【全年齢版】この世の果て

409号室

文字の大きさ
上 下
7 / 16

第五章 最後の晩餐

しおりを挟む
『勇気……攻撃する勇気は最善の殺戮者だ、死をも殺戮する。


                          ーーフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ』





「九十九君だったかしら?いったいどうしたの。あたしに用っていうのは?

それに、今、あなた言ったわよね。『やはりそうだったのか』って。それ、どういう意味?」

すると、九十九青年はまた頭をかいた。

「いやあ。すみません。僕一人で納得してしまって……。でも、謎が解けて、あんまり嬉しかったものですから」

「話が全く見えないわね」

あたしがやれやれと首を振ると、彼はまた申し訳なさそうに「すみません」と頭をかいた。

「でも、ぜひ聞いて頂きたいことがあります。僕にお時間を頂けないでしょうか?」

「いやだっ言っても無理そうね。あなた、見かけによらず、押しが強そうだから」

でないと、こんなとこまで無断で入り込んだりしないだろう。

とんだお坊ちゃまだ。

「わかってもらえると、嬉しいです」

彼はにこにこと微笑んでいる。

その屈託なさに、ため息が出た。

あたしは諦めて彼に椅子を勧めた。

「苗子。お茶、もういっぱい頂戴。あと、この愉快な闖入者さんにもひとつ……ね」





雪花コーポレーション主催のパーティ……。

本当は……来たくなかった。

でも、柚生さんがどうしてもってわたしをこの場に連れ出した。

あの日、はじめての夜以来、わたしは彼と逢っていなかった。

会いたくなかったからではない。

ううん。会いたくて会いたくて仕方がなかった。

でも、一方でわたしは彼に会うのが怖かった。

一度だけのこと。

そう決めた決意が、彼に会ってしまったら、砂上の城のように儚く消えてしまいそうで。

こんなに苦しいなんて思わなかった。

むしろ、想いを遂げたことで、この気持ちに整理がつくって勝手に思い込んでいた。

でも、結果はまるで逆。

このままおかしくなってしまいそうなくらい、彼が恋しくて恋しくて堪らない。

主催は海杜さんの会社なのに、彼の姿は見えない。

ほっとした。

でも、同時に彼を捜し求めている自分に気がついて、悲しくなる。

「誰のこと……探しているの?」

「えっ!?」

そこに立っていたのは柚生さんだった。

「海杜君だったら、なんでも仕事が残ってるとか言って、主賓のくせに上の部屋を借りておこもり中よ。

これから、このわたしのピアノリサイタルだってのにね。久々にガツンとわたしのピアノを聞かせてやるつもりだったのに。

あんたよりも上手くなったでしょう。どうだ、参ったかって。

まったく、あの朴念仁。こんなとこにまで仕事もちこむなっての」

「そうですか……」

「そうだ。わたしの前に美麻ちゃんにピアノ弾いてもらうわね」

「えっ!?」

「忘れないで。美麻ちゃん。あなたは売り出し中のピアニストなのよ。こういう機会は大切にしないとダメ。できるわね?」

わたしは押し切られる形で頷くしかなかった。

どうしよう。

気持ちの整理が……。

でも、わたしはピアニストである以上、請われたらどんなシチュエーションでもこうしてピアノに向かわなくてはならない。

趣味と仕事は違うんだ。

きっと、それを思い知らせるために柚生さんはわざわざ自分のリサイタルの時間を割いてくれたんだ。

「みなさん。ごきげんよう。今夜はわたしのような者をこのようなパーティに呼んでくださって感謝しておりますわ。

雪花コーポレーションもなかなかお目が高いわね」

笑いが起こる。

すごいな。柚生さん。わたしにはとてもじゃないけど、こんなプレゼンできない。

「今夜はわたしの演奏の前に、わたしの親愛なる友人であり、

後輩であるピアニストの演奏を聞いて頂きたく存じますわ。咲沼美麻さんです。どうぞ」

わたしは慌ててステージに上がった。

やっぱり、こういう場は慣れない。

わたしはちょっと考えたあと、はじめて海杜さんとあった時に彼が弾いてくれた曲を選んだ。

わたしも彼みたいに弾きたくて、必死に練習した。

まだまだとても及ばないけど。

なんとなく、この曲が今は弾きたかったから。

はじめて会った時、なんだか懐かしい感じがしたの。

デジャ・ビュっていうのかな?

昔どこかで会ったような、不思議な感覚を感じた。

いつでも優しくて、いつも寂しそうにわたしを見るの。

あの夜のことを思い出すだけで、どうしようもなく身体が熱くなる。

もう会えない。

それでいいの?

そんなの……耐えられない……。

演奏の途中なのに、なぜか聴衆がざわめいていた。

どうして……?

「あっ……」

鍵盤に雫がはねていた。

わたし……泣いているの?

わたし……どうしちゃったんだろう。

まるで、心のどこかが壊れてしまったみたい。

最後の一音に指を置いた瞬間。

わたしは礼をするのも忘れて、ステージを駆け下りていた。





「僕も本当につらかったんです。菊珂さんがあんな亡くなられ方をして……。

僕はこの目で菊珂さんの最期を見届けてしまったんです。

彼女を助けることもできずに……ただ、悲鳴を上げて落下していく彼女のことを見ていることしかできなかったんです」

そう言うと、九十九青年は目を伏せた。

「あなた……雪花菊珂さんのこと……」

すると、彼はちょっと顔を赤らめた。だが、すぐに顔を引き締めると言った。

「……まあ、僕のことはいいじゃないですか。とにかく、僕は納得がいかなかったんです。

なぜ菊珂さんがあんな死に方をしなければならなかったのか……。

僕は知りたいんです。彼女の最後の声を聞きたいんです」

「なるほどね、あなたの心意気はよくわかったわ」

「菊珂さんには自殺するような動機はなかった。だが、警察はあっさりと菊珂さんの死は自殺だと処理しましたね」

そう言うと、青年はあたしに挑戦的な眼差しを送ってきた。

大きめの眼鏡の奥のその目には、理知的な光が宿っている。

あたしはちょっとひるんだ。この青年の真の姿を見た気がした。

九十九財閥の御曹司として世間の風も知らずにぬくぬくと温室で育ってきたお坊ちゃまだと思ってた。

でもそういう印象はここでは見られない。

そこには事件を冷静に見据える、一人の捜査官の姿があった。

彼は確か、某大学院の研究生だという話だった。

まさに、学者然とした雰囲気が彼を包み込んでいる。

確かな論理と確かな洞察力に自信を持った一人の学者としての彼が。

「僕にはそれがどうしても納得いかなかった。正直に言うと、死の直前の彼女は確かに元気がなかった。

だが、彼女は確かに結婚を喜んでいました。とても、自殺を考えているようには思えません」

「それは、あなたの主観でしょう?実際には被害者はそうは思っていなかったはずだわ」

あたしの反論に、彼はふと笑った。

あたしは背中にぞくりとしたものを感じた。

「被害者っていいましたね?」

「えっ……?」

「被害者というのは、事件に巻き込まれた人を指す言葉ですよね。

でも、あなたは『自殺』した相手にその言葉を使った。

つまり、あなた自身も彼女の自殺には納得してはいないのではありませんか?」

痛いところを突かれた。

あたしは二の句が継げなかった。

「だからこそ、あなたは菊珂さんを『被害者』と表現した。違いますか?」

あたしは観念して言った。

「ええ。その通りよ。あたしは……雪花菊珂が自殺したなんて……考えていない」

すると、九十九青年は満足げに頷いた。そして、また温和な笑顔に戻った。

「嬉しいです。僕と同じ考えの人が警察内にいて下さって。

僕、あの事情聴取を受けた時、感じたんですよ。ああ、この人はこの自殺に疑問を感じているって。

だから、あなたを訪ねてきたんです。羽鳥さん。これを見てもらえますか?」

そう言うと彼は隣の椅子に置いた花の鉢植えをどんと机の上に置いた。

「これは、僕が菊珂さんの形見分けとして頂いてきたものです。

本来だったら、自分でプレゼントしたものを持ってくるというのは、おかしな行為だとは思ったのですが……」

あたしと苗子がきょとんとしているうちに、彼は何か紙切れを胸ポケットから取り出した。

「これ、雪花家のメイドさんから借りてきました。李さんって方です。

なかなか面白い方ですね。あと、花に詳しいみたいで。なんか話し込んでしまいました」

「これ、なんなの?」

「これは僕が送った胡蝶蘭の鉢植えです。そして、これは菊珂さんの家の近所のフラワーショップの注文書の控えです。

ここに、菊珂さんのサインがあります」

「胡蝶蘭というのはとても手入れが大変な植物でしてね。

でも、菊珂さんはとても蘭が好きなんだと言っていたんです。

だから、蘭の鉢植えをプレゼントしました。

とても彼女は喜んでくれて……こうして、自分の手で世話をしていてくれたんですね」

そう言うと、彼は感慨深げに鉢植えを見下ろした。

「その鉢植えと注文書の控えがなんだっていうの?」

「李さんの話によると、菊珂さんは一生懸命この蘭に愛情を注いで育てて下さったようですが、

環境の変化でしょうか。蘭が弱り始めていたようです。ほら、ここ、わかりますか?

つぼみが落ちたあとです。そこで菊珂さんは特別な栄養剤をフラワーショップに注文したようですね」

「だ~か~ら。それがいったいどうしたっていうのよ」

今にも九十九青年に掴みかかりそうなあたしを、苗子が必死に抑えてる。

「まだわかりませんか?この注文書の日付は結婚式の前夜なんですよ。そして、商品が届く予定だったのは、その二日後」

あっと苗子が声を上げた。

「つまり、菊珂さんが自殺する気だったら、そんなもの、注文するはずがないってことですか!?」

「その通りです。いやあ、よかった。わかってもらえて」

そう言うと、九十九青年はほっとしたようにお茶に手を伸ばした。

「どうしてそんなこと……メイドは何にも言ってなかったわよ」

「それは、あなた方が聞かなかったからでしょう?」

しらっとした九十九青年の刃のような一言に、あたしは言葉がなかった。








気がついたら、ホテルの廊下を歩いていた。

演奏中に泣くなんて……。

わたし、なんて失態をやらかしたんだろう。

わたしの手の中には、柚生さんがそっと握らせてくれた海杜さんの部屋のルームナンバー。

行っちゃダメだって自分に言い聞かせたのに、わたしはその階をこうして歩いている。

なんとなく、感情のセーブが効かない。

海杜さんの部屋の前に来ると、心臓が高鳴る。

深呼吸して、ドアをノックした。すぐに、

「はい」

と言う澄んだ彼の声。

「あの……私です」

わたしは、躊躇いがちに言った。すると、少しの間が開いてから、再び声がした。

「ああ、開いてるよ」

わたしは、そっとドアノブに手をかけた。

そろりと中に入ると、海杜さんがこちら側に背を向けてノートパソコンに向かっていた。

テーブルの上には、タキシードの上着がある。

「あ、お仕事中だった?ごめんなさい。私、外に……」

そう言って、わたしが帰りかけると彼は、

「いや、いいんだ。先方からメールを待っているだけだから」

と椅子ごと振り返った。

あの日以来、久しぶりに間近で見る海杜さんの端正な顔立ち。

でも、少し顔色が悪い。

「海杜さん……大丈夫ですか?顔色、良くないわ」

すると、海杜さんは軽く微笑んだ。

「ははは。まあね、疲れていないと言えば嘘になるな。実は、パーティーも逃げ出して来たんだ」

「気をつけて下さいね」

「心配してくれるんだね」

「当たり前じゃないですか……。わたし……」

わたしははっとして口をつぐんだ。

わたし……何を言おうとしているんだろう。

「いいんだよ。美麻。君が気を使ってくれているのは、わかっている……。美麻?泣いたのか?」

わたしははっとした。

「どうして?」

「目が赤いし、目尻に後が」

「あ……何でもないの」

わたしは無理に明るい声を出した。

でも、彼には通用しなかった。

「何があったんだい?」

わたしは俯いた。

「君が最近僕を避けているのは気づいていたよ。そんな君が涙を浮かべてわざわざホテルの部屋に来る。

何かあったと考えるのは当たり前だろう?」

「本当に何でもないんです……。気にしないで」

海杜さんはそれ以上追求しなかった。

「とりあえず、そこに掛けなさい。今、お茶でも」

「いいえ……。私、帰ります」

これ以上ここにいるのは、いたたまれなかったから。

でも、後ろを向いた肩を海杜さんが掴んだ。

「海杜さん?」

「ここにいなさい。美麻」

少し冷たい目。わたしが見た事のない眼差し……。

いったい……どうしたの?

