【18禁版】この世の果て

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第四章 悪魔の花嫁

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『真の疑問符が初めて打たれ、魂の運命は向きを変え、時計の針はぐいと動き、悲劇が始まることだろう


                           ーーフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ』



全ての準備は整った。

あとは時期を待つだけだ。

あの一族は今、あらゆる意味で飽和状態を迎えつつある。

ほんのちょっと背中を押してやるだけで、それは儚く弾けてしまいそうなほどに。

まるで、水面に一片の小石を投げ込んだかのように、ゆっくりと。

だが、確実に波紋が広がっていく。


雪花幸造。

雪花里香。

雪花菊珂。

雪花夕貴。

そして、雪花海杜。


必ず、雪花一族を一人残らず君の前に跪かせてみせる。

誰よりも君を愛している。そう。あの男よりずっと。だが、君はあの男を忘れることはないのだろう。

君はあの男を愛している。

この先、どんなことがあろうとも。それでも構わない。哀れな道化師でも構わない。

君にあの一族の命を捧げる。そう誓ったのだ。

雪花家の抹殺。

これはその証なのだ。

この手は既に血にまみれてしまった。あれも、全て君の為だったんだ。君ならわかってくれるね。

さあ、そろそろ行動を起こさなければ。この波紋が消える前に……。

全ては君のために……。


ねえ……美ーー





今日は僕と菊珂の結婚披露宴が行われる。一年間、本当に長かった。

僕はこのセレモニーを通して、とうとう雪花家の一員として認められるのです。

僕はこの挙式の後、雪花家の一員として雪花コーポレーションの役員の一人に列記される。

僕はもうあの男---雪花海杜のただの秘書ではなくなるのです。

でも、まだまだこれからですよ。僕の計画にとってこれはまだスタートラインに過ぎない。

そう。おわかりになりましたか?

父さん。母さん。

僕はこの雪花一族を乗っ取ってやろう……そう考えているんですよ。

そう。最終的にはあの男を退けて、この僕がこの雪花コーポレーションの長となるんだ。

これほど素晴らしい復讐もないでしょう?

あなたたちを袖にした会社の頂点に、僕は君臨することになるのです。

雪花家がこの僕たちに跪くのです。素敵な考えでしょう?

そのためには、僕はどんなものにも染まってみせる。

自分の心だって身体だって、なんだって犠牲にしたっていいんだ。

美麻、君だって嬉しいだろう?誇らしいだろう?

もうすぐ君に、憎むべき雪花一族の凋落を見せてあげる。

苦しげな断末魔の悲鳴を上げるこの一族の最期を……ね?





「菊珂ちゃん……。綺麗……」

目の前の菊珂ちゃんを見て、わたしは思わず、泣き出してしまった。

だって、ウェディングドレス姿の菊珂ちゃんが……あんまり綺麗なんだもの。

「ヤダ。美麻。あなたが泣くなんで、まるであなたの方が結婚するみたいじゃないの」

「だって、本当に菊珂ちゃん、綺麗なんだもん……」

「美麻……ありがとう。私、あなたと友達になれて、本当に幸せよ?」

「菊珂ちゃん。私だってそうだよ?変わらない……変わらないよね?何があっても……」

「当たり前じゃない」

菊珂ちゃんは、私を抱き締めた。うっすらとその瞳が涙で潤んでいた。

「うふふ……。菊珂ちゃんの方こそ、泣いちゃだめだよ。せっかくのお化粧……落ちちゃうよ?」





菊珂と英葵の結婚披露宴。

まずは、親族だけで挙式が行われた。

雪花家の家風としては神式なのだが、菊珂の意向でチャペルでの挙式となった。

菊珂のウェディングドレス姿はもちろんだが、私の視線を捉えたのは英葵のモーニング姿だった。

透けるように白い肌と栗色の艶やかな髪が映える。

彼は自信に満ちた美しい笑顔を振り撒き、人々の祝福に答えていた。

だが、ちらりとこちらに向けられた切れ長の目は、突き刺さるように私を捉えて離さなかった。


「あなたの全てを僕が奪ってやる」


あの夜の彼の決意に満ちた一言は、呪文のように私の耳から離れなかった。

彼は宣言通り、私の元に近づきつつある。

菊珂との結婚を期に、雪花家へ入り込み、この披露宴の後に、彼は私の秘書という役割を離れ、役員の一人に並ぶ。

これが彼の狙いならば、今時珍しい、親族会社の盲点を付いた上手いやり口だと思う。

彼は、一気に時期雪花コーポレーションの社長候補として躍り出たのだ。

一歩ずつ、確実に彼は私の背後まで迫っていた。

だが、不思議なことに私は恐れは感じていなかった。

確かに彼は私を別の意味でも征服している。

しかし、私は彼に攻められながらも、どこか彼の優しさに触れているような気がしていた。

彼は私を攻めながらも、同時に私に不思議な安らぎを与えてくれるのだ。

彼はどこか、私を本気で攻め切れていない気がする。

その証拠に、私がその行為の激しさに耐え切れず、声を上げると彼の力は確実に弱まった。

そして、彼はいつも言葉では恐ろしい呪詛の言葉を吐きながら、どこか悲しげで寂しげな目をしていた。

そう。言い換えれば、彼はどこか苦しそうに私を攻めているのだ。

言葉とは裏腹に、まるで、私を攻め続ける、いたぶるという行為が彼の本意ではないかのように。

同じ脅迫者としても、そういう点で、英葵は恭平と違っていた。

我ながら、おかしなことだと思う。

脅迫者は脅迫者以外の何ものでもなく、どちらも招かれざる客のはずなのに。

だいたい、そんなことある訳ないではないか。

私は彼に殺されてもおかしくないほどに、憎まれているに違いないのだから。

これは、私の都合の良い思い違いなのだろう……。





「菊珂。疲れていないかい?次は披露宴だけど……」

英葵は優しく菊珂の髪を撫でた。

「ええ。平気。だって、私、嬉しくて仕方がないんですもの。疲れなんて吹っ飛んでしまいますわ」

「そう。そうだね」

ふと寂しげな表情の英葵に菊珂の胸が微かに騒ぐ。

菊珂にはいつも不安なことがあった。

それは他ならぬ、夫・英葵のことだった。

彼は本当に自分を愛しているのか。

そんな重大なことが、ときどき菊珂にはわからなくなる瞬間があった。

確かに、英葵は優しい。

この上なく、理想的でいい夫だと思う。

だが、同時に菊珂は、優しすぎる彼の態度に言い知れぬよそよそしさを感じることがあった。

いや、よそよそしさというのは当てはまらないかもしれない。

簡単に言えば、遠慮か。

確かに、英葵は一介の社長秘書だった。

その彼が令嬢の菊珂に対して遠慮じみた思いを感じているのは仕方がないことなのかもしれない。

しかし、そういうのとは全く違った感情が潜んでいるように思われて仕方がないのだった。

彼の心はどこか別の場所。別の人物に向けられているような。

そんな心ここにあらずといった雰囲気を、菊珂は英葵から感じ取るようになっていた。

そんな思いを振り払うように、夫に声をかけようとした瞬間、ノックの音が響いた。

「はい?」

ためらいがちにドアが開く。

そこに立っていたのは、九十九出だった。





「あのう……。ご迷惑かと思ったのですが。どうしても、直接……祝福を言いたくて……」

そう言うと、出は菊珂に花束を差し出した。

英葵は出と入れ替わるカタチで、親類の一人に呼び出されて出て行った。

「これ、僕が育てた薔薇です。よかったら、受け取って下さい」

変わらず、飾らない朴訥な印象。

それがふと菊珂に安らぎを与える。

「ありがとう」

一年前、菊珂は見合いの席で出が放った突然のプロポーズに立腹し、

出に平手打ちをお見舞いすると、さっさと退席して家に帰ってきた。

冷静に考えると、やりすぎだったかもと反省した。

自分の方こそ、とんでもない礼儀知らずだったと。

恐らく出はもう自分に会いたいなんて考えないに違いない。

なぜか心が痛んだ。

そんな時、出は家にやってきた。今度は胡蝶蘭の植木鉢を持って。

用件は見合いの際の非礼を詫びたいということだった。

菊珂はつい、意地を張って冷たくあしらってしまったが、

その時、里香に促されて庭を散歩しながら語り合った出の性質は、菊珂の想像を超えた好印象だった。

出は現在、某大学の院生なのだという。

専攻は植物工学という聞きなれないものだった。

今まで彼が持参した花々は、彼が丹精込めて栽培したものだったらしい。

出というのは、気の弱さが災いしてなかなか表に表れないが、

ぽつりぽつりと語るその言葉一つ一つに確かな知性と誠実な人柄の感じられる青年だった。

菊珂の中で確実に出へのイメージが変わっていた。

これから、いい友人としてならお付き合いしてもいいかもしれないなんてことを生まれてはじめて感じたほどだった。

だが、そんな中、起きたあの忌まわしい事件。

菊珂はあの事件を契機に出との交際を絶った。

血で穢れた自分の手では、もう出の純粋な魂に触れることが叶わない。

もう、自分と出のいる場所は決定的に変わってしまったのだと考えたのかもしれない。

そして、菊珂はそれと引き換えに英葵の愛を知った。

あれから、ずいぶん時が流れた。

出はあの日と変わらない素朴な印象のまま、そこに立っていた。

罪を知る英葵と罪を知らない出。

罪に堕ちる前の象徴としての出。罪に堕ちた後の象徴としての英葵。

菊珂にとって、出と英葵はそういう面で、対極に位置しているのだ。


「幸せですか?」


「えっ……?」

菊珂は思わず、声を上げていた。

「あっ……すみません!!僕……なんだか菊珂さんがひどく寂しそうな顔していたから……」

出はいつも自分で発言しておいて、自分が慌てるということが多い青年だった。

「そう……見えるかしら?」

「あ……いえ……」

恐らく、それは、出はその天性の鋭さから、物事の核心を突く発言をすることが多いからなのだろう。

そのことが、彼にとって幸せなのか、不幸なことなのか、菊珂に判断はできかねた。

「でも、本当に菊珂さん……綺麗ですね。

変だと思われるかもしれませんが、僕、本当に嬉しいんです。

菊珂さんがこんなに綺麗なお嫁さんになって」

「あ、ありがとう……」

「幸せになって下さいね」

「えっ……?」

「僕……菊珂さんの嬉しそうな顔見ると、なんだか幸せな気持ちになるんです」

出は真っ直ぐに菊珂を見つめた。

「幸せに……なって下さいね」





「失礼します」

出が退出してすぐに、ノックと共に係員らしい女性が入ってきた。

「あのう。こんなものが届けられていたんですが……」

見ると、彼女が差し出したのは、柔らかな花柄の用紙。

折りたたまれた祝電のようだった。

菊珂の脳裏に差出人と思われる数名の人間が思い浮かんだ。

恩師、友人、親戚……。

いずれにせよ、菊珂の心の中に暖かい空気が流れ込んだ。

菊珂は華やかな笑顔でそれを受け取ると、早速開いた。

だが、その瞬間、菊珂の精神は一気に天国から地獄へと叩き落された。

そこには……ある信じがたい一言が書かれていた。


「お前は人殺しだ」









会場をチャペルからホテルに移して、菊珂ちゃんとお兄ちゃんの結婚披露宴が行われる。

会場を見に行くと、ものすごくだだっ広い会場で、眩暈を感じたほどだった。

金屏風も大きなウェディングケーキも、

シャンデリアもわたしにとっては初めて目にするものばかりで、

本当にどうしていいのか、わからなくなる。

そうそう。会場に入ったら、初めてサイン……?を頼まれて、

びっくりしちゃって、それに、どうやって書いていいかわからないから、

普通に「咲沼美麻」って書いちゃったけど……それでよかったのかな?

