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semper crescis aut decrescis;(汝は常に満ち欠けを繰り返す)
女侯爵と家令
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2:アンフェレ侯爵ベルトラン邸
広大な領地を持つアンフェレ侯爵家の当主は女だった。名をマノン・ベルトランといって年のころは40歳ぐらいだろうか、どこかの僧侶が書いたという小説の同名のヒロインが成長したら…と思わせる美貌と艶やかさを存分に振りまく女侯爵。その夫は元傭兵隊長であり今やこの国の元帥となっているジョセフ・ベルトラン。尤も、元帥という地位にしたところでアンフェレ女侯マノンの絶大な権力があってこそだが。
夫婦に子供はいない。贅を極めた侯爵邸の主要な人物といえばジョセフ、マノン夫妻と古くから侯爵家に仕える家令フランツ・ビューローという60がらみの男のみだ。
マノンは侯爵家の当主であるにも関わらず、領民や他の貴族たちからは「ベルトランの奥様」と呼ばれるのを好んだ。だがこの事実をして彼女が至って旧弊な「男を立てる」妻なのかと訊かれれば甚だ疑問である。
それというのも─
「奥様、ロアン伯からのお手紙でございます」
居住まいを正したフランツが、その端整な目鼻立ちを崩すのを恐れるかのように、全くの無表情でマノンに一通の手紙を差し出す。無論、夫のジョセフが不在の間にこっそりと知られぬように─即ちそれはマノンとフランツの密通が行われていたことを意味した。
「エクトール! 今日こそは色よい返事を期待しているわよ」
マノンは手紙をひったくるように取り上げ、中を読み始めた。彼女の表情がだんだん青ざめてゆく。
「なんて男…これもアドリエンヌなどという卑賎な女優のせいね。もしエクトールがこのまま女優側についてしまったら」
誇り高く多情な女侯爵は若き清廉な騎士の拒絶に歯噛みする。そして老いた愛人を睨み付け「今夜、ジョセフにも働きかけるわ。なんとしても彼を私に引き渡すように」とそれまで剥き出しだった肌を仕舞う。
「差し出がましいようですが奥様、なぜロアン伯を? 今の我々に必要な人材は彼でなくとも…まずは旦那様と反目しているアシュトン将軍を味方につけられてはいかがです?」
フランツは相変わらず感情のこもらない醒めた目で、先ほど情を交わしたばかりの女主人を見る。
「アシュトン将軍…あの小賢しい男! フランツ、私はそもそも─」
「存じております。この私めが知らないことなどございませんよ、奥様」
そんな愛人を見上げたマノンは「わかってるならいいわ。そろそろ出ていきなさい…ジョセフが帰ってくるでしょうから」と鏡台の前に座り化粧を直し始める。
フランツは女主人に一礼すると、音もなく部屋を出てゆく。使用人たちはジョセフの帰宅が近いとあって慌ただしく動き出していた。
─マノンの好色ぶりにも困ったものだ。そのお陰でこの歴史ある侯爵家に跡継ぎがいないとはお話にもならないではないか。
そしてフランツは、ロアン伯爵エクトールという若い騎士に思いを馳せる。確かに、彼は有能な騎士でありこちらに取り込めば都合よく働く。だが、マノンの意図はそれだけではない…エクトールを自分の新たな愛人にしたいのだ。一挙両得を狙っているのである。
そればかりではない、ジョセフの首を挿げ替えることもマノンは視野に入れている。エクトールを女優と引き離すことができれば、遠からずジョセフは「急死」することになろう。
「ビューロー様! 旦那様がお帰りになりました」
メイドの声で彼は現実に引き戻される。急いで玄関に向かうとマノンの夫は今日もお気に入りの歌妓を引き連れて帰宅していた。月香という名前の、長くまっすぐな黒髪と黒曜石の瞳を持つ異邦の歌妓だ。
「お前たち、いつものように頼むぞ」
それだけ言うと、元帥ジョセフは月香とともに自室へと消えた。使用人たちから困惑のため息が漏れる。この二人の為だけに、わざわざ音楽隊や月香の故国の料理を用意しなければならないのだ。毎度続けばいくらベルトラン家と雖も資金繰りにも困るというもの。
