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三章:愛ゆえに
愛ゆえに
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「いけません! ハルトリーゲル様はこのガルテンの王妃であらせられるお方。そのような方がこのような場所に来ては……」
暗殺を失敗し、二度目の暗殺も失敗したが放免された。そして先日の食堂でのガデナーの会話。どうやら理由は分からないがあの魔王が随分と自分に執心しているということを理解したハルトリーゲルは開き直ることにした。
ならば手を変えるのみ。そう決意したハルトリーゲルは朝早く目覚めると真っ直ぐに厨房へと向かっていた。
朝の仕込みで慌ただしかった厨房は突然のハルトリーゲルの登場で更に混迷を極めた。
「それは分かりますが、せっかくなので……愛するガデナー様の為に……その……手料理を振る舞えないかと思いまして。でも……やっぱり邪魔ですよね……?」
うつむきがちに語るハルトリーゲルの姿は可憐な少女そのものであり、事情を知らない料理人たちはその言葉に深く胸を打たれた。打たれてしまった。
「なんと深い愛情。正直人間のお姫様が来ると聞いて不安だったのですが、この様な慈悲深い方だったとは……俺は……俺は……こんな素晴らしい方を少しでも疑っていた自分が恥ずかしい!!」
責任者と思しき中年の男が涙を流し、厨房にいた料理人達も感極まって瞳に涙を浮かべていた。
「そういうことでしたら、この料理長モース、全力でお手伝いさせていただきます!」
モースと名乗った男の号令で厨房の料理人達がハルトリーゲルに向かって一斉に笑顔で頷いてみせる。その光景にハルトリーゲルは圧倒されながらも笑顔で微笑んだ。そしてハルトリーゲルは理解した。魔族は馬鹿が多いと。
ハルトリーゲルがガデナーの為の朝食作りに勤しむ中、既に食堂ではガデナーとザフトリング、そしてピルツが着席してハルトリーゲルを待っていた。
「というかガデナー、あなたいい加減夜は自分の部屋に帰りなさいよ? いつまでも私の部屋に居座られちゃ邪魔で仕方ないわ」
「くっ……だっ、だがな。ハルトリーゲルと一緒の部屋にいると思うと、何を話していいかわからんのだ。どうすればいい?」
ガデナーがザフトリングとピルツの顔を見つめて真剣な表情で語り、ザフトリングとピルツはそんなガデナーを見つめて小さくため息をこぼす。
「若……もう子供ではないのですから。ずっと溜めてきた鬱憤をぶつければいいのではないでしょうか? 思春期的な意味で」
「不潔よ、ガデナー」
「ええ、不潔ですな」
「おい、待て。俺の思春期がどうしてここに出てくる」
ガデナーが慌てて立ち上がる。そんなガデナーを横目にザフトリングが怪しい表情で小声で呟く。
「あら? 私、貴方のハルトリーゲルちゃんへの思いを綴ったノート見ちゃったことがあるの。ごめんなさいね。でも大丈夫、ガデナー。貴方は健全よ。あのくらいのことはみんな考えるものなの。多分だけどね」
「はははっ、まてまて。ちょっと待て。何を言っている? ザフト」
「それをいうなら私はガデナー様のベッドの下の物を少々片付けさせて頂きましたな。人の趣味に口を出す気はございませんが……植物型の魔物と人間の娘の組み合わせはさすがに……いえ、他人の性癖に口を出すなど無粋なことはしますまい」
「はははっ、ピルツもなかなか面白いことを言うものだ。はははっ! はははは!」
ガデナーは大きく笑うと小さく咳をして無言で席につく。その動作はまさに王の立ち振舞に相応しい洗練されたものであるが、その額には大粒の汗が浮かんでいた。そんなガデナーの様子を前にザフトリングが小さく口元を歪ませる。
「本当に貴方って昔から変わらないわねぇ……。そこが貴方の良い所でもあるんだけど。しかしハルトリーゲルちゃん遅いわねぇ。部屋にもいなかったし、まさか外に出たのかしら? でも夜は結界が張られているから王宮から出るのは無理だろうし、力づくなら私が気がつくはずよね」
ザフトリングが途中で何かに気がついたのか、慌てた様子でガデナーを睨みつける。
「……そう言えば貴方、ハルトリーゲルちゃんに罰を与えるとか言っていたけど、まさかハルトリーゲルちゃんに何かしたの!? その思春期的な意味で?」
「まさか……俺がハルトリーゲルを傷つける訳なかろう。それにだからさっきから一体なんだ、その思春期とは」
「怪しいわね……。じゃあ、昨日言っていた罰というのは……」
ザフトリングが問いかけた瞬間、食堂の扉が開き侍女たちが食事の準備にとりかかる。するとハルトリーゲルの机の上に大量のパンの耳の切れ端が盛られた皿が置かれた。
「……これは?」
ザフトリングは目の前の光景に思わず顔をしかめながら問いかける。そんなザフトリングに対してガデナーは笑顔で答える。
「罰は罰だからな。ハルトリーゲルには今日一日このパンの耳だけ食べてもらう。安心しろ。これはただのパンの耳ではない。ガルテンに伝わる滋養の秘薬が染み込ませてある。一滴で寝たきりの病人を快癒させるほどのな。それに味もハルトリーゲルの為に工夫してある。自信を持って人前に出せる物に仕上がったと自負している」
「ちょっと! なんてものを食べさせようとしているのよ! 一滴で病人が快癒するなら、それがまんべんなく染みこんだパンの耳なんて食べたら、快癒どころじゃなくて昇天しちゃうわよ! アンタ忘れたの! ハルトリーゲルちゃんは人間なのよ!?」
「いや、ハルトリーゲルはステンペルだ。吸魂の呪いを持つ彼女にこそこれがふさわしい!」
「パンの耳で王妃が死んだとか笑えないからやめなさい!」
胸を張って語るガデナーを前にザフトリングが慌てて叫ぶ。言い合う二人を前に、ピルツは諦めたのか小さくため息をついた。
すると突然食堂の扉が開き、ハルトリーゲルが台車を押しながら食堂に入ってきた。
「あっ、ハルトリーゲルちゃん。遅かったわね、どこに行っていたの?」
手を振るザフトリングを前に、ハルトリーゲルは笑顔で微笑んでみせる。
「これはザフトリング様。おはようございます。それにピルツ様も」
「はい。良い朝ですな」
一人だけ挨拶をされなかったガデナーはせわしなくハルトリーゲルに視線を送るが、ハルトリーゲルは振り向きもしない。徐々にガデナーの表情が曇り、その瞳が赤く染まりかける。まさにその瞬間、ハルトリーゲルはガデナーの横に立つと、スカートを裾を持って優雅に礼をしてみせる。
「おはようございます、ガデナー様。我が君」
「あっ……ああ! おはよう! おはよう、ハルトリーゲル! 我が愛しの姫よ!」
「あそこまで来ると哀れにすら思えてくるわね……」
「若……ご武運を……」
感極まったのかガデナーは勢い良く立ち上がり、慌てて上ずった声をあげる。そんなガデナーの態度にハルトリーゲルが一瞬顔を引き攣らせたのだが、感動で瞳が曇っているガデナーは当然のようにそれに気がつかない。そんなガデナーをザフトリングとピルツが生暖かい目で見つめていた。
「時にハルトリーゲルよ、その台車は一体何だ? 何故ハルトリーゲルが給仕の真似事をしているのだ?」
ガデナーがハルトリーゲルの押してきた銀の台車を見つめて首を傾げる。するとハルトリーゲルは恥ずかしそうに言いよどむ。
「これは……その……ガデナー様に朝食を頂いて欲しいと思いまして。お口に合うか分かりませんが……頑張って作ってみました。食べて……頂けますか?」
不安そうに見上げながら語るハルトリーゲルを前に、ガデナーは一瞬何を言われたのか理解できずに立ち尽くした。
「あら、やるじゃない! ハルトリーゲルちゃん。良かったわねガデナー。手作りですって……って、ガデナー? 気絶してる……」
「えっ? 気絶? ……ひっ!」
ガデナーの表情はだらしなく緩んでおり、恍惚の表情で白目を剥いていた。もとより端正な顔立ちが故に、それが崩れた時のおぞましさは筆舌に尽くしがたい。だらしなく呆けた表情で気絶しているガデナーを前にハルトリーゲルが思わず小さな悲鳴をあげて後ずさる。
「やれやれ……相変わらずです、な!」
ピルツが苦笑しながら立ち上がると、おもむろにガデナーの背中に立ち――掌底をその背中に叩き込む。
「ぐはっ!」
轟音とともに凄まじい衝撃が室内を揺らし、ガデナーが驚いた表情で慌てて首を左右に振る。
「はっ? 俺は一体? 俺のために食事がハルトリーゲルを用意したと聞いたが……」
「落ち着きなさい、ガデナー。ハルトリーゲルちゃんを食べたいのは分かるけど、まだ朝だし、食事はハルトリーゲルちゃんが作ったのよ」
その言葉に我に帰ったガデナーは青ざめた表情で自分を見つめているハルトリーゲルに向かって笑顔で語る。
「……見苦しいところを見せたな。俺は驚くと意識が混濁する持病があってな……。これからもハルトリーゲルを驚かせるかもしれんがどうぞよしなに頼む」
まるで先ほどの醜態などなかったかのように凛々しい表情で語るガデナーを前に、ハルトリーゲルもまた極上の笑顔で微笑んでみせる。
「いえいえ。そんなガデナー様も可愛らしゅうございますよ……」
「そう言ってもらえると助かる。ではせっかくの姫の手作りだ。冷めない内に早く食べるとしよう。ではハルトリーゲルも席に着くがいい……。ん? 食事?」
ガデナーが何かに気がついて慌ててハルトリーゲルに向かって振り返る。そこには自分の机の上に嫌がらせのように置かれた大量のパンの耳を前に、困惑した表情で立ち尽くしているハルトリーゲルの姿があった。ハルトリーゲルの瞳は心なしか潤んでいるようにも見える。
「あっ……」
「あーあ」
ガデナーが思わず言葉を失い、それを見ていたザフトリングが楽しそうに口元をつり上げる。
