21 / 39
21.飛び散った心のカケラを掬って(千歳視点)
しおりを挟む
応接テーブルを挟んだ向こう側で撤収作業を続けるふたりの姿に小さく息を吐き、テーブルの上の名刺に視線を落とす。
「社長。お見送りしてまいります」
不意に、先ほどまでサイドテーブルで書類の束を纏めていた千紘が腰を落とし、抑え気味の声量で声をかけてくる。ふっと視線を上げれば、じとっとした千紘の瞳と視線がかち合った。見据えるようなその瞳からは『さっきの件、あとできっちり説明してもらうからな』という感情が強烈に伝わってくる。
やよさんがお手洗いに立ったタイミングで千紘が扉を叩いた。ここでは話したくないと言わんばかりの視線に僕も席を立つと、何のことはない、今夜おじいさまからの呼び出しが入った、という話しだった。要件は昨日話した見合いについて。
この取材を受ける前までは、お見合いで適当なひとと結婚すればいい、と諦めていた。本当に欲しかったひとは、一月前にあっさりと僕の手のひらからすり抜けていったのだから。……でも。
(逃がさない。絶対に)
鞄を肩にかけた目の前のやよさんにじっと視線を向ける。まさか、今朝この場所で千紘から聞かされた午後の予定――星霜出版社の取材で、一月前に逃げられた『やよさん』が目の前に出てくるとは思ってもみなかった。
肩甲骨の辺りまであった彼女の髪は、顎の辺りで綺麗に切り揃えられていた。だから一瞬、他人の空似かとも思った。けれど社長室に入ってきた瞬間の彼女は、明らかに瞳を揺らしていた。
絶対に逃がさない。そんな想いで咄嗟に初対面のフリをした。そして、会話の端々に種を蒔き続けた。急いては事を仕損じる、というのは経営も恋愛も同じだ。ゆっくりと蔦が伸びるのを待って、絶対にやよさんをこの手にする。もう誰にも渡してなんかやらない。
今夜のおじいさまの呼び出し。昨日渡した釣書を確認したかという話か、もしくは釣書を追加で渡されるだけ。僕はもう、今回の見合いを受けるつもりは皆無だ。だから千紘には『行かない』と伝えろ、と指示した。
『適当なひとと結婚する』と言った朝とは正反対の僕の言動に、普段から公私の線引きをしっかり行っているはずの千紘の声と口調がひっくり返っていたのは少し滑稽に思えた。あの場では深く説明はせず会話を強引に切り上げたのだから説明を求められることは覚悟の上だ。
「あぁ、頼む」
千紘に応戦するように、にこりとした笑みを顔に貼り付けその場からゆっくりと立ち上がった。と同時に、カメラマンも作業を終えたのか、やよさんと目配せを交わしている。
(……くそ)
ふたりの息の合った姿に胸の奥がじりじりと焦げ付くような想いで満たされる。取材の始まりの時、カメラマンの男がやよさんに座る位置の指示を飛ばしていた。そしてやよさんはそれを当たり前のように受け取っていた。あまりにも息の合ったやり取りに激しく嫉妬してしまう。やよさんとこの男は普段からペアで取材に回っているのだろうと察すると、仕事上のこととはいえ、僕の手のひらからすり抜けていったやよさんと深い信頼関係を結んでいるこの男がひどく忌々しい存在に思えた。
(焦るな……)
逸る感情を理性で強引に抑え込む。取材対象者が『僕』と認識した瞬間の彼女は、ひどく動揺しているように思えた。初対面のフリをした瞬間、彼女の瞳が陰った。ボイスレコーダーを強引に止め『千歳』としてやよさんに声をかけたあの瞬間。手のひらで感じた鼓動の共鳴に、わずかな可能性を見出した。
マスターの代わりなんかじゃない。彼女は――『僕』を見てくれていたのではないだろうか、と。
初対面として声を交わした瞬間の落胆したような瞳の陰りは、そう解釈するに値する何よりの証拠に思えた。
「今日はありがとうございました。では、私たちはこれにて失礼いたします」
「ええ、こちらこそありがとうございました」
