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第三章 揺れる心が選ぶもの
11.甘い毒
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日が沈む直前に晴菜がマンションを出た時、奏汰はすでにそこにいた。前回と同じ黒の高級セダンが、マンションの前に静かに横付けされている。
黒のスーツで助手席のドアにもたれかかっているその姿は、まるで映画のワンシーンのようだった。
「遅かったな」
「……時間ぴったりですけど」
晴菜は思わず口を尖らせた。約束の時間ぴったりに出てきたのに、その言い草はないだろう。
「俺の感覚では十分遅い。一秒でも早く会いたかった。何のために今日の商談全部巻いてきたと思ってる?」
「!」
彼は悪びれる様子もなくそう言い放つ。晴菜が言葉を失うのを予想していたのか、奏汰は次の瞬間には切れ長の瞳を細め、くっと喉の奥を鳴らした。
「ほんと分かりやすいな。顔赤いぞ」
「っ、あなた、性格悪い」
「晴菜限定でな」
奏汰は満足げに笑いながら、助手席側のドアを軽やかに開けてみせる。その動作一つにも、スマートさと有無を言わせぬ空気があった。
晴菜は一瞬だけ逡巡したものの、そのまま助手席へ乗り込んだ。奏汰は満足そうに目を細め、車を出していく。
シートに身体を預けた途端、ふわりとまろやかなシダーウッドの匂いが鼻をくすぐった。
「シート倒して寝ててもいいぞ。一時間はかかる」
「……昼間しっかり寝ましたから。お気遣いなく」
「そうか」
奏汰は短く答え、それ以上は何も言わなかった。急にデートに誘いだしてきたくせに、昼夜逆転生活の晴菜を気遣っているのだろう。傍若無人な振る舞いの中に垣間見える心配りが、ひどく矛盾しているように思えて、なんとも厄介だった。優しさを向けられるほど、彼を拒む理由が曖昧になっていく。
街の灯が流れていく。対向車の白い光が一瞬奏汰の横顔を切り取るたび、その落ち着いた静かな表情が、妙に胸をざわつかせる。
「行き先、聞かないんだな」
「聞いてもどうせ教えてくれないでしょ」
「察しがいいな」
晴菜が即答すると、奏汰は小さく笑った。それきり会話は途切れ、ウインカーの音だけが一定の間隔で流れる。
窓の外を流れる景色が、ビル群から住宅街、そして街灯のまばらなバイパスへと移り変わっていく。ネオンが減り、街灯の色が柔らかくなったところで、車は閑静な住宅街の一角で速度を落とした。
促されるままに車を降り、あの夜と同じように奏汰の背中を追って歩みを進める。
――高そう……
主張しすぎない外観に、控えめな行燈。重厚な木戸には、達筆な文字で屋号が記されている暖簾が客を選ぶように静かに揺れていた。
奏汰が迷いなく暖簾をくぐる。晴菜は一瞬だけ息を呑み、覚悟を決めて後に続いた。
店内は白木のカウンターがまっすぐに伸び、磨き込まれた檜の香りがほのかに漂っている。
カウンターの内側にはガラスケースの中に整然と並ぶ魚と、包丁だけが置かれている。晴菜はようやく決定的な違和感に気づいた。
――回って……ない……!