なんとなく、この豪華な雰囲気に馴染めなくて、息苦しくなっちゃったから、

ちょっと廊下に出ると、不安げな顔をしたお兄ちゃんがいた。

「どうしたの?お兄ちゃん」

今日のお兄ちゃんは、真っ白いタキシードがよく似合っていて、

妹のわたしでもどきどきちちゃうくらいにかっこよかったから、目を合わせることができなかった。

お兄ちゃんは、周りの人に聞こえないように、小さめの声で言った。

「それが……菊珂が……どこにもいないんだ」

「ええっ!?」

「もうすぐ披露宴だっていうのに……いったい、どこへ行ってしまったんだろう……」

時計を見ると、披露宴開始まであと二十分を切っていた。

「お兄ちゃん。お兄ちゃんは会場へ行って。私……菊珂ちゃんを探してみるから」

「ああ……すまない……」





「いったい……どこに行ったんだろう……」

私は英葵から菊珂の不在を聞かされ、慌てて辺りを探し回った。

さんざん探し回った挙句、菊珂の控え室に戻ると、ふとテーブルの上に一通の電報があるのが目に付いた。

「電報……?祝電か……」

私は何気なくそれを広げた瞬間、凍り付いた。

そこには……。


「お前は人殺しだ」


これは……菊珂はこれを見て……!?

私は思わず、その電報を自分のポケットにねじ込み、駆け出していた。







控え室はもちろん、トイレにもロビーにも廊下にも菊珂ちゃんの姿は見つからない。

一体、どこに行っちゃったんだろう?

その時、わたしのバックで携帯が唸った。

着信の相手を確認すると、菊珂ちゃんの携帯からだった。

安堵感で、思わずしゃがみこんでしまいそうになった。

「美麻……」

「ねえ。菊珂ちゃん!!どこにいるの?もう披露宴始まるよ?みんな、菊珂ちゃんのこと、探してるよ?」

「ああ……披露宴……ごめんなさいね……。英葵さん……」

「えっ……?」

菊珂ちゃんの様子……変……?

わたしの戸惑いにお構いなしに、菊珂ちゃんは続ける。

「美麻……聞いて欲しいことがあるの」

「なあに?菊珂ちゃん……」


「美麻……私……人殺しなのよ」


菊珂ちゃんの放った一言が、わたしには信じられなかった。

「ど、どういうこと……?」

「あの、一緒に海岸通りのハンバーガーショップに行った帰り……私、いきなり知らない男に襲われたの……」

「えっ……?」

「必死で抵抗したわ……。もう無我夢中だったのよ。

気がついたら、目の前で男が倒れていて……私は血のついた石を握っていた……」

「そんな……。それから……どうしたの?」

「お兄様に連絡して……死体を始末してもらったわ」

わたしはそのあまりに現実離れした内容に、言葉を失っていた。

「仕方がなかったの!!怖かったのよ!!怖くて怖くて仕方がなかったの!!」

「菊珂ちゃん……」

菊珂ちゃんは声のトーンを落とした。

「……軽蔑する?美麻」

「そんなことないよ。菊珂ちゃん……私だって同じ立場だったら……きっと、同じことしていたと思うもの」

「そうね。そうかもしれない。でもね、私……私自身が許せないの」

「えっ……?」

「私はいつだって……自分の正しいと思った道を進んできたわ。

たとえ、どんなに反対されても、私は私の信じた道を突き進んできた。そういう自負があるのよ」

「うん。わかる。私、わかるよ。菊珂ちゃん……」

そう。菊珂ちゃんはいつだって、凛として強くて輝いていた。

わたしはそんな菊珂ちゃんに憧れていた。

大好きだった。

「いつだって正義を貫いてきた。貫いていきたい。そう思っていたの。

でも、私は自分の罪を封じて……こうして光の中を歩いている……」

「菊珂ちゃん……」

「私は……私は私自身がもっとも軽蔑する汚い人間に成り下がったのよ。

……私は……私はそれが許せないの!!耐えられないの!!」

電話の向こうの菊珂ちゃんは、そう言うと、さめざめと泣き出した。

「菊珂ちゃん……。確かに……菊珂ちゃんは強い人だよ。

でもね、菊珂ちゃん。弱さだって見せたっていいんだよ。菊珂ちゃん」

「美麻……」

「つらくて悲しくて仕方がない時は、誰かに弱さをみせたって

……いいじゃない?ね?そうでしょう?菊珂ちゃん」

「そうね……。美麻。そうよね」

「菊珂ちゃん。ちゃんと罪を償おう?やり直せるよ。ね?」


「でも、もう遅いの」


「えっ……?」

「全てが遅すぎる……」

「そんな……」

そんなことない……。

そう叫ぼうとしたわたしの耳に、菊珂ちゃんの錯乱した声が響いた。

「ひっ……!!ああ!!見て美麻。私の手……こんなに血塗れなの」

「しっかりして……菊珂ちゃん。そんなことないよ!!」

「毎日毎日怖かった……いつかこんな日が……

私の罪が暴かれる日が来ることが……怖くて怖くて仕方がなかった……」

「ねぇ。菊珂ちゃん。落ち着いて?今、どこにいるの?私、行くよ。今からそこに行くから……」

「ごめんなさいね。美麻……私……これ以上……耐えられそうにないの。

私は……私の罪を抱いて……このままいくわ」

「き、菊珂ちゃん……!?行くって……」


どこへ……!?


嘘でしょう?菊珂ちゃん。そんなこと……。


菊珂ちゃんの声の背後に轟々と唸る風の音が聞こえている?


屋上!?


「ねえ、菊珂ちゃん!!屋上なのね?待っていて!!すぐに……すぐに私……!!」

「美麻……私、あなたが大好きだったわ。本当にあなたに巡り合えて幸せだった。

あなたの優しさ、忘れないわ。だから……美麻。

こんな私のことも……どうか忘れないでいてね?」


「菊珂ちゃん……?ねぇ、やめて?お願い……!!」

小さく遠く、さようならの五文字が風に舞うように消えると同時に、携帯からは非情なほどに無機質な不通音が響いた。

「き……菊珂ちゃああああん!!」






「本当に菊珂さん……綺麗だった」

そうぽつりと言うと、九十九出は冷めた紅茶を一口啜った。

ここは菊珂の挙式会場から少し離れた某ホテルの喫茶室。

出は菊珂にお祝いの言葉を告げた後、ここでもう二時間も紅茶と格闘していた。

彼も式には招かれていたが、どうしても出席する心境にはなれなかった。

とっくの昔に自分の中で整理がついたと思っていたが、やはり菊珂の艶姿は目に染みた。

だから、彼は少し離れたこの場所から菊珂の幸せを願うことにした。

彼は視線を菊珂のいる会場へと泳がせた。

その時、出は屋上に妙なものを見つけた。それはゆらりと揺らめくと、ふと視界に現れた。

白く細長い影が風に煽られている。

「あれは……一体……?」

目を凝らして見ると、どうやらそれは人影らしかった。

下半身がやけに膨らんで風になびいているところを見ると、どうやらその人物はドレスか何かをまとっているようだった。

その瞬間、風が強く吹いて、屋上の人物の髪がさあっと風に洗われた。

豊かな巻き髪が風になびいて煌いた。

「えっ……?」

出はその瞬間、激しく身体を震わせた。

その人物は、出のよく知っている人物に思われたから。

「菊珂さん……? どうして」

そうだ。あそこに佇む影……それは、雪花菊珂に間違いなかった。

なんだって彼女は、こんな時間にあんな屋上なんかにいるのだろうか。

もう彼女の結婚披露宴はとっくに始まっている時間ではないか。

主役とも言える花嫁が、なぜあんなところで佇んでいなければならないというのだろう。

気分でも悪くなって、風に当たりに来たのだろうか。

だが、それにしては、明らかに様子がおかしかった。

遠いのではっきり見えないが、菊珂の足取りが明らかにおかしいのだ。

まるで夢遊病者のように、ふらふらと危ういバランスでこちらに近づいてくる。


こちらに!?


出は、冷水をぶっ掛けられたかのように背筋が凍りつくのを感じた。

こちら……。

こちらということは、彼女はフェンスを越えようとしているのか? 

馬鹿な!

出は届かないとは知りながら、思わず大声で叫んでいた。

「菊珂さん! 危ない!! 何しているんですか! 早く戻って!!」

出は、喫茶室内の客や従業員が一斉に彼に注目しているのにも気づかず、もうめちゃくちゃに叫んでいた。だが、非情にも彼の声は永遠に菊珂の耳に届くことはなかった。

「菊珂さん!」

出の絶叫と同時に、菊珂の身体はまるで支えを失ったマネキン人形のようにくたんと崩れ、彼の視界から消えた。





自殺発生という通報を受け、あたしたちは現場に駆けつけた。

現場は某有名ホテル。

今日はどこぞの良家の主催した大きな結婚式だったらしく、関係者の数が多すぎると捜査員達が嘆いていた。

そして、自殺者は驚くべきことにその主役だった花嫁だという。

幸せだったはずの花嫁の自殺……。

マリッジブルー?

いや、違う。関係者の話によれば、実際に二人が結婚したのは今から一年も前のことだったらしい。

それを考えると、今更マリッジブルーもないだろう……。

それにしても、花嫁衣裳が死装束になるとは……なんという皮肉なのだろう。

あたしは、眠るようにそこに横たわる死美人を見下ろしながら、呟いた。

「いったい……あなたに何が起こったの?」

その時、バタバタと聞き慣れた足音が近づく気配がした。

「大変ですよ!!先輩!!」

案の定、予想通りの人物・真幸苗子が息を切らして駆け込んできた。

「毎度毎度騒がしい登場の仕方ねぇ。で、今日はどうしたのよ」

苗子は肩で息をしながら、途切れ途切れに言った。

「被害者の女性の身元なんですけど……。なんと……雪花さんの妹さんらしいんですよ!!」

今度はあたしが大声を上げる番だった。

「なんですって!?」

「あと、自殺の目撃者が現れたんですよ!!あのう……先輩……聞いてます?」







「菊珂ちゃああん!!菊珂ちゃああん!!ううっ……ううっ」

美麻の慟哭が冷たい霊安室に響く。

夕貴もまた美麻と同じように、菊珂の身体に取りすがって泣いていた。

私には、菊珂が死んだという事実が受け入れられそうになかった。

実際、菊珂の死に顔は生前と変わらないくらいに美しく、まるで眠っているようで、

肩を揺さぶったら、今にも目を覚ましそうなほどだった。

さすがの莢華もひどくショックを受けているようだった。

普段は犬猿の中として、何かと衝突ばかりしていたが、

やはり幼少の頃からの付き合いなのだから、当たり前のことだろう。

私は彼女の夫として、彼女の肩を抱き締めていた。

父は、普段と変わらない様子でドアの前に立っていた。

ただ彼の傍らに立つ里香が、静かに目元をハンカチで押さえていた。

そして、英葵は放心したようにただ菊珂を見下ろしていた。

私は莢華を抱き締めながら、考えていた。


誰があの電報を出したのか。


誰かが菊珂の罪の告発をしたのだ。

一体誰が……。


あのことは……私と菊珂本人と……そして……英葵しか知らないはずなのだ。


まさか……英葵が……?


私はそう思い当たった瞬間、モーニングを着込んだままうなだれる義弟に言い知れぬ恐怖を感じたのだ。

静かに花嫁の死を悼むこの美しい青年。

君なのか?

君が……菊珂を……?







