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第二章 人生に計算外はつきものだとしても
7.踏み出した先
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新幹線の窓ガラスを、真夏の強い日差しが焼き付くように照らしていた。
車窓から覗く景色は鮮やかな青葉に満ちている。山々は深い緑に覆われ、夏の雲がその上に重く浮かんでいる。梅雨明け特有の、生命力に満ちた眩しすぎる季節がそこにあった。
晴菜は窓辺から少し体を離し、深く息を吐く。
――もう……二週間になるんだっけ。
彼の低い声、グラスの中で溶けていく氷の音。すべてが遠い過去の出来事のようで、それでいて鮮やかに脳裏に蘇る。
『酒に逃げるのは悪いことじゃない。壊れそうな夜をやり過ごすのに、酒はちゃんと役に立つ』
彼の言葉は、慰めでもなく、説教でもなく、ただ淡々としたものだった。そのある意味平静な口調が、当時の晴菜には妙に心地よく、酔いの心地と相まって、心の棘をそっと包んでくれた。
――これも『逃げ』なのかな……。
叔母の華子から持ちかけられたお見合い。華子は「気楽に行けばいい」と言ってくれた。両親に叔母から縁談がきているからそれを受けたと電話で伝えると、両親――特に父親――は、まるで肩の荷が降りたように笑って言った。
『よかったじゃないか。姉さんの紹介なら間違いないよ。いいご縁があるといいな』
その言葉に、晴菜は曖昧に微笑むしかなかった。康介と別れたことを少しホッとしているような口ぶりだったからだ。
けれど晴菜としては、このお見合いが新しい人生を始めるためのスタートラインなのか、あるいはただの逃避の延長なのか、判別できなかった。
「まもなく、京都。京都に到着いたします」
車内のアナウンスが流れ、晴菜はまたひとつため息をついて足元のスーツケースに手を伸ばした。
京都駅のホームに降り立つと盆地特有の湿気を帯びた熱気が肌に纏わり付く。改札を抜けた晴菜は、駅前のロータリーでタクシーを捕まえてそれに乗り込んだ。
タクシーは、祇園の奥、古い町並みが残る一角へと入っていった。石畳が続き、打ち水がされた路地からは、かすかに苔と水の匂いがする。
「ここでいいかい?」
「ええ。ありがとうございました」
告げられた金額を精算してタクシーを降り、晴菜はすぐそばの重厚な佇まいをした建物を見上げた。
瓦屋根の下に、白い暖簾が涼やかに揺れている。目の前の福寿酒店は、確か晴菜が高校に上がるときに創業百年を迎えていたはず。軒下に吊るされた杉玉は青々としていた。
杉玉には『新酒のできあがりを伝える』という役割があるのよ、と、一昨年亡くなった祖母が教えてくれたことを思い返しながら、晴菜は引き戸に手をかける。
重い木の引き戸を開けると、ひんやりとした空気が肌を包んだ。と同時に、リィンと風鈴の軽やかな音が響いた。
「晴菜ちゃん、よう来てくれはったなぁ」
「叔母さん、久しぶり。今日はよろしくお願いします」
華子の弾んだ声は、冷たい空気に反して明るく温かかった。一階の店舗スペースには、磨き上げられた木の棚に一升瓶がずらりと並んでいた。入り口近くに設置されたレジの脇には宅配便の伝票が山積みになっていた。お中元の時期が近づいているので、注文が立て続けに入っているのだろうと察した。
二階へ続く階段は年季の入った木造で、一段ごとに小さく軋む。その音がどこか懐かしい。
「とりあえずここで涼んどき」
階段を上った正面の襖を華子が開けると、畳の香りがふわりと立ちのぼった。部屋の真ん中に設置してある座卓の脇には、扇風機と座布団が用意されている。そのすぐそばに桐箱が置かれていた。
南向きの窓から光が射し込んでいるものの、エアコンを効かせてあり一階と同じくそう暑くは感じない。
「お茶、今いれさかいね。ひやっこいのがええでしょ?」