晴菜の動揺をよそに、奏汰はカウンターの向こうに立つすらりとした大将に軽く会釈をしていく。
「氷室さん、ご無沙汰しております。先日卸してもらったお酒、とても好評でした。いつもお力添えありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。今日は客としてですので、気を遣わずにお願いします」
奏汰がそう言うと、大将は一瞬だけ晴菜に視線を向け、にこやかに頷いた。
「承知しました。では、奥へどうぞ」
案内されたのは、カウンターを抜けた先の個室だった。
白木の卓に、季節の花を活けた小さな一輪挿し。無駄なものが一切ない静かな空気感が、晴菜の喉をわずかに引き攣らせる。
「……お鮨……?」
「回らないやつな」
「聞いてません!」
「言ったら断っただろ」
奏汰は愉し気に口の端をつり上げ、逃げ道を塞ぐように椅子を引いていく。晴菜は引かれた椅子にため息混じりに腰を下ろした。
「私、完全に浮いてません?」
「別に?」
「……」
不釣合いな場所に連れ出された自覚はある。値段も作法も分からない、空気だけで胃が縮むような店だ。それに、こんな高級な場所に連れ出されるとは思ってもいなかったので、白のTシャツとデニムにミュールで来てしまった。
「作法とか、そういうの考えなくていい。こういう場で委縮される方が困る。旨いと思ったら反応しろ。それだけでいい」
奏汰は向かいに腰を下ろし、そう言いながら徳利を手に取った。理屈としては乱暴なのに、不思議と納得させられてしまう。
白磁のお猪口を二つ並べた奏汰は慣れた手つきで酒を注ぐ。透明でわずかにとろみのある液体が、静かに器を満たしていく。晴菜は小さく息を吐き、差し出されたお猪口を受け取った。
「……これは?」
「うちの酒。今年の新作。今はこの店にしか卸してない」
「!」
晴菜はお猪口を持つ手を止め、もう一度、透明な液体を見つめた。照明を受けて、透明な液体がわずかに艶を帯びる。
氷室酒造の副社長――傍若無人な振る舞いにばかり意識がいっていたが、彼は確かに、伝統ある酒蔵を背負う人間なのだ。
「晴菜の率直な感想が聞きたい。バーメイドの舌ではどういう風に感じるのか。その感想を元に明日からの営業戦略を変えたいと思ってる」
営業戦略、という言葉に、思わず身構えてしまう。けれど、不思議と胸の奥がじんと熱くなった気がした。
「……そんな大事な判断材料、私でいいんですか」
「いい。むしろ晴菜がいい。酒を『仕事で提供する』側の感覚が欲しい。酔わせる側の視点だ」
即答してくる声色には、迷いも計算も感じさせない。奏汰の背中を、そして信頼を預けられているような感覚に、なんとも言えないむず痒さを感じてしまう。
頼られている、と思ってしまった自分が、少しだけ嬉しい。それがどれほど危険か分かっているはずなのに。
――私の、感想……
断る理由は山ほどあるのに、なぜか身体が先に動いてしまう。晴菜はお猪口を覗き込み、そっと鼻先に近づけた。
華やかというより、澄んだ香り。米の甘さがふわりと立ち、アルコールの尖りがない。
――やわらかい。
そっと口に含むと、一瞬華やかな香りが鼻に抜け、次に梨を思わせる柔らかな甘みが広がった。それでいて、ただ軽いわけでもない。
「匂いが……上立ち香が静かですね。近づかないと全然わからないけど、鼻を近づけた瞬間にちゃんと優しい匂いがする。雨上がりの庭みたいな、しっとりした香り」
奏汰は一瞬だけ意外そうに眉を上げ、すぐに楽しげに口角を上げた。
「精米歩合を調整してる。削りすぎない分、米の輪郭を残すイメージだな」
「後味が、すごく綺麗。お米の甘い余韻だけが薄いベールみたいに舌に残って……なんていうか、一口目で『すごい!』って驚かせる感じじゃないけど、気づいたらもう一口飲みたくなるって感じ。これ、最初の一杯に出すより、二杯目か三杯目に出したいお酒です」