目撃者というのは、被害者の知人だったという青年・九十九出。

なんだか頼りなさそうな人物だけど、誠実な感じは伝わってくる。

「で……あなたは屋上に菊珂さんを発見したんですね?」

「はい……」

「他に人影は?」

「いいえ……。ありませんでした。菊珂さんが……自分であのフェンスを……乗り越えたんです。

僕……目に焼きついて離れないんです……。

フェンスを越えて……ビルを落ちていく菊珂さんが……。ううっ……」

あたしは目の前の青年の慟哭に、胸が締め付けられる思いだった。

それにしても、これは決定的な目撃証言だ。自殺という決め手の……。

だが、九十九青年はおずおずと口を開いた。自分の目撃したことと正反対の意見を。

「でも……僕には……菊珂さんが自殺したなんて……信じられないんです」

「だけど……菊珂さんの他には誰もいなかったんでしょう?」

「それは……そうなんですが……」

青年は言いよどんだが、すぐにはっとしたように顔を上げた。

「そうだ……。菊珂さん……誰かに自殺するように追い込まれたんじゃないでしょうか」

「追い込まれた?」

あたしの中できらっと何かが光った気がした。

こういう時はひらめきが生まれる合図……。

あたしは慎重に考えを巡らすことにした。

誰かが追い込んだ……。

だとしたら、間接的な殺人ということになるが……。

一番問題なのは……。

「いったい、どうやって?」

「それは……わからないんですけど……」

確かに、いったいどうやったというのだろう。

雪花菊珂は良家の子女で、とても自殺するような動機なんて見つかりそうにない……。

自殺だと考えられなければ、誰かに自殺するように仕向けられたとしか考えられないけど……。

その方法は……?

せっかく手中に収めたかと思ったひらめきの光が、指の間をすり抜けていく。

その時、目の前の青年はぽつりと言った。

「菊珂さんは……自殺なんかじゃない……」







「この度は……なんて言っていいのか……」

あたしは、商売柄言い慣れたセリフを口にした。
目の前には、遺族となったかつての見合い相手・雪花海杜とその関係者が沈痛な面持ちで、座っていた。

みんな礼服のまま、華やかな式場の控え室に詰めている。

彼らはあくまで冷静を装っていたけれど、その胸中は察してあまりある。

幸せなはずの結婚式会場が、一転して墓標となってしまったのだから。

しかし、彼との一年ぶりの再会がこんなことだなんて……。

本当に刑事なんて因果な商売だと思う。

「菊珂は……自殺したんでしょうか」

雪花海杜は静かに口を開いた。

あたしは自分の中に湧き上がる感情を抑えながら、務めて冷静に答えた。

「そうね。目撃者の証言を聞いてもそう断定しても、差し支えない状況だと思われるわ」

「動機は……?」

ふと、窓辺から声が響いた。

声の主は、椅子から立ち上がると、つかつかとこちらに近づいてきた。

その人物にあたしは覚えがあった。

今日という日のもう一人の主役だった花婿の青年---咲沼……いえ、雪花英葵。

「英葵……」

彼の同窓生だったという苗子が、今にも泣き出しそうな顔で小さく彼の名前を呟いた。

「自殺だとしたら、いったい……いったいどんな動機が考えられるというのですか?」

彼は能面のように感情の宿らない顔で、あたしに詰め寄った。

「遺書は発見されたんですか?」

「それはまだ見つかってはいないわ……」

「では、あなたがたは菊珂が動機もなしに自殺したとおっしゃるのですか?」

「それは……」

「じゃあ、いったいどうして自殺だなんて断定できるというんです?」

彼はあたしの肩を掴んでいた。

肺腑を抉るような叫び。

あたしは、どうしようもなく胸が痛むのを感じた。

苗子はとうとう泣き出した。

「菊珂はどうして死んだというんですか!?ねえ!!」

「ねえ、やめてよぉ。英葵!!」

「……苗子……」

「ねえ、お願い。もうやめて……わたし、これ以上……英葵が苦しむの……見てられないよ!!」

そう叫ぶと、苗子は控え室を飛び出した。

それを機に、自我を取り戻したのか、哀れな花婿は、はっとしたように顔を上げると、

「……すみません……」

と小さく言い、あたしの肩を解放した。

あたしはそれを契機に、部屋を後にし、苗子を追った。







「すみません……先輩……。事情聴取中に飛び出すなんて……わたし……刑事失格ですよね」

珍しく神妙な苗子に、あたしはかける言葉が見つからなかった。

「でも、わたし……どうしていいんだか……わかんなくなっちゃったんです。

英葵のあんな顔……見たことなかったから……」

「苗子……」

「小学生の頃の英葵って、すごく弱弱しくって、女の子みたいだったんですよ。

でも、すごく芯が強いとこもあって……とっても優しくて暖かくて……

わたし、大好きだったんです。英葵のこと……」

苗子はそう言うと、恥ずかしそうに笑った。

「でも英葵、いきなりいなくなっちゃって……それで大人になってからいきなり再会して……

運命の神様にちょっとだけ……感謝したんですよ。

大人になった英葵……すごく逞しくなっちゃって、おまけにクールな感じになってて……

ああ、やっぱり大人になると……人間って変わっちゃうんだなって思ったんですけど……。

飲みに行った時とか……やっぱり優しいとことかは変わってなくて……わたし、嬉しかったんです。

英葵、結婚しちゃったけど……それでもわたし、よかったんです。英葵……幸せそうだったから」

苗子の顔から笑みが消えた。

「わたし……英葵が憧れだったんです。いつだってへこたれない彼が大好きだった。

だから、わたし……なんだか……英葵のあんな姿……見ていられなくて……。

すみません……先輩……。わたし……わたし……」

あたしは優しく苗子を抱き締めた。

こんな風にストレートに誰かを好きだって言える苗子が、なんだかひどく羨ましかった。

あたしは昔、その一言が言えなくて、一生後悔することになったから。

嫌なことを思い出しそうになったから……あたしは軽く頭を振った。

その時、あたしの携帯が鳴った。

「はい。こちら、羽鳥。……熊倉君?何……?ガイシャの検視済んだのね?わかった。すぐに行く」

あたしは携帯を折りたたむと、涙に濡れた顔をきょとんとさせた苗子に言った。

「今は女同士としての時間だったけど、こっからは刑事としてのあなたに戻りなさい。いいわね?苗子」

苗子は涙を拭うと、力強く頷いた。







咲沼美麻の取材の最中、アタシはとんでもないスクープの渦中にいた。

それは、雪花財閥令嬢の投身自殺……。


ことの発端は、咲沼美麻が雪花財閥令嬢の結婚披露宴に出席するという情報を得て、会場となった六本木の某ホテルに張り込んでいる最中だった。

アタシが昼食代わりの肉まんを頬張って、何気なしに空を見上げると、何かが高層ビルの上から落下していた。

アタシは、何となくその白昼の浮遊物に向けてシャッターを切った。

手持ち無沙汰だったのだ。

最初はシーツか何か、大きな白い布のようなものが落ちてきていると思った。

誰かがきっと、屋上から誤って洗いざらしのシーツを落としてしまったんだろうと。でも、距離が近づくにつれて、それはシーツではないように思われた。やがて、その布は、他の建物に隠れて、見えなくなった。

結構長く感じられたけど、それはほんの数秒の出来事だったんだと思う。

カメラを下ろし、再び昼食代わりの肉まんを頬張っていると、いきなり地響きのような音がした。

肉まんが喉に引っかかりそうになって、慌ててウーロン茶で飲み込むと、アタシは一目散に音のした方向に駆け出した。

裏の小路に入ると、目の前にマネキン人形のようなものが落ちていた。

ああ、これが上から落ちてきたせいかと納得して引き返しそうになったんだけど、アタシの目はそのマネキンに釘付けになった。

そのマネキンの纏っていた純白のウェディングドレスが、みるみるまに赤く染まっていったから。

その光景を目にした瞬間、アタシはようやくことの事態を飲み込んで、その場にしゃがみこんでいた。


だって……アタシ……死体なんて……みたことないんだもん!!


アタシはどんどん集まる野次馬の中で、腰を抜かしてしゃがみこんでいることしかできなかった。

事件記者志望が……とんだ失態をやらかしてしまった……。とほほ。

アタシは気力を振り絞って、なんとか数枚の写真を撮った。

でも、いろんな意味で自信ない・・。

やがて、誰かが呼んだらしく、けたたましいサイレンを響かせて救急車が到着したけど

、ウェディングドレスの人物の様子を見て、一言「警察に連絡を」と言って去っていった。

ああ……死んでるんだ……。

アタシは強い眩暈を感じて、またその場にしゃがみこんだ。







「えっ?現場にカメラマンがいた?」

「はい。なんでも、野次馬の話によると、現場の写真を撮っていた人物がいたらしいんですよ」

苗子は、自筆の丸文字がびっしり並んだ警察手帳を覗き込みながら報告した。

「その人物……たまたまカメラを持っていたのかしらね?」

「さあ……?そこまでは……。でも、若い女性だったらしいんですけど、

その若さにしては、やけにごっついカメラだったらしいですよ。

なんか、プロが使うみたいな高価そうなカメラだったって話です」

「なるほどね……。恐らくそれは記者ね。何かの取材で居合わせたんでしょう……。でも、その写真……欲しいわね。あたしたちが到着する前に存在した何か不審なものとか人物とか……写ってるかもしれないから……」

