【R18】星屑オートマタ

春宮ともみ

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32.ふりつもるひとひらの、

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「最後ぉ?」

 少しだけ素っ頓狂なマスターの声が店内の眩い壁紙に反響した。カウンター越しの彼は驚いたように琥珀色の目を丸くしている。思っていた以上のマスターの反応に、私はゆるく笑みを返した。

「うん。辞めるの。ライター。だから……今日が私にとって、最後の取材ってわけ」

 マスターへそう口にしながら、改めてこれまでのライター生活を回顧する。繰り返されるリテイクの厳しさに会社のトイレで声を殺して泣いたこともあったし、不得意分野の取材時にどう表現するべきかと資料室に篭っていたこともあった。苦しかったことも、嬉しかったことも、たくさん経験させてもらえた。懐かしい。そんな想いを抱いていると、眉を顰めたマスターが鋭く私を見つめて口を開いた。

「この2週間で何があった?」

 詰問、ともいえる勢いに思わず息を詰める。……でも。これは今、話すべきことではない。

「とりあえず、私もこれはあとで話す。先に取材、いいかな?」
「…………わかった」

 先ほど私へと向けられた言葉をそのままそっくりマスターへと返した。わずかな空白の後、彼は不承不承、というように口元をへの字に曲げる。そしてマスターはちいさくため息を落とし、コーヒーを淹れ始めた。
 その様子を眺めながら、普段はめったに受けないと言っていたはずの取材をこうして常連客のよしみでと受けてくれる感謝と、予定していたカメラマンの都合が悪くなったから後日写真だけを撮りに来るかもしれないという話をしたあとに隣の椅子に置いた鞄からボイスレコーダーを取り出し、そっとカウンターに置く。同じタイミングでコーヒーを淹れ終えたマスターがカウンターにふたつのコーヒーカップを置いた。私と、彼の分。なみなみと注がれた華やかな香りが立ちのぼる黒々とした液体を眺めながら私は小さく声を続ける。

「その。……最後の取材だからこそ、私らしく、フランクにいってもいい?」
「別に俺はそこは気にしねぇが。音声、上司とかにも聞かれたりするんじゃねぇか?」
「まぁ……初稿上げたら編集長も聴くけど、たぶん私らしい最後ねって笑ってくれると思う」

 本当であれば、星霜出版社の鷹城として――先般の千歳へのインタビュー時と同じように。きちんとした口調で、きちんとした応対で取材をするべきなのだと思う。けれど今日はなんとなく。ありのままの私でマスターに取材をしたい、と。そう思ってしまった。

「……そうか。お前がそれでいいなら俺は構わねぇぜ」

 私を見つめている瞳をわずかに細めた彼はふたたび小さく吐息を落とした。その吐息に含まれる複雑な感情を受け取ったような気がしたけれど、ひとまずそれは後回しだ。腰かけた椅子の上で居住まいを正し、真っ直ぐに言葉を紡いだ。

「じゃ。今日はよろしくお願いします。ずっと気になってたんだけど、マスターってなんでコーヒー屋さんやろうと思ったの?」

 私の直球の言葉にマスターが目尻に皺を作り、苦笑いを浮かべている。いつもこうして店に訪れるたびに見ているよう表情に、知らず知らずのうちに緊張していた身体がほぐれていくような気がした。

「いや、本当に直球で来たな。……まぁ、端的に言えば『人助け』だな」
「人助け?」
「コーヒー豆が栽培される現場っつうのはな。経済的弱者が過酷な労働や長時間労働を強いられてんだ。そういう話、聞いたことはねぇか?」
「……ちらっとは」
「俺は大学を卒業したあとは役者になりたかったんだ。まぁお前も知ってるとおり俺は演劇部だったから。俺の両親はいろいろあって世界を飛び回ってたから、俺も世界を見てぇと思って放浪の旅に出た。ある国に行った時、そうした人々が悪質な労働環境のもとで働かされた結果、先進国で安価なコーヒーが飲めるという状況が生まれてることを知った。『労働者の権利を大切にし、児童労働の搾取や犠牲、劣悪な環境をなくす努力をしている農園を助けたい』、っつうのが最初だったなぁ。役者になりたいっつう初志貫徹の感情もなくはなかったが、そっちの方に衝撃を受けたっつうのが正しいかもしれん。だから、コーヒーロースターになろうと決めた」


 もちろん、初めは上手くいかなかった――そう話すマスターの話に、私は気がつけば深く引き込まれていた。コーヒー豆を売り込むために喫茶店を経営し、これまで以上に多くの人間と触れ合うようになったこと。初めは遠い異国の地に生きる人々を支援したい。その一心で始めた店だった。けれど気がつけばたくさんの人間と触れ合い、数多の人間の悩みを聞くようになった。自分の店に訪れる客のひとりひとりに寄り添うことで、苦しむ人々を影ながら支援している自分の存在に気が付いた。人助けから始まった人生相談所の生活も、今は悪くはないと思っている――。