晴菜の言葉に奏汰はふっと息を吐き、口元を緩めた。
「想定通りだ」
「……え」
「やっぱり晴菜を連れてきて正解だった。最近は分かりやすい甘口とか、数字が取れやすい酒ばかり売れる。でもそれだけだと長く残らない。日常に入り込む酒を作りたかった」
そう口にした奏汰は切れ長の目元を緩ませ、ゆっくりと徳利を手に取り自分のお猪口に酒を注いでいく。
その表情が、いつもの強引な態度の時とはわずかに違う気がした。彼と視線が絡んだ瞬間、空気が変わる。
互いの仕事の延長線上にある話をしていた――そのはずなのに。
――ずる……い。
頼られて、認められて。そこにそんな目まで向けられて――胸の奥を正確に捉えられる感覚がして、息の仕方を忘れてしまいそうだ。
その時、カタリと音を立て、個室の戸が開かれた。晴菜がぴくりと肩を震わせると、大将が静かな所作で一皿目を運んでくる。
目の前に置かれたのは、透き通るような白身の鮨だった。包丁の入れ方が繊細で、光を柔らかく反射している。
「雑味を削ぎ落として、料理の味を邪魔しないようにも設計したつもりだ。酒が料理を殺さず、逆に料理も酒を殺さない。互いの長所を補い合う、そんな設計。ほら、食べてみろ」
奏汰に促されるまま、晴菜は箸を取った。白身をそっと口に運ぶと、舌の上でほろりとほどけ、遅れて上品な旨みが広がる。反射的に酒を含むと、先ほどまで主張していた甘みが一歩引き、鮨の余韻をなぞるように消えていった。
「美味しい……」
「声、素直すぎ」
不意に、目の前の奏汰から不満げな声が飛んできた。彼の意図がわからず、晴菜は思わず目を丸くした。
「へ?」
「飲んだだけでそんな蕩けた声出すなよ。俺以外に聞かれんだろ」
ささやくような低い声が耳に触れ、晴菜の喉がひくりと震えた。そんな言い方をされれば、体温が上がらないはずがない。
奏汰の視線に射抜かれるたび、真っ直ぐな言葉をぶつけられるたび、虚無だった心に波紋が広がり、収まりがつかなくなっていく。
「ほら、まただ。自覚ねぇのが一番たち悪い」
「な、何がですか……」
「人をその気にさせる顔。無防備すぎ」
奏汰がわざとらしく眉をひそめ、指先でテーブルを軽く叩いていた。頬も耳も熱を持っているのは、きっと、さっき飲んだ日本酒のせいに違いない――晴菜は心の中で必死に言い聞かせる。
「そ、そんなつもりじゃ」
「じゃあ俺の前だけにしとけ」
彼は満足げに口元を歪め、ゆっくりと箸を取った。艶を纏った奏汰の視線に、鼓動が早くなっていくのを抑えることなどできそうもなかった。
鮨は淡々と、けれど途切れることなく運ばれてくる。煮切りの香り、穴子の柔らかさ。酒はそのたび表情を変え、舌の上で静かに寄り添った。気づけば晴菜は、緊張も忘れて箸を進めていた。
ふと、奏汰が徳利を傾けながら呟く。
「その酒が気に入ったなら――酒蔵、来てみるか?」
思いがけない提案に、晴菜の指先がぴくりと動いた。視線を上げると、テーブル越しに奏汰が真っ直ぐにこちらを見つめている。
「えっ……」
「来週、こっちにある分家筋の酒蔵へ視察に行くことになってんだ。一緒にくるなら見せてやるよ、俺が何をどう作って、どんな匂いの中で生きてるか」
奏汰の声は、低く、重い。それはまるで、彼の心のすべてを明け渡すと言外に言われたような――彼の内側に踏み入る許可を与えられたような、そんな気がした。
晴菜は心臓が跳ねるのを自覚しながら、ゆっくりと言葉を探す。
まだ――彼に心のすべてを預ける勇気は、でてこない。
「……考えとく」
逃げ道を残したつもりの言葉だったのに、奏汰はすぐに口角を上げた。
「そう言う時点で、八割は来る気だって顔に出てる」