「じゃあ、大至急、調べてみます!!」





「伊山……。お前なあ……。本当に事件記者志望なのか?」

編集長は呆れながら、アタシに写真を返してよこした。

アタシは答えられない。

この場合、どんな罵声だって覚悟しないと……。

アタシ自身が現像した写真を見て、がっかりしたんだから。

あ~あ。予感的中……。

「なんだよ。このアングルは……こういう時には遺体を真正面から撮らない。

あまりに生々しい写真は載っけられないからな。記者の鉄則だろうが。

しかも、他の写真は野次馬しか写ってないじゃないか。ぜんぜん使い物にならない。

まったく……何しに現場にいたんだか……わからない有様だな。伊山」

編集長独特の男言葉がいちいち胸に突き刺さる……。

ああ……やっぱり……見せなきゃよかったよ~。

アタシは悔しさにむせびながら、編集部を後にした。





「じゃあ、法医学的には自殺という判断に異存はないって訳ね?」

あたしはすっかりお馴染みになった熊倉法医学教室で、いつものようにハーブティーをご馳走になっていた。

「そうだね~。死因に特に不審な点はなかったよ。まあ、自殺ということ自体が君たち捜査員の間では不審なことなんだろうけどね」

「その通りよ。相手はあの雪花コーポレーションの令嬢よ。まして、結婚披露宴の当日よ。自殺の動機が見当たらないわ」

「そうそう。先輩のお見合い相手の……」

「いいかげんにしなさいって」

「しかし、君もその見合い相手の青年社長と妙な再会の仕方をしたようだねぇ」

「まあね」

「君、やっぱり彼のこと……忘れられないのかな?」

あたしははっとして顔を上げていた。

「えっ?なんです?」

苗子も同じように顔をあげて、熊倉に詰め寄った。

「ああ、苗子君は知らないんだったか。実は未央君はその昔、好きな男性がいたんだよ」

「ええっ!?本当ですか!?」

「やめてよ!!熊倉君……。なんでそんなこと今更!!だいたい、あたしはあいつのことなんてなんとも……!!」

「ほら。ムキになった。やっぱり忘れてないんじゃないか。

そんなこと、もう気にしてないからぜんぜん平気って言ったのは、他ならぬ君だったんじゃないかなあ?」

この変態監察医……ひっかけたわね……。

あたしは拳を握り締めた。

「実は僕、渦中の青年社長に会ってるんだよ。某パーティでね」

「なんですって?」

「うん。僕、こう見えても、クラシックの愛好家でね。

ささやかながら、ポケットマネーで新進音楽家のバックアップをさせてもらっているんだよ」

それは初耳……。

っと、いきなり熊倉監察医は真顔になった。

「似ているね。彼」

「えっ……?」

「いや。容姿とかはぜんぜん違うけれども、なんていうか雰囲気が……」

「ああ……」

それは……あたし自身が嫌というほど感じていた。

どうしてあたしが彼に惹かれているのか。

そうだ。

あたしは惹かれている。

彼に……雪花海杜に。

それがどうしてなのか……あたしはその答えも知っている。

どこか寂しげなその瞳が……嫌というほど、あいつに似ているから。

「先輩……大丈夫ですか?」

気がつくと、苗子が心配げにあたしを見上げていた。

「君だって気がついているだろう?自分の気持ちに……」

「熊倉君……」

「少々心配なんだよ。僕は……。君が今回の事件に必要以上にのめりこんでしまうんじゃないかってね……」

「どういう意味かしら?」

「刑事という枠を越えて……人間として君はあの青年に接することになるんではないかとね……。

君が望もうと……望まなくても……それでね。老婆心ながら、ご忠告させてもらったという訳さ」

「ふふ……ご忠告、ありがとう。でも、お生憎様ね。あたしはそんなヤワな女じゃないわ。

それは、あなただって知っているでしょう?」

「それなら、ありがたいんだがね」

そう熊倉は首をすくめた。

そうよ。あたしは刑事。

女である前に、一人の刑事。

事件を冷静に見つめ、公正な判断を下す使者。

しっかりしなさい。

あたしはいつものように自分に言い聞かせた。

その決意が崩れ去る日が訪れることを知らずに……。

「じゃ、あたしは行くわ。紅茶、ご馳走様。今度はあたしが美味いコーヒーでも差し入れするわ」

「期待しないで待つことにしよう」

あたしはドアを勢いよく開け放つと、外に躍り出た。

「あっ!!先輩!!待って下さいよお!!」





一人残された苗子は、いても立ってもいられずに、熊倉に訪ねた。

「あのう……。先輩の好きだった人……今はどうされているんですか?」

「ああ、彼も未央君と同じ捜査一課の刑事だったんだよ。もっとも彼女とは違ってノンキャリだったけどねぇ」

「そうなんですか……。で、その方、今はどこに……?」

「ああ、今は未央君を追い越して警視になってるよ」

「そうなんですか?すごいですね。ノンキャリなのに……。わたしも見習わないと……」

すると、熊倉は笑った。メガネの奥の瞳が悪戯っぽく動く。

「それは止めておいた方がいいなあ。君、長生きしたいだろう?」

「えっ?」

「注目しなければならないのは、ノンキャリの彼がなぜキャリアの未央君を追い抜いて昇進したかということさ」

「えええええっ!?それは、まさか、その……もうこの世にいらっしゃらないという……」

「そう。彼は殉職したんだよ。それは間違いない。彼を解剖したのは、この僕だからね」





急に編集部に呼び出された。

なんでも警察がアタシに用があるらしい。

颯爽とした感じの背の高い美人と、小柄で小動物みたいに可愛い女の子がちょこんと並んで立っていた。

アタシのイメージしていた「刑事」と……だいぶ違う……。

でも、おやって思うことがあった。

美人刑事さんの方の目。

涼しげなその眼はすごく鋭い光が宿っていて、ああ、やっぱりこのひと刑事なんだって再認識させられた。

「刑事さん?アタシに何か……?」

アタシは無意味に動悸が早まるのを感じた。

別にアタシ……警察のご厄介になるようなことした覚えないんだけど……。

「ご足労をおかけしてごめんなさい。実は……二日前の雪花菊珂さんの自殺の件についてなんですが」

「えっ?」

「あなた、なんでも現場に居合わせて、写真を撮っていたそうですね」

「ああ、でも……ぜんぜん役に立つような写真……撮ってませんよ。アタシ……」

アタシはしょんぼりと言った。すると、美人刑事はにっこりと微笑んで言った。

「それはこちらで判断しますから……まずは……その写真、見せて頂けませんか?」

「は、はあ……」

アタシはバックの片隅からその写真を取り出した。

正直言って、もう誰の目にも触れさせたくないんだけど……。

「……なるほど。これがその写真ですか……」

「ね、特に妙なものも写ってないでしょう?」

「そうですねぇ……」

ああ、やっぱり……意味ないんだ……。アタシの撮った写真……。

「念のため、これ、お借りしてもいいですか?」

「どうぞ。どうぞ。ネガありますから……あげますよ」

「そうですか?助かります」

そう言って微笑んだ彼女がかっこよくて、アタシはこういう事件記者になりたいって、強く心に留めた。





もうあれから二週間も経ったなんて、信じられない。

菊珂ちゃんの葬儀の時も、いろいろとお手伝いしないとならなかったのに、結局わたしは何にもできなかった。

なんだか頭がぜんぜん回らなくて、ただ菊珂ちゃんの遺影を見上げていることしかできなくて、

気がついたら頬に涙が伝っている。そんな感じだった。

きっと、わたしの一部が死んでしまったんだ。

こころのどこかが死んでしまったんだ。

でも、わたしは静かに横たわる菊珂ちゃんを見て、

まだ彼女が死んでしまったんだってことがきちんと理解できていなかったんだと思う。

わたしがようやくその事実に行き当たったのは、火葬の時だった。


燃やす?菊珂ちゃんを?

どうして?菊珂ちゃん、あんなに綺麗じゃない。

どうして燃やしちゃうの?

どうして?


―――嫌……ねえ、菊珂ちゃんをどこへ連れて行くの?

―――美麻ちゃん……。

―――落ち着くんだ。美麻。

―――嫌だ。離して。わたし、菊珂ちゃんと一緒にいる。

―――馬鹿なことをいうんじゃない!!美麻。棺から離れなさい。

―――嫌だ!!嫌よ!!菊珂ちゃんを燃やすんだったら、わたしも一緒に燃やしてよ!!


わたしは気がついたら、冷たいコンクリートの上に突っ伏していた。

お兄ちゃんに無理やり棺から引き剥がされた時、バランスを崩して倒れたらしかった。


―――お願いします……。


お兄ちゃんの無機質な声を合図に、菊珂ちゃんが見知らぬ人たちによって連れさられていく。


―――嫌!!嫌!!ねえ、どうして!!どうして誰も止めないの!?嫌だ!!いやあ!!


わたしはそれから無理やり控え室に連れて行かれた。

遠ざかる棺は、閉められたドアによって永遠にわたしの視界から消えた。

それから約二時間。

わたしは菊珂ちゃんと再会していた。

菊珂ちゃんはまったく違う姿でわたしの前にいた。

あんなに綺麗だった菊珂ちゃんが真っ白な灰になってしまった。

わたしは気がついたら長い長い箸を持たされていた。

海杜さんが一番初めにひとかけらの骨を小さな壷に入れた。

カランと乾いた音が響いた。

それを合図にするかのように、箸を持った人々が次々と菊珂ちゃんを小さな壷に収めていく。

菊珂ちゃんがどんどんバラバラにされていく。

わたしはただその光景を呆けたように見つめていた。


―――美麻ちゃん。君もいれてやってくれないか。菊珂は君にそうしてもらえることが一番嬉しいのだと思う。


海杜さんの声にわたしは小さく頷いた。

それからわたしはもう自分でも信じられないくらい、冷静に一心不乱に彼女を小さな壷に収めていた。


バラバラになった菊珂ちゃんを早く一つに戻さなければ。


骨壷はやがていっぱいになった。

わたしはその時、また泣いた。

声を上げて泣いていた。


あれから二週間。

時は残酷なまでに過ぎ去って、わたしを日常に連れ戻した。

わたしはピアニストとして、ステージに立たせてもらえる機会が増え、

小さな音楽祭はもちろん、地方公演などにも呼ばれるようになっていた。

CDを出さないかというお誘いも何件かあった。

忙しい日常の中で、ふと一人になるといつも考えてしまうことがある。


こんな時、菊珂ちゃんがいてくれたら、なんて言ってくれるんだろう。


きっと、よくやったって褒めてくれると思うけど、もっともっと頑張りなさいって激励してくれる思う。

わたしの最初で最後のかけがえのない友だち。

菊珂ちゃん……。

寂しいよ。会いたいよ……。

わたしはテーブルに突っ伏した。

その時、玄関の呼び鈴が鳴った。





アタシはついに咲沼美麻本人に接触することにした。

前のパーティの時の印象から、どんな高飛車のコが現れるのか……

内心気が進まなかったんだけど、これを遣り遂げないと、原稿の前借分が……。くすん。

アタシは緊張に高鳴る胸を押さえながら、

咲沼美麻のマンション(くあ~っ!!サスガいいとこ住んでる!!)の呼び鈴を鳴らした。

やがて、「どちら様ですか?」という澄んだ声が聞こえた。

「あのう……アタシ、月刊「CHACHA」編集部の者なんですが……」

「えっ……?」

小さく鍵の開錠の音が聞こえ、ドアの隙間から少女が顔を出した。

咲沼美麻本人に間違いない。

ただ、こないだのようなモデルばりの化粧姿ではなく、すっぴん状態なので、だいぶ幼い印象だった。

でも、アタシ的にはこっちの方が可憐な印象で、好感が持てた。

「あ、アタシ、月刊「CHACHA」編集部の伊山凛。よろしく!!って、

アタシ、ほんとはフリーなんだけど……ね。えっと、あなた、咲沼美麻さんだよね?」

「はい……。あの……記者さんがわたしに何か?わたし……特に何かの事件の目撃とかはしていないですけど……」

「あはは。そうじゃないのよ。あのね。あなた自身の密着取材をさせて欲しいのよ」

「ええっ!?わ、わたしの密着取材!?」

咲沼美麻は、こっちの鼓膜が危ないくらいの驚きの声をあげた。

「ええ。あなたの日常を取材させて欲しいの。特集!!天才ピアニストの素顔って感じでね」

「て、天才なんて……そんなこと、ぜんぜんないです。

だいたい……あの……わたしのこと取材なんかしても……なんの得にもならないと思いますよ……?」

あれ……?

なんか……イメージ違う……?

なんか弱弱しい物腰と控えめな態度。

これが……今をときめく天才少女なの?

「本当に……わたしの日常なんて……嫌になっちゃうくらい平凡で……

私自身……なんの取り柄もないですし……。あの……すごくつまらない記事になってしまうと思います」

えっ……?

なんか……この子……。

カワイイぞ?