「……私の食事は……パンの耳……ということでしょうか。そうですわね。それも仕方が無いことだと思っておりますわ。私はガデナー様の命を狙った不届き者。こうして生かされているだけでも感謝せねばならない身分ですから……。そのお情け、ありがたく頂戴しますわ」
ハルトリーゲルがゆっくりと大量のパンの耳が積まれた机の前に座る。
「せっかく手作りの料理を作ってくれた可愛い奥さんに対する仕打ちがこれって最低よね、そう思わない、ピルツ?」
「そうですな。不義理……と申しましょうか。いささか誠意に欠ける態度かと。正直美しくありませんな」
「いやっ……これは違う! 違うのだ! こう見えても俺はパンの耳が大好物でな、特にガルテンのパンの耳は絶品過ぎて三食パンの耳でも良いくらいなのだ。その美味しさを姫に味わって欲しいと思ってな、無粋と知りつつも用意させた。だが、姫の気分を害してしまったようだ。許せ」
「ガデナー様……そのお心遣いだけで、ハルトリーゲルは嬉しゅうございますわ」
「とりあえず、ガデナーの今日の食事は三食パンの耳に決定ね」
「致し方ありませんな」
ガデナー達を見つめながらザフトリングとピルツが頷いている。実に息のあった二人である。
「それで、その……ハルトリーゲルが俺の為に作ってくれた食事とやらが、気になって仕方がないのだ。少々無礼だが待ちきれん。蓋は自分で外させてもらうぞ」
「お口に合うか分かりませんが……」
ハルトリーゲルは照れくさそうに頬を染め、ガデナーは嬉しそうにスープの蓋を外す。
すると邪気にも似たおぞましい香りが一瞬にして食堂の中に充満する。スープの中はまるでマグマのように煮立っており、凄まじい熱を放っている。
「……サラマンダーの逆鱗を煮込んだミステル風薬膳にございます。それに隠し味を少々。熱いのでお気をつけ下さいね」
スープの周囲だけ空気が歪んで見える。その光景を前にザフトリングが顔をしかめながらピルツに耳打ちする。
「ちょっ……ちょっと、あそこだけ空気がゆがんでるわよ。あれって……」
「十中八九、毒……でしょうな」
一方のガデナーはハルトリーゲルが自分の為に料理を作ってくれたという事実に感動して、目の前のスープの異常性に気がつかない。
「ははっ、ミステルの料理はユニークなのだな。見ろ、銀のスプーンが煙をあげながら溶けてしまったぞ! はははっ!」
「はい……ちょっと刺激が強いですが、体にとても良いものですわ」
「はははっ! それは楽しみだ!」
「……食べるの? ねえ、食べちゃうの? それ?」
思わずザフトリングが突っ込むがガデナーの耳には届かない。
「では行儀が悪いが、待ちきれなくてな。皆には悪いが先に一口だけ味見させていただこう。この際スプーンを使えんが行儀が悪いと文句は言うなよ? ピルツ?」
「……ご武運を」
ガデナーはそう言うや直接口を付け、カップをゆっくりと傾ける。その瞬間、ガデナーの瞳が大きく見開かれた。
「これは……」
次の瞬間、ガデナーの体から黒い煙が立ち上る。
「なるほど! 体が焼けるように熱い! これがミステルの薬膳か! うま……い、ぞ」
そう言うやガデナーはそのまま椅子に倒れこむ。あわやガデナーの手からカップがこぼれ落ちるその直前、傍らにいたハルトリーゲルがカップを受け止め嬉しそうに微笑んでみせる。
「そう言っていただけると……頑張った甲斐が有るというものですわ。まだたくさんありますので、よろしければどうぞお召しになって下さい」
「あ……あ……」
「まぁ……ガデナー様ったら。惚ける程おいしかったのですか? ならお行儀が悪いついでに……その……私が食べさせて差し上げますわ」
ガデナーは半分意識が飛んでいるのか、力なく首を縦に振る。するとハルトリーゲルは笑顔でガデナーの口の中にスープを流し込む。途中ガデナーの体が不自然に痙攣したり、体から黒い煙が立ち上ったりもしたがハルトリーゲルは最後の一滴までひたすらスープをガデナーに飲ませ続けた。
「……愛ね」
「殺し合い愛ですな。業の深い……」
*
開き直ったハルトリーゲルのそれからの行動力は目を見張るものがあった。
「ガデナー様!」
「ははっ、どうした、ハルトリーゲル。そんなにはしゃいで」
「きゃっ! 躓いてしまいましたわ!」
「うわああああぁぁ」
窓辺に立っていたガデナーに向かってハルトリーゲルが駆け寄り、そのまま勢い良くガデナーを窓から突き落とした。
「おい、またやってるぞ。相変わらずあのお二人は仲睦まじいな」
「しかしミステルも不思議な国だよな。親愛の情を示すのに相手を窓の空に放り出す風習があるとは」
「ああ……文化の違いってやつだな。ミステルの民は神樹の上で生活してるからなんかこう、空って特別なんじゃないかな」
窓から落ちていくガデナーの姿を見つめながら兵士たちが微笑ましそうに瞳を細める。ハルトリーゲルがガデナーを殺そうとしていることを知っているのは王宮内でもピルツとザフトリング、そして一部の侍従に限られており、それ以外の者はハルトリーゲルの行動をミステルの親愛を示す態度ということで受け入れていた。
「ガデナー様。ガデナー様。スープを作りましたの。お口に合うといいのですが……」
「おお! ハルトリーゲルの手作りとはなんとも豪勢だな。是非いただこう」
「ちょっとちょっと。またスプーンが溶けてるわよ……」
「うむ! うまい! まるで体の中でスープが弾けているようだ!」
ガデナーがスープを飲んだ瞬間、ガデナーの体が爆散した。その光景をザフトリングとピルツは苦笑いしながらただ見つめていた。
ハルトリーゲルは手を変え品を変えガデナー暗殺を試みているが、その強靭な肉体はあらゆる毒を跳ねし、不死にも近いその肉体は首を撥ねても瞬く間に復活する。そんなガデナーを前にハルトリーゲルは内心で焦っていた。
「どうしてですの! 毒も効かない。首を撥ねても駄目。爆薬を飲ませて爆散させてもすぐに復活しましたし……本当に不死身なのかと疑いたくなりますわね……。なんとかしないと……」
ハルトリーゲルは王宮の中庭で何やら考え込んでいた。
「魔族の長、ガルテンの王、ガデナー……。どうして私を生かしているのかは分かりませんが、それでも私はこうして生きています。それが気まぐれでも遊びでも構いませんわ。魔王を討つこと。それこそが何も無かった私にできるただ一つの命の使い道」
ハルトリーゲルは胸に手を当てて小さく呟いた。
その瞬間、ハルトリーゲルの目の前に突如赤い霧が充満する。霧はゆっくりと一箇所に集まり、次第に人の形をとっていく。ハルトリーゲルは突如現れた霧を緊張気味に眺め、ゆっくりと腰を浮かせる。そんなハルトリーゲルの様子をよそに、霧の中から燃えるような赤い髪をたなびかせた美しい女性――ザフトリングが現れた。
「はぁい。ハルトリーゲルちゃん、お元気かしら? 中庭にいるなんて珍しいわね」
「ザフトリング様がいらっしゃるなんて珍しいですわね。……それで、何が御用でしょうか?」
冷たい視線で言い放つハルトリーゲルに対して、ザフトリングは怪しい瞳で小さく口元を歪める。
「そんなの……決まっているじゃない。ハルトリーゲルちゃんと仲良くなるために来たのよ」
ザフトリングはそう言うや小さく指を鳴らす。その瞬間、中庭に一瞬にして机と椅子が現れる。机の上には色とりどりの菓子が並び、置かれたティーカップからは湯気が立ち上っている。その光景にハルトリーゲルが小さく顔をしかめる。
「魅力的なお誘いですが、生憎食べ物で釣られる気はございません。どうかお引取りを」
「うふふ……そんなつもりは無いわ。ただ貴女とお話をしたいだけ。それに貴女にとってもガルテンを、そしてガデナーを知る良い機会だと思うわ。興味あるでしょう?」
その言葉にハルトリーゲルの眉が小さく跳ね上がる。そんなハルトリーゲルを横目に、ザフトリングはゆっくりと椅子に腰掛ける。ザフトリングはティーカップを傾けながら満足そうに語りかける。ザフトリングに促されるようにハルトリーゲルも着席し、お互いに真っ直ぐに向き合って見つめ合う。
「ハルトリーゲルちゃんはガデナーを殺したいのよね? あらゆる手を尽くしても彼は死ななかった。そうよね?」
先に切り出したのはザフトリングであった。その言葉にハルトリーゲルの背筋に思わず悪寒が走る。まるで全てを見透かすかのようなザフトリングの真紅の瞳を向けられ、ハルトリーゲルは内心を悟られないように平静を保つ。
「ええ……そうですわ。私は魔王ガデナーを討とうとしています。それはあなた方も承知のはず。こうして私を野放しにしているということは、あなた方は私が絶対彼を殺せないと確信しているから。違いますか?」
「ふふ……。半分正解」
ザフトリングはカップを小さく揺らしながらいたずらっぽくハルトリーゲルを見つめる。
「ねえ……知ってる? つい最近までこのガルテンは八人の王――八大竜王が支配する混沌の地。ガルテンの地とは呼ばれていたけど、ガルテンというまとまった国家じゃなかったのよ」
「存じておりますわ……それをまとめあげたのが魔王ガデナー。そしてガルテンという国は一つにまとまり、強大な力を持つに至った」
ハルトリーゲルの言葉にザフトリングは楽しそうに首を縦に振る。
「そう。誰もが成し得なかった八大竜王を従えた統一国家の樹立。それだけでガデナーは英雄と呼ぶに相応しい存在ね。でも私達魔族にとってそれは重要なことじゃないの。何故誇り高い八大竜王がガデナーに従っているのか分かる?」
「……あの魔王が強いからでは?」
ハルトリーゲルの言葉にザフトリングが嬉しそうに頷いた。
「そう。彼は強いの。彼はたった一人で八大竜王を全て服従させた。力を示して、屈服させたと言った方がいいかしらね。だからこそガデナーは今あそこにいるの」
その言葉に思わずハルトリーゲルの額に小さな汗が滲む。音に聞こえた魔族の王、ガデナー。その伝説はミステルまで届いていたが、あの情けない魔王の姿を前にするとどうしても信じられない。それでもザフトリングの言葉を聞くと、やはり自分の為そうとしていることがいかに無謀なことか分かる。分かってしまう。