「でっ、出てない!」
慌てて否定するものの、上ずった声が図星であることを証明していた。奏汰は晴菜の表情を見遣り、喉の奥で低く笑った。
「出てる。『美味しいものに弱い女』って、可愛くて助かるわ」
「っ……」
晴菜は反論を探すものの何一つ思い浮かず、ぐっと唇を噛んだ。けれど、不思議と嫌な気はしない。むしろ、胸の奥がふわりと柔らかな熱に包まれていくのを感じていた。抗えない誘惑に、じわじわと外濠を埋められていくような心地よさだった。
「あと三週間だな」
「……なにが?」
「期限だよ。あと三週間で『一ヵ月』」
「……!」
心臓がドクリと大きく脈打った。奏汰は手元のお猪口を置くと、テーブル越しに身を乗り出す。ほんの一秒の躊躇が、晴菜の身体を縛っていた。
彼は晴菜の頬をなぞり、密やかな吐息とともに甘く言葉を落としていく。
「……悪くねぇだろ? こういうのも」
彼との関係は『体裁のため』、だったはずだ。
けれど――自分の中の境界線が足元から音を立てて崩れていく音が、脳内で響いた気がした。
黒のスーツで助手席のドアにもたれかかっているその姿は、まるで映画のワンシーンのようだった。
「遅かったな」
「……時間ぴったりですけど」
晴菜は思わず口を尖らせた。約束の時間ぴったりに出てきたのに、その言い草はないだろう。
「俺の感覚では十分遅い。一秒でも早く会いたかった。何のために今日の商談全部巻いてきたと思ってる?」
「!」
彼は悪びれる様子もなくそう言い放つ。晴菜が言葉を失うのを予想していたのか、奏汰は次の瞬間には切れ長の瞳を細め、くっと喉の奥を鳴らした。
「ほんと分かりやすいな。顔赤いぞ」
「っ、あなた、性格悪い」
「晴菜限定でな」
奏汰は満足げに笑いながら、助手席側のドアを軽やかに開けてみせる。その動作一つにも、スマートさと有無を言わせぬ空気があった。
晴菜は一瞬だけ逡巡したものの、そのまま助手席へ乗り込んだ。奏汰は満足そうに目を細め、車を出していく。
シートに身体を預けた途端、ふわりとまろやかなシダーウッドの匂いが鼻をくすぐった。
「シート倒して寝ててもいいぞ。一時間はかかる」
「……昼間しっかり寝ましたから。お気遣いなく」
「そうか」
奏汰は短く答え、それ以上は何も言わなかった。急にデートに誘いだしてきたくせに、昼夜逆転生活の晴菜を気遣っているのだろう。傍若無人な振る舞いの中に垣間見える心配りが、ひどく矛盾しているように思えて、なんとも厄介だった。優しさを向けられるほど、彼を拒む理由が曖昧になっていく。
街の灯が流れていく。対向車の白い光が一瞬奏汰の横顔を切り取るたび、その落ち着いた静かな表情が、妙に胸をざわつかせる。
「行き先、聞かないんだな」
「聞いてもどうせ教えてくれないでしょ」
「察しがいいな」
晴菜が即答すると、奏汰は小さく笑った。それきり会話は途切れ、ウインカーの音だけが一定の間隔で流れる。
窓の外を流れる景色が、ビル群から住宅街、そして街灯のまばらなバイパスへと移り変わっていく。ネオンが減り、街灯の色が柔らかくなったところで、車は閑静な住宅街の一角で速度を落とした。
促されるままに車を降り、あの夜と同じように奏汰の背中を追って歩みを進める。
――高そう……
主張しすぎない外観に、控えめな行燈。重厚な木戸には、達筆な文字で屋号が記されている暖簾が客を選ぶように静かに揺れていた。
奏汰が迷いなく暖簾をくぐる。晴菜は一瞬だけ息を呑み、覚悟を決めて後に続いた。
店内は白木のカウンターがまっすぐに伸び、磨き込まれた檜の香りがほのかに漂っている。
カウンターの内側にはガラスケースの中に整然と並ぶ魚と、包丁だけが置かれている。晴菜はようやく決定的な違和感に気づいた。
――回って……ない……!