「そうかな?アタシ、今あなたに会って確信したんだけどな。これはいい記事が書けるって」

アタシは真っ赤になってうろたえる彼女にウインクした。





「ええっ!?じゃあ、美麻ちゃんは本当に独学でピアノを?」

アタシは美麻ちゃんの淹れてくれた紅茶を飲みながら、手帳にメモを走らせた。

「はい……。うちではピアノを習えるようなお金なかったですから」

美麻ちゃんはそういうと、少し俯いた。

「ピアノに触れたきっかけを聞いてもいいかな?」

「はい。たしか、あれは三歳くらいの頃だったと思います。

一番最初にわたしにピアノを教えてくれたのは……『音楽の天使』なんです」

「『音楽の……天使?』」

「はい……。わたしが勝手にそう呼んでたんですけど……」

「それ、どんな人だったの?」

「それが……よく覚えていないんです」

「えっ……?」

そんな大事な人のこと……覚えてないなんてこと……あるんだろうか。

アタシの疑問を察したのか、美麻は小さく言った。

「わたし……あの頃の記憶……曖昧なんです。ショックなことがあって……」

「ショックなこと……?」

「わたしの両親……心中してしまったんです」

アタシは思わず叫んでいた。

「ええっ!?」

「それでわたし、その頃の記憶、なくしてしまったんです。

だから、『音楽の天使』のことも……よくわからないんです。

ただ、すごく優しくて……暖かい人だったって感じだけが時々思い出されるんです」

「そう……ごめんなさいね、嫌なこと……思い出させてしまって……」

「いいんです。気にしないで下さい。わたし、もう慣れましたから」

美麻ちゃんはそういうと、にっこりと微笑んだ。

「美麻ちゃん~。あんた、本当にいい子だねぇ。アタシ、感心しちゃうよ。うんうん」

実際、さっきから触れている美麻ちゃんの人柄っていうのは、

ほんとうに二重丸っ感じで、非の打ち所がない、いい子だった。

「そんな……」

「でさ、その『音楽の天使』とは……もう会ってないの?」

「ええ。その人とはわたしのいた養護施設……「ひまわり園」で会ったんですが……。

いつの間にか彼……現れなくなってしまって……」

「彼ってことは……男の人?」

「あっ……。そうですね。男性でした。たぶん……。

その人が……わたしにいろいろな曲を教えてくれたんです。例えば、コンクールで弾いた曲も……」

「あ、そうだったの。じゃあ、その人が美麻ちゃんのお師匠様って訳ね」

「はい……」

「ねえ、その人……美麻ちゃんの初恋の人だったりするんじゃないの?」

「えっ……?」

「だって、美麻ちゃん、その人のこと話す時、なんかすごくいい顔するんだもの。

アタシ、これでも事件記者志望だからね。観察眼には自信あるんだよ」

「そんな……あの……からかわないで下さいよ!!」

ほんと、この子、可愛いというか、擦れてないないというか……。

「でも、残念ね。そんな大切な人の記憶……なくしちゃうなんて……」

「はい……」

「いったい、どういう素性の人だったのかしらね。ボランティアで来ていたのかしらね」

「たぶん。そうなんだと思います。みんなその人のピアノ……楽しみにしていましたから」

「……調べてあげよっか?その人のこと」

「えっ!?」

「そうだ、調べようよ。美麻ちゃん。その恩人のことをさ。

それで、今、あなたのおかげでアタシ、こんなにリッパなピアニストになれました!!ってさ。感動のご対面!!」

そうだ!!ナイスアイディア!!いい記事になる!!

「ええっ!?」

「それがいいよ。美麻ちゃん。大丈夫大丈夫、アタシに任しといて!!よっし!!そうと決まったら、張り切っちゃうぞ!!」

「い、伊山さ~ん!!」





久々の休日。

明るい日差しの差し込む部屋。

そこで繰り広げられている光景は、決して似つかわしくはないはずの地獄絵。

ベッドの端に、きつく縛り上げられた手首。

血が滲み、さっきまでは歯軋りしたいくらいに痛んでいたが、すでにその感覚さえも失っていた。

私は毛布をきつく噛んだ。

声を上げる訳にはいかない。ここは私の寝室。このドアの向こうには、家族がいるのだ。

恭平の陵辱は、私のプライベート空間でさえも容赦なく汚染していた。

恭平の指が舌が肌を這い回る度、無様なまでに反応してしまう自分の身体を、八つ裂きにしてしまいたい衝動にかられる。

「なんだ。声がしないと思ったら、無駄な抵抗してやがるな。海杜」

私は自分とつながっている恭平を睨み付けた。

悔しいが、今声を上げたら、それは吐息にしかならないだろう。

「そんなに声が漏れるのが嫌なら……いっそ、息ができないようにしてやろうか?」

恭平はいきなり私の頭をシーツに押し付けた。

「んっ!!んん!!」

同時に恭平は一層深く私に己を付き立てた。

「!!」

「海杜、お前は本当に可愛い奴だな。ほら、よく言うだろう?馬鹿な奴ほど可愛いって」

恭平はようやく私の頭を解放した。だが、身体は解放してくれはしなかった。

「声、上げろよ。海杜。遠慮はいらないだろう。ここはお前の家なんだからな」

「馬鹿な……。父もいるんだ……君は……こんなところを会長に見られても平気だというのか」

「はん。望むところだな。あんたが選んだ優秀な社長さんは、今こうして俺の下で喘いでいますってな」

「狂ってる……君は……狂ってる……」

「俺だって自分がノーマルだなんて思っちゃいねぇよ」

そう鼻で笑うと、恭平は私を背中から抱き締めた。

意外な程、優しい抱擁に、私は戸惑った。

「どうしてだろうなぁ?突然感じるんだよ……。お前の身体が欲しくて堪らない衝動を」

そう言うと、恭平は私の首筋を舐め上げた。

「う……あっ……」

「俺はたぶん、おかしくなっちまったんだろう。だがな、それはお前のせいだぜ?海杜」

「恭平……く……ん……。あっ……あ……」

自分で声をと言いながら、恭平の唇が私の吐息を塞いだ。





夕食の時、父が珍しく帰ってきた。

いつも外食の父にしては、本当に珍しいことだった。

「お父様!!おかえりなさい!!」

夕貴が一目散に玄関に向かった。

「あら、あなた。今日はお早いのですわね」

里香が台所から出てきて、父の上着を預かった。

「ああ。今日は、ゲストを呼んでいるんだ」

「ゲスト?」

私は父が客人を家に呼ぶなんて、珍しいことだと思った。

父は交友関係は広いが、それはあくまで外での話で、家に誰かを連れてくるということは皆無だったのだ。

「珍しいですね。それは、いったい誰です?」

「お前もよく知っている人物だ。海杜」

その瞬間、なぜか父は笑った。

私が何か言葉をつなげようとした時、聞き慣れた声が響いた。

「こ……こんばんは……」

「えっ……?」


そこに現れたのは、紛れもなく美麻だった。

しかも、あの日私がプレゼントした白いドレスを着て立っていた。

父が美麻を呼んだのか?

いったい、どういうつもりで?

英葵もこの事態に驚いているようで、椅子から腰を浮かせていた。

「美麻お姉ちゃんだ!!どうしたの?」

夕貴が嬉しそうに美麻に抱きついた。

「うふふ……。今日はね、会長……あ。夕貴君のお父様にお招きを頂いたのよ。ピアノを弾いて欲しいって……」

「ほんと!?ありがとう!!お父様!!」

夕貴はおおはしゃぎで美麻の周りを回った。

「あ……。本日は……私のようなものをお招き頂き……ありがとうございます」

そう言うと、美麻は深くお辞儀をした。美麻は緊張しているようだった。

菊珂がいたら、「美麻、他人の家じゃないんだから、そんなに緊張しないで」と優しく微笑むところだろう。

「ふふふ……嫌ですわ、お義父様。ピアノでしたら、私がいくらでもお弾きしますのに……」

顔は笑っているが、莢華は明らかに父の行為に不服を感じているようだった。

私も父の真意を測りかねて、ただことの成り行きを見守るしかなかった。

「では、早速一曲弾いてもらおうか。そうだな。この曲を頼む」

父は何かの楽譜を美麻に渡した。

美麻は小さく「はい」と返事すると、私のピアノの前に座った。

美麻の両手がピアノに降りた。

その瞬間、私は父の真意が見えたような気がした。

この曲は……。

あの人の得意だった曲……。

まさか……そんなはずは……。

私は父への疑念を振り払おうとした。

だが、美麻を熱心に見つめる父の姿にその思いは強くなるばかりだった。

この上なく優雅な夕食となったはずだった。

だが、美麻の奏でる演奏をバックにしたその味は、なぜか心地よいものではなかった。





僕は自室に美麻を通していた。

「久しぶりだね。お兄ちゃん」

なぜか妹の笑顔が眩しい。

会うのは菊珂の葬儀以来か。

こうして二人きりで会うのは……留学以前までさかのぼらないと記憶にない。

だが、時折、雑誌などに顔を出しているせいか、そんなに久しぶりという感じでもなかった。

留学から帰ってきた妹は、すっかり大人びた印象だった。

コンクールの優勝という事実が、彼女に自信を与えている。

そんな気がしていた。

「お兄ちゃん……大変だったね」

美麻はそう言うと、写真たての菊珂に手をやった。

「菊珂ちゃんのこと……愛してるよね?」

「えっ……?」

「ね?お兄ちゃん……菊珂ちゃんのこと……愛してるんだよね?」

「美麻……」

美麻は気がついているのか?

僕が復讐のためにこの家に入ったこと……そのために菊珂を利用したということを……。

美麻は泣き出しそうな笑顔で僕を振り返った。

「お兄ちゃんのこと……わたし……信じてるからね」

『愛していた。』

僕にそんなことを言う資格があるのだろか。

確かに最初は利用するために彼女に近づいた。

だが、いつしか彼女の僕へ向ける真摯な想いが苦しかった。

彼女に触れる度に、溢れ出る僕への愛情が怖かった。

彼女の想いが純粋であればあるほど、僕の心を締め付けた。

僕は彼女を欺いていたのだから。

僕は間違っていたのか?

菊珂との生活の中で、僕は何度もそう思わされた。

もし、なんのわだかまりもなく彼女と出会えていたら、どれだけよかったのだろう。

そんなことまで考えている自分に気がつく時が、一番僕は怖かった。

僕はこの復讐のために、心など捨ててしまったはずなのに。

そうだ。菊珂を僕が恐れたのは、彼女の純粋さや真剣な想いが僕を正常な位置に連れ戻そうとしたことなのだ。

だが、一番今怖いのは……。





わたしは約束の時間になったので、雪花会長の部屋に向かった。

その部屋に入った時、わたしはびっくりした。

だって、壁一面の棚には、びっしりとレコードやCDが並んでいたから。

「あのう……車でのお話は……」

「不服かな?」

「いえ……そんな……逆です。私なんかでいいのかと思いまして……」

雪花会長は、やっぱり、親子だけあって、顔立ちが海杜さんに似ている。

でも、海杜さんがいつも優しい笑みを浮かべているのに対して、雪花会長は笑ったことがないんじゃないかな?

っていうくらい、引き締まった顔をしていて、なんだかとっつきにくい。

こんなこと、考えちゃ……失礼なんだろうけど。

だって、会長はわたしの資金面のバックアップをして下さるとおっしゃっているんだから。

でも、本当にいいのかな?

わたしなんて、まだまだ駆け出しだし……

とても会長のバックアップをしてもらえるくらいの実力なんて……持っていないのに……。

「君の方こそ、支援を受けるということの意味は、きちんとわかっているのか?」

「はい……?」

「まあいい。おいおい、わかることだろうからな。行きなさい」

「は、はい……?」

わたしはなんだかよくわからないまま、会長の部屋を後にした。







私は父に呼ばれて彼の部屋に行った美麻のことが気になっていた。

美麻は今夜は菊珂の部屋に泊まるのだという。

だが、私は美麻に会う勇気がなかった。

今更会って、どうなるというのだ。

私はそう自分に言い聞かせると、自室に引き返した。

最近、海外とのやり取りが多く、この時間でないと、先方と連絡が取れない。

私は廊下を歩きながら、出さなければならないメールの相手を暗唱していた。

自室のドアのノブに手をかけた瞬間、私ははっとして動きを止めていた。

私を誰かが後ろから抱き締めていた。

私の腰に巻きつく、華奢な白い腕。

微かな香水の薫り。

震えるような吐息。

懐かしい温もり。

それは、紛れもなく……。


「やっと……会えた……」


背後から、美麻の囁くような声が響いた。







「会いたかった……」

美麻は、一層強く私を抱き締めた。

「美麻……」

彼女は身体を離すと、その真摯な瞳で真っ直ぐに私を見上げた。

「日本に帰ってきたら、真っ先にあなたに会いたかったんです。

どうして……どうして私を避けるようなことするんですか?」

私は答えるべき言葉が見つからなかった。

こうして間近に感じる美麻は、本当に綺麗になった。

あの頃よりもずっと……。

女性としてもピアニストとしても。


そして、遠い存在になった。


君は君自身の手で掴んだ翼を広げ、遥か彼方へと飛び去ってしまったのだ。

もう、私と君では立つ場所が違うのだ。

答えを発することができない私の思いを察したのか、美麻は小さく、

「わたし……変わりましたか?」

と言った。

私はようやく、

「ああ」

とだけ返した。

美麻は寂しげに「そう」と呟いた。

「もう……美麻ちゃんとは呼べないね」

美麻は一層寂しげな顔をみせた。

「ごめんなさい。いきなり……抱きついてしまって……。ご迷惑でしたよね。ごめんなさい」

「いや……」

「本当は……海杜さんがわたしに会いたくないなら……

会わないほうがいいんじゃないかって迷ったんです。でも……どうしてもお礼が言いくて……」

「お礼……?」

私が聞き返すと、美麻はにっこりと微笑んだ。

「うふふ……。お礼はコンクール出場が決まってからって言ったのは、海杜さんですよ」

「あっ……」

「それは冗談ですけど……。わたし……本当に海杜さんにお礼言いたかったんです。

だって、わたしがこうしてピアニストになれたのは、全部海杜さんのおかげですから」

「それは違うよ。美麻ちゃん……」

「えっ……?」

「僕は……何もしていない。全部……君が実力で勝ち取った結果だよ」

美麻はまた小さく笑った。

「そんな……。だって海杜さんがチャンスをくれなければ、わたしの未来はなかったんですよ?だから……」

「違う……」

「えっ……?」

「僕は……君が思っているような人間じゃない」

美麻はその大きな瞳を一層開いて私を見上げた。

その穢れを知らない碧玉のような目が、私を映して揺れる。

「どうして?どうしてそんな悲しいことを言うんですか?

あなたは優しくて、いつもいつも私を助けてくれました。

私にチャンスを与えてくれた。それなのに、どうしてそんな悲しいことを言うんですか?」

やめてくれ。

それ以上、言わないでくれ。

私はいつしか彼女に哀願していた。

だが、美麻は非情にも強情に私に感謝の言葉をぶつけた。

それが、どれほど私の胸をえぐるのか。

それがどれほど残酷なことなのか、知らずに。

「いいえ、言います!!だって、私、あなたにはどんなに感謝しても感謝し足りないんですから!!そうでしょう?海杜さ……」

美麻の言葉が途中で途切れた。

それはそうだ。

美麻の言葉は私が塞いだのだから。

他ならぬ、私の唇で。

美麻の瞳が。

その大きな瞳が零れんばかりに見開かれていた。

急に訪れた沈黙。

私は震える唇をゆっくりと彼女から離した。

「それ以上……言わないでくれ……」

「海杜さん……?」

怖い。

この子を失うことが怖い。

だが。

私はもうこれ以上、偽善者の仮面を付け続けることが忍びなかった。

苦しかった。

もう限界なのだろう。

だが、美麻と私の関係も、恐らくこれで永久に切れる。

なぜなら、私は……。


「僕は……君の両親を殺した男だ」


私は搾り出すようにそう告げると、きつく目を閉じた。

美麻の顔を見ることができなかった。

「どういうこと……ですか?……海杜さん」

美麻の震える吐息のような声が微かに耳に響いた。

「君の両親が……あんなことになったのは……僕が父を諌められなかったからなんだ……」

「えっ……?」

「君の両親が心中した直接の原因を作ってしまったのは……この雪花家なんだ……」

美麻の瞳が揺れる。

混乱しているようだった。

無理もない。

恩人だったはずの人間が、両親の仇だったのだから。

私はそれから堰を切ったようにあの日の出来事を語った。

美麻の両親の懇願を振り切り、二人を死に追い込んだ一部始終を。

「僕の手は……君の両親の血で……穢れているんだ。今、君を抱き留めているこの両手は……ああっ……!!」

私は思わず美麻の身体をきつく抱き締めていた。

彼女の両親を死に追いやったその業深い両手で。

行かないで欲しい。

君を失うのが怖い。

私の叫びの後、部屋を支配したのは、沈黙だった。

私はその静寂の中、ただ幼子のように怯えていた。

彼女の拒絶が怖かった。

彼女を失うことが耐えられそうになかった。

だから、私はその罪深い両手で強く、強く美麻を抱き締めていた。

彼女が私のもとから消えてしまわないように……。

「違うわ……。違うわ……海杜さん」

「えっ……?」

私は思わず目を開けていた。

「あなたのせいじゃない……」

そこにあったのは、まるで聖母のように慈悲深い微笑み。

「あなたは何も悪くない……。これは……仕方がないことだったんだと思います。

父と母は死なざるおえなかったんだと思います。

それは、誰かのせいとかそういうことじゃなくて……とても悲しいことだけど……。

誰かが悪いんじゃないんです。どうしようも……なかったんだと思います」

「美麻……」

「ね?だから……もう苦しまないで……。海杜さん」

その時の美麻は、まるでこの世のものとは思えない程に……美しかった。

「話して下さって……ありがとうございました。

苦しい思いをさせてしまって……本当にごめんなさい……。私なんかのために……」

何を言っているのだ?

謝らなければならないのは、他ならぬ私の方ではないか。

どうしてこの少女は、人を憎むということを知らないのだろう。

どうしてこんなにも、人を許すことができるのだろう。

私は自分の中の何かが壊れたような気がした。

いや、壊れたのではない。壊されたのだ。

「ごめんなさい……海杜さん。あなたをずっと苦しめてきたんですね。私……」

そう言うと、美麻は私の胸に顔を埋めた。

「ごめんなさい……。ごめんなさい……」

美麻は泣いているようだった。まるで、自分の行為を謝罪するかのように、泣いていた。

美麻は顔を上げると、静かに言った。

「わたし、今……はっきりとわかりました。自分の気持ち……」

「えっ……?」

そして、聖母の唇がゆっくりとだが、はっきりと動いた。

「あなたのことが……好きです。海杜さん」

私は言葉を失っていた。

聞き間違いではない。美麻の唇ははっきりとそう動いた。

この子は、私が彼女の両親にした仕打ちを知りながら、まだ私を愛いそうというのか。

「好き。ずっと……ずっと好きだったんです」

「美麻ちゃん……」

「わたしを海杜さんのものにして下さい。海杜さんの事を欲しいなんて、言わないから」

突然、美麻は冷たい目で私を見つめた。

「抱いてくれないと、私……自殺します」

「なっ!」

「ね?海杜さんは悪くないの。私が脅迫してあなたに抱かれるの」

年齢とは、不釣り合いな程に聡明すぎる少女。

どうすれば少しでも私の立場を守れるのか。

この小さな少女は戸惑いに震えながらも、そんな事に頭を回している。

美麻の腕を取る私の手に力が籠もった。

「そんな事、言わなくていいんだ……」

「何のこと?海杜さんは脅迫されているのよ」

激しい口調と裏腹な今にも泣きだしそうな目。

私にとって三人目の「脅迫者」はあまりにも哀しい少女だった。

「いいんだ。美麻ちゃん……」

美麻はとうとうまた泣き出した。泣きながら私の胸に自分の顔を埋めた。

「私……きっと狂っているんです。普通じゃないの。愛しちゃいけない……分かっているの。

あなたを困らせてしまう事も。でも……でも……」

私は美麻の言葉を封じるように、彼女の唇にそっと口付けた。

もう何も言わなくていい。

君が狂っているのならば、私ももう随分前からおかしくなってしまっている。

なぜなら、私もずっと君と同じ気持ちだったに違いないのだから。

彼女の涙が私の頬に触れた。

一年前は、美麻からだった。

彼女からのぎこちない口付け。

この上なく、優しいその感触。

キスの味はあの頃と変わってはいなかった。

変わったのは、私の方か。

あの日のように長い口付け。

想いを刻み付けるように、互いの舌がゆっくりと絡まる。

美麻の爪が私の背中に食い込んでいく。

折れそうな程に華奢な美麻の身体を、きつく抱き締めた。

背後でゆっくりとドアが閉まった。

背徳の扉が……。








私はまた、罪を犯した。

償うことの叶わない重罪を。


長い口付けの後、私は美麻の白色のドレスに手を掛けた。

私自身が与えたドレスに。

「あっ……」

「心配しなくていい。僕に任せて」

ゆっくりと外されていくボタン。

少しずつ露わになっていく汚れない少女の白い肌。

私はこの汚れない肌に初めて大人の刻印を刻むのが、自分である事が嬉しかった。

やがて、すべてのボタンを外し、そのドレスをゆっくりと脱がせる。

明かりが消えたままの部屋に、月の明かりだけが微かに差し込んでいる。

美麻の栗色の髪が白いシーツの海に床に広がり、月明かりを浴びて輝く白い裸身に華を添えていた。

美麻が顔を朱に染め、背けた。

「やん……恥ずかしい……」

「綺麗だよ。美麻」

優しく白い乳房に触れると、少女はほうっと長い息を吐いた。

私は不安げな美麻の指先を絡め、しっかりと握った。

もう決して離したくない。

離さない。

そんな思いを込めながら。

「ねぇ……。海杜さんも……」

ゆっくりと美麻が私のタイを引き抜いた。

「後悔……しないね?」

「どうして後悔することがあるんですか?わたし……幸せです。とても……。だから……はや……く……」

私は自分の肌を晒した。

少女は私の身体に刻まれた無数の傷を目にすると、声を上げた。

それは今朝、恭平によってつけられたものだった。

「どうしたんですか……!?これ……」

私は何も答えず、ただ微笑んだ。

美麻はそんな私の思いに気が付いたのか、一瞬泣き出しそうな顔をしたが、すぐに微笑むと、傷にそっと口付けた。

「美麻ちゃん……?」

「海杜さん……私……あなたの痛みをやわらげたいんです」

「えっ……?」

「今まであなたを苦しめてきた……だから……今度はわたしがあなたを助けたいんです。

わたしなんかに……何ができるかわからないけど……」

美麻はそう言うと、私を強く抱き締めた。

「美麻……」

重なる素肌から、震える美麻の振動が感じられる。

今度は私の方から彼女に口付けていった。

「んっ……う……」

唇をゆっくりと下降させていく。

「あっ……好き……あっ……。好きです……海杜さ……ん……」







これは……夢?


今、現実で起きていることが、わたしには理解できなかった。

信じられなかった。

海杜さんもわたしを……?嘘……?