魔王は、ガデナーは本来持つ力を微塵も見せていない。ハルトリーゲルの心は小さく揺れ動く。
しかしハルトリーゲルもまたその身に伝説を宿す存在である。故にハルトリーゲルは折れない。祖国の為に、自身の命を賭して魔王を討たねばならない。強い決意の炎がハルトリーゲルの瞳に宿る。
「……なるほど。あなた方が私を野放しにしていることが分かりました。魔王に……ガデナーに絶大な信頼を置いているのですね」
「そう。それがさっき言った正解の半分」
「ではもう半分は何なのでしょうか?」
ハルトリーゲルが訝しげに問いかけると、ザフトリングはおぞましい程の美しい笑みを浮かべながら口元をつり上げた。
「決まっているじゃない。私達魔族は『力を示し勝った者』が正義なの。たとえそれが敵国の姫であってもね。とはいっても婚姻が終わった以上ハルトリーゲルちゃんはガルテンの王妃だから尚更問題ないけれど」
「……つまり私が魔王ガデナーを討った場合、あなた方はそれすらをも受け入れると?」
「そうなるわね。その場合はハルトリーゲルちゃんが新しいガルテンの王――女王ということになるけれど」
「……それだけ聞ければ十分ですわ」
話は終わったとばかりにハルトリーゲルは立ち上がる。そんなハルトリーゲルを見つめながらザフトリングが微笑みながら語りかける。
「どうしてハルトリーゲルちゃんは『ステンペル』の本来の力を使わないの? ステンペルの呪いの本質は吸魂。魂を喰らい続ける代わりにその身に神樹の力を降ろす事ができる。ハルトリーゲルちゃんの攻撃がガデナーに通る理由ね。普通だったら彼の体を覆う魔力のお陰で、余程の力の持ち主でないとかすり傷一つ付けられないもの。だからこそ不思議なの。どうしてハルトリーゲルちゃんはその『吸魂』の力を彼に使わないの?」
ザフトリングの言葉にハルトリーゲルの体が小さく震える。そんなハルトリーゲルを見つめながらザフトリングが笑う。
「ミステルの姫、ハルトリーゲル。貴女は世界を知らない。ガルテンを、ガデナーを知らない。そしてミステルすらも。世界を諦めるにはまだ早いんじゃないかしら?」
その言葉にハルトリーゲルの表情がこわばる。一瞬にしてハルトリーゲルの体を金色の光が覆う。そんなハルトリーゲルを見つめてザフトリングが怪しく微笑んだ。
「貴女は美しいわ。孤高にして気高い魂の持ち主。貴女のような強い意思が、命が、『ステンペル』として、ミステルの捨て駒として散るのは私達には耐えられない。誰も貴女を知らない。でもガデナーは、私達だけは貴女を知っている。だから私達は貴女を受け入れるわ。ミステルの姫ではなく、ハルトリーゲルとして」
ザフトリングがゆっくりと立ち上がるとハルトリーゲルの前に立つ。一方のハルトリーゲルもザフトリングを見つめて視線を離さない。ザフトリングは続ける。
「ガデナー暗殺に精を出すのもいいけれど、貴女はもっと世界を知るべきよ。だって貴女は何も知らないもの」
「それは一体どういう……」
何か言いかけたハルトリーゲルを前に、ザフトリングがいたずらっぽく指を立ててみせる。
「まずは気分転換に目の前の城下町――ヴェルツの街にでも行ってみるといいわ。どうせまだ王宮から出たこと無いんでしょ? それだけで貴女が何を知り、そして何を知らないか分かるはずよ。いつだって答えは貴方の中にあるのだから」
そう言うや、ザフトリングの姿は瞬く間に景色に溶けて消えていった。その場に一人残されたハルトリーゲルはただ呆然とザフトリングの座っていた椅子を眺めていた。
**
翌日、ザフトリングの強引な勧めもあり、ハルトリーゲルは王都ヴェルツの城下町に来ていた。
「ここがガルテンの王都……ヴェルツですか……。随分と賑わっていますね」
王宮の外にはヴェルツの街が広がり、ガルテンの王都にふさわしい賑わいをみせていた。初めて街に降り立ったハルトリーゲルは街の活気に思わず圧倒され、通りを行き交う人々の往来を前に呆然と立ち尽くしていた。
大通りには多くの露天がひしめき合い、様々な品物が並んでいる。行き交う人も多種多様で、魔族に混じって人間の姿も見受けられる。その光景にハルトリーゲルは思わず小さく声を漏らす。
「ガルテンに……人間がいる? ここは魔族の国のはず。どうしてガルテンに人間がいるのでしょうか……」
ハルトリーゲルの故郷――ミステルは神樹ミステルの巨大な幹の上に存在する完全に隔離された国である。故に他所から人が訪れることもなく、街にはミステルの民しか存在しない。しかしガルテンは違う。
目の前の光景にハルトリーゲルが驚いた様子で呆然と立ち尽くしていると、近くにいた露天の主人と思しき男が突然語りかけてきた。
「おや、お嬢ちゃん、ヴェルツは初めてかい? 彼らは海の向こうの国からのお客さんさ。魔族と人とか、誰もそんな違いは気にしないぜ?」
「人と魔族が……。それに海の向こうとは……? 海って一体何ですの?」
首を傾げるハルトリーゲルを前に、店主が驚いた表情でハルトリーゲルを見つめる。
「おいおい、あんた海を知らないなんて冗談だろう? この大陸――ヴァッサーリンデンを取り囲んでる水の大地のことだ。って……よく見りゃハルトリーゲル様じゃねえか! これはとんだご無礼を!」
店主がハルトリーゲルの正体に気がついたのか慌てて頭を下げる。そんな店主の態度にハルトリーゲルは困惑した表情で小さく首を横に振る。
「いっ……いえ。私のことは気になさらないで下さい。それよりもその海というところには人間がいるのですか? 魔族は人間を憎んでいるのではないですか?」
ハルトリーゲルの言葉に店主は一瞬驚いた表情を浮かべ、言葉を選びながら語りだす。
「えっと……海の向こうにここと似たような大地があって、そこに多くの人や魔族が暮らしているって話でさ。それに魔族が人を憎むなんて聞いたこともありませんや。もしそれが本当ならこのヴェルツにいる人間たちは今頃大変なことになってるでしょうし……」
「それもそうですわね……。でもその海という水の大地も気になりますが、ここから離れた遠くの地にも人が住む地があるというのも驚きですわ。そしてここにいる人たちはそこからの来訪者である、と。正直……未だに信じられないのですが、目の前の光景を信じない訳にはいきませんね」
驚くハルトリーゲルを前に露天商は笑ってみせる。
「ハルトリーゲル様はミステルから嫁がれたからご存じなかっただけかもしれませんね。そもそもミステルとガルテンの間にある隔壁路<デスマータ>が閉ざされているからミステルの住人はこっちに来れませんし、ハルトリーゲル様が海の外を知らなかったのは仕方がないことかと……」
「ええ……。私が世界を知らないというのを改めて実感しましたわ」
苦笑しながらもハルトリーゲルは店主の言葉に動揺を隠せなかった。ハルトリーゲルは目の前をせわしなく行き交う人の往来に視線を移す。多くの魔族といくばくかの人間たちが入り混じり、通りは活気に溢れていた。
その光景を前にハルトリーゲルミステルで教わったことを思い出す。それは即ち人と魔族は相入れぬ存在であり、魔族は神樹ミステルを腐らせる害悪であると。その気性は残忍にして傲慢。故に魔族はミステルの――人の敵であり、ましてこうして共に暮らすことなどありえない。それがミステルの住人が持つガルテンの、魔族への共通した理解である。少なくともハルトリーゲルはそう教わり育ってきた。
しかし目の前の光景はそんなハルトリーゲルの認識とは一致しない。
「外の国……私達は神樹ミステルの下には汚れた大地――ガルテンの地が広がっているとだけ教えられてきましたが、まさかこれ程豊かな地だったとは……。それに店に並ぶ果実の種類だけでも相当なものですし、どれもミステルでは見たことのないものばかりです」
ハルトリーゲルは通りをひしめく露天に視線を移す。ふと目の前の露天を眺めると、そこには机に溢れんばかりの果物が並んでいる。そのどれもがハルトリーゲルが見たことないものであり、その種類の多さとみずみずしい輝きにハルトリーゲルは思わず瞳を輝かせる。
物珍しそうに果物を眺めていたハルトリーゲルであったが、果物に手を伸ばしてあることに気がつき残念そうに俯いてしまう。
「そういえば私……ガルテンのお金を持っていませんでしたわ……」
「店主。この机の上にある果物を全て一つずつもらおう。なるべく熟れているものを頼む」
ハルトリーゲルが肩を落とした瞬間、後ろからどこかで聞いた声が響く。
「いらっしゃい! うちの果物はどれももぎたて新鮮、熟れ熟れですぜ!」
店主が微笑みながら果物を袋に詰めると、いつの間にかハルトリーゲルの隣に立っていた初老の騎士――ピルツに向かって手渡した。果物を受け取ったピルツはハルトリーゲルに向かって振り向くと、優しく微笑んでみせた。
「せっかくですのでお一ついかがですかな? この季節の果実はどれも味が乗っていてなかなか美味ですぞ」
「ザフトリング殿からハルトリーゲル様が護衛も付けずにヴェルツに向かったと聞きましたので、差し出がましいようですがこのピルツ、ハルトリーゲル様の護衛を兼ねてヴェルツをご案内差し上げられれば、と参上した次第にございます」
ハルトリーゲルとピルツは広場の隅にある椅子に腰をかけていた。
「それはわざわざ丁寧に……」
ピルツが果物を器用に剥きながら、どこから用意したのか小皿にフォークを付けてハルトリーゲルに向かって差し出す。顔に似合わぬ器用さを披露したピルツにハルトリーゲルは驚いた表情を見せ、差し出された小皿にゆっくりと手をのばす。恐る恐る果物を口に運んだ瞬間、ハルトリーゲルはその甘さに思わず瞳を見開いた。
「甘い……ですわね。甘いだけではなく、僅かに香るこの香りがなんともまた……。この様な果物は食べたことがありませんわ……」
