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622 水を踏む足音

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「う・・・くぅ、ガラハドさん・・・すみません」

「おい、しゃべるな。いくら傷がふさがっても、けっこう血を流してたんだ。完治したわけでもねぇし、痛みだってあるだろ?」

リコ・ヴァリンから逃れたアラタ達は、転覆前の二階を上がり体を休めていた。

リコ・ヴァリンに刺し貫かれたアラタの右脇腹は、アラタがクインズベリーを出発前に、カチュアから渡された傷薬で外傷は塞ぐ事ができた。
一番良い素材を使って作ったという、カチュアの傷薬の効果はてきめんだった。

「はい・・・痛みはまだけっこうありますけど、傷口がふさがっただけで十分です。少なくとも、これで死ぬ事はなさそうです」

脇腹を押さえて、軽く笑って見せると、ガラハドも一つ息をついてアラタの顔を見る。

「まぁ、その感じなら大丈夫そうだが・・・無理はするなよ?どんなに優れた効果があっても、傷薬で完治させるなら数日はじっと体を休めなきゃならねぇんだ。早いとこ、ファビアナかサリーと合流できりゃいいんだが・・・」

そこで言葉を区切ると、ガラハドは何かを察し、後ろを振り返った。

「・・・ガラハドさん?」

突然険しい顔で身構えたガラハドに、アラタもなにかあったのかと声を固くして訊ねる。

「・・・しっ!」

ガラハドはアラタには目を向けず、顔の前で指を一本だけ立て、言葉を出すなと伝える。

それでアラタも思い至る。この七日間で男達も親睦を深めていた。
それぞれが自分の能力についても話し、情報を交換していたのだ。

「・・・一人だな、足運びからして、まだこっちには気付いていない。周りを探りながら歩いてる感じだ。歩幅が狭い、小柄で歳を取っている・・・俺達の仲間ではないな」

ガラハドの気配察知能力は、天性のものだった。

一言で言えば勘が鋭いだけだが、足音、空気の動き、匂い、それらを常人離れした広範囲で拾う事ができる。最初、アラタとレイチェルがガラハド達の馬車を追跡した時も、ガラハドはこの能力で追跡を察知していた。

「・・・嫌な感じがする・・・隠れるぞ」

壁に背を預けているアラタの肩に手を回すと、ガラハドはすぐ目の前の、ドアが開きっぱなしになっている部屋に入り身を隠した。


浸水はこの階にまで及び始めていた。
部屋の中にも僅かだが水が入ってきて、身体を動かそうとするとどうしても水を弾く音がしてしまう。

衣装棚の影に入ると、じっとしててくれとガラハドはアラタに耳打ちし、息を潜めた。
アラタもガラハドの様子を見て、これはただの乗客ではなさそうだと察する。

やがて水を踏むような足音が聞こえ、アラタは棚の影から顔を覗かせようとするが、ガラハドに押さえられた。
厳しい顔で首を横に振るその様子から緊張感が伝わり、ここから顔を出すだけでも危険な行為だと理解する。
それほど警戒しなければならない者が通るという事なのか?

ドアは開け放たれている。そこ通るであろう、この足音の主には見つかってはならない。
ガラハドはそう判断し、万一にでも自分とアラタがここに隠れている事を悟られないよう、相手の正体を知ろうとしない代わりに、自分達も完全に気配を殺し見つからないようにする事を選んだ。

やがて水を踏む音が大きくなり、ついに部屋の前までたどり着いた。



・・・立ち止まった?

足音が止まった位置から考えて、おそらくこの部屋のドアの前だろう。
なぜそこで立ち止まる?

当然の疑問が頭をよぎるが、その答えも同時に頭に浮かんだ。


自分達がここに隠れている事を、足音の主は気が付いている。


アラタは緊張から唾を飲み込もうとして、ギリギリのところで止めた。
もし・・・この唾を飲み込む音が聞かれたら?

そんな事まで気にしなければならない程の、極限の緊張状態だった。

口を押さえたくなるが、今床に溜まり始めている水に手首まで浸かっている正体では、指一本動かす事でさえ躊躇われる。
アラタに隣で石のようにじっとしているガラハドも、それは同じだった。
大粒の汗を額に浮かべ、呼吸音でさえ虫のように極限まで小さく抑えている。

部屋の出入口でこちらを伺っている者には、絶対に見つかってはならない。


「ふむふむ・・・ネズミが一匹、ネズミが二匹、ここには大ネズミが二匹いるようだ。あの赤毛の娘っ子か?いやいや、気が違うのぅ・・・では確かめさせてもらうとするか」

いたずらをした子供を見つけた時のような、のんびりとはしているが、決して見逃さないぞと言う強さも含まれた声だった。

足音の主は、一歩部屋に踏み入った。

ややしわがれた声から察するに、70歳は過ぎているだろう。
長い白髪は頭の後ろで一本に結ばれ、膝まで届く程に伸びている。

武術の稽古でもするかのような、上下紺色のシンプルな服装をしており、たすき掛けにした革のベルトを通して、その背中には少し短めの二本の槍を挿していた。


バレた!?
アラタとガラハドに強い緊張が走る。

負傷しているアラタと、アラタを救うために武器を捨てたガラハド。
確かに二人は戦闘を避けたい状態ではあった。だが、戦闘経験豊富なガラハドと、マルゴンや偽国王との戦いを得て成長しているアラタ、この二人がここまで緊張しているのに、もっと別の理由があった。


「ふむふむ、感じる感じる・・・感じるぞ。ワシを恐れているな?だがまぁ、当然よな。抵抗力の無い人間が、このアロル・ヘイモンに気を向けられて恐れぬわけがない。そこに隠れている者、出てまいれ。出て来ぬのなら、このまま吹き飛ばしてやろう」

魔道剣士四人衆、アロル・ヘイモンは、背中から二本の槍を抜き取ると、アラタとガラハドの隠れている衣装棚に狙いを付けた。
その体からは闘気とは違う、黒く濁った禍々しく邪悪な気が滲み出ている。


アラタとガラハドが、ここまでヘイモンを恐れた理由はこの邪悪な気にあった。
直接触れたわけではないが、向けられただけで息が苦しくなるほどの凶悪な気だった。


・・・こ、この気は・・・体が蝕まれるようなこの気はなんだ!?

隠れている二人はもはやギリギリの状態だった

だが、先に限界を超えたのはガラハドだった

「・・・アラタ、俺が引き付けるから、お前はその間に逃げろ」

「なっ!?ガラハドさん!」

衣装棚の裏から飛び出したガラハドは、拳を握り締め、雄たけびを上げてヘイモンへ突っ込んで行った。

「ウォォォォォーーーッツ!」

ガラハドの決死の特攻を憐れむように見つめ、ヘイモンは両手に握る槍にその邪悪な気を込めた。

「この悪霊の気に当てられながらも向かって来るとはな。勝てぬと分かっていて挑む事は勇気とは言わん。それは愚か者の無策だ。貴様の魂もこのヘイモンが吸ってやろう」


ニタリと笑うヘイモンの黒く淀んだ顔は、人間とは違う得体の知れないナニカに、取り憑かれているかのようだった。
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