夢でもいい。

夢なら……醒めないで。







私の与えた白色のドレスが、履き慣れていなかった淡いピンクのパンプスが、

汚れない少女の素肌を包んでいた下着が、冷たい床に散らばっている。

ベットの上では、それらを纏っていた少女が、女に変わろうとしていた。

私の腕の中で。

必死に声を押し殺そうとする美麻が、堪らなくいじらしかった。

私の指が、唇が、どんどん美麻の感度を上げていく。

私もまた、美麻に理性を破壊されていった。

決して越えてはならなかったボーダーのはずだった。

罪なのは分かっている。

私には妻がある。そして、何より私は美麻の両親を死に追いやった張本人なのだ。

そして、今ここで犯した罪は、今後どんなカタチで美麻を傷つけてしまうかわからない。

いや、既に美麻は傷ついているに違いない。

彼女は、私以上に苦しい思いを抱えて私に身を任せているのだろう。


「私を抱かないと……私自殺する……」


美麻の、この脅迫めいた愛の告白から口にしてしまった禁断の果実。

あまりにも甘美なその実。

だが、私は痛いくらいに知っていた。その代償の大きさを。

それでも、この少女を愛さずにはいられない、抑えきれないパトス。

この壁一枚を隔てた向こう側の空間で、二人はただの義兄妹という仮面を被る。

だが、それまでは……許して欲しい。

決して向こうでは結ばれる事の出来ない身体を……今だけは……。







海杜さんは優しかった……。

優しく包み込むように抱いてくれた。

だけど、その瞳だけはいつものように寂しげで、苦しかった。

まるで消せない罪悪感に囚われているような瞳。

わたしはこの人を許されない場所へと連れ出してしまった。

だけど、彼のすべてがわたしを離さなかった。

「あっ……痛い……」

「美麻……大丈夫かい?」

「いいの……平気。早く……早く海杜さんと一つになりたい……」

わたしはきつく目を閉じて、自分に入り込む海杜さんを受け入れた。

少女から女へ変わる瞬間。

もう戻れない境界。

初めての人が貴方でよかった……。

「ああんっ……海杜さん!!海杜さ……ん!!」

「美麻……愛して……」

「駄目。言わないで」


お願いだから、言わないで。


貴方からそんな言葉を聞いたら、わたしは自分がどうなってしまうのか、わからないから。

そんなこと聞いたら、わたしはきっと、貴方を引き返せないところに引き込んでしまう。

わたしは今、貴方とつながるこの瞬間だけがあればいいのです。


それだけで、幸せだから。


わたしは海杜さんの唇を塞いだ。

もっとも聞きたいはずのその一言を、永久に封じ込めるために。

このまま、貴方の中に溶けてしまいたい。

消えてしまいたい。

このひと時を永遠にして欲しい。


貴方を……愛しています。







美麻に消えない刻印を残した罪深い私は、いつの日か審(さば)かれることになるだろう。

だが、たとえ、地獄の業火に焼かれようとも、無間地獄に落とされようとも、構わない。

この子が欲しい。

この子がいれば、それで何もいらない。

君は私だけのものだ。

この唇も肌も君を構成するすべては……私だけの……。

誰にも渡さない。

この子は私のものだ。

審きたければ、審けばいい。

私は君を離しはしない。

身を切り血を流しても……。







「か……海杜さぁ……」


どうしよう……。

おかしくなりそう。


初めて感じる洪水のような快楽に襲われ、大海原に弄ばれる小舟のように、わたしはなすすべなく沈んでいった。

どうしようもない程の高まりに、声を押し殺すのがやっとだった。

声を上げる訳にはいかない。

このドアのすぐ向こう側では、この行為が許されない現実が広がっているのだから。

わたしはもうどうしていいのかわからずに、ただきつくシーツを握り締めていた。

何度も結んでは解かれる唇。

海杜さんが触れる部分がまるで、燃えるように熱くなっていく。

息ができないくらいの激しさで、なんだか頭がおかしくなりそう。

「んっ……あっ……。か……海杜さ……」

涙が後から後から零れて、枕を濡らしていた。

どうして涙が出るんだろう。

嬉しいから?

哀しいから?

怖いから?

痛いから?

切ないから?

それらの感情が全てない交ぜになって、今、わたしの中で弾けている。

ああ、本当におかしくなりそう。

このまま、時が止まってしまえばいいのに。

吐息交じりの囁きが耳に届いた。


「み……さ……き……」


「えっ……?」


それは……?


わたしの中に芽生えた言いようのない不安感は、瞬く間に快楽によってかき消された。







「お久しぶりです!!こんばんは!!登録番号三千二十九番の不知火李です」

ここはワタクシの所属する全国家政婦協会東京支部です。

ここでは全国のお勤め先の斡旋や、家政婦・メイドの人権を守って下さる、

ワタクシたちメイドにとってはとてもありがたい場所なんですよ。

でもでも、その代わり、月一で、奉仕させて頂いているお宅に連絡が入って、

メイドの仕事ぶりなどについての聞き取り調査があったりして……もう、ドキドキなんですよ。

先月はお皿を18枚割ってしまったんですが、里香さんが協会にはナイショにして下さって……。

そうじゃなかったら、ワタクシ、クビになっているところでした。

どうしてワタクシって、こう何やらせてもドジでノロマで役立たずなんでしょう?

小学生の頃からドジ、ノロマとさんざんイジメられてきたものです。

そうそう中学生の時には……って……ぜんぜん関係ないですよね。ゴメンナサイ。

あっと、メイドとして勤める為には、ここの会則や指示に従わないとならないんです。

会則は……簡単にいうと……掟……みたいな感じですか?

なんか、全部で百八条もあるらしいんですけど……。とても覚え切れません。

メイドも結構、大変なんですよ。

あ、今対峙しているのは、ここの東京支部会長さんです。

全国の家政婦会のドンって感じのすごい方なんですよ。

見た目も迫力満点でど~んって感じですけどね。

「李ちゃん。毎日元気にお勤めしているかしら?」

「はい。私、一生懸命ご奉仕させて頂いています!!」

「それはいいわ。あなたなら元気にやってくれてるって信じてたわ」

「はい!!もちろんです!!」

ちょっと張り切りすぎて……お皿割りまくってますけど……。

「ところで……李ちゃん……忘れていないわよね?」

「は、はい……。なんでございましょう?」

「家政婦協会会則第三十五条のことよ」

「はうううっ!!!!!」


それは、「一、家政婦・メイドはお仕えする家のご家族に対してあらゆる感情をも持ってはならない」というやつでございますか!!


「どうしたの?」

「いえ……なんでもございません……」

「最近ね、うちのメイドの中で、こともあろうにお仕えしている

お宅の旦那様と恋仲になって駆け落ちしたって子がいてねぇ。本当に困ったことでしょう?

だから、一応あなたならそんなことないと思うんだけど、若い女の子、全員に注意しておくように、決まったのよ」

「は、はあ……さようでございますか……」

実は……ワタクシ……この度、大変な大役を仰せつかってしまったのです!!

「あ、あの。これ、ご指定の書類をお持ちしました!!海杜様!!」

「ああ、ありがとう」

ワタクシはその日、海杜様に書類を届けるため、雪花コーポレーションの社長室にいました。

お仕事中の海杜様は、本当に素敵です。

なんていいますか……。とにかく、素敵なんです!!はい!!

「君に頼みたいことがあるんだ」

「な、なんでございましょうか?私、海杜様のためなら、たとえ火の中水の中!!」

目を点にされている海杜様の様子に気がついて、ワタクシは慌てて、

「すみません!!わ、私にできることでしたら、なんなりと……ところで……な、なんでしょう?」

と言葉を訂正しました。

「英葵が僕の秘書から離れたことは知っているね?」

「は、はい。なんでもこないだの取締役会で常務になられたとか……」

里香さんが、そんなお話をしていたような気がします……。

「それでね。英葵の代わりを君に頼みたいんだ」

「………………?」

「李ちゃん……?聞いているかい?」

「……ほ……ほんとうでございますかっ!?」

「あ、ああ……。急なことだったのでね。秘書課の方でもまだ調整がつかないらしいんだ。

あまり難しく考えなくてもいいよ。詳しいスケジュールの設定などについては、吉成専務が行ってくれるからね。

君はただ、これからひと月程度の間、秘書の真似事をしていてくれればいいんだ」

「あ……私はピンチヒッターということでございますね?」

「そうだね。もちろん、今の給金の他に秘書としての報酬も

上乗せさせてもらうことになるんだが……どうだろう……?引き受けてくれるだろうか?」

「おおお、お金のことなんてど、どうでも……じゃなかった関係ございません!!……

し、不知火李!!粉骨砕身の覚悟で頑張りますです!!」

こんな訳で、ワタクシ……なんと……海杜様の私設秘書になってしまったんですよぉおおおおっ!!

ワタクシ、幸せです。

始終、海杜様のお側にいられるなんて……。

でも……ワタクシ、もちろん淡い期待ばかり抱いている訳ではございません。

何より海杜様には奥様がいらっしゃいますし、

ワタクシなんて……相手にして頂けるなんてこと、露ほども思っちゃございませんから。

しょせん……ドジでノロマな亀ですから……。ワタクシ……。

何よりヘマをしないようにするだけで精一杯でございます……。

「どうしたの?李ちゃん。急に元気なくなっちゃったけど……。何か気にかかることでもあるのかしら?」

「いえいえ!!滅相もございません!!私、海杜様のことなんて、なんとも思ってませんでございますですよ!?」

「は?」

「あっ……!?いえ……なんでもありませんですぅ……」

あ~ん!!ワタクシ、もうどうしてよいやら、わかりませーん!!





短い時間……。

本当に儚い夢のような……。

わたしはそっと部屋のドアを開けた。

静かな夜の静寂の中に、無機質なドアの開閉音だけが響く。

廊下に誰もいないことを確認して、そっと外に出る。

その時、そっと何かが肩に掛けられた。

みると、海杜さんの上着だった。

「この時間だと、冷えるだろう?持って行きなさい」

わたしは小さく頷いて、そっとその場を後にしようとした。

これ以上、ここにいたら、きっと、帰れなくなってしまう。

離れられなくなってしまう。

でも、その努力はあっさりと封じられた。

彼がわたしを背中から抱き締めていたから。

「また、逢ってくれるかい?」

暖かな感触。

離れたくない。

失いたくない。

でも……。

わたしは泣き出してしまいそうだったから、彼の腕を振り払って駆け出していた。

早く忘れなくちゃ。

でも、今だけ……今夜だけは……現実を忘れさせていて。





「今晩も海杜お兄様はお仕事なんだそうですわ」

不服そうな莢華の声に、河原崎唯慧はふと言い様のない感情を感じる。

それは、嫉妬か。それとも安堵なのか。

唯慧自身にも見当がつかなかった。

莢華がこの雪花家に嫁いで来ると同時に唯慧もまたこの家の使用人となった。

莢華がどうしても唯慧も一緒にと粘ったのだという。

唯慧にとってそれは、何よりも幸福なことのはずだった。

だが、同時に間近で莢華と海杜の夫婦の営みを見せ付けられるという事実はいつも唯慧を責め苛んでいた。

しかし、最近海杜の仕事が増えたおかげで、莢華は一人眠る日が増えたせいか、夜、寝室に唯慧を呼ぶ回数が増えた。

特に用がある訳でもない。いつも取り留めない会話で時が過ぎてゆく。

強がってはいるが、内心寂しいのだろう。

莢華は高飛車だが、本来は寂しがりやで、誰かに甘えていないといられないという面も持ち合わせていた。

今日も専用のベルで唯慧を呼び出した莢華は、唯慧に紅茶を淹れていた。

唯慧は使用人という立場ながら、「莢華選任」ということで、雪花家の使用人の中では特異なポジションにいた。

同じ家に住む住人でそんなに新しい話題がある訳でもなく、部屋は静寂に沈んでいた。

そして、莢華はぽつりと言った。

「海杜お兄様は、私と結婚したんじゃないわ。あの人は……仕事と結婚されたのよ」

それは唯慧が初めて耳にした莢華の弱音だった。

ようやく寝入った莢華を起こさないように、唯慧はそっと部屋を後にした。

その時、遠くの方でドアの音がした。

海杜の自室の方だった。

新妻を放っておいて、深夜までご苦労なことだ。

彼女は自室へと戻るため、音のした方へ向かった。

唯慧の与えられた自室は、海杜の部屋の斜め向かえに位置していたから。

何気なく前方を見た唯慧は、反射的に身を柱の影に隠していた。

誰かいる……?

唯慧は柱からそっと、廊下の様子を伺った。

人影は二つだった。

一つはこの部屋の主の海杜だったが、もう一つは?