晴菜の動揺をよそに、奏汰はカウンターの向こうに立つすらりとした大将に軽く会釈をしていく。
「氷室さん、ご無沙汰しております。先日卸してもらったお酒、とても好評でした。いつもお力添えありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。今日は客としてですので、気を遣わずにお願いします」
奏汰がそう言うと、大将は一瞬だけ晴菜に視線を向け、にこやかに頷いた。
「承知しました。では、奥へどうぞ」
案内されたのは、カウンターを抜けた先の個室だった。
白木の卓に、季節の花を活けた小さな一輪挿し。無駄なものが一切ない静かな空気感が、晴菜の喉をわずかに引き攣らせる。
「……お鮨……?」
「回らないやつな」
「聞いてません!」
「言ったら断っただろ」
奏汰は愉し気に口の端をつり上げ、逃げ道を塞ぐように椅子を引いていく。晴菜は引かれた椅子にため息混じりに腰を下ろした。
「私、完全に浮いてません?」
「別に?」
「……」
不釣合いな場所に連れ出された自覚はある。値段も作法も分からない、空気だけで胃が縮むような店だ。それに、こんな高級な場所に連れ出されるとは思ってもいなかったので、白のTシャツとデニムにミュールで来てしまった。
「作法とか、そういうの考えなくていい。こういう場で委縮される方が困る。旨いと思ったら反応しろ。それだけでいい」
奏汰は向かいに腰を下ろし、そう言いながら徳利を手に取った。理屈としては乱暴なのに、不思議と納得させられてしまう。
白磁のお猪口を二つ並べた奏汰は慣れた手つきで酒を注ぐ。透明でわずかにとろみのある液体が、静かに器を満たしていく。晴菜は小さく息を吐き、差し出されたお猪口を受け取った。
「……これは?」
「うちの酒。今年の新作。今はこの店にしか卸してない」
「!」
晴菜はお猪口を持つ手を止め、もう一度、透明な液体を見つめた。照明を受けて、透明な液体がわずかに艶を帯びる。
氷室酒造の副社長――傍若無人な振る舞いにばかり意識がいっていたが、彼は確かに、伝統ある酒蔵を背負う人間なのだ。
「晴菜の率直な感想が聞きたい。バーメイドの舌ではどういう風に感じるのか。その感想を元に明日からの営業戦略を変えたいと思ってる」
営業戦略、という言葉に、思わず身構えてしまう。けれど、不思議と胸の奥がじんと熱くなった気がした。
「……そんな大事な判断材料、私でいいんですか」
「いい。むしろ晴菜がいい。酒を『仕事で提供する』側の感覚が欲しい。酔わせる側の視点だ」
即答してくる声色には、迷いも計算も感じさせない。奏汰の背中を、そして信頼を預けられているような感覚に、なんとも言えないむず痒さを感じてしまう。
頼られている、と思ってしまった自分が、少しだけ嬉しい。それがどれほど危険か分かっているはずなのに。
――私の、感想……
断る理由は山ほどあるのに、なぜか身体が先に動いてしまう。晴菜はお猪口を覗き込み、そっと鼻先に近づけた。
華やかというより、澄んだ香り。米の甘さがふわりと立ち、アルコールの尖りがない。
――やわらかい。
そっと口に含むと、一瞬華やかな香りが鼻に抜け、次に梨を思わせる柔らかな甘みが広がった。それでいて、ただ軽いわけでもない。
「匂いが……上立ち香が静かですね。近づかないと全然わからないけど、鼻を近づけた瞬間にちゃんと優しい匂いがする。雨上がりの庭みたいな、しっとりした香り」
奏汰は一瞬だけ意外そうに眉を上げ、すぐに楽しげに口角を上げた。
「精米歩合を調整してる。削りすぎない分、米の輪郭を残すイメージだな」
「後味が、すごく綺麗。お米の甘い余韻だけが薄いベールみたいに舌に残って……なんていうか、一口目で『すごい!』って驚かせる感じじゃないけど、気づいたらもう一口飲みたくなるって感じ。これ、最初の一杯に出すより、二杯目か三杯目に出したいお酒です」
晴菜の言葉に奏汰はふっと息を吐き、口元を緩めた。
「想定通りだ」
「……え」
「やっぱり晴菜を連れてきて正解だった。最近は分かりやすい甘口とか、数字が取れやすい酒ばかり売れる。でもそれだけだと長く残らない。日常に入り込む酒を作りたかった」
そう口にした奏汰は切れ長の目元を緩ませ、ゆっくりと徳利を手に取り自分のお猪口に酒を注いでいく。
その表情が、いつもの強引な態度の時とはわずかに違う気がした。彼と視線が絡んだ瞬間、空気が変わる。