「海杜さん?どうしたんですか?何か……変……」

「そうだね。僕はどうかしているのかもしれない」

彼の顔から笑みが消えていた。

「君が……僕を狂わせたんだ」

「えっ……?」

わたしが驚いて振り返った瞬間、彼に抱き寄せられた。

「毎日君のことばかり考えている。自分でも、おかしいと思うくらい、君しか考えられない」

「海杜さん……?」

「離したくない。君を……放したくない。君を放したら……僕は僕でなくなってしまうから」

彼はそう言うと、掻き抱くようにわたしを抱き締めた。

「怖い……どうしようもなく……怖いんだ」

この人の口からそんな言葉が出るなんて……。

わたしはまた、泣き出しそうになった。

苦しんでいる。

彼はどうしようもなく苦しんでいる。

わたしのせいで……。

「どこにもいかない。そう誓ってもらえないだろうか」

「でも……」

でも、そんなこと……許されるはずないのではありませんか?

「ごめんなさい……。海杜さん」

「だから、どうして君が謝るんだい?謝らなければならないのは、僕の方だよ。

君には……つらい思いをかける……」

「そんな……。わたし……なんともありません。わたしが……」

わたしが馬鹿だから、あなたを苦しめてしまう。

「わたしも……あなたのことを……思い出したら……自然と涙が出ちゃって……ダメですね。

わたし……一度きりって……一度だけだって……決めていたのに……」

「なんて悲しいことを言うんだ。君は。君は、僕をこんな風にしておいて、自分だけ決着させようなんて考えていたのかい?」

ごめんなさい。海杜さん。

ごめんなさい……。

でも……。

わたしは海杜さんをぎゅっと抱き締めた。

わたしも離れたくない。

離れられない。

彼がピアニストとしてのわたしを作り、わたしを大人にした。

あなたの発する光を浴びて、わたしははじめて輝くことができる。

この人から離れたら、この人を失ったら、わたしはきっと死んでしまう。

太陽を失った月が、深い漆黒に閉ざされてしまうように。

「これからも……逢ってくれるね?」

わたしは魅入られたように頷いていた。







どうやらあたしは本当に誤解していたようだ。

ここにいるのは、ただの想い人に先立たれた憐れな青年ではない。

ただの温和な御曹司ではない。

ここにいるのは、一人の学者だ。

犯罪という名の不可思議な学問を追いかける、ひとりの学者なのだ。

「これで、菊珂さんが自殺ではなかったことが証明されましたね。

さて、では次に菊珂さんが自殺ではない場合クローズアップされてくる彼女の死因についてですが……それは当然、『殺人』ですね」

まるで彼は何かの講義でもするかのように、淡々と話を進めていく。

小気味いいくらいに。そして、小憎らしいくらいに。

「その通りよ。でも、その線は考えられないわ。他ならぬ、あなたがその証言者じゃないの」

すると、彼はまたちょっと困ったような顔をして頭をかいた。

これは青年が困った時や、照れた時にする癖らしい。

「そうなんですよね。困ったことに……」

「あなた自身で見誤ったとかいうことはないの?」

「それは絶対にありません。菊珂さんは確かにひとりでしたし、自分の足で歩き、自分でフェンスを乗り越えました」

「じゃあ、いくらあなたがさっきのような理由で自殺説を覆してもダメね」

「そうでしょうか」

「そうよ。犯人は幽霊だとでも言いたいの?」

あたしだってその点は歯がゆい。

自殺だって結論は出したくない。

でも、その謎が解けないかぎり、これは自殺にしか処理できない。

彼はあたしの苦悩をよそに、ぜんぜん違う内容に話を飛ばした。

「そうそう。菊珂さんは自殺の直前、電報を受け取ったらしいですね」

「あなた、どうしてそれを……」

「すみませんね。僕、あのホテルの常連なんです。友人はたくさんいましてね。教えてもらうのに手間はかかりませんでした」

「呆れた。とんだ名刑事さんね。いや、探偵さんって言った方がいいかしら?」

「光栄ですね。話を元に戻しましょう。その電報には、何が書かれていたんでしょうね」

「何言ってるの?祝電なのよ。祝福の言葉に決まっているじゃない」

「そうでしょうか」

「えっ……?」

「祝電に書かれる言葉が祝福のものだけだなんて、誰が決めたんです?」

あたしはひるんだ。考えもしなかったことだった。

あたしはそのホテルの従業員が花柄の「祝電」と言ったことで、その内容を疑ってみる気なんてなかったから。

「電報というのは便利ですね。差出人の名前は匿名にできますし、

自分で出す訳ではないから、差出人の指紋や身元が割れるような証拠は出てこない」

「何が言いたいの?あなた」

「その電報が……自殺の引き金だったとしたら?」

「……なんですって?」

どこまでこの青年の思考は飛躍するのだろう。

あたしは空恐ろしくなった。

青年は続ける。

「そこに菊珂さんを自殺に追い込むような内容が書かれていたらどうですか?」

「そんな!!」

息を呑んだあたしの代わりに苗子が声を上げた。

「その電報が自殺を誘発するトリガーとなった可能性は十分に考えられます」

「待って!!そんなもの、彼女の遺体からも、彼女の控え室からも発見されていないわ」

彼はあたしを受け止める。あくまで冷静沈着に。

「彼女自身が処分した可能性があります。何せ、そこに書かれている内容で彼女は自殺を思い立ったとするならば、

それは重大なこと。彼女にとっては致命的な内容だったに違いないのですから……。彼女はそれを隠すために死を選んだのかもしれない」

青年はゆっくりと顔を上げた。

「それに……発見されていないということは……

そこに自殺の動機となる文句が書かれていても……おかしくはないという理屈にもなりますよね?」

「あっ……」

「どうです?羽鳥警部」

「その……通り……ね」

「で、その内容について僕はずっと考えていたんです。でも、どうしてもわからなかった。

菊珂さんが自殺に追い込まれるようなこと、してるなんて思えませんでしたから。

しかし、先ほどのお話を聞いて、ようやくわかりました。

菊珂さんは、一年前にF埠頭で死んだ男に恐らく、乱暴されかかったのでしょう。

そこで、故意ではないにせよ、その男を死なせてしまった。殺意がないので、過失致死というものです。

でも、菊珂さんは雪花財閥の令嬢だった。いくら正当防衛とはいえ、このことが公にされることは許される身ではなかった。

だから、彼女は死体を始末した。それのことを菊珂さんはあの電報で告発されたのではないでしょうか。

彼女はある意味では有名人でした。雑誌のグラビアに家族で載ったこともあります。

彼女の顔と素性を知っている人間は多いです。その目撃者も彼女の顔を知っていた可能性が高いでしょう」

「でも、どうし今更……一年も経ってから……」

「それは……僕にもわかりません。ただ、彼女の結婚も話題になっていましたからね。

記事になった彼女を見て、目撃者は黙っていられなくなったのではないでしょうか。

故意ではないにせよ。殺人を犯した人間が結婚式を行う……。

目撃者は彼女を許せず、匿名で電報を……それで、彼女は思い余ってあんなことに……」

少しの沈黙が部屋を支配した。

「どうして……相談してくれなかったんでしょうか。

僕は……やはり彼女にとって……頼りないただの見合い相手に過ぎなかったのですね」

そう言うと、青年は寂しげに視線を鉢植えに落とした。そして、取り繕うように笑顔で顔をあげると言った。

「僕の意見は以上です」

放心した刑事二人と突然現れた探偵の間には、彼のすするお茶の音だけが静かに響いた。

彼はお茶を飲み干し、ほうっと長い息をつくと、微笑んだ。

「ああ、お茶おいしかったです。ご馳走様でした」







ハンドバックから陽気な着メロが流れ出した。

慌てて見ると、着信は柚生さんだった。

わたしを心配してか、それとも怒っているのか。

わたしは恐る恐る着信ボタンを押した。

「よかった~。つながったわね。どうしたの?美麻ちゃん。心配したのよ?」

予想に反して明るい柚生さんの声に、ほっとする。

「すみません……。わたし……演奏中に泣いちゃうなんて……恥ずかしくて……なんだかいたたまれなくて」

「まあね。それは仕方ないでしょうけど」

「わたし……あきれられたんでしょうね。お客さんたちに……」

「そんなことないわよ。みんな感慨深げだったわ。あなたの心のこもった演奏に、

みんなすっかり呑まれていたって感じね。もう、後のわたしがやりにくくて仕方がなかったわよ。

あなたが、観客の心をごっそりさらってしまったあとだったから」

「そんな……。あんっ!!」

「えっ?」

わたしは慌てて声を上げた。

「あ……げほげほっ……すみません。なんか喉の調子悪くて……。

とにかく……そんなことないですよ。すみません……。本当に……」

「散々聞かれたわよ?あの子は誰だって。わたし、まるであなたのマネージャーね」

「あ……柚生さん……怒りました?」

「正直、不愉快ね」

「そんな~」

わたしが慌てて声を上げると、電話の向こうで爆発するような笑い声がした。

「あはは!!冗談よ。逆。嬉しくてしょうがないわよ。

自分が発掘した子が注目を浴びるなんて、これくらい光栄なことはないわよ」

「そうですか……。ほっとしまし……やんっ!!あっ……」

「美麻ちゃん?どうしたの?」

「えっ!?いえ……あの……なんでもないです……。じゃ、じゃあ、わたし……あの……これで」

「そう。じゃあ、そこにいる朴念仁にもよろしくね。うふふ……」

「あっ……」

電話が切れた。その瞬間、わたしは一気にシーツに引き戻された。

わたしはなんとなく気恥ずかしくて、そっぽを向いて声を上げた。

「も……もう。柚生さん……気がついちゃってましたよ。どうするんですか」

「柚生なら問題ない」

そう言うと、海杜さんはわたしの指に唇を這わせた。

「そういう問題じゃないです!!あの……わたし……柚生さんにあの……あんな声聞かれて……恥ずかしいんですから!!」

「あんな声って……どんな声のことかな?」

「あんっ……意地悪……」

「君に言われるなら……光栄だね」

ずっとこの瞬間が続いてくれたらいいのに。

叶わぬ願いだとしても、わたしは祈らずにいられなかった。









アタシは美麻ちゃんのマンションに向かっていた。

美麻ちゃんの密着取材第一回の記事は殊の外、評判がよくて、編集長の機嫌もすごくよかった。

これも美麻ちゃんの飾らない人柄のおかげなんだと思う。

なんとなく、そのお礼がしたかった。

だから、たこ焼きをおみやげにした。安物でごめん……。

アタシがマンションの前に差し掛かると、一台の車が止まっていた。

アタシは、思わず声を上げて美麻ちゃんを呼びそうになった。

思いとどまったのは、乗っているのが二人だったからだ。

一人は美麻ちゃんだった。

もう一人は?

その人物に気がついた時、アタシはまた声を上げそうになった。

もう一人の人物。

それはいつかのパーティで倒れた美麻ちゃんを医務室まで運んだ貴公子。

何か話し込んでいる。

なんとなく、親密なその様子に、アタシの脳裏にはありきたりなストーリーが奏でられる。

パーティで倒れたところを救ってくれた男性に、御礼をして親しくなった。うん、きっとそうなんだ。

いいなあ。なんとなく、そんな夢みたいな出会い……してみたい。

アタシはたこ焼きが冷めるのも構わずに、二人を観察し続けた。

やがて、美麻ちゃんは小さく「じゃあ」と言ったらしい。

おっ。アタシ、読唇術もできそうなんじゃない?勉強してみようかな?

そしたら、取材、もっと楽かも。

美麻ちゃんが満面の笑みを浮かべ、ドアを開けようとした瞬間。

「☆○■!∞?」

アタシは言葉を失っていた。

相手は美麻ちゃんをいきなり抱き寄せると、彼女に口付けていた。

手馴れたディープキス。

思わずカメラに手をやっていた。気がついたら、二、三枚写真を撮っていた。

指が勝手に動いてました……なんて。

職業病だな……こりゃ……。

アタシはカメラをバックに戻すと、なんとなく後ろめたくて、こっそりとその場を後にした。







携帯のヴァイブレーションで目が覚めた。

わたしはベッドの中から手探りで携帯を探した。まもなく見つかったそれを耳に当てる。

聞こえてきたのは懐かしい声だった。

「美麻。調子はどうだい?」

「あ……お兄ちゃん……」

久しぶりに聞くお兄ちゃんの声は、なんだかずいぶん遠いものに思えるようになった。

距離的なものだけでなく、メンタル面において。

どうしてなのか、明確な理由はわからない。だけど、思い当たるふしがない訳でもない。

ふと後ろを振り返る。きっと、このことの後ろめたさからなんだろう。

「このあいだのコンサート、成功したようだね。見にいけなくて、残念だった」

「いいのよ。お兄ちゃんは今、とても忙しいのでしょう?気にしないで」

「美麻……どうしたんだい?誰か、そこにいるのか」

「えっ……?そんなことないわ。わたし一人よ」

わたしは、声のトーンを落とした。なんとなく、何も身につけていないことがはばかられて、毛布を胸に巻きつけた。

「ごめんなさい……。気分がよくないの……。風邪気味みたいで……。」

「それはよくないね。一人で平気なのかい?」

わたしは思わず、一人じゃないから平気と言いそうになって、慌てて飲み込んだ。

「大丈夫。……お兄ちゃん。もう、わたし……一人暮らしにも慣れたし……平気よ。

お兄ちゃんにもう……心配かけないから……」

「美麻……。ああ、わかってるよ。でもね。なんだか気になってしかたがないんだ。……僕も重症だね」

そう言って、電話の向こうのお兄ちゃんは苦笑した。

「そうだね。でも……嬉しいよ。わたし……すごく嬉しい。お兄ちゃんも、無理しないでね」

それは本心だった。

すっかり遠い存在になったかのように感じていたお兄ちゃんが、今でも自分を心に留めていてくれる。

そのことが、何より嬉しかった。

「ああ、ありがとう。君も気をつけて。じゃあ、また」

優しいお兄ちゃんの声が無機質な電子音に変わる。

どういう訳か、すごく胸が苦しくなった。自然と涙が溢れてくる。

どうしてこんなに寂しいんだろう。

どうしてこんなに苦しいんだろう。

愛する人は今、こうして手の届くところにいてくれるのに。

限られた時間でも、彼はわたしを優しく愛してくれる。

それだけでいいじゃない?

