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31.届かない声
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チリチリと軽い音が鳴る。明るい髪色の長身の男性が店内に顔を出した。緑が強いヘーゼル色の瞳が印象的なその男性と視線が合い、互いに軽く会釈をすると同時に。
「パパ! おかえり!!」
「う、わっ、美桜っ……びっくりした」
ひしっと、美桜ちゃんがその男性の脚に抱きついた。その動作に合わせて、彼の後頭部で括られた髪がふわりと揺れる。
「だっこ!」
「はいはい。にいさん、ふたりともいい子にしてた?」
美桜ちゃんの要求に応えるように彼女をひょいと抱きかかえながら彼はカウンター内のマスターに視線を向ける。日本人離れした精悍な容姿だけれども日本語が堪能なあたり、この人がマスターの義弟にあたる人物なのだと理解した。やわらかな表情から子煩悩な父親であるのだと察することができる。
「それなりにな。……ん? そういや、加奈子はどうした?」
肩を竦めて苦笑いを浮かべたマスターがカウンターの内側からこちら側に足を動かしていき、小さく首を傾げた。確かに、彼は今はひとりだ。彼らは夫婦で仕事をしている、と聞いていたけれど、違うのだろうか。
胸元に抱きかかえた美桜ちゃんに髪を撫で回されるがままの彼は、マスターの問いかけに小さく息を止め、なんとも言えない表情を浮かべた。
「三井商社が上場にあたって景元証券のビルに移転するってことになったんだってさ。で、先週移転が終わったからカナさんはいい機会だから新しいオフィスを見てみたいって。終わるまで外でひとり待ってるのも時間もったいないから先にお迎えに来た、ってワケ」
「っ、」
彼から『景元証券』の名前が出た瞬間。わずかに自分の身体が強張ったような気がした。と同時に、ちらりとマスターが私を見たような、気がした。……覚悟はしていたけれど、千歳との間で起こった出来事の全てを見透かされている気がしてなんとも居心地が悪くなる。思わず椅子の上で縮こまった。
「……はっはーん。なるほど。だから千歳は先月の時点でさとっちゃんの経歴をあそこまで詳しく知っていたっつうわけだな。や~っと納得がいったぜ」
そんな私の心境を知ってか知らずか、マスターは顎に手を当て白髪混じりの髭を撫でながら彼に真っ直ぐに視線を向けていた。今しがたマスターが私を見たような気がしたのは気のせいだったのだろうか。自意識過剰も甚だしい、と、内心で自嘲してしまう。
不意に、ついさっきの光景が脳裏に蘇る。千歳は、今はあのホテルで『お見合い』の真っ最中だ。見た目だけでもあんなにもお似合いだったのだから、きっと、彼は今日でいい伴侶を得るだろう。もう――私が出る幕はないし、彼とは掲載記事に関する事務的なやり取りをして、それで終わり、だ。
あらためて覚悟するようにぐっと唇を噛み締める。マスターが落とした言葉に美桜ちゃんを抱えたままの彼が「ん?」と目を丸くし、「いや、こっちの話だ」とマスターが苦笑する。もやつく自分の思考を振り払おうと、軽く目を伏せた。
(……そういえば……先月。そんな話、してたね…)
たしかに。一月半ほど前の、あの日。ここで千歳と遭遇して――関係を断ち切ったはずの、あの日。世間話の流れで偶然同席した男性の経歴を千歳が把握していたという事があった。景元証券が入るオフィスビルは景元ファイナンシャルグループの自社ビルで、下層階はいくつかの上場企業に貸し出してある……私はその情報は千歳を取材する日の当日に知ったけれど、確かに景元証券の社長を務める千歳ならば、近々自社ビルに入居するであろう会社の重役の経歴を知っていてもなんら不思議ではない。なるほど、と、私も心の中でちいさく言葉を落とす。
「というより、なんでお前も行かなかった? 部外者じゃねぇだろうに」
しばらく顎を撫でていたマスターが不意に心底面白そうに声を上げた。彼は自分の髪を引っ張ろうとする美桜ちゃんに向かって「こら」と小さく声をあげつつ、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「あのねぇ。俺は部外者だと思うよ? そもそも俺はあそこの人たちに会いたくないし、元上司にその旦那も着いて来ただなんて社員の人たちもどういう対応すればいいのかわからないでしょ?」
「お前の場合、正確にはさとっちゃんに会いたくない、だろ?」
「……顔を合わせないのが俺たちにとっては正解なんだって。これから先もずっと」
「チカちゃんは会いたがってたぞ? さとっちゃんは嫌そうにはしてたが、本心ではお前をずっと気にかけてる」
「…………いや、いい。俺は会いたくないもん」
なんともいえない、どちらかと言えば嫌そうな顔をした彼。明らかな嫌悪感、とは違うけれど、それでも喩えようのない、複雑そうな表情。その表情を見遣ったマスターがニヤニヤと揶揄うように笑みを浮かべた。ふたりのやりとりに私からも思わず苦笑いが漏れていく。『彼』と『さとっちゃん』の関係性はよくはわからないが、過去に一悶着あった挙句、今の顔を合わせないという関係に落ち着いて、その一悶着の全容をマスターが把握しているらしいことだけは察した。マスターは家族だろうと自分の店に訪れる客だろうと、いつだって誰かを揶揄うのが習性のようだ。
思えば、私も散々揶揄われてきた。来店するたびに「またフラれたのか」とマスターは笑っていたけれど、それでも私の言葉を聞いて、真摯に私の心に寄り添ってくれていた。だからこそ、この店にずっとずっと通い続けられたことは確かだ。……きっと、彼らも私と同じなのだろうと思う。改めて感じるマスターの優しさに思わず目を細めて回顧するようにため息をひとつ落とした。
この話はこれで終わりだ、と。そう言いたげにマスターから視線を外した彼はスニーカーの軽い音をさせ、春樹くんのそばに歩み寄った。
「ほら、春樹。帰ろ?」
腰を落とし、春樹くんに視線を合わせた彼が穏やかに春樹くんに語り掛けた。春樹くんは彼が差し出した手に躊躇うように小さな手をのせる。その手をぎゅうと握りしめた彼がへにゃりと笑う。
「今日はなにが一番楽しかった?」
「……おねぇちゃんと……おはなししたこと」
ちらりと私に視線を送った春樹くんはたどたどしく言葉を返す。そんな春樹くんの様子に、彼はヘーゼル色の瞳を眩しそうに細め、その後カウンター席に座る私を見て「すみません、ありがとうございました」と会釈をした。私も「いえ」と小さく会釈を返す。
「そっかぁ。どんなこと話したの?」
「……ためいきついたら幸せが逃げるよって……美桜が。英語上手だねって褒めてもらった」
「そっか。美桜も楽しかった?」
「うん! すっご~~くたのしかった!」
彼に抱きかかえられたままニコニコと満面の笑みを浮かべた美桜ちゃんの愛らしい笑顔に、私もふっと笑みが零れる。満足そうにへにゃりと笑った彼は春樹くんの前髪にちいさくキスを落とし、そっと立ち上がった。
「さて。にいさん、ありがと。また年末帰ってくるから」
「ん。加奈子にもよろしくな」
春樹くんの手を繋ぎ、美桜ちゃんを抱きかかえ直した彼は入り口へ向かって足を進めた。扉を開いたマスターといくつかの会話を交わした彼の姿が見えなくなり、私はそっと肩を落とす。
(……やっぱ、ちょっと……キツい)
目の前に幸せそうな『家族の形』が見えて、しんどい。これから先も、千歳以上に好きになれる人はいない。それは、さっきの亀ちゃんからの言葉で自覚した。自覚、させられてしまった。
家庭を持つ、という小さな願いでさえも今の私には遠い。月に手を伸ばしても届かないように、彼らの姿は私には手に入らない輝きに見えてしまう。
「美桜は本心からべらべら喋るが、春樹は正反対で常に本音を隠すくせがある。人一倍不器用でなぁ、本当に義弟そっくりな性格してんだ。あいつもそれをわかってるからあぁやって春樹の本音を引き出してやってんだろうな。あれの身の回りではいろいろあったからどうなることかと思ったが……俺からみてもいい父親になったと思うぜ。あいつを千歳に会わせてやりたかったが、残念、タイミングがなかったな」
トン、トン、と。マスターが履いているスニーカーの軽やかな音が、木目張りの床に響いていく。カウンター内に戻る間際、マスターの手が私の頭を、ぽんぽん、と。優しくたたいていった。彼の仕草とその言葉の意味が掴めず目を瞠る。
「……どういう、こと?」
「いんや。それはあとで話そう。ひとまず、取材、だろ?」
カウンターに戻ったマスターの手が、先ほど置いたドリッパーにかかる。煙に巻かれた。そんな感情が、私の心に落ちていく。……でも。
「……うん。私も、今日が……最後の仕事、だから」
そう。今日は私にとって、最後の大舞台。色々と考えることはたくさんあるけれど、だからこそ――もう二度と後悔をしないように。……全力で。