「うん、暑くて……もう溶けそう」
「そやろなぁ、京都の夏は容赦あらへんしなぁ」
カラカラと笑い声をあげた華子がキッチンへと向かっていく。
部屋に残された晴菜は、扇風機の風を受けながら、静かな時間に身を委ねた。外からは早くも蝉の声が途切れなく響いており、夏の音で満ちていた。
「おまたせ。ほら、麦茶。たっぷり入れといたさかい」
華子が盆にグラスを二つ載せて戻ってくる。グラスの外側には、汗をかいたように水滴が伝っていた。
「ありがとう叔母さん。いただきます」
晴菜は目の前に差し出されたそれにゆっくりと手を伸ばした。ひと口含むと、麦の香ばしさが口いっぱいに広がり、身体の奥の熱が少しだけ逃げていくようだった。
「どない? このへん来るの、去年の一周忌ぶりやろ」
「うん……そうだね、なんだか、あの時とはまた違う空気がする」
「せやわねぇ。あん時は寒かったけど、今日はええ天気でうちも安心したわ」
「うん。でも、もう一年半か。早いね」
「ほんまや。でも、晴菜ちゃんがこうして来てくれるん、うちも嬉しいんよ」
他愛ない会話を交わしつつ近況報告に花を咲かせていると、ふと会話が途切れた拍子に、華子が「今日のお見合いのことやけどね」と切り出した。
「相手さんの手前もあるし、一応振袖着てもろうけど、ほんまに気楽でええのんよ。彼、しっかりしたええ人やから」
「……そう、なんだね」
『いい男』という言葉に、晴菜はかすかな痛みを覚えた。
――いい男なんて言葉、もう信じられないもの。
康介も、周囲からはそう言われていた。優しくて、誠実、夢に向かってひたむきな『いい男』だ、と。そんな彼から裏切られた晴菜は、もうその言葉に期待など一つもできない気がしていた。
誰かと会えば、少しは気持ちも前向きになるだろうと思っていた。素性のわからない男と寝るよりはよっぽど健全だ、とも。けれど、二週間経った今も心の奥の痛みは鈍く残ったまま。朝になれば薄れるかと思っていたのに、夜になるたび気分が沈む。康介とのこと、それから名前も知らない男に抱かれたこと。忘れたいのに、忘れられない。前を向こうとするほど、足元が重く沈んでいく。
――ご縁がなかった、で終われるなら……それでいい……。
こんな心境で新しい誰かと会って何を話せばいいのだろうか。心はまだ、あの日から崩れたままで動けないでいるというのに。
人を好きになることも、信じることも、少し怖い。傷つかないように身構える自分が、情けないほど染み付いている。
晴菜はグラスの水滴を指でなぞりながら、心の奥に沈殿した虚無感をどうすることもできずにいた。新しい出会いどころか、笑うことさえまだうまくできそうにない。
「さぁ、そろそろ支度しよか。実家からもろうた涼しげでええのがあるんよ」
そう口にした華子は、座卓の脇の桐箱に手を伸ばした。蓋を開けると、やわらかな薄緑のグラデーションが目に飛び込んでくる。総絞りの振袖は、光の加減で淡く玉虫色に揺れ、まるで新緑が風にそよぐようだった。細かく均一な絞りの粒が、照明を受けて繊細な陰影を生んでいる。
帯は、それに合わせて金糸と銀糸がふんだんに織り込まれた、格調高いもの。
呉服屋生まれの華子の手つきは慣れたものだった。帯を巻くときに息が詰まるほど締められ、晴菜は思わず小さく笑った。
「ほんとに、叔母さんの着付けはいつも手加減なしだね」
「当たり前やん。崩れたらみっともないやろ」
口調は厳しくても、着物を整える手つきはどこまでも優しい。帯締めが結ばれ、パールとビジューで彩られた帯留めを添えられた。肩よりわずかに伸びたボブヘアは耳上だけ編み込まれ、そこに金色の蝶とパールで彩られたヘアコームを差し込まれる。
「はい、できあがり。やっぱり綺麗やねぇ、若い子は何着ても映えるわぁ」
鏡に映る自分は、東京でのバーテンダー姿とはかけ離れていた。背筋が自然と伸び、首のラインが長く見える。まるで――別の人生を歩む誰かになったようだった。
