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第1章 1日目

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 記憶が、後退している。
 診察の為に連れていかれた病院で。オレ、古城真純こじょうますみはそう言われた。
 確かにそうなのかも知れない、と。オレはまるで他人事のように納得していた。
 さっき、オレが目を覚ましたのは、高校の保健室だったのだそうだ。その事実が、オレ自身に自分の異常を思い知らせる。
 オレの時間は、高校入学直前で止まっているのだ。
 全寮制の男子校である聖蘭学園に入学が決まって。入寮日を明日に控えて。
 そこまでは、記憶がある。そこまでは覚えてるんだ。
 だけど。
 今は、どう考えても夏だった。
 ネクタイを締めた制服は、夏服であろう半袖だし。
 肌に触れる空気も盛夏のものに近い。
 ちょっと冷静になって考えれば、オレの記憶の方がおかしいのだとすぐに分かる。
 記憶を失ってしまったという事を、オレは結構冷静に受け止めていた。だって、それは事実なんだし、慌てても騒いでも仕方がないのだと分かっているからだ。
 まあ、こんなのドラマとか小説の中のもので、まさか自分が経験するなんて思ってもいなかったけどね。

「今って、いつ?」

 とりあえず入院の必要はないだろうと診断され、戻った寮でオレは恐る恐る聞いた。とにかく、現状を把握しないことには何もできない。

「明日から、高校生になってから初めての夏休みだよ」

 ニッコリ笑って答えてくれたのは、オレが目覚めた時に側にいた、さっきのハンサムだった。
 寮は二人部屋で、彼はオレのルームメイトだったらしい。
 今いるのは、オレたち二人で使っている部屋ってわけだ。
 これがまた、ホテル並みに豪華な部屋なんだ。二段ベッドとかじゃなくて、ちゃんとしたベッドがふたつ並んでて。机も二人分あるし。おまけに、テーブルとソファなんか置いてあって。それでも更にくつろげそうなスペースがあったりするんだ。
 すげぇ広いかも……。
 これでホントに高校の寮なのか? ってカンジなんだけど。
 で。今、高一で。明日から夏休みだとすると。
 オレが失ったのは、4ヵ月分の記憶。
 はぁ。
 4ヵ月って、けっこうデカイよなぁ。
 まあ、3年とかじゃなくって、まだマシだったかもしれないけどさ。
 そう思って、ため息をついて。それから、不意にルームメイトの名前を確認し忘れてることに気付いた。
 ちょっと聞きづらかったりもするんだけどね。
 だって昨日までは、普通に名前を呼んでたはずなんだ。今更、自己紹介してもらうってのも、さすがに気が引けてしまうよ。
 でも、思い出そうとして思い出せるものでもないんだから、この際、仕方ないよな?
 名前呼べないと、不便だしさ。

「あの、さ。ごめん……名前……」
「あー。高見翔吾たかみしょうご。ルームメイトでクラスメイトね」

 一瞬だけ、ちょっと驚いた顔をして、すぐに微笑んで教えてくれた。
 あ、クラスも一緒だったんだ。

「オレ、なんて呼んでた?」

 素朴な疑問だった。
 オレのことは名前の方で呼ばれてるみたいだったけど。さっき保健室で『真純』って呼ばれたし。オレの方はなんて呼んでたのかなって思ったんだ。
 深い意味はなかったんだけど。
 傷ついたような困ったような、複雑な表情をされて。

(え?)

 戸惑った。
 なんで?
 何か変なこと聞いたか?