そんな想いできゅっと背筋を伸ばし、カウンターごしにマスターを見据えた。
「パパ! おかえり!!」
「う、わっ、美桜っ……びっくりした」
ひしっと、美桜ちゃんがその男性の脚に抱きついた。その動作に合わせて、彼の後頭部で括られた髪がふわりと揺れる。
「だっこ!」
「はいはい。にいさん、ふたりともいい子にしてた?」
美桜ちゃんの要求に応えるように彼女をひょいと抱きかかえながら彼はカウンター内のマスターに視線を向ける。日本人離れした精悍な容姿だけれども日本語が堪能なあたり、この人がマスターの義弟にあたる人物なのだと理解した。やわらかな表情から子煩悩な父親であるのだと察することができる。
「それなりにな。……ん? そういや、加奈子はどうした?」
肩を竦めて苦笑いを浮かべたマスターがカウンターの内側からこちら側に足を動かしていき、小さく首を傾げた。確かに、彼は今はひとりだ。彼らは夫婦で仕事をしている、と聞いていたけれど、違うのだろうか。
胸元に抱きかかえた美桜ちゃんに髪を撫で回されるがままの彼は、マスターの問いかけに小さく息を止め、なんとも言えない表情を浮かべた。
「三井商社が上場にあたって景元証券のビルに移転するってことになったんだってさ。で、先週移転が終わったからカナさんはいい機会だから新しいオフィスを見てみたいって。終わるまで外でひとり待ってるのも時間もったいないから先にお迎えに来た、ってワケ」
「っ、」
彼から『景元証券』の名前が出た瞬間。わずかに自分の身体が強張ったような気がした。と同時に、ちらりとマスターが私を見たような、気がした。……覚悟はしていたけれど、千歳との間で起こった出来事の全てを見透かされている気がしてなんとも居心地が悪くなる。思わず椅子の上で縮こまった。
「……はっはーん。なるほど。だから千歳は先月の時点でさとっちゃんの経歴をあそこまで詳しく知っていたっつうわけだな。や~っと納得がいったぜ」
そんな私の心境を知ってか知らずか、マスターは顎に手を当て白髪混じりの髭を撫でながら彼に真っ直ぐに視線を向けていた。今しがたマスターが私を見たような気がしたのは気のせいだったのだろうか。自意識過剰も甚だしい、と、内心で自嘲してしまう。
不意に、ついさっきの光景が脳裏に蘇る。千歳は、今はあのホテルで『お見合い』の真っ最中だ。見た目だけでもあんなにもお似合いだったのだから、きっと、彼は今日でいい伴侶を得るだろう。もう――私が出る幕はないし、彼とは掲載記事に関する事務的なやり取りをして、それで終わり、だ。
あらためて覚悟するようにぐっと唇を噛み締める。マスターが落とした言葉に美桜ちゃんを抱えたままの彼が「ん?」と目を丸くし、「いや、こっちの話だ」とマスターが苦笑する。もやつく自分の思考を振り払おうと、軽く目を伏せた。
(……そういえば……先月。そんな話、してたね…)
たしかに。一月半ほど前の、あの日。ここで千歳と遭遇して――関係を断ち切ったはずの、あの日。世間話の流れで偶然同席した男性の経歴を千歳が把握していたという事があった。景元証券が入るオフィスビルは景元ファイナンシャルグループの自社ビルで、下層階はいくつかの上場企業に貸し出してある……私はその情報は千歳を取材する日の当日に知ったけれど、確かに景元証券の社長を務める千歳ならば、近々自社ビルに入居するであろう会社の重役の経歴を知っていてもなんら不思議ではない。なるほど、と、私も心の中でちいさく言葉を落とす。
「というより、なんでお前も行かなかった? 部外者じゃねぇだろうに」
しばらく顎を撫でていたマスターが不意に心底面白そうに声を上げた。彼は自分の髪を引っ張ろうとする美桜ちゃんに向かって「こら」と小さく声をあげつつ、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「あのねぇ。俺は部外者だと思うよ? そもそも俺はあそこの人たちに会いたくないし、元上司にその旦那も着いて来ただなんて社員の人たちもどういう対応すればいいのかわからないでしょ?」
「お前の場合、正確にはさとっちゃんに会いたくない、だろ?」
「……顔を合わせないのが俺たちにとっては正解なんだって。これから先もずっと」
「チカちゃんは会いたがってたぞ? さとっちゃんは嫌そうにはしてたが、本心ではお前をずっと気にかけてる」
