【R18】君を酔わせるまで離さない〜ワンナイトのはずが絶倫すぎる俺様副社長に本気で囲われています〜

春宮ともみ

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第一章 運命がずれた瞬間

6.正しい選択

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 潮の匂いで――ふっと、意識が浮上する。最初に晴菜の意識に入ってきたのは、全身を包み込む柔らかなシーツの肌触りだった。
 重い瞼をゆっくりと開ける。薄いカーテン越しに差し込む夜明け前の淡い光に、晴菜は数度瞬きをした。
 天井が高い。天蓋の影がゆるりと揺れて、どこか非現実的だった。頭がずきずきと疼き、喉が渇いている。
 アルコールの残る頭で、ここが自分の部屋ではないことを理解した。

 ――身体……さすがに、重い……。

 長い息を吐き出しながら晴菜は額に手を当てる。昨夜はあれから後背位で乱され、もう無理だと懇願しても何度となく頂点へ登らされた。酔った勢いのワンナイトにしては、あまりにも容赦がなかった。
 正直、気持ちよかった。腰が抜けるほど何度も攫われて、甘く溺れさせられて。あんなに抱かれたはずなのに、まだ渇いているみたいに疼く。逃げたいのに、溺れるみたいに引きずり戻される。
 けれど、同じくらいしんどかったのも事実で。最後のほうなんて、快感と疲労の境目が曖昧になっていて記憶がなく、いつ寝たのかもはっきり覚えていない。
 昨晩の記憶を辿っていると、静かな呼吸音がすぐ隣から聞こえてきていることに気がついた。晴菜はぼんやりと視線を動かし、隣に眠る男の横顔を見つめた。
 彼は――規則正しい寝息を立てていた。その顔は、昨夜の鋭い眼差しとはかけ離れた無防備で穏やかな表情をしていた。
 彼のまつげが微かに揺れた瞬間、何かが喉の奥で詰まった気がした。

 ――名前……
 
 昨夜は結局、名前を尋ねるタイミングを逸した。なにもかも、知らないままだ。知っているのは、晴菜と同じ業界の人間、ということだけ。
 身体の最奥に残る微かな火照りが、現実の冷たさを強調する。優しいわけでも、紳士なわけでもない。ただ熱をぶつけられただけの夜なのに、こうしてじんわり残っているのがひどく悔しい。晴菜は後悔で胸が締め付けられるような痛みを感じながら、ゆっくりと身体を起こした。
 ベッドの足元には晴菜が身に着けていたワンピースと彼のワイシャツが重なるように落ちている。そのわきには、晴菜が泊まるはずだった部屋のカードキーが朝日を浴びてきらめいていた。
 その光景が――昨夜の出来事を、静かに、けれども確かに証明しているようだった。

 ――やって……しまった。

 自分が信じられなかった。今まで恋人と破局してもここまで自暴自棄になることなんて一度もなかったのに。
 後悔が胸の奥でじわりと広がる。襲い来る数多の感情を処理しきれず大きなため息を吐くと、彼がゆっくりと寝返りを打った。
 男の人にしては長い睫毛が震え、唇の端がかすかに上がる。

「……」

 静かな空間に沈黙が落ちる。彼の寝息は穏やかで、規則的だ。
 けれど、晴菜にはわかっていた。彼の今の仕草は、ほんの少しだけ演技めいている。目を閉じているのに、気配が張りつめているから。

 ――これ……絶対起きてる。

 呼吸のリズムが完璧すぎる。たぬき寝入り――そう気づいてしまう自分が、少しだけ嫌だった。名前も知らないのに、息の速さや肩の動きで彼の嘘を見抜ける。職業病みたいな観察眼が、こんな時ばかり邪魔をする。
 けれど、彼は何も言わない。ただ、静かに晴菜の出方を窺っているようだった。