「はははっ。お口にあったようなら何よりです。このガルテンは土の力が強いですからな、果樹や野菜が良く育つのです。外の国からわざわざここの果物を求めに人が来るくらいですから、味は良いと自負しております」
「……本当に美味しいですわ。ミステルには土はありませんから、このような果樹はお話の中だけでしか見たことがありませんでした。それに海の外に国があることも……」
その言葉にピルツが少し困った表情で口を開く。
「ミステルは神樹の上にある国ですから、ハルトリーゲル様が外の世界を知らぬのも無理もありませぬ。空に港は作れませんからな」
「ええ……そうですわね」
ピルツは朗らかに笑いながら果物を丁寧に剥き、再びハルトリーゲルに手渡す。ハルトリーゲルは嬉しそうにそれに手を伸ばし、一瞬その手が宙を泳ぐ。
「どうかなさましたか?」
あまりの果物の美味しさにハルトリーゲルは完全に失念していた。仮にも王女である自分がこのような城下町の広場で、衆人環視の中で果物を食べているのである。ハルトリーゲルの中で咄嗟に湧き上がる羞恥心と、未知の食材への興味がせめぎ合う。
一瞬の葛藤を越え、ハルトリーゲルはピルツから果物を受け取ると子供のように微笑んでみせる。そんなハルトリーゲルを前に、ピルツも優しい笑みを浮かべる。
ピルツの笑顔を見た瞬間、ハルトリーゲルの胸に小さな炎が灯る。今までこれ程まで多くの人がハルトリーゲルの近くにいたことはない。誰もがハルトリーゲルの呪いを恐れ、近寄ろうとさえしなかった。こうしてピルツから果物を手渡されることすらも、ハルトリーゲルにとっては未知のことである。
ピルツから受け取った果物はハルトリーゲルの心に小さな温もりとして刻まれた。それは家族の愛を知らない子供の憧憬。それは人の温もりと優しさを知らない魂の渇き。あらゆる感情が一つとなってハルトリーゲルの中を駆け巡る。
ハルトリーゲルは口の中に広がる甘みを感じながらゆっくりと、まるで何かを吐露するかのように語りだす。
「……正直申しますと、魔族と人とがこうして同じ所で生活していることが不思議で仕方ありません。魔族は神樹に仇なす害悪にして人の敵と教わってきましたし、私もそれを信じてきましたから。でも目の前の光景を見てしまうと……」
「……ハルトリーゲル様の胸中は私には分かりかねますが、立場が違えば見えてくるものも違うのでしょう。ハルトリーゲル様はそれを身をもって理解なされた。ならば後は貴方様の思うようになさればよろしいかと」
ピルツは目の前の往来を見つめながら優しく口元を綻ばせる。
「それは……私がガデナー様を暗殺しようとしているということも含めて、ですか?」
ハルトリーゲルの言葉にピルツは小さく首を縦に振る。
ピルツの態度にハルトリーゲルの中で言いようのない違和感が高まっていく。このガルテンは何かがおかしい。否――全てがおかしい。汚れているはずの大地は豊穣の実りをもたらし、人の怨敵であるはずの魔族が人と交流している。極めつけはピルツとザフトリングがハルトリーゲルがガデナーを暗殺しようとしていることを知りつつもただ静観を決め込んでいる。ザフトリングは混乱に包まれていた。
「どうしてっ! ザフトリング様もピルツ様もこの私に向かって微笑むことができるのですか! 私はあなた方の王を、ガルテンの王、ガデナーを殺そうとしているのですよ? こんな小娘に魔王ガデナーを討ち取れるはずがないという確信があるのでしょうが、私の牙を侮ればいつか必ずあなた方の喉元を食いちぎりますわ!」
思わず腰を浮かすハルトリーゲルを前に、ピルツは微笑みながら新たに剥いた果物を差し出す。そんなピルツの態度にハルトリーゲルが眉を顰めて再び声を荒げる。
「馬鹿にして! 私など眼中にないと、せいぜいふんぞり返っていればいいのですわ」
いきり立つハルトリーゲルを前に、ピルツはゆっくりと口を開いた。
「我々はハルトリーゲル様、貴女様を敵だとは思っておりませぬ」
「それは私が歯牙にかける必要がない無力な小娘だからですか?」
ピルツの言葉にハルトリーゲルの瞳が険しく細められる。一方のピルツはそんなハルトリーゲルを見つめながら優しく微笑んでみせる。
「まさか。ハルトリーゲル様の『ステンペル』の力をもってすれば、いかに強靭な魔族といえど無事では済みますまい。貴方様の力はガデナー様に届く。それは重々承知でございます」
ピルツの言葉を聞いてハルトリーゲルの表情に緊張が走る。
「……ザフトリング様もおっしゃっておりましたが、やはりあなた方は――ガルテンは私の『呪い』を知っているのですね」
「はい。存じております」
剣呑な気配を漂わせるハルトリーゲルを前に、ピルツは優しく微笑んでみせる。そんなピルツの態度にハルトリーゲルの混乱は加速する。
「私の呪いを知りながら、魔王ガデナーは私に婚姻を申し込んだと? 触れるだけで命を蝕むこの私を妻にと?」
「……これは私としたことが、口が滑りましたな。これ以上はご勘弁を」
切り分けられた果物が綺麗に盛りつけられた皿をピルツが苦笑しながら差し出し、これ以上の問答は無駄と判断したのかハルトリーゲルが拗ねた様子でそれを無造作に受け取る。
「……食べ物で釣ろうなど浅はかですわよ、ピルツ様」
口とは裏腹にハルトリーゲルの瞳からは未知の果物に対する好奇の心が溢れて見える。こらえきれなかったのか、ハルトリーゲルがおそるおそる果物に向かって手を伸ばし、そんなハルトリーゲルの様子にピルツが優しく微笑んでみせる。
「はははっ。これは大物が連れましたな。若に嫉妬されてしまいますな」
屈託のない笑顔を浮かべるピルツを前に毒気が抜かれていくのを感じたハルトリーゲルは観念したように小さく微笑んで見せる。
「……こんなに誰かと話をしたのは久しぶりですわ。扉越しではなく、こんな近くに人を感じるなんて。ピルツ様は、ベルツは――ガルテンは温かいのですね」
ハルトリーゲルの目の前ではいつの間にか魔族と人の子供達が集まり、何やら遊びに興じている。ハルトリーゲルは目の前の光景にただ瞳を細めるばかりであった。
そんなハルトリーゲル達を二つの影が遠くから見つめていた。
「……ピルツ、まさかお前が俺を裏切るとはな」
「嫉妬はみっともないわよ、ガデナー。でもこっちに来てからいつもピリピリしていたハルトリーゲルちゃんがあんなに優しい顔をするなんて、案外ピルツに気があったりしてね」
建物の影から広場を覗いているガデナーがザフトリングの言葉にゆっくりと瞳を細めていく。
「……俺はあまりその類の冗談は好まぬ。わきまえろ、ザフトリング」
「カッコつけるのはいいけど、目が潤んでるわよ、王様? これはあれね。また赤目の魔王になっちゃうわね」
ハルトリーゲルがヴェルツの街に出ると聞いて慌てて駆けつけたガデナーであったが、既に時遅く、ハルトリーゲルはピルツと仲睦まじく会話をしていた。ピルツが果物を剥き、その隣でハルトリーゲルが楽しそうに瞳を細める。その光景にガデナーは羨望の情を抑えきれずにいた。
そんなガデナーの暴走を恐れてザフトリングが付き添い、二人は覗き紛いの行為に耽って今に至る。
「ハ……ハルトリーゲルがピルツから果物を受け取っただと? なんということだ……こうなっては俺も夕食時にハルトリーゲルに果物を供さねばなるまい」
「やめなさいって……。そもそも貴方がピルツよりも上手に剥けるわけないじゃない」
「ふん……できるかどうかではない。やらねばならん。ただそれだけだ」
ガデナーは不敵な笑みを浮かべると、そのまま露天に並んでいる果物を端から順番に買っていく。
「ちょっ……ちょっとまさか全部買うつもりじゃないでしょうね?」
「愚問だな。ハルトリーゲルにはガルテンの素晴らしさを理解して欲しいからな。せっかくだから今出ているものは全て買いあげる」
「やめなさいって……それにこれ全部って……あなたどれだけハルトリーゲルちゃんに食べさせる気なのよ?」
慌てて静止するザフトリングを前に、ガデナーは意気揚々と買い物を続けていた。そんなガデナーを見つめてザフトリングが小さくため息をつく。
「ハルトリーゲルちゃんはミステルを、そしてガデナーを知らない。全てを知ったらあの子は一体どんな顔をするのかしらね」
談笑しながら広場を去るピルツとハルトリーゲルの背中を見つめながらザフトリングが怪しい笑みを浮かべた。ガデナーは未だに露店で果物を買い漁っていた。
「どうだ、ハルトリーゲル! ガルテン自慢の逸品だ。好きなだけ食べるがいい!」
王宮ノイエ・パレに戻ってきたハルトリーゲルを待ち構えていたのは、巨大な机に狭しと並べられた果物の山であった。それは比喩ではなく、文字通り色とりどりの果物が山積みになって置かれていた。机の傍らでは目にも留まらぬ速度果物を剥いているガデナーの姿が見える。
「驚かせちゃってごめんなさいね。ガデナーがどうしてもハルトリーゲルちゃんにガルテンの果物を食べさせるんだって言ってきかないから、急遽園遊会をすることになったの。と言っても豊穣を祝う収穫祭の焼きましみたいなものだけど」
驚くハルトリーゲルに対してザフトリングが申し訳なさそうに語り、その隣ではピルツが苦笑しながらガデナーを見つめていた。ハルトリーゲルは汗を流しながら必死に果物を剥くガデナーを一瞥すると小さく瞳を細める。
「多分ピルツに嫉妬しているのよ。ほら、ハルトリーゲルちゃん、今日ヴェルツの露店でピルツに果物をむいてもらったんでしょう? ガデナー、あれを見ちゃったらしくてね」
楽しそうに口元を釣り上げるザフトリングの言葉にハルトリーゲルは一瞬驚いた表情を浮かべ、ガデナーに視線を移す。
ハルトリーゲルにはどうしてもガデナーがミステルで教えられてきたような邪悪な存在とは思えなかった。