そう決めたのはわたし自身だったはずなのに……。

どうして?

わたしは眠る海杜さんにそっと頬を寄せた。


お願い、海杜さん。

今だけ、わたしのものでいて……。







「へえ。いい感じの記事だね~。2ページぶち抜きか~。いいなあ」

アタシは編集部で、刷り上ったばかりの新刊を見せてもらっていた。

「伊山~。あんたも早く、こういう身分になることね」

そう言うと、同僚は得意げに鼻を鳴らした。

「む~っ」

アタシは面白くないので、雑誌を返した。

「もういいの?あんたが見たいっていうからわざわざ持ってきたのに」

同僚は不服そうにページをパラパラとめくった。

その時、アタシの目が一つの記事に釘付けになった。

「何々?経済ニューウェイブ……若き青年社長……!?ちょっと、この記事見せて!!」

アタシは同僚から雑誌をふんだくった。

「ちょっと!!なんなのよ。いきなり!!」

アタシはふんだくった記事に載る写真を穴が開くくらい見た。

間違いない。あの時、美麻ちゃんといい感じだった男性だ。

「ねえ。この人、いったい、どういう人?」

「ん~?ああ。雪花コーポレーションの社長さんのこと?見ての通りだけど?

結構イケメンじゃない?って、あんた年下専門だったもんね」

美麻ちゃんの彼氏って……こんな大きな会社の社長さんだったんだ……。

いいなあ。玉の輿……。くすん。

「でも、どっちにしろダメね。その人、財閥のお嬢様と結婚して売約済みだもんね」

「なんですって!?」

「何よ。どうしたのよ。やけに拘るわね。まさか、一目惚れした?」

美麻ちゃん……この人が結婚してること……知ってるんだろうか。

いや、知らないはずない……でも……。







また訪れる別れの瞬間。

互いの唇が離れ、ドアが開かれる。


「じゃあ……また連絡するから」


またっていつ?


つい喉元までその言葉がでかかった。

必死に押し殺した。

たとえ尋ねたって、彼自身答えられるはずがない。

そして、彼を苦しめてしまう。


そっと離れるぬくもり。


苦しい。

胸が潰れてしまいそう。


イカナイデ……。


声にならない叫びが宙を舞う。


海杜さんの背中が曲がり角に消えるまで、わたしはただ彼を見送ることしかできなかった。


ドアを閉めて鍵をかける。チェーンをおろす。

わたしは思わず、ドアにもたれていた。

まだ身体が熱い。

彼が触れた場所、全てがまるで燃えるように熱い。

どうか、まだ消えないで。

今だけ……あの人がくれたぬくもりを感じさせていて下さい。







どれくらい時間が経ったのだろう。

十分くらい?いや、実際は一分程度かもしれない。

ふいにドアベルが響いた。


海杜さん?


忘れ物でもしたんだろうか。

「はい……。今……今、開けます」

わたしはロックとチェーンを慌てて外した。

ドアを開ける。その瞬間、わたしは声をあげていた。

そこに立っていたのは、お兄ちゃんだった。

「美麻。気分はよくなったかい?」

「あっ……お兄ちゃん……」

「気分がすぐれないって聞いてやっぱり、心配でね。近くを通りかかったものだから。

……雪花社長と一緒だったのかい?このマンションから彼が出て行くのが見えた」

嫌だな……。

お兄ちゃんの顔が見れない……。

「海杜さんが……?い、いいえ。私は……ずっと一人でした」

「嘘だね。美麻」

「えっ……?」

思わず顔を上げると、今まで見たことのないようなお兄ちゃんの冷たい眼差しにぶつかった。

「美麻……。首筋の痕はなんだい?」

「えっ!?」

私は慌てて手鏡を取り、自分の首の辺りを照らした。

でも、いくら探してもそんな痕は見つからない。

そうだ……。

海杜さんは、ずいぶん気を使ってくれた。

彼は見えるところには決して痕跡は残してはいないはずだった。

「嘘だよ。美麻」

「あっ……」

「ただ、君には思い当たるようなことがあったようだがね」

「あの……私……。そんな……私、そんなこと……」

「そんなことってなんだい?美麻」

静かな口調。

でも……怒ってる……。

お兄ちゃん、怒ってる。

海杜さんとのこと……怒ってる。

そうだよね。私……許されないこと……しちゃったんだもの。

ごめんね。お兄ちゃん。でも、私、認める訳にはいかないの。

認めてしまったら、あの人に迷惑をかけてしまうから。

お父さん、お母さん、ごめんなさい。

美麻はお兄ちゃんに嘘をつきます。

「お兄ちゃん……おかしな勘繰りはやめて下さい……。私はともかく……海杜さんに失礼だわ」

指先が震えてしまう。

ごめんなさい……ごめんなさい!!

「じゃあ聞くが、こうして夜に男と女が同じ部屋にいて何もなかったっていうのかい?」

お兄ちゃんの言葉が、すごく冷たく響く。

「美麻。君はもう子供じゃないんだ。わかるだろう?

たとえ、君の言うことが本当だとしても……世間は認めない。

誤解を招くような行為は慎みなさい。

そして……僕が言ったことが事実だったら……その想いは捨てなさい。

傷つくのは、美麻。君なんだ」

そう言うと、お兄ちゃんは背中を向けて部屋を出て行った。

『捨てなさい』その声が何度もリフレインする。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

涙が後から後から溢れてくる。

大切なお兄ちゃんに嘘をついてしまった。

お兄ちゃんを裏切ってしまった……。

でも……どうしようもないの。

ごめんね。お兄ちゃん。

わたし……あの人が……海杜さんが好きなの。







アタシはその夜、美麻ちゃんのマンションにいた。

今度こそ、たこ焼きを持参して。

美麻ちゃんは大喜びして、キッチンでお茶を淹れ始めた。

アタシはこの美麻ちゃんの庶民的なところが好きだった。

「ありがとうございます。伊山さん」

「ごめんね~。お礼がこんなことしかできなくてさ。今、ピンチでさ。これが精一杯」

「いいんですよ。私、たこ焼き大好きだから、すごく嬉しいです」

アタシは和やかな美麻ちゃんの様子を受けて、思い切ってあのことについて尋ねてみることにした。

「あのね……見ちゃったんだけど……」

「えっ……?」

「昨日の夜……あの……このマンションの前でさ……。美麻ちゃんが男の人と……」

その瞬間、キッチンの方から何かが割れるような音がした。

「美麻ちゃん!?」

慌ててキッチンに入ると、床にティーカップが砕けていて、美麻ちゃんが真っ青な顔をして震えていた。

「ごめん……。いきなり……」

「いいえ……」

美麻ちゃんはそう言うと、ティーカップの破片を拾い始めた。

「美麻ちゃん……好きなの?その人のこと……」

美麻ちゃんは、ただ小さくコクンと頷いた。

「でもさ。その人……」

「わかってます……」

「美麻ちゃん……」

「いけないことはわかってるんです。わたしの気持ちが……

あの人を苦しい立場に追い込んでしまうかもしれないことも……

でも……わたし……好きなんです。あの人が……好きで……好きで堪らないんです。

わたしもどうしていいのかわからないくらい……好きなの……」

アタシは、泣くことは負けだって思っていた。

だから、アタシは人前で涙を流す人間を軽蔑していた。

だけど、アタシは自分の思いをこんなに出して、他人のアタシの前で泣いている美麻ちゃんを見て、

はじめて心の底から人間の涙を綺麗だって思った。

「よし!!わかった!!アタシ、美麻ちゃんを応援するよ!!」

「えっ……?」

「アタシ、このことは誰にも言わないし、記事にもしない。だから、安心して」

「伊山さん……」

美麻ちゃんは、小さく微笑むと、言った。

「ありがとうございます……。伊山さん」








その日の捜査一課、あたしは思わぬ人物から電話を受けた。

「ああ、羽鳥さんですか?僕です、九十九です」

「ああ、九十九君。こないだは貴重な意見をどうも。今日はどうかした?」

「僕、あの後、もう一つの可能性について、考えたんです」

「もう一つの可能性?」

「ええ。まだ証拠も何もないですから、僕の勝手な妄想かもしれませんが……。

とにかく……またお時間を作って頂けないでしょうか?」

断ってもこの青年なら、押しかけてくるに違いない。

「ええ。あたしとしていつでも……」

「では、明日の午後三時頃……署に伺います」

彼はそういうと、静かに電話を切った。







「今夜は菊珂の四十九日です。こうして菊珂にとってゆかりのある方に列席して頂いて……

菊珂もさぞかし喜んでいることと思います」

義兄である海杜の淡々としたスピーチが食卓に響く。

彼の言葉通り、今日は菊珂の四十九日法要。

あの日から、もうそんなにも時が経過したとは、にわかに信じがたい。


一番乗りだったのは、九十九出だった。

まして、法要の開始時刻からは、随分早い到着だった。

彼は特別菊珂と親しかったという訳ではないはずだが、どうしても参加させて欲しいと義兄に頼み込んでの参加だったらしい。

僕は取り立てて彼と話すこともなかったので、軽く一礼すると、その場を立ち去ろうとした。

「えっと……英葵さん……ですよね」

九十九は僕にそう声をかけてきた。

変な話、僕にとってはかつての「恋敵」とも言える存在の彼が、僕に一体何の用だと言うのだろう。

だが、彼は僕の戸惑いにもお構いなしに続けた。

「ちょっと、お時間頂けますか?」

僕は、釈然としない思いを抱えたまま、頷いた。

そして、僕と九十九は軽い会談の後、こうして法要に参加している。

夕餉の準備を終えて、おろおろとあたりを見回す李に、僕は声をかけた。

「李ちゃんも座りなさい」

「は、はい!!ありがとうございます!!」

ほっとしたように隅の方に李が腰掛けた瞬間、里香が声を上げた。

「あら。これは……」

僕、美麻、海杜、里香、更科恭平、莢華、義父、夕貴、使用人の不知火李、河原崎唯慧、

そして客人である菊珂の友人、九十九出と吉成水智専務、、ピアニストの澤原柚生。

席に着いた人間を合わせると、ちょうど13人だった。

「まるで……最後の晩餐のようですわね」

莢華の冗談には、誰も笑わなかった。李が遠慮がちに言った。

「あのう……やっぱり、わたし……遠慮させて頂いた方が……」

「はん。気にするな。そんな迷信に付き合ってたら、おちおち生活なんてしちゃいられないぜ?」

恭平がそう言って、タバコを灰皿に押し付けた。

「おい、海杜。いつまでそんな念仏みたいな御託並べてる気だ?