「どんな気持ちでもええ、ちゃんと前向いといてや」
「……うん」
華子はそう言って、晴菜の背中の帯を軽く叩いた。落ち込んでいることは叔母に話していないものの、やはりなんとなくわかるものなのだろう。
誰かを信じることも、心を預けることも、また裏切られることに繋がるかもしれない。そんな未来ばかりが頭をよぎる。
それでも――このまま逃げていたら、本当に何も変わらない。
だからせめて、今日だけは。
――逃げる途中でも……少しだけ顔を上げてみようかな……。
鏡の中の自分を見つめながら、晴菜は小さく息を吐いた。
***
待ち合わせは、京都の中心にある格式高いホテルの日本料理店だった。
重厚な木の香りと、白檀の匂いが混ざり合うホテルのロビーには、静かなピアノのBGMが流れていた。外の喧騒が嘘のように、その場所だけ時間がゆっくりと流れているようだった。
ロビーの受付で予約名を告げると、すぐに案内係の女性が柔らかな笑顔で一礼した。
「ほな、うちら通してもらいましょ」
紫色の留袖を着た仲居に案内され、晴菜は華子の数歩後ろを歩いた。通路の絨毯は草履の音を吸い込むほど厚い。晴菜は緊張から、手元の袖を無意識に指でつまんだ。
長い廊下を抜ける途中、庭の景色がちらりと目に入る。苔むした石灯籠、ゆるやかに流れる小さな滝、風に揺れる竹の葉――京都の夏を閉じ込めたような静けさがそこにあった。
「こちらのお部屋でございます」
仲居が襖を開けた瞬間、冷気とともに檜の香りがふわりと流れ出た。薄く流れる琴の音がどこか遠くから聞こえてくる。
黒い艶やかなテーブルの向こうに、スーツ姿の男が二人座っていた。
右側の男性と視線が絡み合ったその瞬間、思わず息が止まった。
――え……。
一瞬、晴菜の心臓が大きく跳ね上がる。視界がわずかに揺れて、男の輪郭だけがひどく鮮やかに浮かび上がった。
艶やかな黒髪。長い指先。あの夜、氷の溶ける音とともに交わした低い声が蘇る。
彼はわずかに目を細めながら、唇の端に、晴菜以外誰にも悟らせない微笑みを浮かべていた。
車窓から覗く景色は鮮やかな青葉に満ちている。山々は深い緑に覆われ、夏の雲がその上に重く浮かんでいる。梅雨明け特有の、生命力に満ちた眩しすぎる季節がそこにあった。
晴菜は窓辺から少し体を離し、深く息を吐く。
――もう……二週間になるんだっけ。
彼の低い声、グラスの中で溶けていく氷の音。すべてが遠い過去の出来事のようで、それでいて鮮やかに脳裏に蘇る。
『酒に逃げるのは悪いことじゃない。壊れそうな夜をやり過ごすのに、酒はちゃんと役に立つ』
彼の言葉は、慰めでもなく、説教でもなく、ただ淡々としたものだった。そのある意味平静な口調が、当時の晴菜には妙に心地よく、酔いの心地と相まって、心の棘をそっと包んでくれた。
――これも『逃げ』なのかな……。
叔母の華子から持ちかけられたお見合い。華子は「気楽に行けばいい」と言ってくれた。両親に叔母から縁談がきているからそれを受けたと電話で伝えると、両親――特に父親――は、まるで肩の荷が降りたように笑って言った。
『よかったじゃないか。姉さんの紹介なら間違いないよ。いいご縁があるといいな』
その言葉に、晴菜は曖昧に微笑むしかなかった。康介と別れたことを少しホッとしているような口ぶりだったからだ。
けれど晴菜としては、このお見合いが新しい人生を始めるためのスタートラインなのか、あるいはただの逃避の延長なのか、判別できなかった。
「まもなく、京都。京都に到着いたします」
車内のアナウンスが流れ、晴菜はまたひとつため息をついて足元のスーツケースに手を伸ばした。
京都駅のホームに降り立つと盆地特有の湿気を帯びた熱気が肌に纏わり付く。改札を抜けた晴菜は、駅前のロータリーでタクシーを捕まえてそれに乗り込んだ。
タクシーは、祇園の奥、古い町並みが残る一角へと入っていった。石畳が続き、打ち水がされた路地からは、かすかに苔と水の匂いがする。
