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144.

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 瞳が円に示した『書類上』の誕生日は、いわゆるホワイトデーだった。
 瞳は、本当は教えるつもりはなかった。けれど円があまりにもこだわるから。実際、『本当の誕生日』はもう少し先である。
 それでも、円は瞳の誕生日を祝おうと、いろいろと画策してくれているらしい。『誕生日』がこんなに楽しみに思えたことなんてなかった。
 もっとも、最近増えた『依頼』のおかげで嫌でも『本家』の動きには敏感になっている。それは円の方でも同じらしく、小田切の『闇医者』としての患者は増えたらしい。律の事務所にもおそらくは『本家』関連と思われる相談が持ち込まれたこともある。
 加藤のパートナーの弟は、まだ無事であるらしいが油断はできない状況である。
 時間が、ない。


(本当に……矛盾してるな、オレは)


 焦りがないと言えば嘘になる。けれど、円と過ごす『誕生日』を楽しみにしているだなんて。
 相反あいはんするふたつの感情に、瞳は押し潰されそうになりながら、それとは悟らせずに日常を過ごしていた。
 そうして迎えた、瞳の仮の『誕生日』。
 瞳は、円からの優しいキスで起こされた。


「おはよう、瞳」
「……おはよ」


 どこの童話の王子だよ、とツッコミをいれたくはなったが、そこは我慢する。
 円は日課である朝のトレーニングとシャワーを済ませて来たところらしく、爽やかな石鹸の香りがした。例の勾玉まがたまは、結局、美作と律だけではなく円にも渡してある。というのも、瞳のトレーニング時間を夕方に、しかも可能な時のみという条件に変更したからであった。
 最近の瞳のスケジュールは割と立て込んでおり、休める時に休ませる、というのが式神たちや円たち全員一致した意見で、瞳はそれに従わざるをえなかったのだ。


「朝はフレンチトーストでいい?」
「ん。それがいい」
「了解。もう少し寝てて」
「いや、起きるよ」


 もそりと起き上がれば、瞳の身体は昨夜の情事の痕跡だらけで、円には目の毒だった。決して嗜虐趣味しぎゃくしゅみはないけれど、自分の証が刻まれた瞳の身体を再び組み敷きたい衝動にかられる。


「先に準備してるね」
「頼んだ」


 慌てて目を逸らして部屋を出る円に、瞳は気だるげな様子で声をかけた。
 身体に残るだるさを洗い流すために着替えを用意してシャワーを浴びる。気持ちと身体をリセットして着替えに袖を通した。身支度を整えてダイニングに向かえば、ふわりといい香りに迎えられる。途端に瞳の身体が空腹を訴えるのだから素直なものである。
 いつものように円に椅子を引かれて座ると、瞳は円も自分の席に座るまで待った。二人で揃って挨拶をして食事を始めれば、いつも通りの他愛もない会話が始まるのだった。


「そういえば、昨日仔猫を見たよ」
「仔猫?」
「うん、産まれたばっかりだった」
「それは可愛いだろうな」
「可愛かったけど、やっぱりネロとピノがいちばん可愛い」
「円も大概親バカだな」


 くすくすと瞳は笑うが、瞳も円のことは言えない。むしろ、円よりも瞳の方が二匹を可愛がっているものだから、ネロもピノも瞳のそばに寄りたがる。だいぶ育ってイタズラ盛りではあるが、そろそろ去勢手術が必要な時期でもある。


「まあ、親バカは認めるけど。何よりいちばんなのは瞳だからね?」
「はいはい。ところで、ネロとピノも最初の発情期が来る前に去勢手術しておいた方がいいんだけど」
「聞き流されたツラい。……まあ、それだよね。今月中かなぁ?」
「急ぐ必要はないだろうけど、その辺は相談、かな? ワクチン接種もあるし」
「そうだね」
「近々、病院には行かないとならないな」
「瞳次第だよねー。なんなら俺が一人で連れていくけど」
「それこそ大変だろ。大丈夫、何とかする」
「瞳の『大丈夫』は、瞳自身は無理してるから信用できない」
「なにそれ酷い」