互いの仕事の延長線上にある話をしていた――そのはずなのに。
――ずる……い。
頼られて、認められて。そこにそんな目まで向けられて――胸の奥を正確に捉えられる感覚がして、息の仕方を忘れてしまいそうだ。
その時、カタリと音を立て、個室の戸が開かれた。晴菜がぴくりと肩を震わせると、大将が静かな所作で一皿目を運んでくる。
目の前に置かれたのは、透き通るような白身の鮨だった。包丁の入れ方が繊細で、光を柔らかく反射している。
「雑味を削ぎ落として、料理の味を邪魔しないようにも設計したつもりだ。酒が料理を殺さず、逆に料理も酒を殺さない。互いの長所を補い合う、そんな設計。ほら、食べてみろ」
奏汰に促されるまま、晴菜は箸を取った。白身をそっと口に運ぶと、舌の上でほろりとほどけ、遅れて上品な旨みが広がる。反射的に酒を含むと、先ほどまで主張していた甘みが一歩引き、鮨の余韻をなぞるように消えていった。
「美味しい……」
「声、素直すぎ」
不意に、目の前の奏汰から不満げな声が飛んできた。彼の意図がわからず、晴菜は思わず目を丸くした。
「へ?」
「飲んだだけでそんな蕩けた声出すなよ。俺以外に聞かれんだろ」
ささやくような低い声が耳に触れ、晴菜の喉がひくりと震えた。そんな言い方をされれば、体温が上がらないはずがない。
奏汰の視線に射抜かれるたび、真っ直ぐな言葉をぶつけられるたび、虚無だった心に波紋が広がり、収まりがつかなくなっていく。
「ほら、まただ。自覚ねぇのが一番たち悪い」
「な、何がですか……」
「人をその気にさせる顔。無防備すぎ」
奏汰がわざとらしく眉をひそめ、指先でテーブルを軽く叩いていた。頬も耳も熱を持っているのは、きっと、さっき飲んだ日本酒のせいに違いない――晴菜は心の中で必死に言い聞かせる。
「そ、そんなつもりじゃ」
「じゃあ俺の前だけにしとけ」
彼は満足げに口元を歪め、ゆっくりと箸を取った。艶を纏った奏汰の視線に、鼓動が早くなっていくのを抑えることなどできそうもなかった。
鮨は淡々と、けれど途切れることなく運ばれてくる。煮切りの香り、穴子の柔らかさ。酒はそのたび表情を変え、舌の上で静かに寄り添った。気づけば晴菜は、緊張も忘れて箸を進めていた。
ふと、奏汰が徳利を傾けながら呟く。
「その酒が気に入ったなら――酒蔵、来てみるか?」
思いがけない提案に、晴菜の指先がぴくりと動いた。視線を上げると、テーブル越しに奏汰が真っ直ぐにこちらを見つめている。
「えっ……」
「来週、こっちにある分家筋の酒蔵へ視察に行くことになってんだ。一緒にくるなら見せてやるよ、俺が何をどう作って、どんな匂いの中で生きてるか」
奏汰の声は、低く、重い。それはまるで、彼の心のすべてを明け渡すと言外に言われたような――彼の内側に踏み入る許可を与えられたような、そんな気がした。
晴菜は心臓が跳ねるのを自覚しながら、ゆっくりと言葉を探す。
まだ――彼に心のすべてを預ける勇気は、でてこない。
「……考えとく」
逃げ道を残したつもりの言葉だったのに、奏汰はすぐに口角を上げた。
「そう言う時点で、八割は来る気だって顔に出てる」
「でっ、出てない!」
慌てて否定するものの、上ずった声が図星であることを証明していた。奏汰は晴菜の表情を見遣り、喉の奥で低く笑った。
「出てる。『美味しいものに弱い女』って、可愛くて助かるわ」
「っ……」
晴菜は反論を探すものの何一つ思い浮かず、ぐっと唇を噛んだ。けれど、不思議と嫌な気はしない。むしろ、胸の奥がふわりと柔らかな熱に包まれていくのを感じていた。抗えない誘惑に、じわじわと外濠を埋められていくような心地よさだった。
「あと三週間だな」
「……なにが?」
「期限だよ。あと三週間で『一ヵ月』」
「……!」
心臓がドクリと大きく脈打った。奏汰は手元のお猪口を置くと、テーブル越しに身を乗り出す。ほんの一秒の躊躇が、晴菜の身体を縛っていた。
彼は晴菜の頬をなぞり、密やかな吐息とともに甘く言葉を落としていく。
「……悪くねぇだろ? こういうのも」
彼との関係は『体裁のため』、だったはずだ。
けれど――自分の中の境界線が足元から音を立てて崩れていく音が、脳内で響いた気がした。
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