逢い引きの森にて ー幻想画廊綺譚ー

409号室

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第四夜 逢い引きの森にて

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思い切ってドアを開けると、むせ返るような匂いが少女を襲いました。



驚くべきことにその部屋には床一面に、綺麗な薔薇の花が敷き詰められているのでした。

どうやら、匂いの原因はこの大量の薔薇のようです。

ですが、その薔薇のいい香りに混じって、何か別の匂いも微かにするようです。

それは気のせいなのでしょうか?

少女は、袖口で鼻を覆うとゆっくりと室内に入りました。

沢山の薔薇の花が無造作に床に散りばめられた様子は、うっとりするように素敵な景色でした。

少女はまるで夢の中にいるような心地になりました。

慣れてくると、この大量の薔薇の香水も、とても心地よく感じられます。

思わず、この薔薇の中で踊り出してしまいそうです。

うっとりと視線を奥にやると、窓辺に誰か佇んでいました。

椅子に腰掛けて窓の外を見ているようです。

「王子様」でしょうか。

少女は駆け出しそうになりましたが、おかしなことに気が付きました。

その人は彼にしてはとても背が低いのです。

逆光のせいで、その人物の顔は陰になっていてよくわかりません。

緩やかなカーブを描く長い髪。

ふんわりとしたスカートらしいものを身に付けています。

かろうじてわかる断片を繋ぎ合わせると、その人は女の人のようでした。



少女はびっくりしました。

この家では「王子様」以外の誰かに会ったことなんて、なかったのですから当然です。

少女は混乱する思考の中である考えに思い当たり、思わずあっと叫んでしましそうになりました。

顔はよく見えませんが、あの髪型には見覚えがあったのです。

それは、あの寝室で見た写真立ての女性に違いありませんでした。

それと同時に、少女の脳裏にあの囁きも蘇りました。



アイシテイルヨ……レイカ。



この人が……。

「王子様」が……。



あんなに綺麗な女性です。

「王子様」が好きになるのも、無理はないのかもしれません。

少女はこのひと月の間そうしてようやく、自分の気持ちを落ち着かせていました。

とてもとても悲しいことでしたが、その女性は自分が敵うことのできる相手だとは思えなかったのです。



ただ彼が。

「王子様」が友達でいてくれる。

それだけで幸せだよね?



少女はそう自分に言い聞かせてました。

ちくんと胸が痛みましたが、少女はそう決めたのです。

少女は純粋な気持ちから、一度彼の愛する女性に会ってみたいと思っていました。

彼女は優しい彼が好きになった女性です。

彼女もとても優しいお姉さんに違いありません。

もしかしたら、お友達が増えるかもしれません。

それはとても素敵なことに思えました。



少女は薔薇の花を踏まないように注意しながら、女の人のいる窓辺に近づきました。

一歩、また一歩。

どんどん女性との間が狭まって行きます。

影がゆっくりと輪郭を描き出していきます。



影が光に照らされました。



その瞬間。



少女は悲鳴を上げて、床の薔薇にまみれていました。



なぜならそこに静かに佇んでいたのは紛れもなく、かつて女性だった『モノ』だったのです。



艶やかなはずの長い黒髪は、ほとんど抜け落ち、ところどころ頭皮が(ほとんど頭蓋骨意がむき出しの状態でしたが)覗いており、かつては、張りがあったであろう肌はすでに朽ち果て、無機質な白いものが顔を出しています。

美しい瞳が存在したはずの眼窩は、ただの二つの空洞でした。

何かを求めるように差し出された細い腕も、今は関節をはっきりと確かめられるほどに白骨化していました。

そして、近づいてより一層感じられる腐敗臭。



少女は腰が抜けてしまったらしく、立ち上がることができません。

ただ呆けたように、その場に座り込んでいるだけでした。



「かりんちゃん。来ていたのかい?いけない子だな。僕がいない間に、入り込むなんて……」



少女が戸口から響いた声にゆるゆると顔を上げると、彼がいました。

いつもと変わらない、優しい笑みを浮かべて。



『王子様』が。



「まあ、いいさ。そうだ……。まだ君には紹介していなかったね」



そう軽快に言うと、彼はつかつかとこちらにやってきました。

敷き詰められた薔薇を踏みつけて。



そして、女の側に寄り添うと、

「彼女は、僕の妻のレイカだよ。レイカ?この子が、前に話した僕の友達さ。大切なお客様だから、恥ずかしがらないで、きちんと、挨拶しておくれよ?」

と彼女の枯れた手を取り、愛しそうに口付けました。

「……すまないね。レイカは、人見知りなんだ。まるで、子供みたいだろう?」

そう言って、彼は笑いました。

この上なく、幸せそうに。



少女は震えながら「王子様」に言いました。

「おじさん……。しっかりして。

この人は、死んでいるのよ?

命がないのよ?

どうしてそんな人を……」

「うるさいっ!」

少女の身体は、びくんと痙攣しました。

今の怒声の主を探してしまいました。

なぜなら、少女は「王子様」の叫び声を聞いたことなどなかったのです。

少女は突然、豹変した彼を目前にすっかり混乱していました。

「すまない……。かりんちゃん。大声なんか出して……。

ああ、わかっているんだ。

わかっているんだよ。

本当は……もうレイカはこの世界のものじゃないことは。

だって、彼女のことを、殺したのは」



『王子様』は寂しげに笑いました。



その笑みは、今まで少女が目にしてきたどんな笑顔よりも綺麗でした。

彼に見とれる少女の鼓膜に、決定的な一言が炸裂したのです。



「僕なんだからね」



彼はそう言うと、静かに溜息をつきました。

そして、続けます。



破滅的な告白を。



「ああ……。僕はね、彼女を愛していたんだ。

解るかい?