「ここでいいかい?」
「ええ。ありがとうございました」
告げられた金額を精算してタクシーを降り、晴菜はすぐそばの重厚な佇まいをした建物を見上げた。
瓦屋根の下に、白い暖簾が涼やかに揺れている。目の前の福寿酒店は、確か晴菜が高校に上がるときに創業百年を迎えていたはず。軒下に吊るされた杉玉は青々としていた。
杉玉には『新酒のできあがりを伝える』という役割があるのよ、と、一昨年亡くなった祖母が教えてくれたことを思い返しながら、晴菜は引き戸に手をかける。
重い木の引き戸を開けると、ひんやりとした空気が肌を包んだ。と同時に、リィンと風鈴の軽やかな音が響いた。
「晴菜ちゃん、よう来てくれはったなぁ」
「叔母さん、久しぶり。今日はよろしくお願いします」
華子の弾んだ声は、冷たい空気に反して明るく温かかった。一階の店舗スペースには、磨き上げられた木の棚に一升瓶がずらりと並んでいた。入り口近くに設置されたレジの脇には宅配便の伝票が山積みになっていた。お中元の時期が近づいているので、注文が立て続けに入っているのだろうと察した。
二階へ続く階段は年季の入った木造で、一段ごとに小さく軋む。その音がどこか懐かしい。
「とりあえずここで涼んどき」
階段を上った正面の襖を華子が開けると、畳の香りがふわりと立ちのぼった。部屋の真ん中に設置してある座卓の脇には、扇風機と座布団が用意されている。そのすぐそばに桐箱が置かれていた。
南向きの窓から光が射し込んでいるものの、エアコンを効かせてあり一階と同じくそう暑くは感じない。
「お茶、今いれさかいね。ひやっこいのがええでしょ?」
「うん、暑くて……もう溶けそう」
「そやろなぁ、京都の夏は容赦あらへんしなぁ」
カラカラと笑い声をあげた華子がキッチンへと向かっていく。
部屋に残された晴菜は、扇風機の風を受けながら、静かな時間に身を委ねた。外からは早くも蝉の声が途切れなく響いており、夏の音で満ちていた。
「おまたせ。ほら、麦茶。たっぷり入れといたさかい」
華子が盆にグラスを二つ載せて戻ってくる。グラスの外側には、汗をかいたように水滴が伝っていた。
「ありがとう叔母さん。いただきます」
晴菜は目の前に差し出されたそれにゆっくりと手を伸ばした。ひと口含むと、麦の香ばしさが口いっぱいに広がり、身体の奥の熱が少しだけ逃げていくようだった。
「どない? このへん来るの、去年の一周忌ぶりやろ」
「うん……そうだね、なんだか、あの時とはまた違う空気がする」
「せやわねぇ。あん時は寒かったけど、今日はええ天気でうちも安心したわ」
「うん。でも、もう一年半か。早いね」
「ほんまや。でも、晴菜ちゃんがこうして来てくれるん、うちも嬉しいんよ」
他愛ない会話を交わしつつ近況報告に花を咲かせていると、ふと会話が途切れた拍子に、華子が「今日のお見合いのことやけどね」と切り出した。
「相手さんの手前もあるし、一応振袖着てもろうけど、ほんまに気楽でええのんよ。彼、しっかりしたええ人やから」
「……そう、なんだね」
『いい男』という言葉に、晴菜はかすかな痛みを覚えた。
――いい男なんて言葉、もう信じられないもの。
康介も、周囲からはそう言われていた。優しくて、誠実、夢に向かってひたむきな『いい男』だ、と。そんな彼から裏切られた晴菜は、もうその言葉に期待など一つもできない気がしていた。
誰かと会えば、少しは気持ちも前向きになるだろうと思っていた。素性のわからない男と寝るよりはよっぽど健全だ、とも。けれど、二週間経った今も心の奥の痛みは鈍く残ったまま。朝になれば薄れるかと思っていたのに、夜になるたび気分が沈む。康介とのこと、それから名前も知らない男に抱かれたこと。忘れたいのに、忘れられない。前を向こうとするほど、足元が重く沈んでいく。
――ご縁がなかった、で終われるなら……それでいい……。