「…………いや、いい。俺は会いたくないもん」
なんともいえない、どちらかと言えば嫌そうな顔をした彼。明らかな嫌悪感、とは違うけれど、それでも喩えようのない、複雑そうな表情。その表情を見遣ったマスターがニヤニヤと揶揄うように笑みを浮かべた。ふたりのやりとりに私からも思わず苦笑いが漏れていく。『彼』と『さとっちゃん』の関係性はよくはわからないが、過去に一悶着あった挙句、今の顔を合わせないという関係に落ち着いて、その一悶着の全容をマスターが把握しているらしいことだけは察した。マスターは家族だろうと自分の店に訪れる客だろうと、いつだって誰かを揶揄うのが習性のようだ。
思えば、私も散々揶揄われてきた。来店するたびに「またフラれたのか」とマスターは笑っていたけれど、それでも私の言葉を聞いて、真摯に私の心に寄り添ってくれていた。だからこそ、この店にずっとずっと通い続けられたことは確かだ。……きっと、彼らも私と同じなのだろうと思う。改めて感じるマスターの優しさに思わず目を細めて回顧するようにため息をひとつ落とした。
この話はこれで終わりだ、と。そう言いたげにマスターから視線を外した彼はスニーカーの軽い音をさせ、春樹くんのそばに歩み寄った。
「ほら、春樹。帰ろ?」
腰を落とし、春樹くんに視線を合わせた彼が穏やかに春樹くんに語り掛けた。春樹くんは彼が差し出した手に躊躇うように小さな手をのせる。その手をぎゅうと握りしめた彼がへにゃりと笑う。
「今日はなにが一番楽しかった?」
「……おねぇちゃんと……おはなししたこと」
ちらりと私に視線を送った春樹くんはたどたどしく言葉を返す。そんな春樹くんの様子に、彼はヘーゼル色の瞳を眩しそうに細め、その後カウンター席に座る私を見て「すみません、ありがとうございました」と会釈をした。私も「いえ」と小さく会釈を返す。
「そっかぁ。どんなこと話したの?」
「……ためいきついたら幸せが逃げるよって……美桜が。英語上手だねって褒めてもらった」
「そっか。美桜も楽しかった?」
「うん! すっご~~くたのしかった!」
彼に抱きかかえられたままニコニコと満面の笑みを浮かべた美桜ちゃんの愛らしい笑顔に、私もふっと笑みが零れる。満足そうにへにゃりと笑った彼は春樹くんの前髪にちいさくキスを落とし、そっと立ち上がった。
「さて。にいさん、ありがと。また年末帰ってくるから」
「ん。加奈子にもよろしくな」
春樹くんの手を繋ぎ、美桜ちゃんを抱きかかえ直した彼は入り口へ向かって足を進めた。扉を開いたマスターといくつかの会話を交わした彼の姿が見えなくなり、私はそっと肩を落とす。
(……やっぱ、ちょっと……キツい)
目の前に幸せそうな『家族の形』が見えて、しんどい。これから先も、千歳以上に好きになれる人はいない。それは、さっきの亀ちゃんからの言葉で自覚した。自覚、させられてしまった。
家庭を持つ、という小さな願いでさえも今の私には遠い。月に手を伸ばしても届かないように、彼らの姿は私には手に入らない輝きに見えてしまう。
「美桜は本心からべらべら喋るが、春樹は正反対で常に本音を隠すくせがある。人一倍不器用でなぁ、本当に義弟そっくりな性格してんだ。あいつもそれをわかってるからあぁやって春樹の本音を引き出してやってんだろうな。あれの身の回りではいろいろあったからどうなることかと思ったが……俺からみてもいい父親になったと思うぜ。あいつを千歳に会わせてやりたかったが、残念、タイミングがなかったな」
トン、トン、と。マスターが履いているスニーカーの軽やかな音が、木目張りの床に響いていく。カウンター内に戻る間際、マスターの手が私の頭を、ぽんぽん、と。優しくたたいていった。彼の仕草とその言葉の意味が掴めず目を瞠る。
「……どういう、こと?」
「いんや。それはあとで話そう。ひとまず、取材、だろ?」
カウンターに戻ったマスターの手が、先ほど置いたドリッパーにかかる。煙に巻かれた。そんな感情が、私の心に落ちていく。……でも。
「……うん。私も、今日が……最後の仕事、だから」
そう。今日は私にとって、最後の大舞台。色々と考えることはたくさんあるけれど、だからこそ――もう二度と後悔をしないように。……全力で。
そんな想いできゅっと背筋を伸ばし、カウンターごしにマスターを見据えた。
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