 朝食中はそんなふうに猫の話に終始し、食後は二人でコーヒーを淹れてリビングでのんびりする。今日も一応特別な日なので、対面ではなく隣に寄り添って座っている。


「瞳はさぁ……」
「んー?」
「誕生日なのに、こんなんでいいの?」
「こういうのいいんだよ」
「そうなの?」
「んー、オレさ……」
「うん?」
「今でこそ性嫌悪せいけんおで済んでるけど。両親の事件からこっち、しばらくは対人恐怖症でさ。式神たちなら大丈夫なんだけど、相手が人になった途端にパニック起こしてダメだったんだ」
「え……。でも、中学から祓い屋の『仕事』してたって……」
「やっとパニック起こさなくなった頃からの荒療治だよ。そうやって人に慣れていったんだ」


 円の肩に頭を預け、ぼんやりと瞳は昔話を始めていた。なんとなく、円には隠しておきたくなかった。というより、知っていてもらいたかったのかもしれない。


「いま思えば、スパルタだったよなー。『仕事』をしていくうちに、対人恐怖症が接触恐怖症になって、今では性嫌悪障害。でも、もうコレだけはずっとダメなんだ。円だけだよ……」
「瞳……」
「ごめんな? こんな、いつ死ぬかも分からない仕事してる奴が相手で」
「……そんなの、誰だって同じでしょ」
「もし……オレがいなくなったら……」


 その続きを、瞳が言葉にすることはできなかった。


「瞳!」
「……っ!」


 かぶりつくように、円がキスで瞳の唇を塞いだせいだ。


「…………っう、まどか……」
「その先は、言わせない」
「……ん、ごめん」


 少し怒ったような円の言葉に、瞳はただ、謝るしかできなかった。けれど、そんな空気を払拭するような提案を円がしてくる。


「少し早いけど、お昼食べに行くのにそろそろ出よう。事務所より少し遠くなるけど、大丈夫?」
「え……。それは構わないけど、そんなに人気の店なのか?」
「ん? 一日二組限定のお店だよ」
「……は?」
「ランチに一組、ディナーで一組。合計で二組」
「おい……」
「日曜日はランチやってないらしいんだけど、大切な日だからって、律に頼んでゴリ押ししてもらった!」
「律さんも絡んでるのかよ!」
「律の知り合いのお店だから! 大丈夫!」
「何も大丈夫じゃないだろ!」


 律の知り合いで、二組限定、しかもフランス料理の店と聞いたら、瞳にはハードルが高くて行きたくないと言ったが、円の『大切な人の記念日って言って特別に開けてもらう』の一言でぐうの音も出ない程に言いくるめられた。
 連れていかれた先は、確かに事務所よりは少し遠くて、住宅地の中にひっそりと佇む普通の家に見えた。
 看板も出ていないそこに、円は躊躇ためらいもなく入っていく。
 インターホンを押せばすぐに応答があり、おそらくは本来の律と同じくらいの年齢であろう女性が対応に出てくる。服装がやたらと男性的なのは仕様だろうか?


「いらっしゃいませ、円くん!」
「わがまま言ってすみません」
「いいのよー。そちらの方が円くんの大切な人ね。ようこそ、どうぞ中へ」
「こんにちは……」


 通されたのは個室だったけれど、とても家庭的な雰囲気で落ち着く空間だった。


「コートお預かりしますね」
「あ、すみません」


 脱いだコートを預けて席に座ると、お待ちください、と言って女性は部屋を出ていった。


「円。お前、なんて説明したんだ」
「別に。普通に、大切な人の大切な記念日です、って言った」
「……それ普通は男には使わないだろ?」
「なんで? あ、大丈夫。あの人も男の人」
「ん?」
「なんていうの? おネエさん、ってやつ」
「……え?」