こんな心境で新しい誰かと会って何を話せばいいのだろうか。心はまだ、あの日から崩れたままで動けないでいるというのに。
人を好きになることも、信じることも、少し怖い。傷つかないように身構える自分が、情けないほど染み付いている。
晴菜はグラスの水滴を指でなぞりながら、心の奥に沈殿した虚無感をどうすることもできずにいた。新しい出会いどころか、笑うことさえまだうまくできそうにない。
「さぁ、そろそろ支度しよか。実家からもろうた涼しげでええのがあるんよ」
そう口にした華子は、座卓の脇の桐箱に手を伸ばした。蓋を開けると、やわらかな薄緑のグラデーションが目に飛び込んでくる。総絞りの振袖は、光の加減で淡く玉虫色に揺れ、まるで新緑が風にそよぐようだった。細かく均一な絞りの粒が、照明を受けて繊細な陰影を生んでいる。
帯は、それに合わせて金糸と銀糸がふんだんに織り込まれた、格調高いもの。
呉服屋生まれの華子の手つきは慣れたものだった。帯を巻くときに息が詰まるほど締められ、晴菜は思わず小さく笑った。
「ほんとに、叔母さんの着付けはいつも手加減なしだね」
「当たり前やん。崩れたらみっともないやろ」
口調は厳しくても、着物を整える手つきはどこまでも優しい。帯締めが結ばれ、パールとビジューで彩られた帯留めを添えられた。肩よりわずかに伸びたボブヘアは耳上だけ編み込まれ、そこに金色の蝶とパールで彩られたヘアコームを差し込まれる。
「はい、できあがり。やっぱり綺麗やねぇ、若い子は何着ても映えるわぁ」
鏡に映る自分は、東京でのバーテンダー姿とはかけ離れていた。背筋が自然と伸び、首のラインが長く見える。まるで――別の人生を歩む誰かになったようだった。
「どんな気持ちでもええ、ちゃんと前向いといてや」
「……うん」
華子はそう言って、晴菜の背中の帯を軽く叩いた。落ち込んでいることは叔母に話していないものの、やはりなんとなくわかるものなのだろう。
誰かを信じることも、心を預けることも、また裏切られることに繋がるかもしれない。そんな未来ばかりが頭をよぎる。
それでも――このまま逃げていたら、本当に何も変わらない。
だからせめて、今日だけは。
――逃げる途中でも……少しだけ顔を上げてみようかな……。
鏡の中の自分を見つめながら、晴菜は小さく息を吐いた。
***
待ち合わせは、京都の中心にある格式高いホテルの日本料理店だった。
重厚な木の香りと、白檀の匂いが混ざり合うホテルのロビーには、静かなピアノのBGMが流れていた。外の喧騒が嘘のように、その場所だけ時間がゆっくりと流れているようだった。
ロビーの受付で予約名を告げると、すぐに案内係の女性が柔らかな笑顔で一礼した。
「ほな、うちら通してもらいましょ」
紫色の留袖を着た仲居に案内され、晴菜は華子の数歩後ろを歩いた。通路の絨毯は草履の音を吸い込むほど厚い。晴菜は緊張から、手元の袖を無意識に指でつまんだ。
長い廊下を抜ける途中、庭の景色がちらりと目に入る。苔むした石灯籠、ゆるやかに流れる小さな滝、風に揺れる竹の葉――京都の夏を閉じ込めたような静けさがそこにあった。
「こちらのお部屋でございます」
仲居が襖を開けた瞬間、冷気とともに檜の香りがふわりと流れ出た。薄く流れる琴の音がどこか遠くから聞こえてくる。
黒い艶やかなテーブルの向こうに、スーツ姿の男が二人座っていた。
右側の男性と視線が絡み合ったその瞬間、思わず息が止まった。
――え……。
一瞬、晴菜の心臓が大きく跳ね上がる。視界がわずかに揺れて、男の輪郭だけがひどく鮮やかに浮かび上がった。
艶やかな黒髪。長い指先。あの夜、氷の溶ける音とともに交わした低い声が蘇る。
彼はわずかに目を細めながら、唇の端に、晴菜以外誰にも悟らせない微笑みを浮かべていた。
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