「普通だよ。『高見』って」

 そう言った時は、優しい表情に戻ってたけど。
 なんだろう。何か引っかかったんだけど。うーん。ま、いいか。
 その時。
 コンコン、とドアをノックする音が聞こえて。控えめな感じでドアが開けられた。

「古城が、階段が落ちたって聞いたんだけど。大丈夫か?」

 そう言われて。
 うわー。オレ、階段から落ちたのかぁ。なんて他人事みたいに考えてた。
 そういえば、病院では、詳しい説明とか、高見がしてくれたんだよね。なんか、目撃者らしくて。
 オレはその間、やたら検査されてて、自分がどんな状況で記憶をなくしたのか知らないままだったのだ。
 それでいいのか、オレ……。
 心配そうに部屋に入ってくるその顔を、オレはもちろん覚えてなかった。ゴメン。
 高見ほどではないけど、整った顔がこちらを見ていた。

「橋本。その事なんだけど……」

 高見が隣に行って、何やら小声で話し始める。時折、視線がこっちに来るという事は、オレのことを話しているんだろう。なんてったって、記憶後退してるから。
 それにしても、二人ともカッコイイよな~なんて思いながら。オレはぼんやりと高見たちを見ていた。
 いや、二人とも雰囲気は違うんだけどね。
 なんて言うのかな。違った系統の格好良さって言うのかな。二人で並んで立たれると、絵になるっていうか、目の保養になるって感じがするんだ。
 高見は、ふわって言うかほわって言うか。優しい感じで。ふんわりあったかい感じって言うのかな。絶対女には見えないクセに、綺麗って表現が似合っちゃうタイプ。
 橋本って呼ばれてた方は、体育会系に近いかな。しっかり筋肉ついてるみたいで、結構体格いいんだ。キリッとした顔は美少年とかって言うよりも、男前。頼れる兄さんってカンジかな。
 っていうか、二人とも背ぇ高いし。
 ホントに同じ学年なのか?
 いや、橋本の方は聞いてないから、どうなのか分かんないけど。先輩だって言われても驚かないぞ。
 首を傾げたオレに、高見は言葉を補足してくれる。ホントにホテルみたいだな。オレ、こんな所で生活してたんだ。
 そういえば、夏だもんな。さすがに、汗かいたよな。
 頭に包帯は巻いてるんだけど。実は、外傷は大したことないんだし。

「シャワーくらい、浴びたいかも」

 オレの言葉に、高見はニッコリ笑って。
 着替えやらタオルやらをテキパキと用意してくれて。
 オレはバスルームに案内された。のかな。するよな、普通。オレは帰るとこなんか無いからいいんだけどさ。今、いなくなられると、ちょっと困るかも。って言うか、ずっと寮にいても大丈夫なのか?
 いいや。その辺は高見に確認してみよう。
 アザだらけ、すり傷だらけの自分の身体を眺めながら、オレはなんだか情けなくなってきた。オレの体格が標準並みだったら、こんなことにはなってなかったんじゃないかとも思う。
 オレ、筋肉ないし。身長も標準に届いてないし、体力もない。しかも、ちょっと身体が弱いお子様時代を過ごしたせいで、色白。おまけに、女顔。母親似だから仕方がないなんて、簡単に諦めきれるかっ! 同性にナンパされたって、嬉しくないっ!

「はぁ~……」

 怪我が治ったら、体力つけようかな。あんまり体格良くなっても不気味なんだけどね。なにしろ、この顔だから。
 他の人が聞いたら、『何言ってるんだ』って呆れるかもしれないけど。本人にとっては結構切実な問題なんだよ。
 別に、この顔が嫌いな訳じゃない。顔の問題だけじゃないってのも、分かってる。
 オレ、髪と瞳の色素が薄いんだよね。外国の血が混じってるんじゃないかってくらい。単なる父親譲りのもので、そんなんじゃないんだけど。
 でも、こういうのを面白がって声掛けてくるヤツとかいるんだよ。学校の先生とかも、髪染めてるんじゃないか、とかさ。けっこう目を付けられてたんだ。そういう周りの反応が癪にさわるって言うか……たまに、すごくムカッとくることがある。
 大人げないよな、とも思うけど。
 自嘲するみたいに笑って、この四ヵ月間、オレは変わってなかったのかなと疑問に思った。
 でも。
 オレは両手でザブッと顔にお湯をかけた。