だいたい、こんな辛気臭い雰囲気、あのじゃじゃ馬が好むとは思えないぜ」

恭平の言葉には誰も意見しなかった。

彼を嗜める役目だった菊珂は、もうこの場にいない。

「じゃあ、恭平さんはどういう弔いがご希望なのかしら?」

里香が妖艶な笑みで恭平に尋ねた。

「決まってるじゃないですか。飲んで喰ってのいつも通りのスタイルさ。

あいつはお嬢のくせして、こういう葬式みたいのが嫌いだった。違うか?」

恭平はそう言うと、全員の顔を見回した。

法事なのだから、葬式みたいなので当たり前ではないか。

だが、誰も恭平に反論しない。

やはり、その役目は菊珂が担っていたのだろう。

恭平の目がこの場の主たる海杜の前で止まる。

海杜はそれを受けて、少し微笑んだ。

「そうだね。恭平君の言う通りかもしれない。菊珂は……いつも通りの僕たちを見たいのかもしれないね」

「海杜。珍しく意見があったじゃねぇか。じゃあ、そうと決まったら、酒持って来いよ。メイドさんよ」

恭平の要求に、里香と李が奥に消えた。

「あんたは働かなくていいのかい?あんたもこの家の使用人だろう?」

そう言うと、恭平はからかうように河原崎唯慧を指差した。彼女は眉ひとつ動かすことなく、言い放った。

「わたしは莢華様の命以外で動く気はございません」

感情のこもらない目。

まるでコンピューターのような。

忠誠が服を着て座っている。

そんな感じか。

さすがの恭平もその様子に異様なものを感じたのか、

「ふん。結構なご身分だな」

と声を上げただけだった。

やがて、様々な種類の酒が食卓に並んだ。

「お好きなものをどうぞ」

里香が小首を傾げた。

早速恭平がウィスキーボトルに手をかけた。

「結構結構。俺のボトルキープは有効なようだな」

「美麻。君は何を飲む?」

僕が美麻に尋ねると、美麻の隣の席の夕貴がぴょこんと顔を出した。

「美麻お姉ちゃん。僕と一緒にサイダー飲もうよ。僕、ついであげる!!」

「ありがとう。じゃあ、もらおうかな?」

その時、向えの席から里香が夕貴を嗜めた。

「あら。夕貴、美麻さんはサイダーよりもワインの方がいいでしょう?」

「え?お母様。そうなの?」

「そうよ。美麻さんはもう大人の女性なんだから」

「そっか」

寂しそうに夕貴が俯いた。

「いや、夕貴。僕も美麻ちゃんにはワインよりもサイダーの方がいいと思うよ。

前みたいに倒れられてしまっても困るからね」

そう言って義兄は優しく微笑んだ。

「やだ……海杜さん……」

「じゃあ、やっぱりサイダーにしようよ!!はい!!美麻お姉ちゃん。ついであげる!!」

「どうぞ、主人自慢のワインですのよ。お召し上がりになって。うふふ」

向えでは、莢華が客人の九十九青年や里香、澤原柚生のグラスにワインを注いでいた。

今夜はホステス役に徹するらしい。

「うわあ。こんな年代ものが頂けるなんて……いいんですか?」

九十九青年はワインに目がないらしく、ウキウキと目を輝かせた。

「あら、吉成さん、あなた、ワインいらないの?」

「ごめんなさい。私、赤ワインは苦手なの。ウィスキーを頂きますわ」

「そう。じゃあ、英葵さん。あなた、いかが?」

「せっかくですが。僕も結構です」

僕は恭平同様、ウィスキーをロックで味わうことにした。

莢華は最後に自分の夫である海杜のグラスにワインを注いだ。

義父・幸造を見ると、彼は一人ブランデーを舐めていた。

彼は根っからのブランデー党で、それ以外、絶対に口にしない。

それぞれの手にそれぞれの液体の注がれたグラスが渡った。

「では、じゃじゃ馬の成仏を願って。乾杯」

と恭平がひとりグラスを掲げて、それを飲み干した。







場の雰囲気を盛り上げようと、饒舌に海外公演の経験を語っていた澤原柚生の口調が急に重くなった。

「どうされたんですか?柚生さん」

熱心に話に耳を傾けていた九十九青年が、心配げに小首を傾げた。

「どうしてかしらね?なんだか……気分がよくないの。酔ったかしら?」

「へえ。お前らしくないな。柚生。どれ。俺が部屋まで運んでやろうか」

「お断りよ。あなたに部屋なんか連れ込まれたら、何されるかわかったもんじゃないもの」

恭平に柚生はぴしゃりと言った。

「ずいぶんなお言葉だな」

「ああ、やっぱり?実は僕もなんだか気分が悪いんです。

僕、こう見えてもアルコールには自信があるんですがねぇ」

「あら、あなた。どうされたの?」

立ち上がった義父に、里香が声をかけた。

「今日は疲れた。部屋で音楽を聴いている。何かあったら、知らせなさい」

そう言うと、義父はブランデー持参で奥に消えた。

「やれやれ。狸オヤジも年を取ったもんだな」

恭平がそう毒突いてウィスキーを舐めた。

「でも、確かに今夜はなんだか気分が優れませんわ。ねえ、あなた」

莢華がそう言って、隣の海杜に持たれた。美麻がその様子を見ると、そっと視線を落とした。

「実は……僕もあまりいい気分じゃないんだ……。どうしてだろうね」

海杜はそう言うと、軽く額を押さえた。

気分が悪いと言いつつ、彼は軽快なピッチでグラスを空けている。

僕は、彼がこんなに自分からアルコールを欲するところを見たことがなかった。

それから、どれくらいの時間が経過したのだろうか。

普段、飲み慣れない強いアルコールに支配された脳髄は、いきなり響いた音によって、覚醒された。

「えっ……?」

慌てて顔を上げると、向えの席の不知火李が立ち上がっていた。

彼女は何かを見て怯えている。

彼女の視線の先を追うと、彼女の隣の席の九十九青年が食卓に突っ伏していた。

「うっ……ううっ……」

ワイングラスが彼の手を離れて床に散った。

その瞬間、李の悲鳴が上がった。

「九十九君!?」

僕が見ると、いきなり九十九は立ち上がり、よろよろと二三歩歩みを進めた。

だが、次の瞬間。

彼の口の端から一本の筋が流れた。

「えっ……?」

「うぐっうっ!?」

呻き声と共に彼の身体が床に崩れた。

「これは……!?」

「ああ……僕は甘かった……謀られた……苦しい……菊珂さ……ん」

九十九の身体は小刻みに痙攣し、やがて彼は動かなくなった。

「あっ……苦しい……」

次に声を上げたのはピアニストの澤原柚生だった。

「助けて……」

彼女もまたずるずるとテーブルを滑り、床に崩れた。

里香、莢華も同様に苦しみの声を上げて、テーブルに爪を立てている。


まさか……。

このワインに毒が!?

じゃあ……。


その瞬間、背後で嫌な音がした。

音というよりは声だった。

振り返った僕の眼に恐れていた光景が突き刺さった。

雪花海杜もまた、他の被害者同様に苦しげな表情を浮かべ、呻いていたのだ。

彼はよほど苦しいのか、テーブルクロスをきつく握り締めている。

「兄さん!!」

小さく呻めき声が上がると、彼の身体が崩れた。

その瞬間、彼が握っていたテーブルクロスも滑り落ち、テーブルの上のものが床に散乱した。

けたたましい食器が割れる音の中に、誰かの悲鳴が上がった。

彼の指先からワイングラスが滑り落ちた。

砕ける硝子。

緋の絨毯が朱に染まる。

まるでスローモーションでも見ているかのようだった。

「きゃあああっ!!か……海杜さん!!」

美麻の叫び声と同時に、僕の身体は呪縛から解き放たれた。

僕は慌てて床に叩きつけられる寸前の彼の身体を受け止めた。

部屋の隅の方で声が上がった。

「ああっ……苦しいっ……誰か……誰か助けて……」

「莢華さん!!」

美麻が椅子ごと後ろに倒れそうになった莢華を受け止めた。

義兄の身体は九十九青年のように小刻みに痙攣し、その度、苦しそうな呻き声が上がる。

「兄さん!?兄さん!!しっかりして下さい!!」

彼は苦痛に顔を歪ませながら、僕の腕にしがみ付いた。

物凄い力だった。

「兄さん!!誰か!!誰か水を!!早く!!早く救急車!!」

僕がそう叫んだ瞬間、ふいに僕の腕を掴む彼の指がその力を失くした。

「えっ……?」

僕が慌てて彼に目をやると、彼の首ががくんと落ちた。

まるで、機械仕掛けの人形が突然ゼンマイが切れ、ことりと動きを停止してしまったかのように。

「嘘だ……。こんな……」

僕はきっと、悪い夢を見ているのだ。

あるはずがない。

「ねえ……兄さん……。しっかりして下さい。ねえ……」


彼が死ぬなんて……。


「嘘……海杜さん……」

美麻が涙を浮かべた。僕は叫んでいた。

「嘘だ!!……嘘だ!!うわあああああっ!!」








地獄だ。

これが地獄でなくてなんだというのだろう。


「おいおい……なんだ……こりゃあ……。まるで……地獄絵だな」

「こ、こ、こ、これは……いったい、どうしたことなのでしょう!?」

次々と声が響く。悲鳴が上がる。

「義兄さん……!!義兄さん!!」

僕はもうどうしていいのかわからずに、ただ必死に意識を亡くした義兄を抱き締めていた。

「これは……砒素中毒に違いありませんわ」

その冷徹なまでに静かな声に顔を上げると、河原崎唯慧がいつも通りの無表情で立ってた。

「私、以前見た事があります。砒素中毒の患者を。この病状は……その時とそっくり同じです」


なぜ、彼女がこの毒名を……? なぜ『知っている』んだ? なぜ……?


「どうすればいいんです?何か、方法はないんですか!?」

美麻が莢華を抱き留めたまま、叫んだ。唯慧はあっさりと言った。

「吐き出させることです。その後、大量の水で咥内を洗浄すること……。

それが応急処置です。……何してらっしゃるの?不知火さん。救急車を呼びなさい」

「は……はい!!」

柚生は苦しみながらも、唯慧の言葉を受け、自分で胃の中のものを吐き出し、大量の水を含んだ。

「世話の焼ける奴らだな。それとも、菊珂に習ってみんなまとめてこの憂き世からおさらばでもする気だったのか?」

恭平が毒付きながら、僕に加勢して海杜の身体を抱き上げた。

「おい、しっかりしろ。海杜!!」

恭平が彼の頬を数回叩いたが、全く反応が戻らない。

彼が……死ぬかもしれない。

その瞬間。

僕は気が狂いそうになっていた。

まったく頭が回らない。どうしてしまったというのだろう。

どうしてこんなにつらいんだ?

どうしてこんなに苦しいんだ?


雪花家で繰り広げられた地獄絵図。

これはまさに、僕が望んだ光景ではないのか?