いつものように無理をしたような笑みを浮かべたやよさんに会釈を返す。その笑顔にズキズキと心が痛んだ。彼らの奥では千紘がこの部屋の扉を押し開いている。ふたたび目配せを交わした彼女とカメラマンが千紘の背中を追い、やよさんの艶のあるショートヘアが揺れた。ふたりが扉の向こうへと消えていくと同時に、ギィ、と蝶番の音が鳴った。
「……はぁ」
扉が閉まると同時にガシガシと頭を掻き、その場で大きくため息を零す。ゆっくりと踵を返し応接テーブルの上に置いた名刺を手のひらに収め、デスクまで歩いた。どさりと派手な音を立て椅子に座り込み、手の中のカメラマンの名刺だけを乱暴にデスクの上へと放り投げる。
正直、これまで生きてきたどの瞬間よりも緊張した。入社したての頃に引っ張りだされた他社との交渉の場よりも、株主総会の場で株主たちに向かって社長就任の挨拶を行った時よりも、初めて経営者として矢面に立ったプレス会見よりも、初めて受けた取材インタビューよりも。ひどく、緊張した。
ひとつでも種を蒔き損ねれば詰みだった。それでも僕は、確実に種を蒔いた。
ゆっくり、ゆっくりと彼女の逃げ道を断つ。
もう絶対に。あの夜明けのように――ひとりで逃がしてなんか、やらない。
「……」
やよさんの名刺を頭上に翳す。あの瞬間、脳内で瞬時に弾き出した計画。一応は上手くいきそうだ。彼女は僕が初対面のフリをした真意に気付いていない。その目的も勘づいてはいない、はず。名刺から視線を外し、空いた手でデスクの端に置いていた手帳をパラパラと捲って明日以降のざっくりとしたスケジュールを確認する。
(……2日後……いや、3日後、がいいか)
動くならこの日だ。この日はあの店の店休日。なんとも丁度いいタイミングで取材が入っていたものだ。ふっと口の端を歪めると同時にコンコンと扉がノックされる。「どうぞ」と声を上げる前に、バタンと乾いた音を立て勢いよく扉が開かれた。それだけで誰が入ってきたのかを察しゆっくりと顔をそちらへ向ける。
「千歳。お前、何があった?」
西日に照らされた千紘は眉間に皴を寄せたまま、つかつかと早足でデスクに近寄ってくる。詰問、と表現した方が正しいような勢いに、僕は仮面を被るようにへらりと笑ってみせた。
「え? 簡単じゃん」
「ちょっと待て。それでわかるわけがねぇだろ」
ダン、と。強い音を立てながら千紘がデスクに片手をつく。目の前の千紘はぐっと腰を曲げ、僕に視線を合わせた。射抜かれるような千紘の視線に、手に持ったままだったやよさんの名刺をひらりと顔の横に掲げた。
「鷹城さんに一目惚れした。だからお見合いは受けない。それだけ」
「……は?」
ぽかん、と。目の前の従兄弟は気が抜けたように口を開いていた。
やよさんと面識があるということ、これを千紘に正直に話すわけにはいかない。彼は学生時代から優等生だった。各財閥の子息が通う学園――もちろん僕もその学園を卒業しているけれど、その学園内でも寡黙で真面目と評されていた大正時代に設立された九十銀行の次期頭取とも僕は同級生。僕の周辺ではセフレ関係だとかいう爛れた話を持ち出せる土壌ではない。だから今は『一目惚れした』と貫き通すしかないのだ。
顔の横に翳した名刺を下げ、それをデスクに置く。そのまま両手を背広のポケットに突っ込んだ。
これから僕がやろうとしていることは、歪んだ狂気に満ちていると自覚している。それでもいい。それでも、僕は彼女が欲しい。
出逢ったときから恋に落ちていた。こんな決定的なチャンスが巡ってきたというのに、諦められるわけがない。こんな状況で諦められるような人間がいるのならばぜひとも紹介してほしい。
熾火に秘めた感情を5年間も燻ぶらせた。もう、機械人形であるのはたくさんだ。
「彼女を婚約者としておじいさまに紹介する。なんとしてでも。――――父さんに勘当されても」
この一月、幾度も圧縮したメモ紙。右の指先に当たったそれを、ぎゅ、と握り締め、僕は挑むように目の前の従兄弟を見つめ返した。