でもね。彼女は僕を置いてこの家から出ていこうとしたんだ。

妻にはね、他に男の人がいたんだよ。

僕みたいな奴には満足出来ないんだって。

彼女はそう言ってね。ここを出て行こうとした。

でも、僕は……彼女を失うことに耐えられなかったんだよ。

僕は……僕は……だから……」



彼は、頭を垂れました。



「彼女と永遠に、ここで暮らしたかった……」



彼は、泣いていました。



「ただ……ただ、それだけだったのに……」



啼いていました。



目の前にいるのは殺人者だというのに、少女の中に恐怖や憎悪という感情は生まれませんでした。

少女はただ彼が可哀相で、そして堪らなく愛しいと思いました。



少女はゆっくりと起き上がると、彼に寄り添いました。



「解るわ……。私……解るわ」

項垂れ、子供のように涙を流す彼の頭を押し抱きながら、少女も泣いていました。

「解るわ。そうよ、だって私だって……」

 

貴方を愛しているのだから。



彼はきっと、悪い魔女に魔法をかけらてしまったのです。

きっとこの女性は、綺麗な顔をした悪魔だったに違いないのです。

 

彼を救い出さないと。

この魔女の呪縛から。

彼を。

彼を。



私が。



気がつくと少女は、思いっきり女に拳を叩き付けていました。

乾いた音を立てて、女の身体が弾け飛びました。

砕け散る骨。

きらきらと散っていく骨。

頭蓋骨が薔薇の中に落ちました。



その瞬間、「王子様」は奇声を上げて床に這いつくばりました。

「何をするんだ!ああ……レイカ!レイカ!ああ……」

少女は「王子様」の様子に、戸惑いました。

「王子様」を助けてあげたはずなのに。

「私は、貴方の為に……。あなたの……」

彼は少女を睨みつけました。

それは狂気の目でした。

正気の目ではありませんでした。

その鋭く光る目はまるで宝石のように。

その目は例えようもないくらいに。



綺麗でした。



「返せ……。レイカをかえせ……。カエセ!」

突然、彼は飛び上がるように立ち上がると、少女の首を絞めました。

恐ろしい力でした。

この細い腕のどこにこんな力が秘められていたのでしょうか。

意識が遠のいていきます。

彼の美しい顔が霞んでいきます。

「あ……う……あ……」

少女の身体は、壁際のサイドボードに叩きつけられました。

彼女の首を締め上げる手に、どんどん力が篭っていきます。



助けて……。

たすけて……。

タスケテ……。



少女の苦し紛れに泳がせた手に、何かがぶつかりました。

必死に視線を送ると、それは花瓶でした。

綺麗な白磁の花瓶でした。

真っ赤な薔薇が生けられた。



少女は無我夢中で、それを手にしていました。

そして、それを「王子様」の脳天に叩き付けました。



小さな悲鳴と共に赤い薔薇が弾けて、彼はゆっくりと少女の身体を滑り落ちました。



赤い薔薇はまるで餞のように、優しく彼に降り注いでいました。







やめてえぇぇぇぇえええぇぇぇぇっ!



これが自分の声なのかという程、大きな叫び声を上げて私は床に崩れた。

こんな……こんな事って……。



私は女の遺体の片隅に横たわる、別の朽ちた身体を見下ろした。

その身体には、乾涸びた薔薇の花が無数に降り注いでいた。



デジャ・ビュのように、あの日と同じ光景。



おじさん……おじさん……。



私は、その散らばる白骨の中から「王子様」の頭蓋骨を拾い上げ、抱き締めた。

きつくきつく抱き締めた。



涙が後から後から流れてきて、乾いた彼に降り注ぐ。

「ああ……ああ……。おじさん……おじさん……」

私は彼の頬に、自分の頬を何度も擦り付けた。



ごめんなさいね。

ごめんなさいね。

でも、信じてちょうだい。

私は、あなたを。

あなたを……。



ゆっくりと立ち上がり、出口に向かう。

足元で、朽ちた薔薇が断末魔の悲鳴を上げる。



彼を抱えたまま、「お城」から外に出た。

そこには、清清しい朝日が燦燦と輝いていた。



泥だらけの愛車に近づくと、彼を優しく助手席に乗せた。

ゆっくりと、キーを差し込む。

耳障りな音を立てて、エンジンが唸った。

ゆっくりと、車を滑らせる。



静かな朝の森を。



ねえ、おじさん。

今でも私は、あなたが好きよ。

これからはずっと一緒にいましょう。

ずっとずっと一緒にいましょう。

もう、寂しくなんかないのよ。

いいでしょう?



私は助手席の彼にそう微笑み掛けると、強くアクセルを踏み込んだ。







「昨夜未明、長野県の山中で、ガードレールを飛び越えた車が、転落しているのが発見されました。

車内からは、若い女性の遺体が発見され、同時に死後十年程経過した男性の白骨遺体の頭部も発見されました。

ブレーキ痕などが見られないことから、事故、自殺の両面から捜査が行われており、この女性の身元と、この遺体の関係を現在特定中の模様で……」



無機質なラジオから流れるニュースが響く「幻想画廊」では、『私のお城』が再びあの奥の壁にかけられていた。

「うん。やっぱりいい絵だな」

ドラキュラのような青年店主は、その絵を見上げると満足そうに頷いた。
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