 ――このまま……なにも言わないで別れた方がいい。

 互いに一晩だけの過ちとして、朝日と一緒に流してしまえばいい。
 彼の『最後まで付き合う主義』とやらは『滅多に発動しない』と言っていた。その言葉の通りこれが彼の日常ではないなら、面倒なあれこれを避けるためにも、黙って立ち去る。それがこの一晩の『例外』に対する、晴菜の誠意だ。
 心の痛みが、新しい傷で上書きされただけ。ただ――それだけの夜。
 そう結論づけた晴菜は、音を立てないようにシーツを押さえてゆっくりと足を抜いた。床に触れた足先がひやりと冷たく、小さく息を落とした。
 その瞬間、隣から男の寝息が一瞬だけ、不自然に途切れたような気がした。

「っ……」

 振り返ってはだめだ。彼とは、一晩だけの関係なのだから。朝が来たら、別れの合図。
 彼が黙っているのは、この一夜を特別な何かにしないためだろう。彼もまた、一晩の遊びとして、この関係を終わらせようとしているのだと察した。
 晴菜は息を殺し、床に落ちた彼の服を避けながら、散らばった自分の下着を拾い集めた。指先がわずかに震えているのは、後悔のせいか、二日酔いのせいか、判断が付かなかった。
 ベッドの中の彼は、変わらず穏やかな寝息を立てていた。
 その呼吸が演技だとわかっていても――晴菜はもう、確かめなかった。
 手早く下着とワンピースを身に着け、床に落ちていたカードキーを拾い上げる。晴菜はそのまま一瞥もせず静かに部屋のドアへと向かった。背後の沈黙が、やけに重く伸びていく。
 ゆっくりとドアノブに手を伸ばす。その指先が微かに震えていることを自覚した。

「……」
 
 ひとつだけ深呼吸を落とした。晴菜は聞こえないふりをしてくれることを願って、小さく声帯を震わせる。

「……ありがとう」

 声にならないほどの囁き声で落としたその言葉と同時に、そっとドアノブを回す。
 背後で布の擦れるかすかな音がしたけれど、晴菜は振り返らなかった。

 開閉音を最小限に抑えて扉を閉めると、廊下には朝の気配が漂っていた。晴菜はまるで何事もなかったように自分の部屋へと歩いた。
 部屋の中は、チェックインした昨夜のまま。きちんと畳まれたルームウェア、乱れのないシーツ、開きっぱなしの館内案内。
 窓の外は、夜の闇を纏った昨夜とは違い、朝日を迎えようとする清々しい空が広がっていた。

「なにやってんだろ、私」
 
 晴菜は乾いた喉の奥で、小さくため息をついた。
 逃げただけなのに。傷を上書きしてもらっただけなのに。心に空いた穴は塞がらないまま、さらに大きな虚無感が押し寄せている。
 晴菜はまたひとつため息を落とし、バスルームへと向かった。ついさっき身に着けた衣類を脱ぎ捨ててシャワーをひねる。
 首筋を伝う水滴の熱さが、彼の指先の熱っぽさと重なった。瞼を閉じると、喉がひりつく感覚を覚えた。
 忘れたいのに――身体の奥にはまだ彼の気配が残っている。指先で鬱血痕が散らばる鎖骨をなぞるたび、胸の奥が痛んだ。
 シャワーを止め、身支度を整えた晴菜はバスルームを後にする。心の中に巣食うなんとも言えない感覚を持て余したまま、放り投げていたハンドバッグを手に取った。
 ロビーに足を運び、チェックアウトを済ませる。晴菜は駅へと向かう道を歩きながら、ハンドバッグからスマートフォンを取り出した。

「……」
 
 メッセージアプリを起動させ、康介の連絡先を開いた。ピン留めしてある康介とのトーク履歴は、あのドタキャンの一文で止まったままだった。
 晴菜は迷わず康介の連絡先を削除した。軽い音がして、画面から彼の名前が消える。それだけで、胸のつかえが少しだけ軽くなった気がした。
 駅のホームに立つと、潮風がまだ少し残る空気が頬を撫でた。斜め前の電光掲示板によると、あと五分で東京方面の電車が到着するらしい。