 理解が追いつかない瞳は、一旦頭の中を整理する。
 つまり。女性だと思ったあの人、、、は実は男性で。服装が男性的だと思ったのは通常運転で。はゲイ、ということか。


「それで何のツッコミもなかったのか……」
「もともと中性的な人だからね。たまに女装もするよ。その方が違和感ないし。普通に女性と思う人とか多いみたいだけど」


 そんな話をしているうちに、ドアをノックされてワゴンを押した噂の人物が現れる。


伊織いおりさん。伊織さんが男だってバラしたらびっくりしてたよ」
「え? やだ、あんまりバラさないで」
「ホントのことでしょ」
「円くんてば意地悪ね。そうそう、家庭料理がいいって事だったからメジャーなものを作ってみたけど、本当によかったの?」
「うん、ありがとう」


 会話を交わしながらも、伊織は次々と皿をテーブルに並べていく。


「改めまして、本日の料理を担当しました伊織です。円くんとはりっちゃんを通して昔からの知り合いなの。今日はどうぞ気負わないフランスの家庭料理を堪能していってくださいね」
「ありがとうございます……」
「じゃあ円くん。何かあったら呼んでちょうだいね」
「はい」


 綺麗な仕草で礼をした伊織は静かにドアから出ていき、部屋には再び二人となった。
 テーブルにはキッシュにラクレット、アッシパルマンティエ、牛肉の煮込みなど、本当に家庭料理が並んでいる。何から手をつけたらいいのか分からないくらいだ。
 円をうかがえば、にこりと笑って好きに食べたらいいよ、と答えられた。


「瞳、マナーとかめんどくさいの好きじゃないでしょ。好きに食べていいんだよ。そのためにここにしたんだから」
「うん……。フランスの家庭料理とか、あんまり食べたことない、かも」
「意外と食べてると思うけどね。気にせず食べよ?」
「うん。いただきます」
「いただきます」


 テーブルに所狭しと並べられた料理ではあったが、素朴でありながら飽きのこない味ばかりでとても美味しく、食べ盛りの二人はなんだかんだと平らげてしまう。


「はー、美味しかった!」
「瞳、まだ少しくらいなら食べられる?」
「え? まあ、大丈夫だけど」
「よし。じゃあちょっと待って」


 そう言って、円は席を立つと、ドアを少しだけ開けて伊織を呼んだ。何か合図をしたかと思ったら、テーブルの皿を下げに伊織がやって来た。すぐに退室したかと思えば、今度は円がドアを大きく開けて、そこから伊織が両手にデザートプレートを持って入ってくる。


「え?」
「フォンダンショコラです」


 瞳の目の前に置かれたデザートプレートには、フォンダンショコラの他にもマカロンが乗っていて、皿にはチョコペンで書かれたであろう『Happybirthday!!!』のメッセージ。


「まどか……」


 デザートプレートを見つめ、円を見上げた時には伊織の姿は既に無くて。ただただ円がそこに微笑んでいた。


「お祝いしたいって言ったでしょ?」
「言ってた、けど。……これは、聞いてない」


 こんなサプライズは聞いていない。ただの書類上の誕生日だと言ったのに。こんなふうにしてもらったことが無い瞳は、どんな顔をしたらいいのか分からない。不意に目頭が熱くなって、瞳は自分が泣きそうになっていることに気付いた。


「……あ」


 慌てた瞳を、円が歩み寄ってきて抱きしめる。


「瞳、泣かないで。笑ってほしいよ」
「ん。うん。ありがとう、円」


 そう言って、泣き笑いのようになってしまったけれど笑顔を見せると、円が涙を拭ってくれた。
 そうだ、と思い出して瞳はデザートプレートのマカロンを摘むと、円の口の前に差し出した。