「あれが魔王ガデナー……。ミステルの怨敵にして神樹を蝕む害悪……ですか」
汗を流しながら爽やかに微笑むガデナーを見て、ハルトリーゲルは小さくため息をついた。
暗殺を失敗し、二度目の暗殺も失敗したが放免された。そして先日の食堂でのガデナーの会話。どうやら理由は分からないがあの魔王が随分と自分に執心しているということを理解したハルトリーゲルは開き直ることにした。
ならば手を変えるのみ。そう決意したハルトリーゲルは朝早く目覚めると真っ直ぐに厨房へと向かっていた。
朝の仕込みで慌ただしかった厨房は突然のハルトリーゲルの登場で更に混迷を極めた。
「それは分かりますが、せっかくなので……愛するガデナー様の為に……その……手料理を振る舞えないかと思いまして。でも……やっぱり邪魔ですよね……?」
うつむきがちに語るハルトリーゲルの姿は可憐な少女そのものであり、事情を知らない料理人たちはその言葉に深く胸を打たれた。打たれてしまった。
「なんと深い愛情。正直人間のお姫様が来ると聞いて不安だったのですが、この様な慈悲深い方だったとは……俺は……俺は……こんな素晴らしい方を少しでも疑っていた自分が恥ずかしい!!」
責任者と思しき中年の男が涙を流し、厨房にいた料理人達も感極まって瞳に涙を浮かべていた。
「そういうことでしたら、この料理長モース、全力でお手伝いさせていただきます!」
モースと名乗った男の号令で厨房の料理人達がハルトリーゲルに向かって一斉に笑顔で頷いてみせる。その光景にハルトリーゲルは圧倒されながらも笑顔で微笑んだ。そしてハルトリーゲルは理解した。魔族は馬鹿が多いと。
ハルトリーゲルがガデナーの為の朝食作りに勤しむ中、既に食堂ではガデナーとザフトリング、そしてピルツが着席してハルトリーゲルを待っていた。
「というかガデナー、あなたいい加減夜は自分の部屋に帰りなさいよ? いつまでも私の部屋に居座られちゃ邪魔で仕方ないわ」
「くっ……だっ、だがな。ハルトリーゲルと一緒の部屋にいると思うと、何を話していいかわからんのだ。どうすればいい?」
ガデナーがザフトリングとピルツの顔を見つめて真剣な表情で語り、ザフトリングとピルツはそんなガデナーを見つめて小さくため息をこぼす。
「若……もう子供ではないのですから。ずっと溜めてきた鬱憤をぶつければいいのではないでしょうか? 思春期的な意味で」
「不潔よ、ガデナー」
「ええ、不潔ですな」
「おい、待て。俺の思春期がどうしてここに出てくる」
ガデナーが慌てて立ち上がる。そんなガデナーを横目にザフトリングが怪しい表情で小声で呟く。
「あら? 私、貴方のハルトリーゲルちゃんへの思いを綴ったノート見ちゃったことがあるの。ごめんなさいね。でも大丈夫、ガデナー。貴方は健全よ。あのくらいのことはみんな考えるものなの。多分だけどね」
「はははっ、まてまて。ちょっと待て。何を言っている? ザフト」
「それをいうなら私はガデナー様のベッドの下の物を少々片付けさせて頂きましたな。人の趣味に口を出す気はございませんが……植物型の魔物と人間の娘の組み合わせはさすがに……いえ、他人の性癖に口を出すなど無粋なことはしますまい」
「はははっ、ピルツもなかなか面白いことを言うものだ。はははっ! はははは!」
ガデナーは大きく笑うと小さく咳をして無言で席につく。その動作はまさに王の立ち振舞に相応しい洗練されたものであるが、その額には大粒の汗が浮かんでいた。そんなガデナーの様子を前にザフトリングが小さく口元を歪ませる。
「本当に貴方って昔から変わらないわねぇ……。そこが貴方の良い所でもあるんだけど。しかしハルトリーゲルちゃん遅いわねぇ。部屋にもいなかったし、まさか外に出たのかしら? でも夜は結界が張られているから王宮から出るのは無理だろうし、力づくなら私が気がつくはずよね」
ザフトリングが途中で何かに気がついたのか、慌てた様子でガデナーを睨みつける。
「……そう言えば貴方、ハルトリーゲルちゃんに罰を与えるとか言っていたけど、まさかハルトリーゲルちゃんに何かしたの!? その思春期的な意味で?」
「まさか……俺がハルトリーゲルを傷つける訳なかろう。それにだからさっきから一体なんだ、その思春期とは」
「怪しいわね……。じゃあ、昨日言っていた罰というのは……」
ザフトリングが問いかけた瞬間、食堂の扉が開き侍女たちが食事の準備にとりかかる。するとハルトリーゲルの机の上に大量のパンの耳の切れ端が盛られた皿が置かれた。
「……これは?」
ザフトリングは目の前の光景に思わず顔をしかめながら問いかける。そんなザフトリングに対してガデナーは笑顔で答える。
「罰は罰だからな。ハルトリーゲルには今日一日このパンの耳だけ食べてもらう。安心しろ。これはただのパンの耳ではない。ガルテンに伝わる滋養の秘薬が染み込ませてある。一滴で寝たきりの病人を快癒させるほどのな。それに味もハルトリーゲルの為に工夫してある。自信を持って人前に出せる物に仕上がったと自負している」
「ちょっと! なんてものを食べさせようとしているのよ! 一滴で病人が快癒するなら、それがまんべんなく染みこんだパンの耳なんて食べたら、快癒どころじゃなくて昇天しちゃうわよ! アンタ忘れたの! ハルトリーゲルちゃんは人間なのよ!?」
「いや、ハルトリーゲルはステンペルだ。吸魂の呪いを持つ彼女にこそこれがふさわしい!」
「パンの耳で王妃が死んだとか笑えないからやめなさい!」
胸を張って語るガデナーを前にザフトリングが慌てて叫ぶ。言い合う二人を前に、ピルツは諦めたのか小さくため息をついた。
すると突然食堂の扉が開き、ハルトリーゲルが台車を押しながら食堂に入ってきた。
「あっ、ハルトリーゲルちゃん。遅かったわね、どこに行っていたの?」
手を振るザフトリングを前に、ハルトリーゲルは笑顔で微笑んでみせる。
「これはザフトリング様。おはようございます。それにピルツ様も」
「はい。良い朝ですな」
一人だけ挨拶をされなかったガデナーはせわしなくハルトリーゲルに視線を送るが、ハルトリーゲルは振り向きもしない。徐々にガデナーの表情が曇り、その瞳が赤く染まりかける。まさにその瞬間、ハルトリーゲルはガデナーの横に立つと、スカートを裾を持って優雅に礼をしてみせる。
「おはようございます、ガデナー様。我が君」
「あっ……ああ! おはよう! おはよう、ハルトリーゲル! 我が愛しの姫よ!」
「あそこまで来ると哀れにすら思えてくるわね……」
「若……ご武運を……」
感極まったのかガデナーは勢い良く立ち上がり、慌てて上ずった声をあげる。そんなガデナーの態度にハルトリーゲルが一瞬顔を引き攣らせたのだが、感動で瞳が曇っているガデナーは当然のようにそれに気がつかない。そんなガデナーをザフトリングとピルツが生暖かい目で見つめていた。
「時にハルトリーゲルよ、その台車は一体何だ? 何故ハルトリーゲルが給仕の真似事をしているのだ?」
ガデナーがハルトリーゲルの押してきた銀の台車を見つめて首を傾げる。するとハルトリーゲルは恥ずかしそうに言いよどむ。
「これは……その……ガデナー様に朝食を頂いて欲しいと思いまして。お口に合うか分かりませんが……頑張って作ってみました。食べて……頂けますか?」
不安そうに見上げながら語るハルトリーゲルを前に、ガデナーは一瞬何を言われたのか理解できずに立ち尽くした。
「あら、やるじゃない! ハルトリーゲルちゃん。良かったわねガデナー。手作りですって……って、ガデナー? 気絶してる……」
「えっ? 気絶? ……ひっ!」
ガデナーの表情はだらしなく緩んでおり、恍惚の表情で白目を剥いていた。もとより端正な顔立ちが故に、それが崩れた時のおぞましさは筆舌に尽くしがたい。だらしなく呆けた表情で気絶しているガデナーを前にハルトリーゲルが思わず小さな悲鳴をあげて後ずさる。
「やれやれ……相変わらずです、な!」
ピルツが苦笑しながら立ち上がると、おもむろにガデナーの背中に立ち――掌底をその背中に叩き込む。
「ぐはっ!」
轟音とともに凄まじい衝撃が室内を揺らし、ガデナーが驚いた表情で慌てて首を左右に振る。
「はっ? 俺は一体? 俺のために食事がハルトリーゲルを用意したと聞いたが……」
「落ち着きなさい、ガデナー。ハルトリーゲルちゃんを食べたいのは分かるけど、まだ朝だし、食事はハルトリーゲルちゃんが作ったのよ」
その言葉に我に帰ったガデナーは青ざめた表情で自分を見つめているハルトリーゲルに向かって笑顔で語る。
「……見苦しいところを見せたな。俺は驚くと意識が混濁する持病があってな……。これからもハルトリーゲルを驚かせるかもしれんがどうぞよしなに頼む」
まるで先ほどの醜態などなかったかのように凛々しい表情で語るガデナーを前に、ハルトリーゲルもまた極上の笑顔で微笑んでみせる。
「いえいえ。そんなガデナー様も可愛らしゅうございますよ……」
「そう言ってもらえると助かる。ではせっかくの姫の手作りだ。冷めない内に早く食べるとしよう。ではハルトリーゲルも席に着くがいい……。ん? 食事?」
ガデナーが何かに気がついて慌ててハルトリーゲルに向かって振り返る。そこには自分の机の上に嫌がらせのように置かれた大量のパンの耳を前に、困惑した表情で立ち尽くしているハルトリーゲルの姿があった。ハルトリーゲルの瞳は心なしか潤んでいるようにも見える。
「あっ……」
「あーあ」
ガデナーが思わず言葉を失い、それを見ていたザフトリングが楽しそうに口元をつり上げる。
「……私の食事は……パンの耳……ということでしょうか。そうですわね。それも仕方が無いことだと思っておりますわ。私はガデナー様の命を狙った不届き者。こうして生かされているだけでも感謝せねばならない身分ですから……。そのお情け、ありがたく頂戴しますわ」
ハルトリーゲルがゆっくりと大量のパンの耳が積まれた机の前に座る。