この僕が……。


「お母様!!お母様!!」

夕貴が泣きながら里香の口を開け、必死に彼女に処置をしている。

僕も必死で義兄の口をこじ開けると、咽喉に指を入れ、胃の中のものを吐き出させた。

そして、胃を洗浄するために、近くにあった水差しの水を与え続けた。

隣では、美麻が僕のやり方にならって、莢華にその処置を施していた。

「こちらは、もう駄目ですね」

そう唯慧が抑揚のない声で、九十九青年から体を離した。

「そんな……九十九さん……」

美麻が泣き出した。

「美麻。泣いている暇はない!!早く、莢華さんを」

「は、はい……」

救急車を呼びに走っていた李がボトルを何本も抱えて駆けつけた。

「水です!!ありったけのミネラルウォーターを持ってきました!!」

「でかしたぜ。メイドちゃんよ。貸しな」

恭平はボトルを受け取ると、意識を失った義兄の口をこじ開け、一気に流し込んだ。

そして、すぐにそれを吐き出させる。

その動作を繰り返した。

「海杜様あ……」

隣では美麻が懸命に莢華にボトルから水を流し込んだ。

「げほっ……がほっ……。ううっ……」

「莢華さん……!!よかった……」

「わたし……いったい……?」

莢華はぼんやりとした顔をしていたが、すぐに事態を察したのか、慌てて美麻から身体を離した。

「触らないで……」

「莢華さん……?」

「触らないで!!」

そう叫ぶと、莢華は駆け出そうとしたが、傍らに倒れる海杜を発見すると、叫び声を上げた。

「海杜お兄様!!」

莢華は僕と恭平を押しのけると、海杜を抱き締めた。

美麻は寂しげな目を見せると、夕貴に加勢して里香の処置を行った。

その時、救急車のサイレンが遠くから響いた。


それから後のことは、まさに筆舌に尽くし難い状況だった。

雪花家の周りには数台の救急車がけたたましいサイレンと共に駆けつけ、被害者たちを運んでいった。

砒素という薬物は人によって出る症状の差が激しいらしく、

同じような量のワインを飲んだとみられる莢華と里香では、まるで症状が違っていた。

里香は意識は取り戻したが、後遺症で数日間の絶対安静が命じられ入院しているし、

莢華は入院の必要もなく、今も義兄に付き添っている。

幸い、澤原柚生も大事には至らなかったらしいが、一応念のためということで、数日入院することが決まった。

見舞いに行ったら、彼女は彼女らしく、入院してたら指がなまってしまうと憤慨していた。

ワインを大量に摂取したらしい義兄・海杜と九十九出青年の症状は特に重く、海杜は意識不明の重体。

九十九青年はほぼ即死に近かったらしい。








あたしたちは、通報を受けて、現場となった雪花家に駆けつけた。

つくづくこの家とは縁があるらしい。

嫌な縁だが。

雪花家の前には、野次馬や記者のバリケードが築かれていた。

あたしは辟易しながら、その人並みを蹴散らして苗子に尋ねた。

「被害者は?」

「それが、とんでもない人数なんですよ。なんでも、今日は前に飛び降りて亡くなった雪花菊珂さんの四十九日法要だったらしくて……。

ええとですね、被害者はピアニストの澤原柚生、九十九出、雪花里香、雪花莢華、雪花海杜……」

「雪花海杜……!?彼も?」

「はい。それが、意識不明の重体らしいです」

あたしは思わず、言葉をなくしていた。

「先輩……大丈夫ですか?ここ、わたしたちに任せて病院に……」

「何寝ぼけたこと言い出してるのよ。苗子。続けなさい」

「はい……。ええと、九十九出は既に亡くなっているようですが、他の被害者たちはみんな病院に収容されています」

「九十九君が……死んだですって!?」

あたしの脳裏には急に、あの日学者然として自分の推理を披露した彼の姿がクローズアップされる。

苗子も同じだったのか、少し俯いて頷いた。

「行くわよ。苗子、現場に……」

あたしは見慣れた「KEEP OUT」と書かれた黄色いテープをくぐった。







「美麻。君は帰りなさい。疲れただろう?」

美麻はゆるゆると首を振った。

「ううん。私、ここにいる。海杜さんの側にいる」

僕は酷かと思ったが、このまま美麻に不義の想いを抱かせている方が不憫だと自分に言い聞かせ、

あえて美麻を義兄の病室に連れて行った。

静かにドアを開ける。その瞬間、美麻の顔が青褪めた。

「海杜お兄様……どうか、お目覚めになって。私、嫌ですわ。

せっかく、お兄様と結婚できましたのに。こんな……こんなことって……ううっ……」

義兄の傍らの莢華は、僕と美麻の存在に気がついていないようで、さめざめと泣いていた。

僕はまた静かにドアを閉めた。

「わかっただろう?美麻。社長には彼を心から心配する伴侶が側にいるんだ。君の出る幕なんてないんだよ」

美麻は何も答えず、ただ静かに涙を流していた。

そんなこと、僕が言わなくても美麻自身がよくわかっているはずなのに。

僕はいつからこんな人間になったのだろう。

美麻のことを思えば思うほど、彼女に対してつらく、厳しく当たってしまう。

昔はこんなことなどなかったはずなのに。

ただ純粋に妹を守りたかった。守ってきた。そういう自負はある。

だが、今はどうだ。僕はどこまでも美麻を追い詰めている。

やはり、専務が言った通り、僕は変わったのだろうか。

「さ、もう帰りなさい。ここにいても、君自身がつらくなるだけなんだ」

美麻はようやく小さく頷くと、とぼとぼと薄暗い白い廊下を歩き出した。







地獄絵図となった現場で九十九青年の遺体を目にした時、あたしはふいに空しさを感じた。

もがき苦しんだのか、眼鏡がはるかかなたに飛んでいて、別人みたいに見える。

着衣もこの青年にしては乱れていて、どれだけ苦しんだのかが偲ばれる。

なんてことだろう。

あたしはふいに目頭が熱くなった。

昼間はあんなに元気に電話をしていたのに。

そうだ。気になるのは、電話で最後に九十九が残した謎の言葉だろう。


「もう一つの可能性について考えたんです」


あれはいったい何を意味するのか。

あたしは微かに身震いした。

九十九は気がついていたのだ。この事件の元凶に、この事件の犯人に……。


そして、殺された。


そのヒントをあたしに残したのだ。

何がなんでもこの謎を解かなければ……。

九十九青年の最後の声に報いるためにも、この事件を決着させるためにも……。

「うむ。これは砒素中毒で間違いなさそうだねぇ」

「砒素?」

「そう。猛毒だよ。致死量は0.2グラムから5グラムくらいだったかな?

『カンタレラの杯』とかいろんな別名で呼ばれてる古代からのポピュラーな毒物だね。

一般には合金添加剤として使われているらしい。なんでも、鉛に加えると強度が増すらしいよ。

でも、単体の砒素なら、ここまで毒性は強くないはずだから……今回用いられたのは亜砒素だろうね。

ああ、亜砒素というのは三酸化砒素のことでねぇ」

「そんな説明聞いても頭痛くなるだけだから、やめてもらえる?」

「あれ。ここからが面白いのに。まあ、いいや。じゃあ、重要なとこだけかいつまんで話そう。

砒素という毒物はね。効き方に個人差が激しい毒物でもあってね。ほんの微量で死に至ったケースから、

致死量以上に摂取したというのにケロッとしてたなんて症例もあるくらいなんだよ。

今回もそんな感じみたいだね。みんな症状はバラバラのようだから。

しかし……この九十九君って人は、耐性の弱い体質だったんだろうね。かわいそうに」

「なんでも、他の人がかろうじて助かったのは、皆さんの処置が早かったからだってお医者さん言ってましたよ」

いつの間にか戻ってきていた苗子がぴょこんと顔を出した。

「処置?」

「はい。なんか、使用人の河原崎さんって人がすぐにこれは砒素中毒だって言って、吐き出させたらしいです」

なぜか、熊倉君が腕組みをして低く唸った。

「どうしたの?何かひっかかるの?」

「いや、もちろん、その人の適切な処置には頭が下がる思いだけど……

しかし、その人、よくすぐに砒素中毒だってわかったもんだねぇ。

症状だけだったら、とてもじゃないが、なんの毒物かなんて、素人さんに判断はできないと思うんだが……」

「えっ……?」

「まあ、とにかく、僕が言えるのはここまでだね。生きてる患者はお医者さんにという訳で、僕はこの九十九君の遺体を引き取って腑分けさせてもらおうかな?うん」

そう言うと、熊倉監察医は立ち上がった。

「あら、苗子。どうしたの?あんたまでなんか納得いかなそうな顔してるけど?」

「いえ……あの……河原崎さんですか?なんか、どっかで見たことあるような気がするんですよね」

「え?どういうこと?」

「それが……それもよく思い出せないんですけど……」

「なえこ~。今すぐ思い出しなさい。さあ、早く!!」

「せ、先輩!!苦しいですう!!」








僕は現場検証に立ち会うために、雪花家に戻っていた。

目の前では、多くの捜査員たちがせわしなく動き回り、僕たちの生活空間やプライベートを検証している。

今は不思議と冷静に物事が見れない。

不安で不安で堪らないのだ。

それはなぜなのか。

わかってはいるが、僕自身、認める訳にはいかなかった。

「英葵……。大丈夫?」

苗子だった。

捜査員の一人として来ているのだろう。

僕は「ああ」とだけ答えた。

「大変だったね、美麻ちゃんもいたんだって?」

「ああ。ひどくショックを受けていたから帰した。いいだろう?」

「う~ん。わたしとしては異存ないんだけど、警察としては……ちょっとね」

「なんだ。君は美麻まで疑う対象に入るっていうのかい」

思わず、語調が強くなる。

ダメだ。最近、本当に感情のセーブが効かない。

どうかしている。

「そうじゃないけどね。警察ってさ。なかなか因果な商売なんだよ」

苗子は僕の気持ちを引き立てようとしているのか、わざと明るい声を出した。

「ああ、わかってる。すまない」

「やだ。英葵。変だよ。すごく。まあ、無理もないけど」

「…………」

「ちょっと向こうで話そうよ。ここ、落ち着かないでしょう?」

僕は苗子の意見に賛同し、誰もいないテラスに連れて行った。

「常務取締役ってさ、どんな仕事なの?」

静かなテラスに苗子の明るい声が響く。

「どんなって……別に……退屈な管理職だよ」

「管理職か~。いい響きだね。わたしなんて、万年巡査って感じだから、羨ましいよ」

「そんなことないさ……」

「じゃあ、もう社長秘書はやってないの?」

「ああ」

社長……彼の容態は今、どうなっているのだろうか。

どうしようもなく、落ち着かない。

彼のピアノにそっと触れる。

蓋を開け、キーを一つ押してみた。

無意味な旋律がテラスに反響した。

僕はなぜか、キーを押し続けた。

心を漣が駆け抜けるように波立った。

僕は一気に鍵盤の上に指を滑らせた。

歪んだ旋律が響く。

僕は気が触れたようにキーを打っていた。



どうしてこんなことになった?

どうしてあの人があのワインを飲んだんだ?


あの人が心配で気が狂いそうになる。

そんな馬鹿な。

信じたくない。

認める訳にはいかない。


ダレカ、ボクヲ、トメテクレ。


違う。

僕は、間違ってなどいない……!!


そうでしょう?

父さん、母さん……。


その時、僕は自分の身体に暖かい感触を感じた。

苗子が急に僕に抱きついていた。

「苗子……?」

「無理しないで。英葵」

僕は一気に現実に還ってきた。不協和音はやんでいた。

「英葵、今、本当はすごく苦しいんじゃない?」

「えっ……?」

「わたしにはわかるんだよ。英葵が今、どんな気持ちでいるのか。わかるんだよ」

「苗子……」

「あのね。英葵。警察ってね。関係者のいろいろな過去とか全部調べなきゃならないところなんだよ」

まさか。

苗子は調べたのか?

僕と雪花家の因縁を。

「ごめんね。英葵、でも、わたし……」

身体を離した苗子の瞳は濡れていた。

「わたし、信じてるからね。英葵のこと……」

そうにっこりと微笑むと、苗子はテラスを出て行った。







翌日の夜。

僕は雪花海杜の病室で佇んでいた。

一応、危険な状況を脱し、普通病棟に移された後も、彼は意識不明の状態だった。


ただ静かに眠る彼を、僕は静かに見下ろしていた。


僕は今、どうしてここにいるのだろう。


わからない。


ただ。ここに来たかった。


僕は静かに首を振った。


彼の意識がこのまま戻らなかったら?

僕はいったい、どうなってしまうのだろう。

あなたがこのまま目覚めなかったら?


僕は気が狂ってしまうかもしれない。


もうひとりの僕が笑う。


何を恐れている?

思い通りになったじゃないか。


彼の力ない手に自分の指先を絡めてみた。

反応のないその大きな手。

握り締めても、握り返されることのないその手……。

重ねた指先、手のひらから、温かな感触だけが、伝わってくる。

僕はいつしか、熱いものが頬を伝うのを感じた。


「海杜さん……ねえ……。海杜さん」


目を覚まして欲しい。

あなたに言わなくちゃならないことが、たくさんあるんだ。

あなたに……伝えたいことが……。

この胸から溢れてしまいそうなほどに。


もうひとりの僕が問う。


それは一体なんだ?


僕自身にだって、それはわからない。

だが、そんなこと、どうだっていい。


目を覚まして下さい。

でないと僕は……。

僕は……。


僕は、眠る彼の唇に口付けた。

僕の涙が彼の頬を濡らした。


「僕は……あなたを……」









私は白い世界にいた。


目を開けると、白い天井から無機質な蛍光灯がぶら下がっていた。


「お目覚めになられましたか?雪花さん」


その声に反応してゆるゆると首を動かした。

見知らぬ、白い女性が私に問う。


「わかりますか?雪花さん」


私は……たぶん、頷いたと思う。


「今、先生を呼んできますからね」


白い看護婦はそう言うと、パタパタと部屋を後にした。


ゆっくりと、あの夜のことが蘇る。

砕けるガラスの音。

猛烈に襲う吐き気と胸の痛み。

飛び散る赤い液体。


私は……助かったのか。


ふと眩しさに誘われて窓辺に目をやると、晴れ晴れとした青空が広がっていた。

その時、ようやく私は自分の指先に何か触れていることに気がついた。

「えっ……?」

それは、私のベットに持たれて眠る、英葵だった。







「で、あなたは、ワインを飲んだ後のことは覚えていない……と?」

「ええ」

雪花海杜が意識を回復したという知らせを受け、あたしと苗子は病院に直行した。

久方ぶりに会う彼は、やややつれた印象だったけど、皮肉なことにそれが彼の美貌を引き立てる結果になっていた。

「ワインは確かに社長さんのものだったんですよね?」

苗子の質問に、海杜はゆっくりと答えた。

「ええ。一応はそういうことになっています。父はブランデー党でして、それ以外口にしませんし。

里香さんや莢華も特に酒類を好んで自分から飲む性質ではありませんので……
実質、あのワインは私の専属と言っても差し支えないとは思います。

私は毎晩湯上がりに一人でワインを飲むのが習慣化していましたし。

ただ、絶対的に私だけが飲むとは決め付けられないと思いますよ。
実際、あの晩はみんなにワインを振舞いました。その結果……家族や……九十九君があんなことになってしまった……」

そう言うと、海杜は悔恨に顔を歪ませた。

「あなたは毎晩、あのワインを飲んでいたの?」

「え……? ええ。あのワインを開けた一昨日から、そうですが」

「一日グラス一杯とは言え、毎日摂取していれば、身体に蓄積されるヒ素の量は、相当なものになるわ。そして、このワイン一本を飲み干す頃には……」


致死量……。


彼ははっとして顔色を変えた。

そう。もし、彼があの晩、あのワインを全員に振る舞っていなければ、彼はいずれ命を落としていた危険性が高い。

彼の症状が重かったのは、あの席で相当量のワインを摂取したこともあるが、恐らく、既に毎晩の晩酌で、その身体にヒ素が含有していたからだったのだろう。

苗子が続ける。

「飲んだ量で言えば、九十九さんと莢華さんと雪花社長ではたいした変わらなかったようですねぇ」

「ええ。恐らくそうだと思います。九十九君もワイン党だったみたいで、

喜んで飲んでくれました。私もあの夜はどういう訳か酔いたい気分でしたので……」

「参考までにお聞きしますが、ワインは誰がついだんです?」

「莢華がついでくれました」

「莢華さんが……?」

「ええ。ワインは彼女がついでまわってくれたんです。あの夜は、ホステス役に徹してくれていましたよ」

「そのワインを飲んで……あなたがたは倒れた……と」

あたしの発言に、海杜が顔を上げた。

「未央さん。あなた、まさか……」

あたしは彼の発言を遮った。

「ストップ。あくまで可能性の話よ。警察はあらゆる可能性を立てては消していく。

そんな地道な作業のもとに、真実を炙り出す、結構回りくどい組織なのよ」

「あなたは、莢華に関しても疑いを持っているというのですか」

彼の目に鋭い光が差した。

あたしはそれを受けて、答えた。

「可能性上は……ね」

「そんな……。あの子は被害者ですよ。どうしてあの子が……」

「それはどうかしら?自分でワインに毒を仕込んで、それを何も知らない顔して飲んで、

被害者を演じたのかもしれないわ。

そうだわ。彼女がワインに毒を仕込んだなら、解毒剤だって事前に飲むことは可能よ。

違う?実際、一番症状が軽かったのは莢華さんなのよ?」

思わず、強い口調になった。

本当は……こんな展開、望んじゃいないのに……。

彼の前だと、本当に調子が狂う……。

あたしは持参した小さな花のバスケットを背中に隠した。

「刑事の悲しいサガね……。ごめんなさい」

「いいえ。お仕事ですからね。私も言い過ぎました。申し訳ない……」

彼は寂しげに笑った。

疲れてる。

彼は確実に。

当たり前か。死にかけたんだから。

あたしは胸が痛んだ。

「じゃあ、行くわね。ごめんなさい。まだ入院中に押しかけてしまって」

「いいえ。あなたの顔を見てると……気が滅入らなくていいです。

いつもあなたがたお二人は元気がありますからね。こっちにもそれが伝染するようです」

「あはは。それはいいですね、社長さん。退院早まるんじゃないですか?」

「そうですね。ははは」

久しぶりに彼が笑い声を上げた。


「ああ。お前の顔見てると、気が滅入んなくてちょうどいいよ」


「…………!!」

「先輩?」

苗子の視線が刺さる。

「行きましょう。苗子。ああ、これ、お見舞い。ここにおいて行くわね」

あたしは隠していたバスケットをベットサイドの棚に置くと、病室を後にした。







未央とコアラが病室を出て行く。

急に訪れる沈黙。

ふと思い出されるのは、今朝の英葵のこと。


「英葵……?」

私の声に英葵はゆるゆると顔を上げ、はっとしたように目を見開いた。

私は驚いた。

その瞳が一瞬、濡れていたような気がしたから。

が、次の瞬間、もっと驚くべきことが起こっていた。

いきなり彼は私に抱きついてきた。

この上なく優しい抱擁に、私の麻痺した身体が包まれる。

「地獄から戻ってきたんですね。お義兄さん」

ひやりとしたナイフのような声。

裏腹に優しい感触。

「よくご帰還されたものだ。あなたの悪運の強さには、ほとほと感心しますよ。

神もなかなか残酷なことをしますね」

いつものような冷たい声。

だが、その響きも今日は不思議と違って聞こえた。

きっと、私の思い違いだろうが。

私は毛布を握り締めると、喘ぐように問うた。

「君なのか……? あのワインに毒を仕込んだのは……」

 私には、今、ようやく解った気がした。

 彼の真の狙いが。

 そうだ。彼は消そうとしているのだ。この私を……この世から。

あのワインは、実質私専用だった。そのワインに毒が……。


『簡単には楽にしてやるものか……真綿で首を絞めるみたいに……じわりじわりと……』


そう。もし、私があのままワインを一人で摂取し続けたなら……私はそれこそ、一歩一歩、確実に死に近づいていたのだ……。

彼の宣言通りに。


「英葵……君は……」

英葵の凍てつく視線が私を冷ややかに見据えている。

「本当に、あなたは悪運のお強い方ですよ。あの毒入りのワインを皆さんに振る舞うとはね。まあ、結果的に僕的にも悪くない状況になりましたから、結果オーライとでも言いますか」

「君は……君は……」

ふと彼は笑みを浮かべた。

春のように暖かな笑みを。

そして、彼は私を優しくベッドに押し戻すと、毛布をかけた。


「そんなに興奮しては、身体に触りますよ。社長。せっかくご生還されたのだから。

今はゆっくりお休みになって下さい。そう。つかの間の休息をね」


だが、その目だけは、笑っていなかった。







おはようございます!!不知火李です!!今日も一日、よろしくお願い致します!!

ワタクシはいつもの通り、雪花家の食卓の後片付け(お皿を3枚割ってしまいました)と

掃除(襖を一枚破ってしまいました)を終えると、

メイド服からスーツに着替えて雪花コーポレーションに出社致しました。

以前頂いた海杜様直々の命により、ワタクシ、

不知火李は海杜様の私設秘書をいう大役を仰せつかったのでございますよ。

覚えていらっしゃいますか?

ワタクシ、嬉しくて嬉しくて。毎日スキップして出社しております。

社員用通用口に詰めている警備員の紺野さんともすっかり仲良しになりました。

「やあ、李ちゃん。今日も可愛いねぇ」

「やだあ。からかわないで下さいまし~。でも、ありがとうございます。嬉しいです」

「いやいや。お世辞で言ってるんじゃないんだよ。君は外見だけでなく、中身もとても可愛らしいと思うんだよ。

今時珍しいくらいすれていない子だって警備員仲間で噂していたところさ」

紺野さんは海杜様のことを幼少の頃から知っているらしく、いろいろと海杜様の子供時代のお話などをして下さいます。

ワタクシ、それを伺うのがすごく楽しみなんです。

「社長が君のことを選んだっていうのも頷けるよ。うん。うん。……って李ちゃん。どうしたんだい。

私が何か悪いことを言ってしまっただろうか!?」

ワタクシ、思わずどしゃぶり涙でございました。だって……。

「違うんです。ワタクシ……ドジでのろまな亀といつもいつも回りにいじめられておりましたから……

社会に出てからこんなに皆さんによくして頂いて、すごく嬉しいです」

「いやあ、それは李ちゃん自身の賜物さ。もっと自分に自信を持たないといけないねぇ。

君はとても魅力的な女の子なんだからね。うちの娘にツメの垢でも煎じて飲ませたいくらいだ」

そんな訳で、いつも通りの朝な訳なのですが、今日は社長室がいつもと違う雰囲気です。

なぜなら、入院中の海杜様に変わって、恭平様が社長代理としてここにいらっしゃるからです。

ワタクシはどうも恭平様が苦手なのです。

使用人の分際でこのようなことを言うのは差し出がましいことなのですが……やっぱり苦手です。

恭平様はとてもルックスのよい方ですし、いつも堂々となさっていて、海杜様とはまた別の魅力のある殿方だとは思います。

でも、時折見せるすごく鋭い視線が、威圧感のようなものを感じさせるのでございます。

ああ、申し訳ございません!!

