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Sors immanis et inanis, rota tu volubilis,(恐ろしく、そして虚ろな運命よ、回転する運命の輪よ)

アディ、出奔

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    ジェラール・マティスは今日届いた手紙を前に、歳の割には豊かな銀髪を掻きむしり深いため息をついていた。
    それはアディからのもので、エクトールを何としてでも探し出す。その間はジャンヌにプリマを任せてほしい。自分のことは心配しないよう、プリマを投げ出した叱責は戻った時に甘んじて受ける、私は彼がいなければデザートローズと同じ。さらさらと流れゆくだけの土塊で出来た哀れな花、と切々と綴られていた。

(アディ、あの若者のことを本気で…)

    実の父親代わりであり、アディを一流女優に押し上げた自負があるマティスにとっては死刑宣告にも等しい手紙だった。だが、ここは心を入れ換えなければならない。アディを愛しているのなら、彼女の信念通りにさせてやるのが親の義務だと。

(アディ、愛する我が娘…お前の将来の夫と共に無事に帰ってきてくれ)

心から、そう願った。


 一方、こちらは女侯邸。女主人の寝室には秘め事のあとの気怠げな空気が漂っていた。
    すっかり身支度を整えているフランツが問う「奥様、エクトールを手に入れたら元帥は…」
 未だに寝台上で肌を露出させて腹ばいになっているマノンは何を今更、といった表情で「もちろん、あなたが始末するのよ。決まっているでしょ?」と笑った。

 「しかし奥様」フランツは居住まいを正し「最近、我が軍に『犬』が入り込んだとの情報があります」

 「『犬』? 何よそれ?」マノンが身を起こした。

 「どうやら我々の目的を察知した連中が入り込んでいるそうです。要はスパイでしょう」

 「面白くないわね」マノンは不満顔で「さっさと『犬』とやらについても調べなさいな」と命令を下すに慣れた女王のように促す。

 「はい。ただいま調査中でございます」

 その答えに悪女はぞっとするような笑みを浮かべて「この世界を汚染しつくして、新しい玉座に座るのは私とロアン伯爵だわ…いえ、彼はいち貴族から王になるのよ。この私の力で!」
と、異常に目をぎらつかせるのだった。

 「奥様。私はこれで…」
いささか恐ろしくなったフランツは、挨拶もそこそこに愛人の部屋を辞した。

(なんという恐ろしい女だ! だが、自分はもう逃れられない…)


    ────(本当にあばら家だな…)
エクトールはあのティレジアスと名乗る少女の家に入ると想像以上の荒れように眉をしかめた。
ここで雨露が凌げるのだろうか?

そんなことを考えているうちに、ティレジアスがお茶を運んできた。独特の匂いが立ち昇っているが、決して不快ではなかった。

 「お茶、どうぞ」

 相変わらずの無表情だ。だが──このお茶に何かが仕込まれていることはないだろうか?

「あなた、疑ってるんでしょ?」ティレジアスがどこか面白がるようにエクトールの顔を見上げる。

 「え?」

 「私がこれに睡眠薬か毒物でも入れたのかとか、ね」

 ティレジアスはそう言うや否や、目の前のお茶を一気に飲み干してみせた。

 「ほら、ね」

 彼女ははじめて、にんまりした。仮面のような妙な生白さが居心地の悪さを感じさせずにはいられない、奇妙な少女。

 「じゃあ、もう一杯作るから、あなたそばで見ていたら?」

 エクトールは一瞬だけ逡巡したが、ティレジアスへの不信を露わにするのは得策とは言えない。先導されるまま、粗末なキッチンへと案内された。埃まみれで普段ろくに使っていないのがよく分かる。
缶に入ったお茶の葉を無造作に掴むと、黒ずんだ木のスプーンで茶葉をすくい、ポットにいれて火を沸かす。それをエクトール自身に洗わせたカップに入れるだけだった。

 彼は一連の流れを確認してほっとした。これなら異物の入る余地はない。
そして、さっきのようにティレジアスが運んでくる…これにはただのお茶が入っているだけだ。エクトールは一口飲んで(ただのお茶…)と感じたのだが時すでに遅し、その場に倒れ伏した。

 ティレジアスは、あ~あとぼやいた。人間ってほんとに馬鹿よね。私が人間と同じ身体の構造をしているとでも思ってるのかしら?
 はじめにマノンと話したのにねえ。10年ぶり、20年ぶりとか。その時点でおかしいと思わないなんて。

(さて、お仕事にかかるとしよう)

ティレジアスは少女とは思えない力で、エクトールをいずこかへと連れて行った…


───アディは街をさまよい、行きかう人々にエクトールの似姿を示して、この人を知りませんかと訊いて歩いた。だが、首を横に振られるだけだった。

(エクトール…どこへ行ったの?)

    アディは悄然として歩む足を止めた。そして、はじめて朝から黄昏時まで一度も食事を取っていないことに気づいたのだ。

(何か食べなければ倒れてしまう)

アディは手近な店へ入った。本当は食事などより、恋人の行方のほうが喫緊の課題だったが、倒れてしまっては元も子もない。
店の中には客がちらほらいたがみな平の兵士ばかりだ。無遠慮な笑いが時たま上がる。

 「そうだ、あの女優の恋人…。知ってるか?」
 「ああ、ロアン伯か。なんでも前線行きになったそうだ…大方、伯爵にご執心のマノン様に妬まれて運が悪ければ名誉の戦死、ってオチだろ」

(なんですって!)

 アディは聞こえてきた会話に思わず立ち上がった。まだ日のある時間だというのに顔を赤くしている兵士たちに「あの…。今のお話は事実なのかしら」と話しかけた。

 すると男たちはアディを酔眼で見やり「お、女優みたいな美人だなあ…。伯爵の恋人もあんたみたいに綺麗なのかな」と下品な含み笑いをする。
 「まあ美人だなんて、お褒めいただき光栄です」とアディは酔客に礼を述べてからぐっと声を潜めて「あの伯爵様…ここにはいらっしゃらないのね」

 「ああ、実際全然見かけないし…マノン様の邸に呼ばれたことは知ってるぞ。理由は分からんが前線に行きたいんだとさ。それで──軍にも戻らずそれっきりだ」

 「そんな!  私が探し出します!」

 アディの大声に、店中の客が振り返った。

 「ならば、ひとつだけ忠告する」酔漢は少しはっきりした口調になった。「元帥夫人マノンには気をつけろ」

 そして兵士たちは勘定を払うと店を出て行った。

 「元帥夫人のマノン、女侯爵マノン」と彼女は反復する。もちろん元帥が怪しいことはわかっていたが、夫人か…。

 これは調べる価値はありそうだ。アディは元帥邸に行って愛する騎士を救い出そうと決意した。
 
 ───そしてアディはまたもや威容を誇る女侯邸の前に立っていた。

(元帥夫人マノンには気をつけろ)

 あれはどういった意味だろうか?


 気になりつつも、跳ね橋を渡りノッカーを叩く。
すると、以前に門前払いされたあの家令が姿を現す。

 「懲りないな…。君は警吏の手に引き渡されたいのかね?」

 フランツは冷徹でにベもない。
 
 「そうではありません! 本当にここにエクトールという人が…」
 フランツはみなまで言わせず「警吏を呼べ!」と怒鳴った。

 「待ってください! 私はそんな…ただあの人の行方が知りたいだけなんです」

 押し問答をしてる間に、馬車に乗った警吏たちが到着した。

 「違うんです! 話を聞いてください!」

 「なら、拘置所で話すんだな」と、フランツが冷たく言い放った直後のことだった。

 いずこからか一人の体格のいい中年男が現れ、アディを抱えあげると、警吏たちが乗ってきた馬車を奪いそのまま逃走したのだ。

 あまりにも突然のことで、だれ一人動けなかった。

 やっと警吏の一人が事の重大さに気づき「馬を借りるぞ!」と叫ぶと後を追って行く。フランツは暫し呆然としていたが、やがて「あの男は…」とぼそりと呟くと足早に邸内へと戻っていった。
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