(焦るな……)

 自分で自分に言い聞かせる。

(焦っても、何も変わらない)

 こんな、顔や体格みたいな、どうにもならないことを考えてるのが、焦ってる証拠だと思う。
 焦っても仕方がないんだって事は分かってるじゃないか。
 大きくため息をついて、オレは濡れた前髪をかきあげた。

「大丈夫……」

 高見が言った言葉を、呪文みたいにそっと呟いて。
 焦る気持ちを落ち着けて。
 オレは立ち上がって、高見が用意してくれたタオルで身体を拭いた。



 バスルームから出ると、迎えてくれた高見に叱られた。

「怪我してるってのに、何だって頭濡らしてるんだっ!」

 ということだった。

「いや、あの……ちょっと、すっきりしたくて……さ」

 何やらすごい勢いで怒られて、しどろもどろになりながら言い訳した。

「ご丁寧に包帯まで外して」

 いや、だって。包帯濡らす訳にはいかなかったし。替えの包帯ないんだもん。
 だけど、ため息をつくみたいに言われて、オレはちょっとうろたえてしまった。

「た、高見……?」
「せめて今日くらいは、キズを濡らすような事はやめておいて欲しかった……」

 はあーって。呆れたみたいに言われてしまって。

「ご……ごめん」

 オレは素直に謝るしかなかった。
 高見は自分のベッドに座って、困ったような微笑みを浮かべながらオレを見て。

「古城。こっちおいで」

 言われるままに、高見の隣に座った。

「傷は? 痛まない?」

 優しく聞かれて、首を横に振った。

「ちょっと、ごめん」

 言いながら伸ばされた高見のしなやかな手が、くいっとオレの顔を反対に向けさせる。その手が、オレの顔を固定するみたいに顎の辺りから耳の後ろにかけて添えられて。もう片方の手が、オレの後頭部の髪に触れ、傷の具合を確認してゆく。
 その一連の流れが。高見の動きが、ものすごく優しくて。包み込むような優しさに、オレは不覚にもドキドキしてしまったんだ。
 反則だよなぁ。
 こんな綺麗な顔で、こんなに心配されて優しくされたら、相手が男だって分かっててもドキッとするよ。
 優しくされるのって、やっぱり嬉しいし。
 まあ、そんなレベルの『ドキドキ』なんだけどね。
 そんなオレの様子に気付くはずもなく、高見は、オレが首にかけてたタオルで、濡れた髪を優しく拭いてくれる。それから、オレが持ってた包帯を受け取って、手際良く頭にくるくると巻き付けてくれた。

「はい、終わり」
「ありがとう……」

 巻いてもらった包帯を手で押さえながら、オレは思わず感心してしまっていた。

(高見って、結構器用なんだ……)

 オレだったら、絶対にできないもん。っていうか、包帯を外した時点で、元の状態に戻すことを諦めてたし。オレ、不器用だから。

「頼むから、今日はおとなしくしてて」

 って真剣に言われちゃうってことは、オレってば落ち着きのないヤツだったのか? 初めての寮生活で、うかれてた?
 ちょっと不安になりながらオレが見ると、高見はふわりと微笑んだ。

「俺が、心配で落ち着かないだけ」

 極上とも言える笑顔で、さらっとそんなことを……。
 高見、言う相手間違えてるって……。
 オレ女の子じゃないんだから。

「食堂に行くと、ちょっと面倒なことになると思うから、夕食は簡単なものを持ってきてくれるように橋本に頼んでおいたんだけど。それで良かったかな?」

 オレの肩をポンと叩きながら立ち上がり、微笑みながら高見が言って。

「任せる」

 この短時間で、高見の事を全面的に信用してたから。オレは大きく頷いていた。




 ベッドに横になったまま、オレはうとうとしていたようだった。

「古城、起きてる?」

 半分、夢の中を漂ってるような意識の中に高見の声が聞こえてきた。

「んー……」

 とりあえず、寝てはいない事を告げる為に声を上げた。
 覚醒の為に目をこすろうとして、腕を上げようとして。

「高見……」

 呼んだ声は、ちょっとかすれていた。

「なに?」

 すぐ近くで返事がして。
 目を開けると、オレのベッドに座ってこっちを見下ろしてくる高見の優しい顔が間近にあって。

「からだ、いたい……」

 助けを求めるみたいに、呟いた。
 腕を上げようとした時に、肘と肩が。それに誘発されたみたいに、体中の関節が。
 ギシギシと。軋むみたいに悲鳴をあげている。
 ぼんやりとしていた意識が、だんだんクリアになってくる。それと同時に、自分の身体の状態が理解できてきた。
 目は、たぶん潤んでしまってると思う。
 身体が、熱っぽい。
 高見の手がオレの頬に触れた。ひんやりとしたその感触に、思わず目を閉じる。

(あ…、気持ちいい……)
「熱、出てきたね……」

 囁くように言われて、もう一度、目を開けた。高見が、そんなオレの顔を覗き込むように見て。

「つらい?」

 優しく、労わるように聞かれて。

「……平気」

 微笑み付きで、答えた。上手く笑えたかどうかは分からないけど。
 高見は困ったような微笑を浮かべて、オレの髪を優しく撫でてくれた。

「何時……?」
「7時を、ちょっと回ったところ」

 教えてもらって、眠る前に時計を確認してなかった事を思い出して。どのくらい寝ていたのかの目安が分からない事に気付いた。
 ダメじゃん、オレ。

「古城。食事、できそう?」

 あー。そういえば、さっき、橋本に何か持ってきてくれるように頼んだって、言ってたっけ。
 って事は、橋本が来たのかな?
 うーん。だけど。今はちょっと、身体がだるくて、あんまり食欲ないかも。

「……ごめん」

 そういう事を説明するのも面倒で。
 一言、謝っただけだったんだけど、高見はそれで理解してくれたみたいだった。

「何か、して欲しい事とかある?」

 そう、聞かれて。

「手……」
「ん?」

 何も考えずに呟いていた。

「手、握ってて……」

 高見の顔が驚いた表情になって。
 それを見て初めて、自分が言った内容に気付いて。その事にビックリした。
 身体が痛くてだるくて。熱っぽくて、心細くて。
 そんな状態だからとは言っても、無意識に呟いてしまった言葉が恥ずかしかった。

(子供じゃないんだから……)

 そうは思うんだけど、オレは黙って高見の顔を見つめていた。
 高見は、ふわっと笑うとベッドの横に椅子を持ってきて。オレの手を、優しく包み込むように握ってくれたんだ。

(あー……)

 オレは安心したみたいな幸せなような気分になって、ホッと息をついた。

(やっぱり子供なのかな、オレ……)

 だってさ。子供の頃、病気になった時とかに、無性に人恋しくなったりしたんだよ。
 保健室で目覚めた時と同じようなシチュエーションの中、そんな事を思いながら高見を見た。

「いいよ、寝ちゃって。眠るまで、こうしていてあげるから」

 微笑みながら優しく言われて。
 その言葉にオレは本当に安心したんだと思う。
 高見に微笑み返して、オレは気を失うように眠りについたのだ。



 子供の頃から、熱を出すと必ず夢を見た。
 内容はいつも違うけれど。決まって悪夢だった。
 ドロドロとした眠りの中、うなされて夜中に目が覚める事もあった。
 この日も、例外じゃなかった。


 薄暗い部屋の中、子供がいた。小学一、二年生くらいだろうか。男の子が、膝を両手で抱えて、うずくまるように座っていた。
 抱えた膝に、額を付けるようにしているから、顔は見えない。
 小さな肩が、小刻みに震えているようだった。

「どうしたの?」

 声をかけると、男の子が顔を上げてこっちを見た。
 あどけない顔が、涙でグチャグチャに濡れていた。琥珀色の瞳から、とめどなく涙が零れ落ちる。
 薄暗いはずなのに、なぜか分かる。
 柔らかそうな髪も、綺麗な瞳も、色素が少し薄い。

(誰かに、似てる……?)

 ぼんやりと、そう思った。それが誰なのかまでは分からない。
 男の子は泣き顔を隠そうともしないで、オレに訴えた。

「たすけて……っ」

 縋り付かれて、うろたえた。

「な、なに? どうしたのっ!?」

 おろおろしながら、しがみ付いてくる小さな身体を抱きしめる。

十夜とおやのこと……いらない……?」
「え?」
「いらないなら、いなくなるから。俺、なんでもするから……だから……父さんも母さんも、ケンカしないで……」

 十夜というのが男の子の名前なのだろうと思う。
 宥めるみたいに、背中をさすった。

「十夜?」

 確認する意味を込めて呼ぶと、オレの腕の中にすっぽりと収まっていた少年がピクリと身じろいだ。
 やっぱりこの子が『十夜』なんだ。

「いらなくなんかないよ」

 十夜の頭を、ポンポンと軽く叩いて。

「いらない人なんかいない。皆必要なんだ。今までも、これからも。必要とされてる。十夜を必要とする人がいる。大丈夫。自信を持て。十夜は、十夜だ」

 オレは、自分自身にも言い聞かせるように呟いた。
 そうであってほしい、と。これは、オレの願望なんだろう。
 いらない人間なんか、いないのだと。
 オレが、そう思いたかった。
 ここにいてもいいのだと。
 誰かにそう言ってもらいたかった。
 十夜は驚いたようにオレを見て、涙をボロボロと零しながらだったけど、にっこりと微笑んだ。
 その瞬間。
 視界が弾けた。
 真っ白にスパークしたような感覚がして、オレは思わず目をギュッと閉じていた。
 ゆっくりと目を開けると、場面が変わっていた。
 住宅地。大きな道路に面した、公園があった。公園に植えられた桜が、満開だった。
 淡いピンクの花びらが、風に吹かれて華麗に舞い落ちる。
 穏やかな日差しの中で遊ぶ、子供たちの歓声が聞こえてくる。
 ふと見やった歩道に、公園よりも向こうの方から歩いてくる人影に気付いた。
 スーツを着てネクタイを締めた、男の人だった。年齢は二十五、六歳くらいだろうか。穏やかそうな、落ち着いた感じの男性。優しそうな、赤茶色の髪と琥珀色の瞳。

(あれ?)
「十夜……?」

 時間の感覚なんて、まるでナシだったけど唐突に思ったんだ。
 さっきまで子供だった十夜に会ってたクセに、その事に対しての不思議なんか感じてなかった。
 確信だった。
 いきなり男前になっちゃってたけど、この人は、十夜だ……って。
 その時。
 不意に。
 公園の方から、ピンク色のボールがポーンと飛んできた。道路の方に転がっていくボールを小さな女の子が追いかけてきて。

「危な……っ」

 車道に転がり出るボールを。ボールだけを見て、女の子が追おうとする。
 そこに、トラックが通りかかって。
 車のドライバーから見たら、完璧に飛び出しになるんだろうけど。トラックのブレーキの音が、やけに大きく聞こえた。
 オレは、その瞬間を、まるでスローモーションのように見ていた。
 女の子の行動に気付いた十夜は、弾かれるように駆け出して。トラックに気付いて、ボールを持った状態で動けずにいる女の子の腕を引っ張るようにして歩道の方へと押しやった。その一連の動きの反動で車道へと躍り出る形になってしまった十夜は、トラックを避けきることができず。

「十夜……っ!」

 まるで人形かなにかのように、十メートル近くも跳ねとばされた。
 誰かの悲鳴とか、子供の泣き声とか。
 そんなのが聞こえてきてたけど、オレは瞠目したまま、十夜だけを見つめていた。
 ゆっくりと歩み寄る足が震える。
 道路に倒れた、十夜の身体。
 閉じられた瞼。投げ出された手足。
 赤黒いものが、じわじわとアスファルトを染めてゆく。それが、十夜の身体から流れ出た血なのだと気付いて、ゾッとする。

「十…夜……」

 十夜の側に座り込んで。
 手を伸ばして、十夜の顔を汚している血を拭った。

「……十夜……十夜っ……!」
 震える声で叫ぶように、名前を呼んだ。十夜はピクリとも動かない。
 吐息が、手に触れる事はなかった。
 アスファルトを染める血が、十夜の生命を吸い出してしまったかのようだった。
 手が震えていた。十夜の身体を揺すってみるけど、十夜はやっぱり何の反応も示さなかった。
 あたたかいのに。
 まだ、こんなにあたたかいのに……!

「…と……っ」

 のどに、声がからんだ。
 弔いのように降り注ぐ、桜の花びら。淡いピンク色の舞が、酷く綺麗で、胸に痛い。

「……父さん……っ!」

 絞りだした声は、悲鳴のようだった。
 涙が零れ落ちる。
 突然、心の中に浮かんだ言葉。
 たぶん、間違いない。
 オレがまだ子供の頃、交通事故で死んだ父さん。
 どうして。なんで?
 オレは、無意識に唇を咬んでいた。
 どうして忘れていたんだろう。
 十夜という、父さんの名前を。
 なんで気付かなかったんだろう。
 珍しいほどに色素の薄い、瞳と髪の色が、オレのものとまったく同じである事に。
 父さんとの思い出は無いに等しい。オレが幼稚園に上がる前に、父さんは亡くなったそうだ。その辺りの事すら、実は良く覚えていないのだ。
 母さんは、思い出すとつらいからと言って父さんの写真なんかを全部封印してしまった。
 父さんの顔は、小学三年生の時に、写真を偶然見たきりだ。
 でも、きっと。
 この人が。

「父…さ……」

 最後まで言えなくて、オレは俯いて両手で顔を覆った。
 これが事実とは思わないけれど。今、見たばかりの父さんの……十夜の最期の姿が、痛くて……。
 痛すぎて。
 苦しかった。心が。

「……泣いているの?」

 ためらいがちに声をかけられて、身体がビクリと揺れた。
 優しい、女性の声。
 聞いた事があるどころか、馴染みのあるその声に、オレはゆっくりと顔を上げた。

「大丈夫?」

 首を傾げながら、ベッドの上から聞いてくる。枕を背もたれ代わりにして、上体を起こして。
 そこは、病室だった。白に包まれた、殺風景な部屋。
 見慣れた光景。
 とてもじゃないが、三十代後半には見えない、可愛らしい顔。高校生と言っても、十分通用するだろう。澄んだ瞳が、心配そうにオレを見つめている。白い肌と細い身体が、痛々しかった。

「……母さん」

 呟いて、笑顔を作って見せた。
 髪と瞳の色が違う事を除けば、オレとそっくりな母さんの顔が、優しくほころんだ。

「ごめんね、真純」
「母さん?」

 突然、謝られて、戸惑った。
 母さんの顔が、微笑んだまま、泣きそうなものへと変わってゆく。

「だめなの。もう、限界なの」
「何、言って……」

 サイドテーブルの方へゆっくりと伸ばされた母さんの手に、気付いた時には遅かった。
 カゴの中に、果物と一緒に入っていたナイフを。母さんの手が握っていて。
 その光景を見た瞬間、オレは血の気が引くのを感じていた。

「ごめんね。許して、真純。母さん、父さんの所に逝くわ……」

 母さんの頬に涙が流れるのを見て、オレの身体が弾かれたように反応した。

「やめ……っ!」

 制止の声を上げながら駆け寄った。
 ナイフの刃を掴もうとして、暴れられて失敗した。

「やめろよっ!」

 叫んで、奪い取ろうとしたナイフの刃が、オレの腕を滑った。
 シャツが裂けて血が流れる。
 痛みを感じているヒマはなかった。
 細い首に、両手で持ったナイフがあてがわれる。

「真純……」

 涙を流して。だけど微笑みながら、名前を呼ばれて。
 次の瞬間。
 目の前で、鮮血が散った。

「…あ……」

 声が出なかった。
 白で統一された部屋の中、鮮やかすぎるほどの赤が目に刺さる。
 止められなかった。

「あ……あ……」

 涙が零れた。目の前で起きた事を否定するように、緩やかに、何度も首を振った。
 信じない。
 信じたくない。
 こんな事、信じたくなんかない!

「──────っ!!」

 突然の覚醒に、身体が揺れた。
 一瞬、夢と現実の区別がつかなかった。
 呼吸が乱れていた。
 ゆるゆると掌を顔の前に掲げる。そこに血の痕跡がないのを認め、あれが夢だったのだと認識した。
 悲鳴をあげたような記憶がある。あれは、夢だったのか、それとも現実だったのか。
 荒い呼吸を繰り返しながら、オレが視線をめぐらせようとした時。
 頭の下で、ガラ、と音がした。

「……氷枕?」

 呼吸を整えながら。
 暗闇の中で、ぼんやりと呟いた。
 高見がやってくれたのだろう。眠る時は普通の枕だったのが、今は氷枕に交換されていた。
 どのくらい眠っていたのかは分からない。けれど、部屋の明かりが落とされて真っ暗であることや、シンと静まり返った空気から、深夜なのだろうと予想はつく。
 氷枕で、熱があった事を思い出して。
 不意に、訳もわからず不安になった。

「高見?」

 もう眠っているはずのルームメイトの名前を、小さく呼んでみる。

「……どうした?」

 返るとは思ってなかった声が聞こえて、オレの方が驚いた。
 しかも、ゴソゴソと起き上がる音がしたかと思ったら。

「苦しいのか?」

 なんて、今度はすぐ近くで声がして。しかも、オレの髪を手で優しく梳いてくれたりして。

「ちが……」

 苦しい訳じゃない。
 否定しようとして小さく首を振ったら、高見の手がオレの頬を拭った。
 オレは、その動きで始めて、自分が涙を流してた事に気付いた。
 って言うか、高見、見えてる? 見えてるのか?
 高見が、ベッドの間にあるサイドテーブルの上のナイトランプに手を伸ばした。ほのかな明かりに助けられ、今まで見えなかったものが浮かび上がってくる。
 高見の綺麗な顔が、心配そうにオレを覗き込んでくる。

「嫌な夢でも見た?」

 子供みたいだとバカにするでもなく、高見が聞いた。優しい瞳で、オレの返事を促してくれる。
 ああ、もう……。
 高見の優しさに包まれてるって、全身で分かっちゃってさ。過保護だよって思うんだけど、それを心地よく感じちゃってるから、オレも始末が悪い。
 でもこれって、オレの記憶が戻ったら、高見の態度も変わっちゃうのかな?
 オレの記憶が無いから、高見は優しくしてくれてるだけなのかもしれない。
 そう思ったら、なんだかまた不安になってきて。オレは、さっきの不安の正体が分かってしまった。今感じてる不安と、根本的な所は同じだと思うんだ。

「こわい……」

 無意識に、言葉が零れてた。

「ひとりに、しないで……」

 涙が溢れた。縋るような目で高見を見て、手を差し伸べた。
 高見は優しくその手を取ってくれて、微笑みをくれる。

「大丈夫。いるよ、ここに」

 宥めるみたいな高見の言葉に、そうじゃないのだと首を振った。
 違うんだ。そういう事じゃなくて。
 こんな風に思うのは、きっと、さっきの悪夢のせいだ。
 十夜みたいに、母さんみたいに。いなくならないで欲しい。
 父さんの最期がどんなだったか、オレは知らない。あれが事実だとは思わない。さっきの夢は、夢でしかない。
 けど、母さんはそうじゃない。あれは、ただの夢じゃない。
 思い出したくない、過去に起こった現実の繰り返しだった。
 あの日も、オレは、彼女を止められなかった。
 オレの目の前で、母さんは自らの命を断った。
 あの時のキズは治ったけれど、今でも痕は消えずに残ってる。
 それは、オレの心のキズでもあった。
 たった一人の家族を、目の前で失った。
 何もできなかった自分が悔しかった。
 何も言ってくれなかった母さんに苛立ち、何も気付かなかった自分に腹が立った。
 母さんは、父さんが亡くなってから。少しずつ、心と身体を病んでいった。
 彼女はどうして、死を選んでしまったのだろうか。
 なぜ、一人で逝ってしまったのだろう。
 オレを置いて行かないで。離れて行かないで。
 もう、独りになるのはイヤだった。
 だけどそれが、すごく子供じみた願いである事も分かってて。オレは、自由な方の腕で目元を隠した。
 こんなの、わがままが聞いてもらえなくて拗ねてる子供と同じだ。

「古城?」

 だから高見は、そんな風に心配してくれなくていいんだ。

「ごめん。今の、忘れて」

 そう言うのが精一杯だった。
 だって、もう何を言うか分からない。高見の優しさに甘えて、暴走してしまいそうだった。自分で自分が何考えてるのか分からないくらい、頭の中がグチャグチャなんだよ。
 他人と深く関わる事なんか、ずっと避けてきたはずなのに。オレは今まで、そうやって生きてきたはずだったのに。
 それなのに、今、オレは他人である高見にものすごく依存してる。それが当然のことのように。
 そういう自分を、オレが一番、理解できない。
 ふと、高見に取られてた方の手の甲に、何か柔らかいものが触れて。
 なに?

「顔、見せて」

 囁くように言われて、素直に従った。顔の上に乗せていた腕を下ろすと、高見のまっすぐな視線とぶつかった。

「今日、こっちで寝ていい?」

 そう言った高見の表情にドキッとした。
 悲しそうな寂しそうな、辛そうな困ったような。いろんな想いがない交ぜになったような。それをなんとか押し殺そうとしているようにも見える、苦しそうな表情だった。
 答えられずに、オレは高見の顔を間近に見つめた。

「高見……?」

 喘ぐみたいに、名前を呼んだ。

「笑っていいよ。子供じゃないんだから、って。でも俺、なんか不安なんだ……」

 なんで……?
 なんで高見が不安になるんだろう。
 だけど。
 高見の顔が泣きそうな表情になりそうで、オレはそれを見たくなくて、慌てて高見の頭をグッと引き寄せた。両腕で抱き抱えるみたいにして、オレの胸の辺りに押しつける。

「笑わないよ。笑うはず、ないじゃん」

 できるだけ優しく、言ってやった。

「古城……」

 直接響いてくるみたいな低い声が、なぜだか心地よかった。

「いいよ。おいでよ。一緒に寝よう」

 意外なくらいすんなりと言葉が出てた。
 高見の身体がピクリと揺れて。次の瞬間、痛いくらいに強く抱きしめられていた。
 第一、ただでさえ全身打撲の身体を抱きしめられて、痛くないはずがない。
 だけどオレは、そのままおとなしく、全身を高見の腕に委ねていた。逃げ出そうとか、不平を訴えるなんて考えは、少しも浮かんでこなかった。
 だって、イヤじゃなかったから。
 それどころか、自分でもおかしいと思うんだけど、ホッとしてたんだ。
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