「おい」

「ひいいっ!!」

ワタクシは、思わず、ドアの影に隠れてしまいました。

「ずいぶん、嫌われたものだな。メイドちゃん」

「あ……。申し訳ございません……」

ワタクシはしずしずと恭平様のデスクの前に戻りました。

「忘れるなよ?お前は今、社長代理であるこの俺の秘書なんだぜ?」

「は、はい。申し訳ございません!!」

「じゃあ、早速仕事に移るか。今回の海杜独自のプロジェクトの内容を俺にリークしろ」

「ええっ!?それはいくら恭平様が社長代理でも、できません!!海杜様に止められておりますから!!」

ワタクシがそう主張すると、恭平様はなぜかにやりとお笑いになりました。

「お前、海杜に惚れてるな?」

ワタクシは不意にあんまりストレートに聞かれたものですから、思わず、「はい」と答えておりました。

「はううっ!!いいえっ!!いいえ!!今のは聞かなかったことにして下さいまし!!」

「はん。いいねえ。その忠誠心。さすがメイドちゃんだと褒めておいてやろう」

「は、はあ。ありがとうございます」

ワタクシはよくわからないなりに、頭を下げておりました。

「だがな。そんな忠誠心、簡単に崩れることを今、証明してやろうか?」

「えっ……?」

ワタクシは次の瞬間、何が起こったのか、自分でもよくわかりませんでした。

ただわかっていたのは、恭平様の唇が、ワタクシの唇に触れていたことでございます。

「んっん……!!」

同時に、恭平様の指はスーツの上からワタクシの身体を撫でていきます。

「あっ……恭平様……」

どうしたことでしょう。身体の震えが止まらないのです。

脳天が痺れるような感覚……。

やがてワタクシは、胸を恭平様の大きな手で掴まれておりました。

「やん……ああっ!!」

ワタクシは思わず、恭平様に身体を預けておりました。

もう、立っていられなかったんです。

「や……止めてくださいませ……」

「どうだ?メイドちゃん」

「ひっ!!」

ワタクシは思わず声を上げておりました。

恭平様の指が、ワタクシのスカートに滑り込んだからです。

「おやめ下さいませ!!恭平様ああっ!!いやああっ!!」

突然、恭平様の動きが止まりました。ワタクシは、ほっとしたような、物足りないような不思議な感覚のまま放り出されておりました。

「きょ……恭平様……?」

「今日はこのぐらいにしといてやるよ。メイドちゃん。続きが欲しかったら、俺の言うことも聞いてもらわないとな?」







その日の夕方、里香は今日から自宅療養となった。

帰宅できたとは言え、里香の体調は完全に戻った訳ではなく、いまだに後遺症に悩まされていた。

こんなときでも夫である幸造は、仕事のため、アメリカへ飛んだ。

里香の中で、ふと空しさが生まれる。

はじめから幸造を愛して結婚したわけでないことから、

それも致し方ない自分へ罰なのだと言い聞かせてきたが、さすがに今回は堪えた。

「お義母様。よかったですわ。無事に退院ができて」

そう言って、莢華が里香の車椅子を押しながら微笑んだ。

「ええ。でも、身体がまだ本調子ではないから……ご迷惑をかけることになりますわね」

「そんな、どうかお気になさらないで下さいな。他人ではないのですから。うふふ」

そうだ。

莢華は今や自分の義娘。

海杜の妻としての。

里香はふと言い知れぬ感情に支配されそうになったので、自ら話題を変えた。

「今日は夕貴は一緒ではありませんでしたの?」

「ええ。まだ学校から戻っていらっしゃらないですわ」

「珍しいこと……」

「そうですわね。でも、夕貴君もお友だちと遊んでいるんじゃないかしら?」

莢華はなんということもないという風に軽く流したが、里香の胸には不思議と不安が渦巻いていた。

夕貴は今日自分が退院することを知っていたはずである。

母親思いのあの子だったら、何があってもこの場に立ち会っているに違いないのに。

車椅子は里香の思いとは裏腹に前進していく。

やがて、退院を祝うためか、病院関係者たちが玄関に整列していた。

口々に祝いを告げる人々に笑顔で答えながら、里香の心は胸騒ぎに満ちていた。

病院関係者の中に、見慣れた顔があった。

「里香さん。退院、おめでとうございます」

そう言うと、咲沼美麻は可愛らしいブーケを里香に握らせた。







「退院当日の大変な時にごめんなさい。でも、どうしてもお見舞いしたくて……」

「ありがとう。美麻さん。あなたにもご心配をかけたわね。

夕貴に聞きましたわ。あなたが夕貴と一緒に私に処置をして下さっていたそうね。

改めて御礼を言うわ。ありがとう」

「そんな……」

「ですから、只今ご来客中ですわ!!」

美麻と里香の耳に莢華のきつめの声が響いた。

どうやら、相手は電話のようだった。

「どうかされたの?莢華さん」
「それが、妙な電話ですの。とにかく、お義母様を出せの一点張りで、

こちらがお義母様はご来客だと何度説明しても埒が明きませんの」

「わかりましたわ。貸して頂戴」

里香は器用に車椅子を動かすと、電話の前で止まって受話器を受け取った。

「お電話代わりました。私が雪花里香ですが。どういったご用件でしょうか?」

受話器から声がした。その瞬間、里香は安堵感でいっぱいになった。

それは夕貴の効き慣れた声だったから。だが、その様子が明らかにおかしい。

「夕貴、どうしたの?」

夕貴は何かを朗読しているようだった。

だが、緊張して震えているのか、よく聞き取れない。

「夕貴?」

「明日の正午までに、五千万円を現金で用意して下さい……」

「えっ……!?」

次の瞬間、受話器から響いた言葉を里香は信じられなかった。

「どうした?聞いていないのか?奥さん」

それは、見知らぬ男の声だった。

「あなたは誰です!?」

「誰だっていいだろう?さて、そろそろわかってもらえたかな?」

里香は必死に脳裏に浮かんだ可能性を打ち消した。

「嘘……嘘です。そんな……」

「残念ながら、嘘じゃないんだ。あんたの可愛い坊ちゃんは今、俺達が預かっている。

簡単に言うと、誘拐って訳だな」

「そんな!!ど、どうすればよいのですか!?」

「慌てるなって。まずは、お決まりの文句を言わせてもらおうかな?警察に連絡したら、子供の命はない」

その男の声に混じって、夕貴の叫び声が聞こえた。

「お母さま!!助けて!!僕、殺されちゃうよ!!」

「夕貴ぃ!!」

里香はヒステリックに叫んだ。







わたしは里香さんの叫び声に、慌てて電話の側に駆けつけた。

「ゆ……夕貴を帰して下さい。お願い……」

「それも奥さんの心がけ次第だぜ?」

「なんでもしますわ!!お金ならいくらでも!!だから、夕貴を帰して!!」

「ふふ……。金ならいくらでも……ね?わかったぜ。奥さん。

じゃあ、取り引きと行こうか。取り引きには、ルールが必要だ。まず、こっちからいくつか指定させてもらうぜ?」

わたしは受話器から漏れる声を必死に聞いた。莢華さんも同じだった。

「まず、ルールその1だ。奥さん。息子さんの身代金は、奥さん、あんたが運ぶんだ」

「そんな!!今のわたしには、無理です!!」

「無理?大事な息子の命がかかっているんだぞ?」

「今、わたしは車椅子なんです。無理ですわ!!」

「じゃあ、取り引きはやめにするか?可愛い坊主の命はこれまでだな」

「夕貴ぃい!!いやああああ!!」

そう叫ぶと、里香さんがバランスを崩して倒れた。

彼女の中で張り詰めていた糸が切れてしまったのだろう。

「里香さん!!」

わたしは慌てて彼女を受け止めた。彼女は気絶していた。

どうする?

このあと……!!

その時、わたしは受話器に手を伸ばしていた。

「咲沼さん!!あなた、どうされるつもり?」

莢華さんの制止を振り切って、わたしは意識を無くした里香さんから受話器を取り上げた。

「もしもし……」

「声が変わったな。あんた、誰だ?」

「里香さんの代理の者です」

「奥さんどうした」

「今、里香さんは気を失われています。里香さん、今、病気療養中なんです。だから、身代金の運搬なんて、無理です!!」

「そんなこと、こっちの知ったこっちゃないな」

「無理です!!里香さんには無理です」

「じゃあ、このまま息子を見殺しにしてもいいって訳だな?たいした家だな。雪花家も」


わたしは次の瞬間、自分でも信じられない一言を放っていた。


「わたしが……わたしが行きます」


「ほお。あんたが里香奥様の代理になるって訳か?」

「はい……」

「ダメだ。雪花家の血縁者じゃなきゃあ、交渉する気なんてないな」


そんな!!

このままじゃ、交渉が決裂する!!

そんなことになったら……夕貴君が……。


「……娘です!!」

「何?」

「わたし……雪花家の娘です」

受話器の向こうが明らかにざわめいた。何か相談しているみたい。

やっぱり、犯人は複数なんだ……。

「娘……?馬鹿な。菊珂とかいう娘はこないだ死んだだろう」

わたしはもう破れかぶれになって叫んでいた。

「違うんです!!もうひとりいるんです!!」

「もうひとり……?」

「そ、そうです。わたし、菊珂の妹です」

「そんな話、聞いたことねぇな?」

「そ、それは当たり前ですよ。わ、わたしの存在はずっと隠されてきたんですから」

「はあ?隠し子だってのか?」

自分でもびっくりするくらいに嘘八百が沸いてくる。

神様、許して。

だって、これは夕貴君のためなの。

「そうです。わたしも雪花家の娘です。だから……わたしが行きます!!」

「ひとつ、聞いていいか?」

それだけで、わたしは心臓が口から飛び出しそうになった。

「は、はい。なんでしょう!?」

「お前、雪花幸造には、可愛がられているか?」

「は……はい?」

「いいから、答えろ」

「も、もちろんです!!わ、わたしは隠し子だけど、ち、父にはそれはそれは可愛がって頂いているんです。はい!!」

「なるほどね、いいだろう。金はあんたが運んできな」

やった……。

交渉の余地がつながった!!

わたしは安堵感でその場に崩れ落ちそうになった。

「では、これから金の受け渡しについての用件を伝える。

くどいようだが、警察に知らせたら、ガキの命はないものと思え」

「は、はい……」









わたしはバスに揺られていた。

今、手には大きなボストンバックがある。

五千万円の札束のぎっしりと詰め込まれた……。


わたしはあの電話のあと、犯人の指示に従って、都営バスに揺られていた。

犯人からの連絡は携帯のメールで来る。

携帯と言っても、わたしのものではない。

犯人の指示で雪花家の郵便受けを見たら入っていたのだ。

最近よく見かけるプリペイド式の携帯だった。

恐らく、犯人が投げ込んでいったものなのだろう。

犯人の指示はわたしを地下鉄に乗せたり、山手線で一周させたり、

駅構内をうろうろさせたりと一見めちゃくちゃなものばかりだった。

恐らく、警察の尾行を恐れているのだろう。

警察なんて、はじめからいない。

わたしはたったひとりで今、この場に座っているのだから。

携帯のヴァイブレーション。

次の指令。


次のバス停で降りて、携帯のナビゲーションシステムを使って、T別荘群まで3km歩いて移動……!?


どういうこと……?

犯人の狙いは……一体なんなの?


はっと顔を上げると、もう目の前にバス停が。

わたしは慌ててバスの停車ボタンを押した。


バスを降りると、見慣れない山道。

こんなところで携帯のナビが作動してくれるか心配だったけど、アンテナが立っているらしく、森林の中でも携帯はわたしを導いた。

ただ、ぬかるんだ舗装されていない獣道とずっしりと重いバックがわたしの進路をはばむ。

腕が痺れる。脚がもつれる。

でも、やらないと。

今、わたしが運んでいるのは、夕貴君の命なんだから。







着いたのは、古い屋敷だった。

屋敷と言っても廃墟と言ったたたずまいで、なんだか幽霊でも出そうな雰囲気がある。

わたしはゆっくりと玄関らしい場所に向かって歩き出した。

すると、急にドアが開いて、背の高い痩せ型の男性が現れた。薄い茶色のサングラスをかけている。

「ご苦労だったね。お嬢さん。まずは中に入りな」

どうしてこの人、こんなにタイミングよく……あ。きっと、携帯に発信機が着いていたんだ……。

男性は辺りを見回した。

「サツには知らせていないようだな。恐れ入ったよ。で、金は?」

「ここにあります」

「この山道をそいつを持って運ぶのは大変だっただろう。雪花家のお嬢様にしてはなかなかだな」

そうだ、今はわたし、雪花家の娘なんだった……。

「ありがとう……。夕貴君は無事なんですよね?」

「見損なうな。俺達は約束は守る」

「夕貴君に会わせて下さい」

すると男性は顎をしゃくった。来いという意味らしい。

わたしが彼の後についていくと、大広間らしいところ(本当に廃墟らしく、蜘蛛の巣や埃がひどい)にいきあたった。

その時、わたしは思わず声を上げていた。

なぜなら、そこには柱に縛り付けられた夕貴君がいたから。

「美麻お姉ちゃん!!」

「夕貴君!!」

夕貴君の傍らには、痩せた茶髪の女性がひとり立っていた。

まだかなり若い。そして、このリーダー格らしい男性に比べてとてもおどおどとした雰囲気だった。

「お金はここにあります!!もういいでしょう?彼を放して!!」

「その見上げた根性に免じて、ガキは返してやろう。ただし……」

いきなり押し倒されて、わたしは悲鳴を上げた。

「美麻お姉ちゃん!!」

「な、何をなさるんですか?」

「俺達の目的は金だけじゃない。お前らの家からいくらふんだくったって、

お前たちはびくともしないんだろ?ええ?だから、俺は考えたんだ。

あの男、雪花幸造の大切に思っているものを壊してやった方が遥かに奴にダメージを与えられるってな」

わたしは声を失っていた。

どういうこと?

この人たちは、お金が欲しかったんじゃないの?

「狐にでも摘まれたような顔してるな。お嬢さん。俺達は金が目的だった訳じゃないんだぜ?

あの老いぼれが愛する若い後妻でも辱めてやろうかと思っていたんだが……

そっちから娘を送り込んでくれるとはな。

妻を犯されるより、娘を犯された方が堪えるだろう。こっちとしても、嬉しい誤算だったぜ?」

「ど、どうして……そんなことを……?」

「そうそう。お嬢さんには、じっくり聞いてもらわないとな。お前の親父がどれだけ極悪で非道な男かってことをな」








「俺とこいつの親父はな。小さな建設会社をやっていたんだ。

雪花幸造は非道にも親父の長年かけて積み上げてきた取引先を根こそぎ奪って行ったんだよ!!」

「嘘だ!!お父様はそんなひどいことする人じゃない!!」

夕貴君が叫んだ。

「嘘だったらどんなにいいんだろうな?この業界は横のつながりが何より大事なんだ。

それを失って親父の会社はあっという間もなく、傾いた。

とうとう会社は倒産して、俺の親父はガソリン被って自分に火をつけて死んだんだよ!!

俺たちに保険金を残して、親父は火に巻かれて死んだんだ!!

これは紛れもない現実なんだよ。わかるか?ええ?

黒こげになった親父をまた火葬しなきゃならない遺族の苦しみが……なあ?」

その瞬間、部屋の隅で夕貴君の泣き叫ぶ声が聞こえた。

自分の父親の悪魔のような所業を聞いて、夕貴君はどんな気持ちでいるんだろう。

もうやめて。

もう……これ以上、あの子を苦しめないで。

すると、部屋の隅で小さくなっていた茶髪の女性が叫んだ。

「お兄ちゃん!!もうやめようよ!!こんなことしても、何にもならないよ!!」

「うるさい!!今更やめられるか!!俺はやってやるんだ。そうだ!!

お前らみたいにぬくぬくと生きてきた奴らになんか、俺達の気持ちなんか、わかるはずもない!!」

そう彼は叫ぶと、わたしの衣服を引き裂いた。

靴が四方に飛んだ。

でも、わたしはただなすがままになっていた。

ただ、涙だけが取り留めなく流れていた。

暴行されているからじゃない。痛みからじゃない。

わたしには、この人たちの痛みが痛いほどよくわかったから。

そして、それを知った夕貴君がどれだけ小さな胸を痛めているか、すごくよくわかったから。


この人たちは、わたしやお兄ちゃんと同じ苦しみを抱えた人たち。


「なんだ?その目は。俺達を哀れんでるのか?馬鹿な!!お前らにそんな資格なんてない!!」

頬に走る鋭い痛み。

口の中に錆びた金属みたいな味が広がった。

下着だけの状態で、腕をねじ上げられて、うつ伏せにさせられた。

でも、顔だけは正面を向かされる。


「屈辱的な様だな。さあ、お嬢さん、笑って見せろよ」


何度か白いフラッシュが焚かれた。


「哀れんでるんだろ?俺達を。さあ、笑えよ!!さあ!!」


フラッシュが……。


「お願いします!!どうか資金を……!!」


激しい眩暈。


「もう、もうあなたしか頼る人が……」


普段、声を上げることのないお母さんの叫びに、わたしとお兄ちゃんはびっくりして思わず振り返っていた。


「今からお父さんとお母さんは大事なお話がお客様とあるの。だから、この部屋から出ちゃだめよ?」


そうは言われていたけど、気になって仕方がない。

ふいにお兄ちゃんが立ち上がった。

「お兄ちゃん?」

「しっ。美麻、君はここにいて。僕が見てくるから」

お兄ちゃんはそう言うと、こっそりと下へ降りて行った。

たがて、玄関の開く音がして、わたしは急いで二階の窓から見下ろした。

帰っていく二人の男性の後姿を。

ひとりは雪花会長。

そして、もうひとりは……。


海杜さん。


行かないで。

海杜さん。

助けて、海杜さん。


ああ、わたし、こんなに昔からあなたを知っていたのね。


あなたはとても優しくて……いつもお兄ちゃんとわたしと遊んでくれた。

わたしもお兄ちゃんも、あなたが大好きで……。

どうしてこんなに大切なこと……忘れてしまっていたのかしら。


お父さんとお母さんが、ゆらゆらと。


いやああああああっ!!