 ――彼……今頃どうしてるんだろう。

 ホテルで朝食でも食べているのだろうか。あのスーツに袖を通して、また仕事に出るのだろうか。
 そこまで考えて、晴菜はハッと我に返る。
 
 ――名前も知らない人のことを、どうしてこんなに思い出してるんだろう。

 自嘲気味に吐息を落としながら、ゆっくりと瞼を閉じる。
 このまま東京に戻って、また日常のルーティンに戻れるのだろうか。答えは、はっきりとノーだった。

 ――救いにもならない夜を……自分で選んだだけなのに。

 日常に戻りたくない。けれど、戻らなければ何も始まらない。そんな矛盾が心の底に沈んでいく。
 胸の奥が空っぽだ。泣くほどの痛みもなく、ただ虚無だけが静かに居座っている。
 ふと、視線を落とす。手に持ったままのスマホが目に入り、ゆっくりとそれを持ち上げた。
 ディスプレイの黒い画面に、かすかに自分の顔が映った。目の下にできた薄い影。髪は乱れて、肌も少し荒れている。それもそうだろう、昨晩はメイクも落とさずに身体を重ね、先ほど浴びたシャワーでもメイクを落とすこともしなかったから。
 
 ――なにしてるんだろ、ほんとに。

 恋人に裏切られ、酒に逃げて、名前も知らない男に抱かれ。どんなに理由を並べても、結局は自分がそう選んだだけだ。恥ずかしさよりも、惨めさの方が勝っていた。
 構内に流れるアナウンスの声が遠くに感じる。足元の黄色いタイルが少し霞んで見えた。
 反対側のホームに電車が滑り込んでくる。ざあっと大きく風が吹き付けて、晴菜は思わず髪を押さえた。バッグの中からイヤホンを探そうと手を入れた瞬間、手元のスマホが震えた。
 視線を落とした先のディスプレイには『福寿酒店』の文字が表示されていた。こんな朝から、なんの用事だろうか。
 晴菜は着信画面をぼうっと見つめ、ゆっくりとスワイプをした。

『晴菜ちゃん? 朝からごめんなぁ』
「ううん、大丈夫。どうしたの?」
『この前のお見合いの話な。お相手さんがね、ぜひ会いたいと言うてはるのよ。晴菜ちゃん、お付き合いしてる人おるって聞いてたし、断ったほうがええんかなと思うて』
「……付き合ってたけど、もう終わったの」

 自分でも驚くほど、あっさりと言葉が出た。胸が痛むかと思いきや、考えていたよりもそこまでの感情の揺れは起きなかった。
 電話の向こうで、叔母の息を呑む音がする。
 
『あら……そうやったん。ごめんなぁ、余計なこと言うてしもて』
「ううん、気にしないで。むしろ、ちょうどよかったかも」

 ホームの風がまた吹き抜ける。潮の匂いが、昨夜の残り香をすべてさらっていくようだった。
 知らない男に抱かれた夜の後に、知らない男との縁談。

 ――どうせなら……もう少しまともな選択をしてみる?

 それもひとつの案かもしれない。これから先も、昨夜みたいなワンナイトを重ねるよりは、身元がはっきりしている人間に会って縁が繋がる方がよっぽど健全だ。
 あの時は、康介と付き合っていたつもりだったから、断るつもりだった。
 けれど――今なら。もう、フリーになった今なら。

「その……お見合いの話。進めてもらっていいかな」

 誰かと会えば、少しは気持ちも前向きになるような気がした。
 けれど、それは前に進むためというより、立ち止まってしまった自分をごまかすための動きに近い。
 電話口の華子の声が一気に弾んだ。

『まぁ、ほんまに? よかったわぁ晴菜ちゃん! 彼ね、ほんまに素敵な子やの。来週には日ぃ決めて連絡するし、楽しみにしといてや』
「ありがとう、叔母さん。無理のない範囲でお願い」
『任しといて。ほな、また』
 
 華子のその言葉に、晴菜は曖昧に笑って「うん」とだけ答えた。
 通話を切った晴菜はもう一度スマホを見つめ、画面を伏せる。
 昨夜のことも、康介のことも、きっといつか、全部終わったことにできる。今はただ、そう思いたいだけかもしれない。
 前を向く。ただそれだけなのに、それはこんなにも苦しかっただろうか。慰めの夜を経ても、心は少しも埋まらなかった。

「はぁ……」

 何度目かの大きなため息とともに、晴菜はゆっくりと空を仰いだ。
 雲の切れ間から差す光が、晴菜の瞳を静かに焼いた。
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