そっと辺りを気にするように現れたシルエットは、紛れもなく咲沼美麻ではないか。

どうして彼女がこんな時間に、海杜の自室にいなければならないのか。

導き出される答えは唯一つしかない。

唯慧は美麻が走り去り、それを静かに見守っていた海杜がドアを閉めるまで、ただじっと柱の影で佇んでいた。





「毎晩毎晩お仕事大変ですのね。莢華、あなたと一緒にいられなくて、いつも心細いんですのよ」

今朝ばかりは莢華の言葉が胸に響く。

確かにここ数日、海外との商談が多く、時差がある先方とのやりとりの為、一人深夜自室で仕事をしていた。

だが、昨夜は違う。

メールの到着を知らせる電子音も、電話のベルも全て無視してあの子を抱いていた。

美麻と許されない関係と結んだ。

私と莢華の間に着々と朝食の準備が整っていく。

朝食に降りてきた美麻は、私に対して小さく微笑んだ。

その笑顔が朝日に溶けてしまいそうな程に、可憐で綺麗だった。

昨夜彼女は、私の手によって少女から女になった。

その点で言えば、莢華も美麻も同類だった。

私は、二人の純粋な魂と身体を弄んでいるのではないか。

対峙する二人を目にすると、言い知れない苦しさで胸が一杯になる。

「あら、あなた。どうかされました?食欲がないようですけれど……。どこか、具合でも悪いの?」

心配げな幼い妻に、私はただなんでもないと、答えることしかできなかった。





アタシは普段は縁のない高級住宅街を歩いていた。

目的地―――雪花家を目指して。

アタシは逃げ帰ってしまったけど(事件記者失格)一応、あの飛び降り自殺の第一発見者だった。

これも何かの縁だろうから、お線香くらいあげたかった。

アタシは喪服を持っていない。

だから、一応、一番黒っぽくて地味な奴を選んできたつもりなんだけど……。

アタシは目当ての表札を確認すると、その呼び鈴に指をかけた。

まもなく、ドアが開いた。

その時、アタシの心臓は止まりそうになった。

目の前に現れたのは、世にも美しい青年だった。

やや憂いを含んだ眼差しと栗色の艶のある髪。

歳はアタシと変わらないくらいだろうか。

石膏みたいに白い肌が不健康な印象を与えるどころか、彼の彫刻のように完成されたパーツを引き立てる役割を担っている。

面食いなのを自覚済みのアタシながら、こんなに綺麗な青年を見たことはなかった。

「伊山……凛さん……ですか?」

彼はアタシに怪訝そうな眼差しを向けた。

その眼差しさえも十分すぎるくらいに魅力的だった。

「あ、あの、アタシ、あのだ、第一発見者になってしまったもので……だから、あの、お悔やみを……」

「そうですか……。それはわざわざ、ありがとうございます」

彼はそう言うと、軽く頭を下げた。

伏せ目勝ちにすると、長いまつげが目立つ。

ほんと、なんて綺麗な人なんだろう。

「申し遅れました。僕は雪花英葵です。亡くなった菊珂は僕の妻でした」

「あっ……そ、そうなんですか!?」

アタシは「妻」という単語に無意識にショックを受けた。

「ああ、玄関先で失礼しました。どうぞ、おあがり下さい」

「は、はい!!」

アタシは慌てて彼に続いた。

「本当は葬儀に出席させて頂きたかったんですが……」

その頃、ちょうど原稿の追い込みで、手が離せなかった。

例の写真の件で警察に足止めを食わされている間に仕事が山のように溜まっていたのだ。

「いえ……」

とにかく、この家は広い。とにかく、廊下が長い。

アタシは掃除が大変だろうなあとか余計なお世話なことを考えていた。

彼は廊下の奥の襖の前で立ち止まると、さっとそれを開いた。

洋風建築が一気に和風に様変わりした感じだった。

その座敷の奥に遺影があった。

アタシははっとした。

まだこんなに若い子だったのか。

遺体を目にした時は、顔とかはっきり見られなくて、年齢とかぜんぜんわからなかった。

にっこりと微笑む彼女を見ていると、どうしようもなく胸が詰まった。

そして、傍らの青年……。

「なんていっていいのか、わからないんですけど……お悔やみします……」

アタシはそう言って、線香を手向けた。

目を閉じて、手を合わせる。

その瞬間。


「僕が……殺したようなものかもしれません……」


「えっ……?」

それは独り言のようだった。

その虚ろな青年の目は確実にアタシの胸を貫いていた。







「常務……お聞きになっていますか?常務」

僕は聞き慣れた吉成専務の声で、現実に還ってきた。

「あなたらしくないわねぇ。咲沼君。……うふふ……。もうそうは呼べないけれど」

「僕自身もまだ慣れていないんですよ。この苗字にも、この肩書きにもね」

「そうでしょうねぇ。あなたは社内でも注目の的よ。突然現れたシンデレラ・ボーイとね」

僕は苦笑した。

あれは菊珂の葬儀が終った直後のことだった。

「僕を常務取締役に……?どういう風の吹き回しですか?会長」

「君は私の息子になったんだ。可愛い息子のために役職をくれてやりたいと思うのは……ごくごく普通の親心ではないのかな?」

珍しく会長が笑った。

だからこそ、僕は緊張した。

「それはとてもありがたいご提案ですが……。

もちろん、あなたのことだ。何か……お考えがあってのことなんでしょうね」

「お前も可哀想な男だな。英葵。人の親切は素直に受け取るものだぞ?

まあ、それに関しては、好きなように想像してもらって構わんがな」

なんだ?

会長のこの余裕は……。

だが、僕は思い返した。

たとえ会長が何を企んでいようと、いいではないか。

僕を誘い出そうというのなら、あえて飛び込んでやる。

僕はもう何も怖いものなど、ないのだから。

「この度の辞令……喜んで拝命致します」

吉成専務は僕にコーヒーを淹れながら、背を向けて言った。

「でもね。気をつけなさい。出る杭は打たれるのよ?雪花英葵常務」

「そうですね。確かに現在の僕を疎ましく感じたり、僻んでいる方はいらっしゃるでしょうね。でも、そんなことは構いませんよ」

「あら、強気ね。意外だわ。……あなた、変わったわね。去年までは……まるで兎のような子だって思ってたのに」

僕は小さく笑った。

「兎……ですか?」

「そう。この社会という名の大自然に放たれた怯えるか弱い兎。

でも、今のあなたは違うわね。例えるなら、今は獲物を狙う野心的な豹ってところかしら?そう。美しい黒豹……」

彼女の眼鏡の奥の目が艶かしく光った。

「あはは。ずいぶん違いますね。僕自身は何も変わったつもりなんてありませんが」

そう。僕ははじめから変わってなどいない。

ずっとこのチャンスを伺っていた。

爪を研いでこの刻を待っていた。

そして、誰も今の僕には勝てるはずない。

なぜなら、僕はこの命さえ賭しているのだから……。

だが、本当に?

本当に……?

最近、僕の中で渦巻くこの気持ちはなんなのだろう?

僕はいったい、何を恐れているんだ?

僕は……いったい……。







殺伐とした捜査一課に、苗子の朗らかな声が響いた。

「せんぱ~い。先輩に御用の方がいらしてますよ~。証言者らしいです」

「あたし、これから非番なの。忘れた?」

あたしは三日間完徹で、正直身体がガタガタだった。

早く真っ白いシーツに飛び込みたい。

そんな誘惑があたしの頭を駆け巡っていた。

優秀な警察官だって、所詮人間。

休養だって大切だと思う。

すると苗子は困ったようにくちびるを尖らせた。

「それが、先輩……。一年前の事件について話したいことがあるって……女性が」

「一年前……?あの……F埠頭のヤマのこと?どうして今更……?」

「さあ……?とにかく……応接室にお通ししておきましたよ?いいですよね?」

「わかった。今行く。あんたも来なさい。苗子」

「あの~。先輩、わたしもひば……」

あたしは思いっきり凄みのある顔で苗子を見下ろした。

「いいわね?」

「はい……真幸苗子……参りますで~す……」





アタシは早速、応接室でその目撃者と向かい合っていた。

目撃者はまだ若い女性だった。

「そんなに固くならないで。もっとリラックスしていいのよ?お茶菓子もどうぞ。美味しいわよ?」

「は、はい……」

相手は根っからの内気な性格らしく、正直言って、一番事情聴取のやりにくいタイプだ。

こういう相手は強く出ると、萎縮してしまうし、かといって自由にやらせても話が続かない。

「ところで。一年前の事件について……だったわね。

まず聞かせてもらえるかしら?どうして今になって報告する気になったのか」

「ええ。あの。わたし……昨日まで海外留学をしていたものですから……。事件について知らなかったんです」

「ああ、なるほどね、なら仕方ないわね」

「はい。わたし、今日、留学中に何か事件とか起きてないかな~とかなんとなく気になって、

友人に聞いたんです。それで教えられて、初めて知ったんです」

「そう。よくわかったわ。では、いったい何を目撃したのか……教えてもらおうかしら?」

「は、はあ……」

なぜか、相手の女性は萎縮した。

「先輩……。取調べじゃないんですから~。そんなに怖い顔しちゃダメですよ~」

「あたし、そんなに怖い顔してる?」

「ええ。とっても……」

徹夜続きのせいで、理性的な顔が作れていないのかもしれない。

あたしは反省して無理やり笑顔を作った。

「……えへん……。で?」

「あの……F埠頭で遺体で発見された男の人が……女の子と争っているところです」

「なんですって?間違いないの?」

あたしは思わず、身を乗り出していた。

「先輩!!抑えて抑えて」

「うるさいわね。それどころじゃないのよ。……間違いないの?」

「は、はい……。間違いないと思います。わたし……悲鳴を聞いて、埠頭の倉庫の裏通りに入ったんです。

その時、倉庫群の明かりで二人の顔、はっきり見えましたから」

「なるほどね。で、それから?」

「それだけです……」

「えっ……?どういうこと?」

「だから……それだけです。わたしはそのまま、埠頭を離れましたから」

あたしは思わず、声を上げていた。

「女の子が男に乱暴されかかってるってのに、それをそのまま放置して帰ったっていうの?」

「だって……怖かったから……。わたしだって、女です。

それに……厄介ごとに巻き込まれる訳にはいかなかったんです。

わたし、姉妹都市の大学の特別留学招待生に選ばれたばっかりで……その翌日から留学決まってて……。

係わり合いになりたくなかったんです。わかるでしょう?

でも、帰国して友人の話とか、ネットとかのニュースを見たら、その時の男の人、殺されたっていうじゃないですか。

わたし……怖くなって……」

そういうと、女性は泣き出しそうな顔になった。

あたしは、いろいろと言いたいことが頭を駆け巡ったけど、必死に押さえ込んだ。

もう済んでしまったっことだし、今ここでこの女性に泣き出されても困る。

「わかった。で、あなたはもみ合ってた女の子の顔も知っているのね?モンタージュ作るから、協力できるわね?」

すると、女性は大きく首を左右に振った。

あたしはいいかげん、堪忍袋の緒が切れた。

「あなたね。そのかわいそうな女の子のこと、助けもしない上に、

事件解決に協力もできないっていうの?いくらなんでもね……」

「違うんです……。もう、探す必要なんてないんです」

「は?」

あたしは意味がわからなかった。

苗子も同じだったらしく、乗り出したあたしを取り押さえながら、きょとんとした顔をしている。

「だって、その女の子、もうこの世にいないですよ。

こないだ、結婚式で飛び降り自殺があったじゃないですか。

わたしが見たのは、あの飛び降りた花嫁ですよ」

あたしの頭はパニック寸前になった。

その瞬間、聞き慣れない、でも、どこかで聞いたことのある声が響いた。

「やはりそうでしたか……。僕の思った通りですね」

慌てて振り返ると、なんとも気弱そうな青年がぽりぽりと申し訳なさそうに頭をかいていた。

「すみません。あなたを訪ねてきたら、声がしたものですから……。

つい。立ち聞きさせて頂くつもりなんて……僕、本当になかったんですよ。羽鳥警部」

そこに立っていたのは、紛れもなく九十九出青年だった。

なぜか、大きな花の鉢植えを持って。
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