「ジョセフ様のご命令だ。ため息などつかずにさっさと働け」
フランツはそう厳しく命じると、率先して行動するのだった─
広大な領地を持つアンフェレ侯爵家の当主は女だった。名をマノン・ベルトランといって年のころは40歳ぐらいだろうか、どこかの僧侶が書いたという小説の同名のヒロインが成長したら…と思わせる美貌と艶やかさを存分に振りまく女侯爵。その夫は元傭兵隊長であり今やこの国の元帥となっているジョセフ・ベルトラン。尤も、元帥という地位にしたところでアンフェレ女侯マノンの絶大な権力があってこそだが。
夫婦に子供はいない。贅を極めた侯爵邸の主要な人物といえばジョセフ、マノン夫妻と古くから侯爵家に仕える家令フランツ・ビューローという60がらみの男のみだ。
マノンは侯爵家の当主であるにも関わらず、領民や他の貴族たちからは「ベルトランの奥様」と呼ばれるのを好んだ。だがこの事実をして彼女が至って旧弊な「男を立てる」妻なのかと訊かれれば甚だ疑問である。
それというのも─
「奥様、ロアン伯からのお手紙でございます」
居住まいを正したフランツが、その端整な目鼻立ちを崩すのを恐れるかのように、全くの無表情でマノンに一通の手紙を差し出す。無論、夫のジョセフが不在の間にこっそりと知られぬように─即ちそれはマノンとフランツの密通が行われていたことを意味した。
「エクトール! 今日こそは色よい返事を期待しているわよ」
マノンは手紙をひったくるように取り上げ、中を読み始めた。彼女の表情がだんだん青ざめてゆく。
「なんて男…これもアドリエンヌなどという卑賎な女優のせいね。もしエクトールがこのまま女優側についてしまったら」
誇り高く多情な女侯爵は若き清廉な騎士の拒絶に歯噛みする。そして老いた愛人を睨み付け「今夜、ジョセフにも働きかけるわ。なんとしても彼を私に引き渡すように」とそれまで剥き出しだった肌を仕舞う。
「差し出がましいようですが奥様、なぜロアン伯を? 今の我々に必要な人材は彼でなくとも…まずは旦那様と反目しているアシュトン将軍を味方につけられてはいかがです?」
フランツは相変わらず感情のこもらない醒めた目で、先ほど情を交わしたばかりの女主人を見る。
「アシュトン将軍…あの小賢しい男! フランツ、私はそもそも─」
「存じております。この私めが知らないことなどございませんよ、奥様」
そんな愛人を見上げたマノンは「わかってるならいいわ。そろそろ出ていきなさい…ジョセフが帰ってくるでしょうから」と鏡台の前に座り化粧を直し始める。
フランツは女主人に一礼すると、音もなく部屋を出てゆく。使用人たちはジョセフの帰宅が近いとあって慌ただしく動き出していた。
─マノンの好色ぶりにも困ったものだ。そのお陰でこの歴史ある侯爵家に跡継ぎがいないとはお話にもならないではないか。
そしてフランツは、ロアン伯爵エクトールという若い騎士に思いを馳せる。確かに、彼は有能な騎士でありこちらに取り込めば都合よく働く。だが、マノンの意図はそれだけではない…エクトールを自分の新たな愛人にしたいのだ。一挙両得を狙っているのである。
そればかりではない、ジョセフの首を挿げ替えることもマノンは視野に入れている。エクトールを女優と引き離すことができれば、遠からずジョセフは「急死」することになろう。
「ビューロー様! 旦那様がお帰りになりました」
メイドの声で彼は現実に引き戻される。急いで玄関に向かうとマノンの夫は今日もお気に入りの歌妓を引き連れて帰宅していた。月香という名前の、長くまっすぐな黒髪と黒曜石の瞳を持つ異邦の歌妓だ。
「お前たち、いつものように頼むぞ」
それだけ言うと、元帥ジョセフは月香とともに自室へと消えた。使用人たちから困惑のため息が漏れる。この二人の為だけに、わざわざ音楽隊や月香の故国の料理を用意しなければならないのだ。毎度続けばいくらベルトラン家と雖も資金繰りにも困るというもの。
「ジョセフ様のご命令だ。ため息などつかずにさっさと働け」
フランツはそう厳しく命じると、率先して行動するのだった─
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