「えっ……?」

はっと気がついたわたしの手にぬるりとした生暖かい感触が触れた。


これは……血?


「このガキっ……」

見上げると、わたしに覆いかぶさっていた男がそう呻きながらわき腹を押さえていた。

そこからは真っ赤な鮮血が滴り落ちていた。

次に感じられたのは、激しい息遣いだった。

その息遣いのする方を見て、わたしは凍り付いた。

そこには、いつの間に戒めから解き放たれたのか、夕貴君が荒い呼吸をして立っていた。

夕貴君の手には血に濡れた鋏が握られていた。

「美麻お姉ちゃん……。大丈夫?」

夕貴君は今にも泣き出しそうな顔で、わたしに言った。

「夕貴君……」

わたしが夕貴君に手を伸ばした瞬間。夕貴君が視界から消えた。

見ると、夕貴君が部屋の隅まで吹っ飛ばされていた。

男に蹴り上げられたらしかった。

「夕貴君!!」

わたしは気がついたら、男に体当たりしていた。

男は不意打ちをくらい、派手に転倒した。

「このアマ!!やりやがったな!!」

男性の目は明らかに血走っていた。

「お兄ちゃん!!」

女性の叫び声がした瞬間、男性はナイフを振りかざしてわたしを再び押し倒した。

刺される!!

刺された!!

そう思った瞬間。わたしはきつく目を閉じていた。

でも、いくら経っても痛みも衝撃も訪れることがなかった。

その代わり、柔らかくて暖かい感触がわたしに覆いかぶさってきた。

それは夕貴君だった。

そして、わたしは次の瞬間。声を失っていた。

夕貴君の腹部には、わたしが刺されたはずのナイフが突き刺さっていたから。

「お姉ちゃん……大丈夫?」

「ゆ……夕貴君!?」

「大丈夫?怪我……ない?」

「ない。してないよ」

わたしは涙で声が震えていた。わたしは必死に散らばった自分の服で夕貴君の傷口を塞いでいた。

わたしのブラウスが、指がどんどん血に染まっていく。

夕貴君の純粋な鮮血で。

「よかった……僕……美麻お姉ちゃんのこと……守れたんだね?」


「もうしゃべらないで!!しゃべらないで!!夕貴君!!」

「僕……美麻お姉ちゃんのこと……」

「しゃべらないで!!」

どうしてこんなことになったの?

わたしが……わたしが刺されればよかったのに。

「おねえちゃ……ん」

夕貴君のまぶたが、ゆっくりと閉じられる。

嘘……やめて。

神様!!

これ以上わたしから大切な人を奪わないで!!

その時、遠くから何かの音が響いた。

救急車のサイレン!?

「わたしが呼んだのよ。お兄ちゃん……」

そう言うと、ふらふらと茶髪の女性が男性に近づき、彼を抱き締めた。

「なんで……なんでだよ!!ううっ……」

「お兄ちゃん……。わたし、お兄ちゃんに人殺しになって欲しくないのよ……」

「くっ……。馬鹿が……」

そう毒突くと男性は彼女の腕の中で意識を失った。








「よほど、我々警察というのは、市民から信頼されていないということでしょうかね?

今回のことは肝に銘じなければならない出来事として、深く脳裏に刻ませて頂きますわ」

あたしはそう言うと、雪花家の面々をにらみつけた。

我ながら、嫌になるくらいあっぱれな皮肉だと思う。

ここは、負傷した雪花夕貴と咲沼美麻が運び込まれた病院。

なんの因果か、砒素中毒で雪花家関係者が入院している病院だった。

腹部に裂傷を負った雪花夕貴はこの扉の前の手術室で現在緊急手術中であり、

咲沼美麻は大きな怪我は負ってはいないが、暴行を受けたため、精密検査を受けていた。あたしは続けた。

「どうして我々に連絡を頂けなかったのです?」

「警察に連絡したら、夕貴の命はない……そう脅かされたからですわ」

雪花莢華がハンカチを握り締めながら、訴えた。

「そういうのは奴らの決まり文句です。我々はプロですよ。

絶対に犯人に気づかれないように美麻さんを警護できました。

……まあ、今更起きてしまったことを蒸し返してもしょうがないですから、

これくらいにしておきますが……。本当に残念で溜まりませんわ」

あたしはそう言うと、ため息をついた。その時、震えるような小さな声がした。

「夕貴……夕貴……あなたがもし死んだら、わたしはどうしたらいいの?」

それは雪花夕貴の母親、雪花里香だった。

「奥さん……」

「夕貴……死なないで……あなたはわたしの……切り札なのよ……」

あたしはそっと廊下を後にして、処置室の咲沼美麻の様子を見に行った。

美麻には苗子が付き添っている。苗子によると、これが幼少時代からの再会らしい。

とんだ再会になったものである。

「美麻ちゃん。大丈夫?」

「はい……」

「美麻ちゃん。聞きずらいこと聞くけどさ。あの……その手の暴行受けたの?」

「いいえ……。ただ服を脱がされただけです。

何度か殴られたりはしましたが、性的なものはありませんでした。

その寸前で……夕貴君が……わたしを助けてくれたんです」

「そっか……。夕貴君が美麻ちゃんを守ってくれたんだね。

すごい男の子だね。まだあんなに小さいのに……」

「夕貴君……」

そう言うと、咲沼美麻は静かに泣き出した。







私が夕貴の誘拐という事実を知ったのは、全てが終った後だった。

こんなことがあった今、のんきにベッドに横になっている事態ではない。

この日の夜、私は医師に頼み込んで、後日検査を条件に退院を許してもらった。

幸い、私は日常生活に支障がないくらいに回復していたから、もともと退院は検査後、時間の問題だったと思われる。

それにしても、今回の事件では、夕貴が刺され、美麻もまた暴行を受けた。

どうしてここまで災厄が降りかかる?私の家は呪われているとしか思われない。

赤々と燈る「手術中」というランプ。

夕貴の小さな身体にメスが入れられていると思うと、私はなんとも居た堪れない気分になった。

急に手術室のドアが開いた。だが、「手術中」のランプは消えていない。

なぜか騒がしい。まさか、夕貴の身に何かあったのか?

私は思わず、看護婦の腕を掴んでいた。

「いったい、どうしたんですか?」

「それが……輸血用の血液が足りないのです」

「えっ……?」

「それなら、私の血を……!!いくらでも私の血をお使いになって!!」

里香はそう言うと、車椅子から立ち上がった。

「奥さん、お気持ちはわかりますが……。夕貴君とあなたは血液型が違うんですよ」

「ええっ!?私も夕貴もB型ですわ!?」

「同じBなのは確かなんですが……夕貴君はRhマイナスなのです」

「えっ……?」

それは、父の血を引いたせいだろう。

「しかも……大変申し上げにくいのですが……

この夕貴君の血液型は珍しく……当院にはその血液のストックがないのです」

「ええっ!?」

「その血液型でしたら、私も同じです。どうか、夕貴に私の血を……」

そう申し出た私に、看護婦は申し訳なさそうに言った。

「それが……お一人では足りないんですよ。もう一方……誰か……」

「そんな……」

そんな珍しい血液の人間が、そうそういるはずがない。

私たちにこの世にも珍しい血液型を与えた張本人である父は、今外遊中でアメリカなのだ。

「どうにか……どうにかならないんですか!?」

「それが……血液バンクに問い合わせたんですが……首都圏ではこの型は不足しているらしくて……」

「ああっ!!夕貴!!」

里香はその場に崩れた。私は慌てて彼女の身体を受け止めた。

「ああ、誰か……夕貴を助けて……」


「私の血を使って下さい」


私と里香は弾かれたように声の方に振り返っていた。

「私も……夕貴君と同じ血液型です。だから……私の血を使って下さい」

そこに立っていたのは、美麻だった。







「伊山~。悪いんだけどさ、あんたのカメラ貸してくれない?

アタシのカメラとうとういかれちゃってさ。緊急事態なんだよね」

アタシが美麻ちゃん特集の第二弾記事の脱稿に取り掛かっていると、

芸能デスクの知り合いが泣きついてきた。彼女は芸能専門の女性週刊誌の記者だった。

「タダでとはいかないな~」

「わかってるって。今夜、給料日だからさ。なんか奢る。

あとさ、このカメラの写真、全部現像しといてあげるからさ。ね?お願い」

給料日か。いいな。そういうのがないのがフリーのつらいところだねぃ。

「OK。いいよ。大事に扱ってよ。アタシの恋人なんだからさ」

そう言うと、アタシは愛カメラを彼女に手渡した。

「了解。恩に着るよ。あんた、カメラだけはいいの使ってるからね。助かるよ」

なんかさりげなくひっかかる言い方だった気が……。

「じゃ、あたし、早速出張ってくるわ!!これ、ひとまず御礼の缶コーヒー。サンキュ!!」

花の芸能記者はそう言って、アタシのほっぺに熱々の缶をくっつけると、元気に編集部を飛び出した。

でも、アタシは自分の下したこのさりげない決断が、とんでもない自体を引き起こすことにまだ気がついていなかった。







「どの面さげてここに現れられたの!?あなたのせいで……!!あなたのせいで夕貴が!!夕貴が!!」


平生では考えられないくらいに取り乱した里香さんの顔が声が忘れられない。

その全てがわたしの罪への罰なのだろう。

里香さんの手が上がった時、海杜さんが慌てて止めてくれなければ、わたしは確実に彼女にぶたれていたと思う。

でもあの時、そのまま彼女にぶたれた方が救われたていたかもしれない。

ううん。どんなにぶたれても蹴られても、わたしの罪が消えることはないんだよね?

ごめんなさい。夕貴君。







私と美麻はそれぞれ隣同士のベットに寝かされ、輸血用の血を採集されていた。

「夕貴君……助かりますよね?」

美麻はぽつんと言った。

「すみません……。出すぎた真似をして……。私、本当はこんなこと……

できる立場じゃないのに。……わたしのせいで夕貴君……あんなことに」

「それは……君が悪いんじゃない」

「でも……」

私は美麻の手を握った。

「君のせいじゃない」

美麻は私の言葉を受けると、少し涙ぐんだようだった。

頬や唇の端に打撲のあとが見られ、痛々しい。

「大変だったね。また、つらい思いをかけた」

「私、少しでも夕貴君の役に立ちたい。それくらいしか……私のできる罪滅ぼし……ないですから」

そう言うと、美麻は静かに目を閉じた。







夜明け前、ようやく「手術中」のランプが消えた。

雪花里香がはっとしたように顔をあげた。

やがて開かれたドアから、ガラガラと音を立てて、寝台が運び出される。

「先生。手術は……?」

里香の不安げな声に、医師は、

「お子さんは大変な生命力ですね。手術は成功しましたよ」

と微かに微笑んだ。

「ああ……よかった……夕貴」

そう言うと、里香はそのままぐったりと車椅子にもたれた。

気を失っているらしかった。

安堵感から張り詰めていたものがふいに切れたのだろう。

あたしは医師に一礼すると、里香の車椅子を押した。

その時、廊下から靴音が響いた。

それは雪花家の使用人、河原崎唯慧だった。

「唯慧……」

莢華が長いすにもたれたまま、彼女の名を呼んだ。

「お嬢様。着替えですわ」

そう言うと、唯慧は持参したタオルケットを莢華の身体に巻きつけた。

「ありがとう。唯慧」

「莢華様。お身体に障りますわ。もうお休み下さいませ」

莢華は夕貴の手術の無事成功も見届けたので、安心したのだろう。

唯慧の提案にしたがって別室に下がるらしい。

雪花海杜と咲沼美麻は大量の献血を行ったため、点滴を受けて眠っている。

残されたのは、刑事のあたしと苗子だった……。

とは言っても、苗子はあたしのとなりで爆睡中だが。

「むにゃ……先輩……。手術、どうなりましたか?」

「あんたが眠ってるあいだに、バッチリ成功したわよ!!」

「よかった~」

苗子は心底ほっとしたらしく、ふにゃふにゃとあたしの肩にもたれた。

「甘えるんじゃないの」

そんな苗子の視線が、去っていく莢華と唯慧を見て止まった。

「ああああああっ!!」

思わず、あたしと莢華と唯慧が振り返った。

「な、何よ!!苗子!!」

「どうかされました?」

河原崎唯慧の冷たい視線に、苗子はぶんぶんと首を振るだけだった。

「莢華様、参りましょう」

唯慧は莢華を伴って歩き出した。唯慧と莢華が見えなくなってから、あたしは苗子を突っついた。

「ちょっと、苗子。一体何ごとよ」

「先輩……思い出したんですよ!!あの河原崎って人、どっかで見たことあるって言ったでしょう?それ、どこだったか思い出したんです!!」

「でかしたわ。苗子。で、それはどこなの?」

「それが……あのフリーの記者さんがとった雪花菊珂さんの飛び降り現場写真の野次馬の中なんですよ」
しおりを挟む

処理中です...