「自分のこと喋るっつうのも、存外に気恥ずかしいもんだな」

 淹れたてのコーヒーを飲みながらの取材が一区切り着いたあと、ボイスレコーダーの電源を切った私に向かってマスターが照れくさそうに頭を掻いた。普段はベレー帽をかぶっているけれど、今日はかぶっていない。休みだからなのだろう、そういえば、今の彼の服装もポロシャツにチノパンというラフなもので、たくさんのボールペンが刺さっている黒いエプロンも身に着けていない。

「恥ずかしい? マスターが?」

 普段から飄々として、誰かを揶揄って遊ぶような性格の人が。意外だ、という意思を込めて言葉を返した。取材後の独特の高揚感が胸を支配するなか、ボイスレコーダーを鞄に放り込む。

「ん。とりあえず54年生きてきてこの話をするのはお前が初めてだな」
「えっ、本当に!? 妹さんとかには?」

 驚きのあまり椅子からバランスを崩しそうになり、思わずカウンターにしがみついた。自営業を始める、という人生での大きな決断、ご家族には話さなかったのだろうか。そう投げかけて、はっと我に返る。
 私も……会社を辞めるということ。それからライターを辞めるということ。今回、両親にはまったく告げていない。人生でも大きなウエイトを占める決断だからこそ話さないという決断も、確かに存在するのかもしれない。
 そう考えていると、マスターがゆっくりと背後のコーヒーカップとソーサーがたくさん並べられている戸棚に背中を預けた。

「俺がコーヒーロースターになると決めた時も、なんでその結論に行き着いたのかとか言う詳しい話なんっつうのは加奈子には話してねぇなぁ。俺と加奈子はお互いに自由人だしそれでいいと思ってっから。ま、俺も加奈子の商売の話はあいつが実際にタンザニアに移住してから知ったからなぁ」
「……そ、っか」
「お前が育った実家がどうだったかはわからん。が、たいてい家族なんてそんなもんだ。家族っつうのは確かに幸せの形かも知れねぇが、言っちまえば一番近い他人だからな。気も遣う。千歳が言ってる『顔色を窺う』、って意味じゃぁねぇけどな」

 びく、と。自分の身体が震えた気がした。ふたりして先ほどから避けてきた、核心の――話。思わず息を詰める。

「……顔色」
「そう。顔色、だ」

 感情の読めない無機質な声が。真っ直ぐに私を貫いた。マスターが、じっと私を見つめている。
 気を遣う……顔色を、窺う。その言葉の意味が――今なら少しだけわかるような気がした。

「…………うん。なんか、千歳の気持ち、今ならわかるかも。この前……千歳のお父さんと話したから」
「うん? 千歳の親父と?」

 背中を戸棚に預けたままのマスターは、腕を組んで顎に節ばった手を置いた。驚いたように丸くなる琥珀色の瞳を見つめ、私は意識して淡々と言葉を続けた。あの時に感じた激情とも呼べる感情を抑えるには、こうするしかないような気がしたから。

「そう。手切れ金を渡されそうになったけど、突っぱねた」
「そりゃまた穏やかな話じゃねぇな」
「……」

 私が落とした無言。先ほどから変わらずに腕を組んだままのマスターの顔が険しくなる。

「もしかしねぇでも、ライター辞めるっつうのはそれが関係してんのか」
「……」
「圧力かけられたってわけか……」

 正しいような気もするけれど、ちょっと違うような気もする。どう返答してよいかもわからず目の前のマスターからそっと視線を外す。私のその無言を肯定と受け取ったのか、マスターが厳しい眼差しを深くしたのを感じ取った。

「実際にかけられてるかはわからない。でも、会社とか上司に……迷惑かけたくなくて」

 編集長をはじめとした上司たちからの態度が変わったようには感じていない。だから景元グループから圧力がかかる、なんていうのも私の被害妄想でしかないかもしれない。それでも、私が迷い込んだ袋小路を突破するには文筆業から離れるしかないという結論にしか、私はどうしても達せられない。何度考えても、何度道筋を立て直しても。きっと、5年前に千歳と巡り会ったあの日から――運命の針はもう、こうなることを示していたのだろうと思う。