「社長。お見送りしてまいります」
不意に、先ほどまでサイドテーブルで書類の束を纏めていた千紘が腰を落とし、抑え気味の声量で声をかけてくる。ふっと視線を上げれば、じとっとした千紘の瞳と視線がかち合った。見据えるようなその瞳からは『さっきの件、あとできっちり説明してもらうからな』という感情が強烈に伝わってくる。
やよさんがお手洗いに立ったタイミングで千紘が扉を叩いた。ここでは話したくないと言わんばかりの視線に僕も席を立つと、何のことはない、今夜おじいさまからの呼び出しが入った、という話しだった。要件は昨日話した見合いについて。
この取材を受ける前までは、お見合いで適当なひとと結婚すればいい、と諦めていた。本当に欲しかったひとは、一月前にあっさりと僕の手のひらからすり抜けていったのだから。……でも。
(逃がさない。絶対に)
鞄を肩にかけた目の前のやよさんにじっと視線を向ける。まさか、今朝この場所で千紘から聞かされた午後の予定――星霜出版社の取材で、一月前に逃げられた『やよさん』が目の前に出てくるとは思ってもみなかった。
肩甲骨の辺りまであった彼女の髪は、顎の辺りで綺麗に切り揃えられていた。だから一瞬、他人の空似かとも思った。けれど社長室に入ってきた瞬間の彼女は、明らかに瞳を揺らしていた。
絶対に逃がさない。そんな想いで咄嗟に初対面のフリをした。そして、会話の端々に種を蒔き続けた。急いては事を仕損じる、というのは経営も恋愛も同じだ。ゆっくりと蔦が伸びるのを待って、絶対にやよさんをこの手にする。もう誰にも渡してなんかやらない。
今夜のおじいさまの呼び出し。昨日渡した釣書を確認したかという話か、もしくは釣書を追加で渡されるだけ。僕はもう、今回の見合いを受けるつもりは皆無だ。だから千紘には『行かない』と伝えろ、と指示した。
『適当なひとと結婚する』と言った朝とは正反対の僕の言動に、普段から公私の線引きをしっかり行っているはずの千紘の声と口調がひっくり返っていたのは少し滑稽に思えた。あの場では深く説明はせず会話を強引に切り上げたのだから説明を求められることは覚悟の上だ。
「あぁ、頼む」
千紘に応戦するように、にこりとした笑みを顔に貼り付けその場からゆっくりと立ち上がった。と同時に、カメラマンも作業を終えたのか、やよさんと目配せを交わしている。
(……くそ)
ふたりの息の合った姿に胸の奥がじりじりと焦げ付くような想いで満たされる。取材の始まりの時、カメラマンの男がやよさんに座る位置の指示を飛ばしていた。そしてやよさんはそれを当たり前のように受け取っていた。あまりにも息の合ったやり取りに激しく嫉妬してしまう。やよさんとこの男は普段からペアで取材に回っているのだろうと察すると、仕事上のこととはいえ、僕の手のひらからすり抜けていったやよさんと深い信頼関係を結んでいるこの男がひどく忌々しい存在に思えた。
(焦るな……)
逸る感情を理性で強引に抑え込む。取材対象者が『僕』と認識した瞬間の彼女は、ひどく動揺しているように思えた。初対面のフリをした瞬間、彼女の瞳が陰った。ボイスレコーダーを強引に止め『千歳』としてやよさんに声をかけたあの瞬間。手のひらで感じた鼓動の共鳴に、わずかな可能性を見出した。
マスターの代わりなんかじゃない。彼女は――『僕』を見てくれていたのではないだろうか、と。
初対面として声を交わした瞬間の落胆したような瞳の陰りは、そう解釈するに値する何よりの証拠に思えた。
「今日はありがとうございました。では、私たちはこれにて失礼いたします」
「ええ、こちらこそありがとうございました」
いつものように無理をしたような笑みを浮かべたやよさんに会釈を返す。その笑顔にズキズキと心が痛んだ。彼らの奥では千紘がこの部屋の扉を押し開いている。ふたたび目配せを交わした彼女とカメラマンが千紘の背中を追い、やよさんの艶のあるショートヘアが揺れた。ふたりが扉の向こうへと消えていくと同時に、ギィ、と蝶番の音が鳴った。