「せっかく手作りの料理を作ってくれた可愛い奥さんに対する仕打ちがこれって最低よね、そう思わない、ピルツ?」
「そうですな。不義理……と申しましょうか。いささか誠意に欠ける態度かと。正直美しくありませんな」
「いやっ……これは違う! 違うのだ! こう見えても俺はパンの耳が大好物でな、特にガルテンのパンの耳は絶品過ぎて三食パンの耳でも良いくらいなのだ。その美味しさを姫に味わって欲しいと思ってな、無粋と知りつつも用意させた。だが、姫の気分を害してしまったようだ。許せ」
「ガデナー様……そのお心遣いだけで、ハルトリーゲルは嬉しゅうございますわ」
「とりあえず、ガデナーの今日の食事は三食パンの耳に決定ね」
「致し方ありませんな」
ガデナー達を見つめながらザフトリングとピルツが頷いている。実に息のあった二人である。
「それで、その……ハルトリーゲルが俺の為に作ってくれた食事とやらが、気になって仕方がないのだ。少々無礼だが待ちきれん。蓋は自分で外させてもらうぞ」
「お口に合うか分かりませんが……」
ハルトリーゲルは照れくさそうに頬を染め、ガデナーは嬉しそうにスープの蓋を外す。
すると邪気にも似たおぞましい香りが一瞬にして食堂の中に充満する。スープの中はまるでマグマのように煮立っており、凄まじい熱を放っている。
「……サラマンダーの逆鱗を煮込んだミステル風薬膳にございます。それに隠し味を少々。熱いのでお気をつけ下さいね」
スープの周囲だけ空気が歪んで見える。その光景を前にザフトリングが顔をしかめながらピルツに耳打ちする。
「ちょっ……ちょっと、あそこだけ空気がゆがんでるわよ。あれって……」
「十中八九、毒……でしょうな」
一方のガデナーはハルトリーゲルが自分の為に料理を作ってくれたという事実に感動して、目の前のスープの異常性に気がつかない。
「ははっ、ミステルの料理はユニークなのだな。見ろ、銀のスプーンが煙をあげながら溶けてしまったぞ! はははっ!」
「はい……ちょっと刺激が強いですが、体にとても良いものですわ」
「はははっ! それは楽しみだ!」
「……食べるの? ねえ、食べちゃうの? それ?」
思わずザフトリングが突っ込むがガデナーの耳には届かない。
「では行儀が悪いが、待ちきれなくてな。皆には悪いが先に一口だけ味見させていただこう。この際スプーンを使えんが行儀が悪いと文句は言うなよ? ピルツ?」
「……ご武運を」
ガデナーはそう言うや直接口を付け、カップをゆっくりと傾ける。その瞬間、ガデナーの瞳が大きく見開かれた。
「これは……」
次の瞬間、ガデナーの体から黒い煙が立ち上る。
「なるほど! 体が焼けるように熱い! これがミステルの薬膳か! うま……い、ぞ」
そう言うやガデナーはそのまま椅子に倒れこむ。あわやガデナーの手からカップがこぼれ落ちるその直前、傍らにいたハルトリーゲルがカップを受け止め嬉しそうに微笑んでみせる。
「そう言っていただけると……頑張った甲斐が有るというものですわ。まだたくさんありますので、よろしければどうぞお召しになって下さい」
「あ……あ……」
「まぁ……ガデナー様ったら。惚ける程おいしかったのですか? ならお行儀が悪いついでに……その……私が食べさせて差し上げますわ」
ガデナーは半分意識が飛んでいるのか、力なく首を縦に振る。するとハルトリーゲルは笑顔でガデナーの口の中にスープを流し込む。途中ガデナーの体が不自然に痙攣したり、体から黒い煙が立ち上ったりもしたがハルトリーゲルは最後の一滴までひたすらスープをガデナーに飲ませ続けた。
「……愛ね」
「殺し合い愛ですな。業の深い……」
*
開き直ったハルトリーゲルのそれからの行動力は目を見張るものがあった。
「ガデナー様!」
「ははっ、どうした、ハルトリーゲル。そんなにはしゃいで」
「きゃっ! 躓いてしまいましたわ!」
「うわああああぁぁ」
窓辺に立っていたガデナーに向かってハルトリーゲルが駆け寄り、そのまま勢い良くガデナーを窓から突き落とした。
「おい、またやってるぞ。相変わらずあのお二人は仲睦まじいな」
「しかしミステルも不思議な国だよな。親愛の情を示すのに相手を窓の空に放り出す風習があるとは」
「ああ……文化の違いってやつだな。ミステルの民は神樹の上で生活してるからなんかこう、空って特別なんじゃないかな」
窓から落ちていくガデナーの姿を見つめながら兵士たちが微笑ましそうに瞳を細める。ハルトリーゲルがガデナーを殺そうとしていることを知っているのは王宮内でもピルツとザフトリング、そして一部の侍従に限られており、それ以外の者はハルトリーゲルの行動をミステルの親愛を示す態度ということで受け入れていた。
「ガデナー様。ガデナー様。スープを作りましたの。お口に合うといいのですが……」
「おお! ハルトリーゲルの手作りとはなんとも豪勢だな。是非いただこう」
「ちょっとちょっと。またスプーンが溶けてるわよ……」
「うむ! うまい! まるで体の中でスープが弾けているようだ!」
ガデナーがスープを飲んだ瞬間、ガデナーの体が爆散した。その光景をザフトリングとピルツは苦笑いしながらただ見つめていた。
ハルトリーゲルは手を変え品を変えガデナー暗殺を試みているが、その強靭な肉体はあらゆる毒を跳ねし、不死にも近いその肉体は首を撥ねても瞬く間に復活する。そんなガデナーを前にハルトリーゲルは内心で焦っていた。
「どうしてですの! 毒も効かない。首を撥ねても駄目。爆薬を飲ませて爆散させてもすぐに復活しましたし……本当に不死身なのかと疑いたくなりますわね……。なんとかしないと……」
ハルトリーゲルは王宮の中庭で何やら考え込んでいた。
「魔族の長、ガルテンの王、ガデナー……。どうして私を生かしているのかは分かりませんが、それでも私はこうして生きています。それが気まぐれでも遊びでも構いませんわ。魔王を討つこと。それこそが何も無かった私にできるただ一つの命の使い道」
ハルトリーゲルは胸に手を当てて小さく呟いた。
その瞬間、ハルトリーゲルの目の前に突如赤い霧が充満する。霧はゆっくりと一箇所に集まり、次第に人の形をとっていく。ハルトリーゲルは突如現れた霧を緊張気味に眺め、ゆっくりと腰を浮かせる。そんなハルトリーゲルの様子をよそに、霧の中から燃えるような赤い髪をたなびかせた美しい女性――ザフトリングが現れた。
「はぁい。ハルトリーゲルちゃん、お元気かしら? 中庭にいるなんて珍しいわね」
「ザフトリング様がいらっしゃるなんて珍しいですわね。……それで、何が御用でしょうか?」
冷たい視線で言い放つハルトリーゲルに対して、ザフトリングは怪しい瞳で小さく口元を歪める。
「そんなの……決まっているじゃない。ハルトリーゲルちゃんと仲良くなるために来たのよ」
ザフトリングはそう言うや小さく指を鳴らす。その瞬間、中庭に一瞬にして机と椅子が現れる。机の上には色とりどりの菓子が並び、置かれたティーカップからは湯気が立ち上っている。その光景にハルトリーゲルが小さく顔をしかめる。
「魅力的なお誘いですが、生憎食べ物で釣られる気はございません。どうかお引取りを」
「うふふ……そんなつもりは無いわ。ただ貴女とお話をしたいだけ。それに貴女にとってもガルテンを、そしてガデナーを知る良い機会だと思うわ。興味あるでしょう?」
その言葉にハルトリーゲルの眉が小さく跳ね上がる。そんなハルトリーゲルを横目に、ザフトリングはゆっくりと椅子に腰掛ける。ザフトリングはティーカップを傾けながら満足そうに語りかける。ザフトリングに促されるようにハルトリーゲルも着席し、お互いに真っ直ぐに向き合って見つめ合う。
「ハルトリーゲルちゃんはガデナーを殺したいのよね? あらゆる手を尽くしても彼は死ななかった。そうよね?」
先に切り出したのはザフトリングであった。その言葉にハルトリーゲルの背筋に思わず悪寒が走る。まるで全てを見透かすかのようなザフトリングの真紅の瞳を向けられ、ハルトリーゲルは内心を悟られないように平静を保つ。
「ええ……そうですわ。私は魔王ガデナーを討とうとしています。それはあなた方も承知のはず。こうして私を野放しにしているということは、あなた方は私が絶対彼を殺せないと確信しているから。違いますか?」
「ふふ……。半分正解」
ザフトリングはカップを小さく揺らしながらいたずらっぽくハルトリーゲルを見つめる。
「ねえ……知ってる? つい最近までこのガルテンは八人の王――八大竜王が支配する混沌の地。ガルテンの地とは呼ばれていたけど、ガルテンというまとまった国家じゃなかったのよ」
「存じておりますわ……それをまとめあげたのが魔王ガデナー。そしてガルテンという国は一つにまとまり、強大な力を持つに至った」
ハルトリーゲルの言葉にザフトリングは楽しそうに首を縦に振る。
「そう。誰もが成し得なかった八大竜王を従えた統一国家の樹立。それだけでガデナーは英雄と呼ぶに相応しい存在ね。でも私達魔族にとってそれは重要なことじゃないの。何故誇り高い八大竜王がガデナーに従っているのか分かる?」
「……あの魔王が強いからでは?」
ハルトリーゲルの言葉にザフトリングが嬉しそうに頷いた。
「そう。彼は強いの。彼はたった一人で八大竜王を全て服従させた。力を示して、屈服させたと言った方がいいかしらね。だからこそガデナーは今あそこにいるの」
その言葉に思わずハルトリーゲルの額に小さな汗が滲む。音に聞こえた魔族の王、ガデナー。その伝説はミステルまで届いていたが、あの情けない魔王の姿を前にするとどうしても信じられない。それでもザフトリングの言葉を聞くと、やはり自分の為そうとしていることがいかに無謀なことか分かる。分かってしまう。
魔王は、ガデナーは本来持つ力を微塵も見せていない。ハルトリーゲルの心は小さく揺れ動く。
しかしハルトリーゲルもまたその身に伝説を宿す存在である。故にハルトリーゲルは折れない。祖国の為に、自身の命を賭して魔王を討たねばならない。強い決意の炎がハルトリーゲルの瞳に宿る。
「……なるほど。あなた方が私を野放しにしていることが分かりました。魔王に……ガデナーに絶大な信頼を置いているのですね」
「そう。それがさっき言った正解の半分」
「ではもう半分は何なのでしょうか?」
ハルトリーゲルが訝しげに問いかけると、ザフトリングはおぞましい程の美しい笑みを浮かべながら口元をつり上げた。
「決まっているじゃない。私達魔族は『力を示し勝った者』が正義なの。たとえそれが敵国の姫であってもね。とはいっても婚姻が終わった以上ハルトリーゲルちゃんはガルテンの王妃だから尚更問題ないけれど」
「……つまり私が魔王ガデナーを討った場合、あなた方はそれすらをも受け入れると?」
「そうなるわね。その場合はハルトリーゲルちゃんが新しいガルテンの王――女王ということになるけれど」
「……それだけ聞ければ十分ですわ」
話は終わったとばかりにハルトリーゲルは立ち上がる。そんなハルトリーゲルを見つめながらザフトリングが微笑みながら語りかける。
「どうしてハルトリーゲルちゃんは『ステンペル』の本来の力を使わないの? ステンペルの呪いの本質は吸魂。魂を喰らい続ける代わりにその身に神樹の力を降ろす事ができる。ハルトリーゲルちゃんの攻撃がガデナーに通る理由ね。普通だったら彼の体を覆う魔力のお陰で、余程の力の持ち主でないとかすり傷一つ付けられないもの。だからこそ不思議なの。どうしてハルトリーゲルちゃんはその『吸魂』の力を彼に使わないの?」
ザフトリングの言葉にハルトリーゲルの体が小さく震える。そんなハルトリーゲルを見つめながらザフトリングが笑う。
「ミステルの姫、ハルトリーゲル。貴女は世界を知らない。ガルテンを、ガデナーを知らない。そしてミステルすらも。世界を諦めるにはまだ早いんじゃないかしら?」
その言葉にハルトリーゲルの表情がこわばる。一瞬にしてハルトリーゲルの体を金色の光が覆う。そんなハルトリーゲルを見つめてザフトリングが怪しく微笑んだ。
「貴女は美しいわ。孤高にして気高い魂の持ち主。貴女のような強い意思が、命が、『ステンペル』として、ミステルの捨て駒として散るのは私達には耐えられない。誰も貴女を知らない。でもガデナーは、私達だけは貴女を知っている。だから私達は貴女を受け入れるわ。ミステルの姫ではなく、ハルトリーゲルとして」
ザフトリングがゆっくりと立ち上がるとハルトリーゲルの前に立つ。一方のハルトリーゲルもザフトリングを見つめて視線を離さない。ザフトリングは続ける。
「ガデナー暗殺に精を出すのもいいけれど、貴女はもっと世界を知るべきよ。だって貴女は何も知らないもの」
「それは一体どういう……」
何か言いかけたハルトリーゲルを前に、ザフトリングがいたずらっぽく指を立ててみせる。
「まずは気分転換に目の前の城下町――ヴェルツの街にでも行ってみるといいわ。どうせまだ王宮から出たこと無いんでしょ? それだけで貴女が何を知り、そして何を知らないか分かるはずよ。いつだって答えは貴方の中にあるのだから」
そう言うや、ザフトリングの姿は瞬く間に景色に溶けて消えていった。その場に一人残されたハルトリーゲルはただ呆然とザフトリングの座っていた椅子を眺めていた。
**
翌日、ザフトリングの強引な勧めもあり、ハルトリーゲルは王都ヴェルツの城下町に来ていた。
「ここがガルテンの王都……ヴェルツですか……。随分と賑わっていますね」
王宮の外にはヴェルツの街が広がり、ガルテンの王都にふさわしい賑わいをみせていた。初めて街に降り立ったハルトリーゲルは街の活気に思わず圧倒され、通りを行き交う人々の往来を前に呆然と立ち尽くしていた。
大通りには多くの露天がひしめき合い、様々な品物が並んでいる。行き交う人も多種多様で、魔族に混じって人間の姿も見受けられる。その光景にハルトリーゲルは思わず小さく声を漏らす。
「ガルテンに……人間がいる? ここは魔族の国のはず。どうしてガルテンに人間がいるのでしょうか……」
ハルトリーゲルの故郷――ミステルは神樹ミステルの巨大な幹の上に存在する完全に隔離された国である。故に他所から人が訪れることもなく、街にはミステルの民しか存在しない。しかしガルテンは違う。
目の前の光景にハルトリーゲルが驚いた様子で呆然と立ち尽くしていると、近くにいた露天の主人と思しき男が突然語りかけてきた。
「おや、お嬢ちゃん、ヴェルツは初めてかい? 彼らは海の向こうの国からのお客さんさ。魔族と人とか、誰もそんな違いは気にしないぜ?」
「人と魔族が……。それに海の向こうとは……? 海って一体何ですの?」
首を傾げるハルトリーゲルを前に、店主が驚いた表情でハルトリーゲルを見つめる。
「おいおい、あんた海を知らないなんて冗談だろう? この大陸――ヴァッサーリンデンを取り囲んでる水の大地のことだ。って……よく見りゃハルトリーゲル様じゃねえか! これはとんだご無礼を!」
店主がハルトリーゲルの正体に気がついたのか慌てて頭を下げる。そんな店主の態度にハルトリーゲルは困惑した表情で小さく首を横に振る。
「いっ……いえ。私のことは気になさらないで下さい。それよりもその海というところには人間がいるのですか? 魔族は人間を憎んでいるのではないですか?」
ハルトリーゲルの言葉に店主は一瞬驚いた表情を浮かべ、言葉を選びながら語りだす。
「えっと……海の向こうにここと似たような大地があって、そこに多くの人や魔族が暮らしているって話でさ。それに魔族が人を憎むなんて聞いたこともありませんや。もしそれが本当ならこのヴェルツにいる人間たちは今頃大変なことになってるでしょうし……」
「それもそうですわね……。でもその海という水の大地も気になりますが、ここから離れた遠くの地にも人が住む地があるというのも驚きですわ。そしてここにいる人たちはそこからの来訪者である、と。正直……未だに信じられないのですが、目の前の光景を信じない訳にはいきませんね」
驚くハルトリーゲルを前に露天商は笑ってみせる。
「ハルトリーゲル様はミステルから嫁がれたからご存じなかっただけかもしれませんね。そもそもミステルとガルテンの間にある隔壁路<デスマータ>が閉ざされているからミステルの住人はこっちに来れませんし、ハルトリーゲル様が海の外を知らなかったのは仕方がないことかと……」
「ええ……。私が世界を知らないというのを改めて実感しましたわ」
苦笑しながらもハルトリーゲルは店主の言葉に動揺を隠せなかった。ハルトリーゲルは目の前をせわしなく行き交う人の往来に視線を移す。多くの魔族といくばくかの人間たちが入り混じり、通りは活気に溢れていた。
その光景を前にハルトリーゲルミステルで教わったことを思い出す。それは即ち人と魔族は相入れぬ存在であり、魔族は神樹ミステルを腐らせる害悪であると。その気性は残忍にして傲慢。故に魔族はミステルの――人の敵であり、ましてこうして共に暮らすことなどありえない。それがミステルの住人が持つガルテンの、魔族への共通した理解である。少なくともハルトリーゲルはそう教わり育ってきた。
しかし目の前の光景はそんなハルトリーゲルの認識とは一致しない。
「外の国……私達は神樹ミステルの下には汚れた大地――ガルテンの地が広がっているとだけ教えられてきましたが、まさかこれ程豊かな地だったとは……。それに店に並ぶ果実の種類だけでも相当なものですし、どれもミステルでは見たことのないものばかりです」
ハルトリーゲルは通りをひしめく露天に視線を移す。ふと目の前の露天を眺めると、そこには机に溢れんばかりの果物が並んでいる。そのどれもがハルトリーゲルが見たことないものであり、その種類の多さとみずみずしい輝きにハルトリーゲルは思わず瞳を輝かせる。
物珍しそうに果物を眺めていたハルトリーゲルであったが、果物に手を伸ばしてあることに気がつき残念そうに俯いてしまう。
「そういえば私……ガルテンのお金を持っていませんでしたわ……」
「店主。この机の上にある果物を全て一つずつもらおう。なるべく熟れているものを頼む」
ハルトリーゲルが肩を落とした瞬間、後ろからどこかで聞いた声が響く。
「いらっしゃい! うちの果物はどれももぎたて新鮮、熟れ熟れですぜ!」
店主が微笑みながら果物を袋に詰めると、いつの間にかハルトリーゲルの隣に立っていた初老の騎士――ピルツに向かって手渡した。果物を受け取ったピルツはハルトリーゲルに向かって振り向くと、優しく微笑んでみせた。
「せっかくですのでお一ついかがですかな? この季節の果実はどれも味が乗っていてなかなか美味ですぞ」
「ザフトリング殿からハルトリーゲル様が護衛も付けずにヴェルツに向かったと聞きましたので、差し出がましいようですがこのピルツ、ハルトリーゲル様の護衛を兼ねてヴェルツをご案内差し上げられれば、と参上した次第にございます」
ハルトリーゲルとピルツは広場の隅にある椅子に腰をかけていた。
「それはわざわざ丁寧に……」
ピルツが果物を器用に剥きながら、どこから用意したのか小皿にフォークを付けてハルトリーゲルに向かって差し出す。顔に似合わぬ器用さを披露したピルツにハルトリーゲルは驚いた表情を見せ、差し出された小皿にゆっくりと手をのばす。恐る恐る果物を口に運んだ瞬間、ハルトリーゲルはその甘さに思わず瞳を見開いた。
「甘い……ですわね。甘いだけではなく、僅かに香るこの香りがなんともまた……。この様な果物は食べたことがありませんわ……」
「はははっ。お口にあったようなら何よりです。このガルテンは土の力が強いですからな、果樹や野菜が良く育つのです。外の国からわざわざここの果物を求めに人が来るくらいですから、味は良いと自負しております」
「……本当に美味しいですわ。ミステルには土はありませんから、このような果樹はお話の中だけでしか見たことがありませんでした。それに海の外に国があることも……」
その言葉にピルツが少し困った表情で口を開く。
「ミステルは神樹の上にある国ですから、ハルトリーゲル様が外の世界を知らぬのも無理もありませぬ。空に港は作れませんからな」
「ええ……そうですわね」
ピルツは朗らかに笑いながら果物を丁寧に剥き、再びハルトリーゲルに手渡す。ハルトリーゲルは嬉しそうにそれに手を伸ばし、一瞬その手が宙を泳ぐ。
「どうかなさましたか?」
あまりの果物の美味しさにハルトリーゲルは完全に失念していた。仮にも王女である自分がこのような城下町の広場で、衆人環視の中で果物を食べているのである。ハルトリーゲルの中で咄嗟に湧き上がる羞恥心と、未知の食材への興味がせめぎ合う。
一瞬の葛藤を越え、ハルトリーゲルはピルツから果物を受け取ると子供のように微笑んでみせる。そんなハルトリーゲルを前に、ピルツも優しい笑みを浮かべる。
ピルツの笑顔を見た瞬間、ハルトリーゲルの胸に小さな炎が灯る。今までこれ程まで多くの人がハルトリーゲルの近くにいたことはない。誰もがハルトリーゲルの呪いを恐れ、近寄ろうとさえしなかった。こうしてピルツから果物を手渡されることすらも、ハルトリーゲルにとっては未知のことである。
ピルツから受け取った果物はハルトリーゲルの心に小さな温もりとして刻まれた。それは家族の愛を知らない子供の憧憬。それは人の温もりと優しさを知らない魂の渇き。あらゆる感情が一つとなってハルトリーゲルの中を駆け巡る。
ハルトリーゲルは口の中に広がる甘みを感じながらゆっくりと、まるで何かを吐露するかのように語りだす。
「……正直申しますと、魔族と人とがこうして同じ所で生活していることが不思議で仕方ありません。魔族は神樹に仇なす害悪にして人の敵と教わってきましたし、私もそれを信じてきましたから。でも目の前の光景を見てしまうと……」
「……ハルトリーゲル様の胸中は私には分かりかねますが、立場が違えば見えてくるものも違うのでしょう。ハルトリーゲル様はそれを身をもって理解なされた。ならば後は貴方様の思うようになさればよろしいかと」
ピルツは目の前の往来を見つめながら優しく口元を綻ばせる。
「それは……私がガデナー様を暗殺しようとしているということも含めて、ですか?」
ハルトリーゲルの言葉にピルツは小さく首を縦に振る。
ピルツの態度にハルトリーゲルの中で言いようのない違和感が高まっていく。このガルテンは何かがおかしい。否――全てがおかしい。汚れているはずの大地は豊穣の実りをもたらし、人の怨敵であるはずの魔族が人と交流している。極めつけはピルツとザフトリングがハルトリーゲルがガデナーを暗殺しようとしていることを知りつつもただ静観を決め込んでいる。ザフトリングは混乱に包まれていた。
「どうしてっ! ザフトリング様もピルツ様もこの私に向かって微笑むことができるのですか! 私はあなた方の王を、ガルテンの王、ガデナーを殺そうとしているのですよ? こんな小娘に魔王ガデナーを討ち取れるはずがないという確信があるのでしょうが、私の牙を侮ればいつか必ずあなた方の喉元を食いちぎりますわ!」
思わず腰を浮かすハルトリーゲルを前に、ピルツは微笑みながら新たに剥いた果物を差し出す。そんなピルツの態度にハルトリーゲルが眉を顰めて再び声を荒げる。
「馬鹿にして! 私など眼中にないと、せいぜいふんぞり返っていればいいのですわ」
いきり立つハルトリーゲルを前に、ピルツはゆっくりと口を開いた。
「我々はハルトリーゲル様、貴女様を敵だとは思っておりませぬ」
「それは私が歯牙にかける必要がない無力な小娘だからですか?」
ピルツの言葉にハルトリーゲルの瞳が険しく細められる。一方のピルツはそんなハルトリーゲルを見つめながら優しく微笑んでみせる。
「まさか。ハルトリーゲル様の『ステンペル』の力をもってすれば、いかに強靭な魔族といえど無事では済みますまい。貴方様の力はガデナー様に届く。それは重々承知でございます」
ピルツの言葉を聞いてハルトリーゲルの表情に緊張が走る。
「……ザフトリング様もおっしゃっておりましたが、やはりあなた方は――ガルテンは私の『呪い』を知っているのですね」
「はい。存じております」
剣呑な気配を漂わせるハルトリーゲルを前に、ピルツは優しく微笑んでみせる。そんなピルツの態度にハルトリーゲルの混乱は加速する。
「私の呪いを知りながら、魔王ガデナーは私に婚姻を申し込んだと? 触れるだけで命を蝕むこの私を妻にと?」
「……これは私としたことが、口が滑りましたな。これ以上はご勘弁を」
切り分けられた果物が綺麗に盛りつけられた皿をピルツが苦笑しながら差し出し、これ以上の問答は無駄と判断したのかハルトリーゲルが拗ねた様子でそれを無造作に受け取る。
「……食べ物で釣ろうなど浅はかですわよ、ピルツ様」
口とは裏腹にハルトリーゲルの瞳からは未知の果物に対する好奇の心が溢れて見える。こらえきれなかったのか、ハルトリーゲルがおそるおそる果物に向かって手を伸ばし、そんなハルトリーゲルの様子にピルツが優しく微笑んでみせる。
「はははっ。これは大物が連れましたな。若に嫉妬されてしまいますな」
屈託のない笑顔を浮かべるピルツを前に毒気が抜かれていくのを感じたハルトリーゲルは観念したように小さく微笑んで見せる。
「……こんなに誰かと話をしたのは久しぶりですわ。扉越しではなく、こんな近くに人を感じるなんて。ピルツ様は、ベルツは――ガルテンは温かいのですね」
ハルトリーゲルの目の前ではいつの間にか魔族と人の子供達が集まり、何やら遊びに興じている。ハルトリーゲルは目の前の光景にただ瞳を細めるばかりであった。
そんなハルトリーゲル達を二つの影が遠くから見つめていた。
「……ピルツ、まさかお前が俺を裏切るとはな」
「嫉妬はみっともないわよ、ガデナー。でもこっちに来てからいつもピリピリしていたハルトリーゲルちゃんがあんなに優しい顔をするなんて、案外ピルツに気があったりしてね」
建物の影から広場を覗いているガデナーがザフトリングの言葉にゆっくりと瞳を細めていく。
「……俺はあまりその類の冗談は好まぬ。わきまえろ、ザフトリング」
「カッコつけるのはいいけど、目が潤んでるわよ、王様? これはあれね。また赤目の魔王になっちゃうわね」
ハルトリーゲルがヴェルツの街に出ると聞いて慌てて駆けつけたガデナーであったが、既に時遅く、ハルトリーゲルはピルツと仲睦まじく会話をしていた。ピルツが果物を剥き、その隣でハルトリーゲルが楽しそうに瞳を細める。その光景にガデナーは羨望の情を抑えきれずにいた。
そんなガデナーの暴走を恐れてザフトリングが付き添い、二人は覗き紛いの行為に耽って今に至る。
「ハ……ハルトリーゲルがピルツから果物を受け取っただと? なんということだ……こうなっては俺も夕食時にハルトリーゲルに果物を供さねばなるまい」
「やめなさいって……。そもそも貴方がピルツよりも上手に剥けるわけないじゃない」
「ふん……できるかどうかではない。やらねばならん。ただそれだけだ」
ガデナーは不敵な笑みを浮かべると、そのまま露天に並んでいる果物を端から順番に買っていく。
「ちょっ……ちょっとまさか全部買うつもりじゃないでしょうね?」
「愚問だな。ハルトリーゲルにはガルテンの素晴らしさを理解して欲しいからな。せっかくだから今出ているものは全て買いあげる」
「やめなさいって……それにこれ全部って……あなたどれだけハルトリーゲルちゃんに食べさせる気なのよ?」
慌てて静止するザフトリングを前に、ガデナーは意気揚々と買い物を続けていた。そんなガデナーを見つめてザフトリングが小さくため息をつく。
「ハルトリーゲルちゃんはミステルを、そしてガデナーを知らない。全てを知ったらあの子は一体どんな顔をするのかしらね」
談笑しながら広場を去るピルツとハルトリーゲルの背中を見つめながらザフトリングが怪しい笑みを浮かべた。ガデナーは未だに露店で果物を買い漁っていた。
「どうだ、ハルトリーゲル! ガルテン自慢の逸品だ。好きなだけ食べるがいい!」
王宮ノイエ・パレに戻ってきたハルトリーゲルを待ち構えていたのは、巨大な机に狭しと並べられた果物の山であった。それは比喩ではなく、文字通り色とりどりの果物が山積みになって置かれていた。机の傍らでは目にも留まらぬ速度果物を剥いているガデナーの姿が見える。
「驚かせちゃってごめんなさいね。ガデナーがどうしてもハルトリーゲルちゃんにガルテンの果物を食べさせるんだって言ってきかないから、急遽園遊会をすることになったの。と言っても豊穣を祝う収穫祭の焼きましみたいなものだけど」
驚くハルトリーゲルに対してザフトリングが申し訳なさそうに語り、その隣ではピルツが苦笑しながらガデナーを見つめていた。ハルトリーゲルは汗を流しながら必死に果物を剥くガデナーを一瞥すると小さく瞳を細める。
「多分ピルツに嫉妬しているのよ。ほら、ハルトリーゲルちゃん、今日ヴェルツの露店でピルツに果物をむいてもらったんでしょう? ガデナー、あれを見ちゃったらしくてね」
楽しそうに口元を釣り上げるザフトリングの言葉にハルトリーゲルは一瞬驚いた表情を浮かべ、ガデナーに視線を移す。
ハルトリーゲルにはどうしてもガデナーがミステルで教えられてきたような邪悪な存在とは思えなかった。
「あれが魔王ガデナー……。ミステルの怨敵にして神樹を蝕む害悪……ですか」
汗を流しながら爽やかに微笑むガデナーを見て、ハルトリーゲルは小さくため息をついた。
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