに与えてくれた優しさや安らぎや、この身に余る多くのものに、ぼくは半分でも酬いることができただろうか?
「可愛くない」
ぶんむくれた顔で、姉さんはつぶやいた。
「オレよりでっかい弟なんて、ちっとも可愛くない」
でもぼくは、そんなあなたが可愛くてしょうがないよ。
「そう? じゃあ役割を替えようか? ぼくが兄貴で、リゼが弟で」
「なんだと!?」
リゼはぼくの腕の中から手を伸ばし、ぼくの鼻面をきゅうっと抓った。
「生意気だぞ、セディのくせに!」
「あっ! あいたたたっ! ひどいよ、姉さん!」
「この恰好の時は姉さんて呼ぶなって言ったろーが!! こんな間抜けが兄貴だなんて、百年早いっての!」
ぼくの腕の中で、リゼが小鳥のように笑う。
ああ、そうだ。きみがそうして笑っていてくれるなら。
ぼくは何だってできる。
街灯の光を避け、人目を忍んで暗がりに隠れながら、ぼくたちはそっとキスをした。
「帰ろう」
「うん」
ぼくたちは、サリーの家の灯りを分けてもらったみたいに胸の奥にあたたかいものを抱えながら、家路についた。
ああ、そうだね。こんな寒い夜はひとりでも多くの人が、安心する我が家で、愛する人とともに眠れるといいね。
あたたかい幸せを、分かち合えるといいね。
けれど、サリーとジムのささやかな幸せは長くは続かなかった。
ロンドンの街に、この冬初めての雪が舞った日。
――サリーこと、もと娼婦のサラ・ホワイトは、無惨な他殺体となって発見された。
その日は朝からどんよりと曇り、日中でも室内ではランプの光が必要なくらいだった。
ぼくと姉さんは心地よい暖かさを求めて、昼過ぎからずっと階下のキッチンにいた。
モリス夫人の城ともいうべきキッチンは、広くはないけれど機能的に整えられ、鍋やフライパンはいつもぴかぴかだ。大きなかまどは、メイドのメグが朝一番に火を入れてから、モリス夫人が就寝するまで燃え続けている。そこではいつもお湯が沸いていて、お願いすればモリス夫人ご自慢のジンジャーブレッドや焼きたてのスコーンもすぐに出て来る。
こんな寒い、思わず人恋しくなるような日の午後には、最高の居場所だ。
モリス夫人もそれをちゃんとわかっていて、こういう時はやかましいことはあまり言わず、ぼくたちを迎え入れてくれるのだ。
だがその日は、
「どうしたんだろう……。遅いねえ」
モリス夫人は柱に架けられた振り子時計を見上げ、何度も同じ言葉をつぶやいていた。
「どうかしたの、ミセス・モリス」
「いえね、何でもないんですよ、ミスター・セオドア。ただ……サリーが――」
「サリーがどうかしたのかい?」
姉さんの問いかけに、モリス夫人は深くため息ををついた。
「来ないんですよ。今日の午前中、また繕い物を取りに来る約束だったのに」
時計の針はすでに午後2時をさしている。
「こんなこと、初めてです。家で寝込んでいるんでもなけりゃいいんだけど……。いいえ、そうだとしても、なにか連絡をよこすはずですよ。ジムはまだ良く走れなくても、そこらの子どもに使い走りを頼むなり、何なり……」
モリス夫人は居ても立っても居られない様子で、キッチンの中をうろうろと歩き回り始めた。
「ほんとに、なんかあったんでなけりゃ良いんだけど。今日は霧でだいぶ見通しも悪いし……」
ぼくと姉さんは小さく目を見交わし、軽くうなずいた。
「なら、ぼくたちがちょっと様子を見てくるよ」
「いえ、そんな……。でも、あの――申しわけございません、お願いできますでしょうか」
「心配しないで、ミセス・モリス。サリーはぼくらにとっても大事な友達だからね」
早くも姉さんは廊下へ出て、従僕のスミザスに外套とステッキの用意を頼んでいる。
「大丈夫だよ。サリーはきっと、風邪かなんかでちょっと寝込んでるだけさ。使いを頼んだ子どもが、忘れてそのへんで遊びほうけているんだよ」
「ええ……。ええ、私もそう思います。そうだと良いんですけど――」
不安そうに玄関まで見送りに出たモリス夫人に、笑顔で軽く手を振って、ぼくたちは街へと走り出した。
ロンドンの霧は重たく、冷たい。その中を数分歩いただけで、衣服がじっとりと湿ってくる。
この濃い霧の中では、建物も馬車も人もすべて灰色のおぼろな影法師でしかなく、物音さえも吸収されてしまう。
「急ごう」
シルクハットを目深にかぶって、姉さんは言った。
「嫌な予感がする」
「あ、待って、姉さん! 今、辻馬車を拾うから――」
「走ったほうが早い!」
ぼくも姉さんのあとを追い、濡れた石畳を蹴って走り出した。
冷たい風の吹く街角には、人影もない。
刻一刻と暗くなっていく中、ぼくたちは白い息を吐きながらサリーのコテージへと向かった。
馬車道から細い路地へ入り、角を曲がる。
途中で姉さんを追い越し、ぼくは先にサリーの家の前へ立った。
そして。
「姉さん、これ……!」
思わず息を呑む。
言葉が出てこない。
サリーとジムが暮らすこぢんまりしたコテージは、まるで暴徒の略奪に遭ったかのような有様だった。
庭の花壇はめちゃくちゃに踏み荒らされ、玄関の扉は半分外れて、冷たい風にぎいぎいと音をたてて揺れていた。二階の窓ガラスが割れ、引き裂かれて風に吹かれるカーテンがまるで幽霊のようだ。
「な、なんだ、これ……。いったいなにが――」
「セディ! 中に入るぞ!」
姉さんはぼくを押しのけるようにして、先にコテージへ駆け込んだ。
「待って、姉さん! ひとりじゃ危ない!」
慌ててぼくも跡を追う。
室内はさらに酷い状態だった。
家具はことごとくたたき壊され、床一面に割れた食器の破片が散乱している。クッションやカーテンは刃物でずたずたに切り裂かれ、ソファーは一部が真っ黒く焦げていた。床には泥だらけの乱雑な足跡。
これは、尋常じゃない。
「サリー……? サリー、いないのか!? サリー! ジム!!」
灯りもない家の中で、姉さんとぼくは声を張り上げた。
返事はない。
不気味な沈黙が重くのしかかる。
指先が震える。息が詰まりそうだ。
「ね、姉さん。これ……」
「おまえは外を捜せ! オレは二階を見てくる!」
「う、うん、わかった!」
命じられるまま、ぼくは家の外へ飛び出した。
外はもう、夕闇に閉ざされようとしていた。濃い霧ともあいまって、自分の靴の爪先さえ良く見えないくらいだ。
「ジム! サリー! いないのか!? 返事をしてくれ、サリー!!」
精一杯声を張り上げても、すべてが厚い霧のカーテンに吸い込まれてしまうみたいだ。
ふたりの名前を呼びながら、ぼくはコテージの裏手へ回り込んだ。
ここもかなり荒らされている。台所へ通じる勝手口のドアは完全に外れて、ふたつにへし折られていた。
そして勝手口の階段に点々と残された黒い染みは……あれは、血痕じゃないのか!?
いったい何があったんだ。
どす黒い不安が胸の中を浸食する。足元から恐怖が震えとなってこみ上げてくる。
「ジム――ジム! サリー!」
ふたりの名前を叫ぶ声が、まるで悲鳴のようになった時。
かすかに、物音がした。
こと……と、小さな小さなその音は、台所の横、半地下になった物置から、たしかに聞こえてきた。
「え……っ。ジム? ――ジムか!?」
ぼくは物置の扉に飛びついた。
半地下の物置は、暖炉で使うコークスや花壇にかぶせる藁などを保管しておくための、穴蔵のようなところだ。灯りもなく、中の温度は外と変わらない。人間が長時間居られる場所ではない。
さび付いた錠前は、きちんと鍵がかかっておらず、ただ引っかかっているだけだ。古びた扉は、すぐに開いた。
「ジム! ジム、ここにいるのか!? サリー! ぼくだ、セオドア・グレンフィールドだ!いたら返事をしてくれ!」
真っ暗な物置に向かって、ぼくは怒鳴った。洞穴のような暗がりを覗き込み、必死に目を凝らす。
暗闇の中、かすかに動くものがある。
白っぽい、寝間着の袖だ!
積み上げられたコークスの麻袋の陰に、小さな体が丸くうずくまっている。
「ジム!!」
ぼくは慌てて物置の奥へ駆け込んだ。
痩せっぽちの少年は薄い木綿の寝間着1枚で、冷たく湿った土間の上に倒れていた。
「ジム! ジム、しっかりしろ!!」
抱え上げた体は、氷柱みたいに冷たかった。唇は真っ青になり、小刻みにふるえるばかりで、いくら名前を呼んでも返事がない。手足は凍えきっているのに、額に手を当てると、そこだけは火のように熱い。呼吸も弱く浅く、ぜいぜいと喉に絡むような音がする。
ぼくは外套を脱ぎ、ジムの体をくるんだ。
「姉さん! 姉さん、ジムがいた!」
二階に向かって声を張り上げると、だだだ……ッと転げ落ちるような足音とともに、姉さんが駆け下りてきた。
「サリーは!?」
「わからない。ジムだけが、裏の物置に隠れていたんだ」
それを聞くと、姉さんは一瞬きゅっと唇を噛み、何かを推し量るような表情をした。
そしてすぐに顔をあげ、ぼくに走れとうながす。
「下宿へ戻ろう。ジムの手当てが先だ」
ぼくは黙ってうなずき、ジムの小さな体をしっかりと抱え直した。
運良く通りかかった辻馬車をつかまえ、ぼくたちはオルソン夫人の下宿へ戻った。
ぐったりとして意識のないジムを見ると、オルソン夫人は即座にスミザスに命じて医者を呼ばせ、モリス夫人は空いている使用人部屋のベッドを整えた。
もともとあまり丈夫ではなかった少年は、そのまま丸二日のあいだ高熱に浮かされ、生死の境をさまよった。
「しっかりおし、ジム。頑張るんだよ。早く元気になって、姉さんに無事な顔を見せておやり……!」
一睡もせずにジムに付き添っていたモリス夫人は、少年の手を握りしめ、懸命に声をかけ続けていた。
「そうだよ、サリーは無事だ。きっとどこかに身を隠してるんだよ。ねえジム、そうだよね。あんたがこうして、あたしたちのところに来てくれたんだもの。あんたの姉さんだって無事で生きてるよね……!」
が、彼女の祈りも虚しく、ぼくたちがジムを保護してから三日後。
サリーの遺体がテムズ河に浮かんだ。
見つかった時、サリーは飾り気のないシュミーズ一枚きりの姿だった。全身には惨い暴行の痕が残り、あのそばかすの似合う愛らしい顔立ちは、元の人相がわからなくなるほど青黒く腫れあがっていた。
革の死体袋に押し込められていたサリーは、その口を縛る紐が立ち合いの警察官の手でほどかれた時も、髪が冷たく湿ったままだった。
そしてその首にははっきりと、人の手で絞められた痕が残されていた。
「男だな」
ぼくにだけ聞こえるよう、小さな声で姉さんがつぶやいた。
ぼくたちはオルソン夫人とモリス夫人に頼まれ、遺族の代理としてサリーの亡骸を引き取りにロンドン警察へ出向いたのだ。
サリーのただひとりの肉親であるジムは、まだベッドから起きあがることもできないし、よしんば歩けたとしても、まさかあんな幼い少年をスコットランドヤードの死体安置所に来させるわけにはいかない。
そして、サリーにあのコテージを用意したミドルトン男爵ローレンス・パウエル・ウェイクスリーが、彼女の死を悼んでその亡骸を引き取るなんて、ぼくも姉さんも、サリーの関係者は誰ひとりとして思っていなかった。
「でかい手だ。女じゃない。サリーが小柄で、殴られて弱ってたとはいえ、人ひとり、素手で絞め殺せるんだ。犯人は爺さんや病人じゃないだろう」
ぼくも姉さんの推察に黙ってうなずいた。
だが警察は、サリーの素性を知ると、まともに捜査しよういう素振りさえ見せなくなった。
「殺されたのはイーストエンドの娼婦だったんだろう? どうせ金のことで客と揉めて、テムズに放り込まれたに決まってる。欲張るからこういう目に遭うんだ。自業自得だろう」
その偏見と侮蔑に満ちた態度を、ぼくたちは責めなかった。
ぼくたちだって、警察になど何の期待もしていない。ただ同様に、軽蔑に満ちた目でふんぞり返る制服連中を見返しただけだ。
しょせん警察は弱者の味方じゃない。金と権力を持つ者にのみ尻尾を振る飼い犬だ。今ここで、この怠惰な警官どもをぶん殴ってやったところで、サリーの無念は晴らせはしないのだ。
ぼくたちはやり場のない怒りに唇を噛みしめながら、物言わぬ姿になったサリーを毛布にくるんで荷馬車に乗せ、オルソン夫人の下宿へ連れ帰った。
サリーとジムが暮らしていたコテージは、すでに人の出入りができないよう戸口に板が打ち付けられ、「貸家」の札が架けられている。サー・ローレンスが賃貸契約をうち切ったのだろう。
オルソン夫人は不幸な娘のために、使っていない借間のベッドを空けてくれた。上等の寝具をひとそろい、無駄にしてくれたのだ。
「サリー……。可哀想に。寒かったねえ。怖かったねえ……。もう大丈夫だよ、安心おし……」
モリス夫人は涙で声をつまらせながら、裸同然のサリーに自分の若いころのドレスを着せてやり、髪もきれいに整えてやった。土気色の唇に紅を挿し、あまりに酷い傷には包帯も巻いてやる。死者が傷の痛みを感じているわけではないが、そうせずにはいられないモリス夫人の気持ちは、ぼくたちにも充分わかった。
涙を拭きながらサリーの身支度を整えてやっていたモリス夫人は、やがて、小さく声をあげた。
「サリー、あんた……!」
「どうかしたの、ミセス・モリス?」
姉さんの問いかけに、モリス夫人は返事をしなかった。ただ、サリーの死に顔を見つめたまま、ぼろぼろと大きな涙をこぼす。
「ミセス・モリス?」
「ひどい……。ひどい、あんまりだ、こんな――!」
モリス夫人は怒りに満ちた嗚咽を漏らし、サリーの腹部にそっと手を添えた。
サリーのおなかには、まだこの世の光を見ない小さな命があったのだ。
サリーを絞め殺した犯人は、知ってか知らずか、もうひとつの命をも奪った。ふたりの人間を同時に殺したのだった。
「そうだったのかい、サリー……。つらかったねえ……。悔しかったよねえ……っ!!」
モリス夫人の無念と犯人への怒りは、それ以上言葉にならなかった。温厚な料理人は冷たくなった娘の亡骸を抱きしめ、振り絞るような声をあげて泣き崩れた。
「こんなの……、ジムになんて言えばいいんだ――」
ぼくは思わずつぶやいた。
ジムはまだ、使用人部屋のベッドで眠っている。姉ともうひとり、小さな甥か姪の死を、あの少年は知らないのだ。
この事実を、誰が、何と言って伝えればいいんだろう。
姉さんも何も言わない。ただふるえる両手を強く握りしめ、叫びだしたいのを必死に堪えている。
ぼくたちは棒きれのように、無様に部屋の片隅に立ち尽くすしかなかった。
が、
「知ってたよ」
細い、けれどはっきりとした声がした。
「おれ、知ってたよ。姉ちゃんがもう生きてないって」
「――ジム!」
慌てて振り返った先には、痩せたジムの姿があった。
病みおとろえ、まるで幽鬼のような少年は、足を引きずり、片手を壁について体を支えながら、それでも両眼に強い光を宿し、しっかりと目の前のすべてのものごとを見据えていた。
「姉ちゃんのおなかにサー・ローレンスの赤ん坊がいたことも、あいつらが姉ちゃんを無理やり連れていって、殺したことも。……おれは全部知ってるんだ――!!」
「ジム!!」
ジムの体がぐらりと揺れた。
姉さんが駆け寄り、高熱で力を失った体を背後から抱きとめる。
「もういい。ベッドに戻れ。あとはオレたちが――」
「いやだ! 寝てなんかいられるもんか! おれはあいつらを殺しに行くんだ!!」
アーノルド・グレンフィールドの腕の中で、少年は火がついたように吠え、叫んだ。小さな手負いの野生動物みたいに暴れて、自分を捕らえる腕をふりほどこうとする。
「殺してやる! あいつらが姉ちゃんにしたのと同じように、おれがあいつらを殴って、縛り上げて、殺してやるんだ!」
「そんなこと言っちゃいけないよ、ジム! そんなことは神さまが……」
神さまがお許しにならない、と言おうとしたのだろう。だがモリス夫人は途中ではっと言葉を飲み込んだ。
人を殺したいと叫んだだけでお咎めになるというのなら、なぜ神さまは、サリーが酷たらしく殺されるのを黙ってお見過ごしになられたのか。ジムがこんなに泣き叫び、モリス夫人も祈り続け、神さまのお裁きを待っているのに、サリーを殺した犯人にどうしてまだ裁きの雷が降ってこないのか。
その疑問に答える言葉を、ぼくたちは誰も持っていない。
――いいや、違う。なにを甘いことを言っているんだ、セオドア・グレンフィールド。おまえは知っているはずじゃないか。この世界に、神さまなんかいやしないって。
今まで生きてきて、一度だって神さまの慈悲を感じたことなどありはしない。どんなに祈ったって、神さまも、誰も、ぼくたちを助けてはくれないんだ。
ぼくに手をさしのべてくれたのは、いつだって、黄金色の瞳をした魔女だった。
「離して! 離せ、離せよっ! 殺してやる、あいつらみんな、殺してやるんだあッ!!」
ジムは自分を拘束する腕をふりほどこうと、滅茶苦茶に暴れた。痩せた腕やこぶしが姉さんの顔や胸にあたる。
けれど姉さんは、少年をしっかりと抱きしめ、離さなかった。
涙に濡れて真っ赤になったジムの両眼を、そっと手のひらで覆う。
視野をふさがれ、ジムは一瞬もがくのをやめた。
その隙に、姉さんは低い声で歌い出した。
ロンドンデリーの歌。サリーがよく口ずさんでいた、あの歌だ。
普段の低く抑えた作り声とは違う、優しく澄んだアネリーゼの歌声が流れる。それはサリーの声より幾分低かったけれど、それでも激昂した少年にいとしい姉の面影を思い出させるには充分だった。
ジムの体から次第に力が抜け、やがて姉さんの腕にぐったりともたれかかる。
「大丈夫だよ、ジム」
低く、姉さんがつぶやいた。
もはや叫ぶ力もなくなり、その腕につかまってふるえるだけの少年を、しっかりと抱きしめて。
「思い出すんだ。きみが一番好きな、姉さんの顔を」
「おれが……好きな、姉ちゃん――?」
「そうだよ。笑ってるだろ? きみが知ってる姉さんは、いつだって明るく笑ってたはずだ。つぐみみたいに歌が上手で、あったかいいい匂いがして……」
仔鹿のような茶色の瞳、愛らしいそばかす。どんなにつらいことがあっても、明るい笑顔を忘れなかった娘。誰からも愛された、サリー・ホワイト。
アーノルド・グレンフィールドのささやきに導かれて、暗闇に閉ざされた少年の視界には、はっきりと姉の姿が見えていただろう。優しく笑う、たんぽぽみたいな姉の姿が。
「姉ちゃん……姉ちゃん、ねえちゃん――!」
言葉は嗚咽に飲み込まれて、消えた。
もう姉さんは、ジムを抑えつけている必要はなかった。ひとりぽっちになってしまった少年は、イーストエンドのぺてん師の腕にしがみつき、泣きじゃくった。
そのくせのある髪を優しく撫でながら、姉さんはつぶやくように言った。
「心配はいらない、ジム。おまえの気持ちはわかっているから」
姉さんは――アーノルド・グレンフィールドはもう、泣いてはいなかった。
金色の瞳が、廊下の薄暗がりを見つめ、燃えるように輝く。まるでそこに、彼女の許し難い敵がひそんでいるかのように。
「信じてくれ。たとえ神さまが見逃しても、誰かきっと、おまえの声を聞いているさ。――悪魔か、魔女か……誰かが、きっと」
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