「円、くち開けて」
「なに。食べさせてくれるの?」
「……ん」


 瞳が小さく頷けば、円がかぷ、とマカロンに齧り付く。


「なんか……、便乗みたいで申し訳ないけど。意味的に、円にあげたいなって。チョコレートの、お返し」
「マカロンにも意味があるの?」
「あるよ。意味は……自分で調べろ」
「ふ。そういうとこ、やっぱり瞳だよね」


 そう言って円は笑うけれど、だって恥ずかしいじゃないか、と瞳は思う。
 マカロンの意味は『特別な人』だなんて。瞳からは絶対に教えてやらないのだ。
 そうしてデザートまで完食して伊織に礼を言ってから店を出れば、昼下がりの陽射しは少し傾きかけていた。3月とはいえ、陽が落ちればまだ寒い季節だ。


「夕方になる前に買い物して帰ろうか」
「そうだな」


 のんびりと、わざと遠回りをしていつものスーパーに寄って買い物をする。


「夕食、なに食べたい?」
「んー、肉じゃが」
「肉じゃがかぁ。美味しく出来たらお嫁さんにしてくれるの?」
「え? その予定だろ?」
「瞳……」
「あ……。しまった、外……」


 反射的に答えてしまってから、ここが家ではないことを思い出すがもう遅い。けれど、周りはそんな二人を気にも止めていないようだった。ホッと息をついたのもつかの間、円は瞳の手を握りしめてきた。


「ちょ、円……っ」
「大丈夫だよ。みんな買い物に夢中で気付かないって」
「それは……っ」


 それはそうだけど。でも、と抗議しても円は知らぬ顔で買い物を続ける。
 結局、買い物中に手を離してはもらえたけれど、瞳はドキドキが止まらなかった。心臓に悪い、としか言いようがない。
 家に帰れば、ネロとピノ、それに大裳と太陰が出迎えてくれる。


「ただいまー」
「大裳、太陰。ありがとう。ネロとピノの様子はどうだった?」
「おかえりなさいませ。はい、留守番というものを理解し始めたようですね。もうしばらくすれば、わたしたちも必要なくなるかと」
「そうか」


 報告だけ済ませて、大裳も太陰も二人の邪魔はすまいとすぐに消えてしまう。すると、円がぎゅうと瞳を強く抱きしめる。


「円……?」
「さっき、抱きしめられなかった分」
「あー……、悪かった」
「もうホントめっちゃ我慢した! 俺えらくない!? 褒めて!」
「うん。えらい。よく我慢したな」
「がんばった!」
「ちょ、待て。さすがにそれ以上キツくされたら苦し……」
「あ、ごめん!」


 強く抱きしめられすぎて少し苦しい。解放され、けほんとひとつ咳をして、瞳は呼吸を整えた。
 やがて夕食の準備を始める円をカウンター越しに眺めながら、のんびりと話をした。出来上がった料理を並べて二人でゆっくり食事をした後は、いつものようにリビングに移動していた。


「疲れた?」
「んー。いや、そんなことない」


 朝のように寄り添って座って、瞳は少しうとうとし始めていた。


「伊織さんのとこ、また行きたいな……」
「気に入った? 良かった。うん、また行こうね」
「ん……。円、ありがとな……」
「うん?」
「今日。すごく楽しかった」


 ふわり、と笑う瞳は眠いせいなのかとても無防備だった。吸い寄せられるように円が口付ければ、瞳の口腔を優しく撫でるようにしてそのまま名残惜しそうに離れた。


「まどか……?」
「今日は、シないよ。昨夜ムリさせちゃったからね。本当はまだ身体ツラいでしょ?」
「お前は……本当に。誰のせいだと……」
「ん。俺のせいだよね。嬉しい」


 ちゅ、と円は瞳の額にキスを落とす。


「ん……」
「眠いなら寝ていいよ。寝室には連れて行ってあげるから」
「ごめん、ありがと……」


 円の優しい声に誘われるように、瞳はゆっくりと眠りに落ちていった。
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