「じゃぁ、俺から話す必要はねぇか? 千歳が子どもを持ちたくないと思う理由」
「…………」

 ふと。千歳の吐き捨てるような声色が脳裏を過った。


 ――どんどん悪くなっていく一方のこの現代に可愛い我が子を産み落とすなんて、僕はそんな残酷なことはできないけどね
 ――結局は『親のため』『家のため』、何より『世間体』でしかないよ。実にくだらない


 あの言葉は。千歳がこれまで生きてきた人生の中で培われた価値観もの。父親から失敗作として見られてきたからこその……彼なりの心の悲鳴だったのだろう、と。今なら……納得できる、ものがある。

「お前が察してる通り、だな。あいつは自分のことを駒にしか見てねぇ親父に反抗心を抱いてると同時に、失敗作の自分には親になる資格がねぇと思ってる。だから……5年間も踏み出せずにいたわけだな。『家庭を持ちたい、子どもが欲しい』と願うお前をずっと見てきたからこそ、踏み出せなかった。30代の貴重な時間を潰されたお前の気持ちもわかるがそこだけは、」
「わかってる。……わかって、るよ」

 来店する客ひとりひとりに常に寄り添って生きてきた、マスターの沁み入るような声色。その音で紡がれる言葉を遮るように言葉をかぶせた。居心地の悪さからそっと目を伏せる。
 そもそも、慰めに彼を利用しようと決めたのは私だ。自暴自棄になってすさんだ心を満たしてくれたのは、他の誰でもない千歳。だから彼に恨まれることはあっても、私が彼を恨むのは間違っている。これほどに筋が通らないこともないだろう。
 そんなことを考えていると、不意に――午前中に書き上げた、インタビュー記事の最終稿の存在が浮かんだ。ぎゅっと唇を噛み、視線を腕を組んだままのマスターに向ける。

「あのね、マスター。千歳はお父さんに反抗心を抱いてるわけじゃないよ。自分を見てほしいって思ってるんだと思う」
「……やよいはどうしてそう思う?」
「自分でもびっくり、なんだけどさ。この前、先輩の代打で取材に行った先が、景元証券だったの」
「は、まじか」
「そう。で、景元社長に、星霜出版社の鷹城として――彼にインタビューをしたの。その時、千歳はお父さんのことにも言及してた」

 そう。千歳は、反抗しているわけじゃない。泣いて、いるんだ。だって。


 ――私どもの仕事は全て『個人』に帰着すると考えています、と、先ほどお話ししましたよね。僕はその概念を父の背中から受け取ったのです


 景元千耀あの人に接触される直前に聴いていた、音声。そこには、千歳の何よりの想いが、刻んであったのだから。

「……千歳は、なんだって?」
「お父さんのことを尊敬してるって言ってた。あれは千歳の本心だと思うの。だから……あの時の『くだらない』って言葉は、反抗心というより『自分を見てほしい』っていう願いから来てると思う」
「そこまでわかってて、お前は千歳と縁を切りてぇって?」

 穏やかで、それでいて強い意思を孕んだ声が。マスターの吐息とともに交じって、店内に溶け込んでいく。
 私の心に、身体に。魂に、刺さるような言葉だった。答えに窮し思わず目を伏せる。
 確かにマスターのいう通りだ。千歳の表面上のことだけでなく、内面のことまでを知った。そのうえで、彼以上に好きになれるひとはいないと自覚したうえで、それでもなお私は彼との縁を断ち切ろうとしている。なかったことに、しようとしている。

「そもそも、お前は千歳のことをどう思ってる?」

 言葉を返せないでいる私に、マスターは淡々と問いを重ねた。
 無感動で、無感情で、無機質な声に――――私は無意識のうちに、心の奥に閉じ込めていた感情を曝け出していった。

「……大切、だよ。大切だからこそ、幸せになって欲しい。家族のあたたかさに触れて、幸せでいてほしい。だからこそ、私みたいな年上のオバサンに固執しないで、もっとこう……年齢的にも、立場的にも、釣り合うひとと一緒になって。幸せになって欲しい。笑っててほしい。ずっとずっと……笑っててほしい」

 本心を吐き出してしまえば止まらなかった。止まれ、なかった。
 胸の奥がズンと痛む。軋むようなその痛みが、胸の奥に迫り来る孤独感を強くする。その感覚に耐えきれず喘ぐように息を吸った。揺らぐ視界が滲んで、歪んでいく。

「……ったく。本っ当に世話が焼けるなぁ、お前らは」
「え?」

 彼の私の耳に届いたそれは苦笑したような声色。この場に似つかわしくない、そんな言葉に思わず顔を上げた。
 滲んで揺れる視界に映る、カウンターの内側から真っ直ぐに私を見つめている琥珀色の瞳は――ひどく、真剣味を帯びていた。


「……やよい。俺じゃ、だめか?」
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