「……はぁ」
扉が閉まると同時にガシガシと頭を掻き、その場で大きくため息を零す。ゆっくりと踵を返し応接テーブルの上に置いた名刺を手のひらに収め、デスクまで歩いた。どさりと派手な音を立て椅子に座り込み、手の中のカメラマンの名刺だけを乱暴にデスクの上へと放り投げる。
正直、これまで生きてきたどの瞬間よりも緊張した。入社したての頃に引っ張りだされた他社との交渉の場よりも、株主総会の場で株主たちに向かって社長就任の挨拶を行った時よりも、初めて経営者として矢面に立ったプレス会見よりも、初めて受けた取材インタビューよりも。ひどく、緊張した。
ひとつでも種を蒔き損ねれば詰みだった。それでも僕は、確実に種を蒔いた。
ゆっくり、ゆっくりと彼女の逃げ道を断つ。
もう絶対に。あの夜明けのように――ひとりで逃がしてなんか、やらない。
「……」
やよさんの名刺を頭上に翳す。あの瞬間、脳内で瞬時に弾き出した計画。一応は上手くいきそうだ。彼女は僕が初対面のフリをした真意に気付いていない。その目的も勘づいてはいない、はず。名刺から視線を外し、空いた手でデスクの端に置いていた手帳をパラパラと捲って明日以降のざっくりとしたスケジュールを確認する。
(……2日後……いや、3日後、がいいか)
動くならこの日だ。この日はあの店の店休日。なんとも丁度いいタイミングで取材が入っていたものだ。ふっと口の端を歪めると同時にコンコンと扉がノックされる。「どうぞ」と声を上げる前に、バタンと乾いた音を立て勢いよく扉が開かれた。それだけで誰が入ってきたのかを察しゆっくりと顔をそちらへ向ける。
「千歳。お前、何があった?」
西日に照らされた千紘は眉間に皴を寄せたまま、つかつかと早足でデスクに近寄ってくる。詰問、と表現した方が正しいような勢いに、僕は仮面を被るようにへらりと笑ってみせた。
「え? 簡単じゃん」
「ちょっと待て。それでわかるわけがねぇだろ」
ダン、と。強い音を立てながら千紘がデスクに片手をつく。目の前の千紘はぐっと腰を曲げ、僕に視線を合わせた。射抜かれるような千紘の視線に、手に持ったままだったやよさんの名刺をひらりと顔の横に掲げた。
「鷹城さんに一目惚れした。だからお見合いは受けない。それだけ」
「……は?」
ぽかん、と。目の前の従兄弟は気が抜けたように口を開いていた。
やよさんと面識があるということ、これを千紘に正直に話すわけにはいかない。彼は学生時代から優等生だった。各財閥の子息が通う学園――もちろん僕もその学園を卒業しているけれど、その学園内でも寡黙で真面目と評されていた大正時代に設立された九十銀行の次期頭取とも僕は同級生。僕の周辺ではセフレ関係だとかいう爛れた話を持ち出せる土壌ではない。だから今は『一目惚れした』と貫き通すしかないのだ。
顔の横に翳した名刺を下げ、それをデスクに置く。そのまま両手を背広のポケットに突っ込んだ。
これから僕がやろうとしていることは、歪んだ狂気に満ちていると自覚している。それでもいい。それでも、僕は彼女が欲しい。
出逢ったときから恋に落ちていた。こんな決定的なチャンスが巡ってきたというのに、諦められるわけがない。こんな状況で諦められるような人間がいるのならばぜひとも紹介してほしい。
熾火に秘めた感情を5年間も燻ぶらせた。もう、機械人形であるのはたくさんだ。
「彼女を婚約者としておじいさまに紹介する。なんとしてでも。――――父さんに勘当されても」
この一月、幾度も圧縮したメモ紙。右の指先に当たったそれを、ぎゅ、と握り締め、僕は挑むように目の前の従兄弟を見つめ返した。
応援ありがとうございます!
10
お気に入りに追加
180
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる