腹黒御曹司の独占欲から逃げられません 極上の一夜は溺愛のはじまり

春宮ともみ

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1巻

1-2

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 明日香が挨拶の言葉を口にすると、桃子も親しげに明日香を呼んだ。明日香の記憶の中の桃子と目の前にいる彼女はやはり同一人物だった。けれど、明日香の知らないところで、彼女がこんなにもまぶしい女性になっていたなんて。明日香は自分の記憶の中だけにあった幼かった桃子の姿と今の彼女を重ね合わせながら、胸がいっぱいになるような心地だった。

「小西さん、すごく綺麗になったね。びっくりしたよ」
「ふふ、ありがと。こんなに素敵なドレスを着せてもらって嬉しいんだけど、ちょっと歩きにくいのが難点かなぁ」

 桃子は照れた様子で頬を染めながらも、晴れやかな笑みを浮かべた。
 確かに、披露宴前にホテル内のチャペルで執り行われた挙式では、プリンセスラインのドレスを着た桃子の足元は、高いハイヒールを履いていることもあるのか覚束ない様子だった。けれど、そんな仕草さえもどこか愛らしく感じていたので、明日香は思わず頬を緩ませてしまう。

「麦沢さんも昔と変わらず綺麗だね。すっかり大人の女って感じ。羨ましいなあ」
「そうかな……? 自分ではよくわからないけど」
「ううん、前よりもっと美人になってるよ。そのドレスもすごく似合ってる」

 明日香は美知代と一緒に選んだ淡いグレーを基調としたフォーマルドレスに、真珠のネックレスを合わせていた。上半身はシンプルだが、スカート部分に施されたレースが華やかさを添えている。髪型は美容室でアップにしてもらい、普段はあまり使わないアイシャドウもラメ入りのものを使ってしっかりとフォーマルな場に合ういでたちになるよう努めたのだ。
 美知代と二人で選んで買ったお気に入りのシルバーのパンプスはヒールが高いので足元は少しふらつくけれど、慣れればそれほど苦にならない。

「それにしても、まさかこんな風にみんなで会える日が来るとは思ってなかったわ」

 明日香は改めて目の前にいる桃子や麻子を見つめながら感慨深げに呟く。
 この二十年余りの間、ずっと連絡を取っていなかったのだから無理もないが、それでも、かつて初等部時代に同じ教室で過ごした仲間たちとの再会にはやはり特別な思いがあった。

「そうだよね。麦沢さんが引っ越したって知ったときは驚いたもの」

 明日香の転校は突然のことだったので、桃子たちはもちろんのこと、ほかのクラスメイトたちも別れの言葉を交わすことができなかったのを残念に思っていたらしい。桃子に賛同するように麻子をはじめとする旧友たちも口々に声を上げていく。

「本当、こうして麦沢さんとまた会えるようになってよかったよ。麦沢さんが引っ越す前はよく放課後に遊んでいたのに、急に初等部でも全然見かけなくなって、どうしてるかなって心配していたのよ」
「私も! 麦沢さん、連絡取れないまま引っ越しちゃったでしょ? だから、今日は麦沢さんとまたお話しできてよかったと思ってるの」
「麦沢さんが引っ越してからも、私もずっと麦沢さんのことが気がかりで……」

 友人たちの口から紡がれる言葉の数々。明日香は胸にじんわりと熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
 桃子や旧友と会って話をしたいと思っていたけれど、一方で当時の関係者と顔を合わせることに不安を感じていたことも事実だ。けれど、いざ会ってみるとすべての人たちが以前と変わらずに接してくれており、そんな懸念はいつの間にか吹き飛んでしまっている。
 不適切会計による特別背任罪によって逮捕された叔父は起訴され、判決のたびに控訴と上告をし、最終的に最高裁判所まで争った。麦沢住建を倒産させた叔父自身が今はどのような生活を送っているのか、明日香自身もわからない。檀原家の尽力もあり、明日香は麦沢家の親類たちとは疎遠になっていて、彼らと明日香が顔を合わせる機会は皆無と言っていい。年に一度、両親のお墓参りに行くときも、彼らと鉢合わせしたこともない。
 明日香はあの事件のことを思い出すたびに胸が痛むけれど、叔父一家と会う機会はもう二度とないだろうと思っているし、正直それが最適解だと思っている。

「私も……正直、同窓会とかってもう二度と参加できないかもって思っていたから、こうしてみんなに会えて本当に嬉しい」

 明日香は、先ほどの友人との会話の中で、披露宴の席次表の中に自分の名前を見つけて旧友たちは少なからず驚いたと知った。そして、明日香がかつて通っていた初等部の同級生のほとんどが新婦側の友人としてこの場に集まっていることも。その事実が、明日香の心をほんのりとあたためてくれた。
 あの事件以来、明日香はそれまで親しかった友人や親戚と一切の関わりを絶った。初等部に通っていた頃は、毎日のように顔を合わせていた友人たちと会うこともなくなった。
 そんな明日香の身を案ずる声を耳にするのは、これが初めてのことだ。

「みんなのことを思い出さない日はなかった。だから……とても嬉しいの。みんな本当にありがとう」

 明日香が涙をにじませた声で礼を告げると、彼女たちは顔を見合わせて嬉しそうに微笑んだ。

「あー、麦沢さん泣かないでよ~」
「ほらほら、写真撮らなきゃ!」

 変わらないあたたかさを持った友人たちは口々にそう言って、明日香の背中をぽんと叩く。その優しい気遣いに感謝しながら、明日香は涙でぼやけた視界をぬぐって笑顔を見せた。

「うん、ごめんなさい。じゃあ、記念写真を撮りましょ」

 明日香もつられて笑顔になると、ちょうど新郎新婦のそばにいたカメラマンに声をかけられた。明日香を含めた五人は、みんなで一緒に立って肩を寄せ合った。
 明日香はカメラマンに自らのスマートフォンを預け、桃子の隣に並んでカメラに向かって笑顔を向ける。
 シャッターを切る軽快な音が落ち着いた歓談のBGMに紛れて消えていく。

「次はこのスマホでお願いしま~す」
「はい、では視線をこちらに向けて……」

 麻子がカメラマンに願い出ると、カメラマンはにこやかな表情でそれを快諾した。再び響くシャッター音とともに、明日香たちの笑顔の写真が画面に切り取られていく。
 心の底から幸せな気分にさせてくれる、かけがえのない瞬間だった。
 明日香がカメラマンに頭を下げると、麻子がカメラマンから戻されたスマートフォンを確認したのちに明日香の手の中のスマートフォンを指さした。

「あとでグループチャットの方に送るから、麦沢さんのIDを教えてほしいな」
「あっ、うん……ちょっと待ってね」

 明日香が手に持ったスマートフォンのディスプレイをオンにすると同時に、高砂席の新郎側の席に一人の男性が姿を現した。
 すらりと背が高く、目鼻立ちが整った端正な面差しをした男性。その瞬間、明日香の心臓が大きく跳ねる。
 ――せ……いじ、くん……?
 明日香の視界に映ったのは一瞬だけだったが、それでも彼のことをすぐに思い出すことができた。両親が健在だった頃、麦沢住建と親しいある資産家が開いたガーデンパーティーでよく一緒に遊んだ男の子。明日香よりも三つ年上で、年齢こそ幼くとも顔立ちは整っていたので、ひどく大人びた印象があったのを覚えている。
 ガーデンパーティーには必ず彼と彼の両親が出席していたため、大人たちが難しい話をしているパーティーの間はお互いに良き遊び相手になっていた。
 明日香は驚きで目を丸くしたまま、まじまじと彼の横顔を眺める。すると、彼は明日香の視線に気付いたのか、ゆっくりとこちらを振り向いた。

「あ……」

 視線が絡み合った途端、思わず声が漏れてしまう。その瞬間、心臓がドクンと確かな鼓動を大きく刻んだ。
 彼はあのときの面影を残したまま、大人の色気を感じさせるような笑みを浮かべて軽く会釈をする。まるで昔と変わらない、幼子に向けるようなやわらかなまなざしだった。
 それは、明日香の記憶の中にあった彼とまったく同じもので、明日香はなぜだか胸の奥が小さく締め付けられるような錯覚を抱いた。

「……どうしたの、麦沢さん?」

 隣に立つ麻子に小声で訊ねられ、明日香はハッと我に返り、慌てて首を横に振る。

「う、ううん! 何でもない」

 明日香はそう答えながらも、どこか落ち着かなかった。
 どうしてだろう。久しぶりに会ったというのに、彼に対しては懐かしさや嬉しさよりも先に、なぜか言い知れぬ感情がこみ上げてきた。
 彼はなぜ、あんなにも親しげなまなざしで自分を見たのだろうか。

「本当に? 何だかぼうっとしているみたいだけれど……」
「大丈夫。ちょっと昔のことを思い出して懐かしくなっただけなの」

 明日香は曖昧に笑って誤魔化すと、再び友人の輪の中に溶け込んでいった。
 それから、明日香は桃子や友人たちと話を弾ませながら、ちらりと新郎側の席にも視線を向けてみるものの――すでに彼の姿は、高砂席から消えてしまっていた。


 夜も更け、披露宴は無事にお開きを迎えた。二次会へと向かう人々がゆっくりとロビーからはけていく。今日の二次会はこのホテルの最上階にある『レア・ジャルダン』という名のフレンチレストランで開かれるらしい。

「じゃあ、私たちそろそろ行くね」
「今日は楽しかったわ。また近いうちに会いましょうね、麦沢さん」
「もちろん! また連絡するわ」

 麻子をはじめとする旧友たちは、名残惜しそうにしながらも二次会へと向かうため次々と別れの挨拶を交わしていく。
 明日香は一人、落ち着いたラグジュアリーなロビーで、エレベーターに乗り込む友人たちの後ろ姿を見送った。

「……ふぅ」

 小さく息を吐くと、明日香はロビー奥の小さなカフェに向かった。ロビーは高い吹き抜けの天井にオレンジ色の光が差し込んでいて、ピカピカに磨き上げられた床に天井から下がる大きなシャンデリアが反射している。
 大理石の床と円柱のある高級感あふれるロビーの先にあるカフェにたどり着いた明日香は、店内に配置されているソファに腰を下ろした。
『本日のおすすめ』とメニュー表に書かれたエチオピア産のモカコーヒーを注文すると、コーヒー豆を砕く良い香りが鼻腔をくすぐった。そう時間を置かずしてウェイターの手によってマグカップが運ばれてきたので、明日香はそれにゆっくりと口づける。
 ――ちょっと……思ったよりも疲れちゃった。楽しかったのは、もちろんだけれど。
 旧友たちとの再会にも心が弾んだし、披露宴は滞りなく進んだ。が、その間ずっと、明日香の脳裏には彼の存在が焼き付いて離れなかった。
 披露宴の最中、明日香は何度か会場を見回してみたものの、四百名近い招待客の中から彼の姿を探し出すのは困難で、あのあとは結局彼を一度も見かけることができなかった。
 そもそも明日香は、幼い頃に面識があった彼が「せいじ」という名前であることしか知らない。明日香は彼のことを「せいじくん」と呼んで慕っていただけだった。
 あのガーデンパーティーに参加していたことから、きっと大きな会社の社長子息等ではあるのだろうと思う。あのとき一緒に遊んでいた子どもたちは複数名いたものの、ほぼ全員苗字は知らないし、名前の漢字もわからない。今日再会した彼だって、例外なく名前しか知らない人物だ。
 受付で受け取った席次表を眺めてみるものの、「せいじ」という名前の人物が漢字違いで十名ほどいたので、明日香は彼を捜すことを諦めざるを得なかった。
 明日香はふぅともう一度短くため息を落とし、両手の中に収まっている黒い水面に視線を落とす。
 ――あのガーデンパーティーで、せいじくんがローズマリーの花冠を作ってくれたのよね。
 当時のことは今でも鮮明に覚えている。当時、明日香はまだ五歳で幼かったけれど、彼が作ってくれた花冠は特別なものだった。
 明日香は、あのとき教えてもらった花言葉をしっかりと記憶しており、今も忘れていない。
 ――誠実、変わらぬ愛、思い出、追憶。それから……初恋。
 きっと、あの頃の自分は、彼に初めての恋をしていたのだと思う。
 優しくて、何でも知っていて、いつだって明日香の疑問に答えてくれた。空が青い理由、虹ができる仕組み、虫眼鏡で太陽の光を集めると熱くなって火を起こせること――彼は、どんなことも明日香にわかりやすく説明してくれた。
 そのことが嬉しくて、楽しくて、彼といる時間が大好きだった。そんな彼のことを知りたくてたまらなかった。
 けれど、その思いはもう過去のものにしなければならない。きらびやかな財界から距離を置く今の明日香は、彼のような人と一緒になることはできないからだ。
 それに、あれから十年以上が経っていて、彼は今や立派な社会人となっているはずだ。彼の年齢を考えれば、結婚している可能性だったり、恋人がいる可能性の方が高い。
 何年も会っていなかった彼への感情は、昔の思い出として昇華させなければ。
 ――まだ……ちゃんと諦めきれていないからなのかな。彼のことが気になるのは。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、カフェの入り口に初老の男性が立っていることを視認し、はっと我に返る。

吉沢よしざわ……さん?」

 明日香が思わず席を立って声をかけると、男性は驚いたように目を瞬かせたのち、にこりと微笑んで会釈した。記憶の中にある姿とは違う、白髪混じりの髪が二十年という歳月を物語っているようだった。
 彼は日夏ひなつ銀行という新興勢力の銀行頭取補佐をしていたはず。事業拡大に伴って複数の店舗の建設の入札があり、結果的にすべての店舗の建設を麦沢住建が請け負ったことから父の誘いで何度か自宅で夕食をともにしたことがある。

「……ご無沙汰しています」

 少しだけ戸惑いながらそう口にすると、彼はどこか懐かしそうな表情を見せながら、小さくうなずいてみせる。

「えぇ……お久しぶりです。あなたは、麦沢さんのお嬢さんですよね?」
「はい。麦沢明日香と申します」

 明日香がぺこりと頭を下げると、吉沢は穏やかに微笑んだ。

「私は麦沢さんのお父さんとは親しくさせてもらっていましたから、ご両親の葬儀のときにも参列させていただいたんです。通夜で泣きじゃくっていたあのときの印象が強かったけれど、元気そうでよかった」

 その言葉に、明日香ははっと目を見開いた。
 確かに、父と母の葬式が行われた際、多くの弔問ちょうもん客が訪れていたので、その中にこの人もいたのかもしれない。あのときの記憶はぼんやりとしていて、はっきりとは思い出せないけれども。

「そうでしたか……父が生前は、本当にありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。それにしても……本当に大きくなりましたねぇ。その後は大変だったでしょう。先ほどの披露宴でもしかしてと思ったのですが、こちらから声をかけるのは躊躇ためらわれたので……」
「……はい」

 明日香は顔を伏せ、うつむきがちに答えた。叔父が引き起こした事件は全国中に知れ渡っているのだと改めて突きつけられるような気がして、明日香はずんと心が重くなる。
 そんな明日香の心境を知ってか知らずか、吉沢は何かを思い出したかのようにスーツのポケットから一枚の名刺を取り出し、明日香に差し出した。その名刺には、「株式会社日夏銀行 頭取 吉沢康志やすし」と記されている。彼はこの二十年の間で、頭取補佐から頭取に昇進していたらしい。
 日夏銀行は順調に成長を続け、一昨年上場したと聞く。今や財界の要人となった吉沢とこんな風に話ができる機会など滅多にないことだろうと想像できた。

「もしよかったら、これ、私の携帯番号なのですけど……私で力になれることがあったら、何でも言ってくださいね。お父さんへのご恩もありますから」
「えっ……」

 突然の申し出に、明日香は戸惑いを隠せない。過去の繋がりからの恩義で、ただの社交辞令にすぎないのかもしれないけれども、ここで彼の申し出を断ってしまうのは失礼にあたるような気がした。
 明日香はぎこちない動作で名刺を受け取り、こくりとうなずく。

「……あ、ありがとうございます」
「では、また」

 そう言い残した彼は颯爽とロビーを出て行った。しっかりとした足取りで、エントランスの回転ドアをくぐり抜けていく。
 明日香は、彼から手渡された名刺にゆっくりと視線を落とした。そこには、携帯電話の番号に加えメールアドレスまで記載されていた。

「……私がお世話になること、あるのかなぁ」

 今はもう、こうした上流階級の人物との接点はほぼ持ち合わせていない。この先の人生で、中堅の人材派遣会社に勤める一般庶民の明日香が、大銀行の頭取を頼るような何かがあることもなさそうだ。彼の好意はありがたいけれども、無用の長物となりそうな気がする。
 明日香は小さく息を吐き出すと、受け取った名刺をしまおうとクラッチバッグから財布を取り出した。その流れでまだほんのりとあたたかいコーヒーを口に含むと、柑橘類を思わせる華やかな香りが鼻腔を抜けていく。
 ほぅ、と息を吐くと、その吐息さえもきらびやかなカフェの喧騒に紛れて消えていった。
 ――そろそろ……帰ろうかしら。
 腕時計に視線を落とすと、とうに二十時を回っている。確か、荷物を預けているクロークは二十時半で受け取り終了となっていたような気がする。
 明日香はコーヒーを飲み干し席を立ち、ロビーの一角に設置されているクロークへと足を向けた。
 クラッチバッグから引き換えの番号札を取り出したところで、明日香はぴたりと足を止める。クロークの目の前には、一人の男性の姿があった。
 高級感のあるブラックのスリーピースをまとった、さらりとした艶のある黒髪と綺麗な二重まぶたが目を引く彼の横顔。まるで時間が止まったかのように、明日香は一瞬、呼吸をするのを忘れてしまう。
 まさか――披露宴中、ずっと捜し続けていた彼が今、目の前にいるなんて。想像もしていなかった展開に、明日香はその場にたたずんだまま動けずにいた。
 数秒ののち、目の前の彼は明日香の気配に気が付いたのか、ゆっくりとこちらを振り返った。その瞬間、彼はパッと相好を崩す。

「久しぶり。覚えてる? 俺のこと」

 彼は懐かしさをにじませた声音で言葉を紡ぐと、一歩ずつ明日香の方へ歩み寄ってくる。涼しげな双眼と視線が絡み合った途端、心臓がどくりと跳ね上がるのを感じた。明日香は思わず後ずさりしそうになるものの、なんとかこらえてその場で踏みとどまる。

「久しぶり、だね……せいじくん」
「うん。明日香ちゃんも、元気にしてた?」
「はい……」

 明日香は緊張で身体を強張こわばらせながらも、なんとか返事を返した。
 彼は、あの頃よりも大人っぽくなったように思う。顔つきも少しシャープになった彼は、どこか野性的で色っぽい雰囲気をまとっている。
 クロークに番号札を差し出すと、黒のビジネスバッグと引き出物の紙袋を持った彼は不思議そうに首を傾げた。

「二次会、行かないんだ?」

 彼のその仕草で、さらりとした艶のある黒髪が揺れる。なんとも匂い立つ色香を感じた明日香はぎこちなく微笑み、視線を逸らした。

「えぇ……披露宴までと決めていたから」

 叔父の一件はほとぼりが冷めているとはいえ、マスメディアに大きく取り上げられた事件の身内ということで、あまり目立った行動は避けたいと思っていた。そのため、明日香は二次会への参加は控えることにしていたのだ。

「じゃあさ、ちょっとだけ付き合ってよ。久しぶりにこうして会えたのも何かの縁だろうから」

 彼はそう言葉を紡ぐとにこりと微笑み、自然な動作で明日香の引き出物の袋に手を伸ばした。持つよ、という意思表示だろう。

「……っ」

 思わぬ彼の提案に、明日香は反射的に身体を強張こわばらせてしまう。肩にかけたクラッチバッグのチェーンを握り締めるてのひらが汗ばむのを感じ、鼓動が速まっていく。

「……お願い。少しだけでいいから」

 懇願するように囁いた彼の声音には、どこか切実なものがにじんでいた。まっすぐに見つめてくる彼の黒い瞳に射抜かれ、胸の奥がほのかに熱くなる。

「……わかった。いいよ」

 なぜだか明日香は、彼の誘いを断ることができなかった。せっかく会えたのだからもう少し話をしたいという気持ちもあった。
 それに――彼がどうして自分のことを覚えていてくれたのか、知りたかった。明日香は誠司が初恋の相手だから、誠司のことを覚えていて当然だ。けれど、彼にとって自分は、たくさんいる知り合いのうちの一人にすぎないはずなのに。
 ぽとりと心の中に落ちてきた何かの感触が、明日香の心をざわつかせる。
 明日香が小さくうなずき了承すると、彼は満足げに微笑み返し、エントランスへと明日香を導いていく。

「どこ行きたい? ……どこがいいかなぁ」

 エントランスを抜け、回転ドアを一緒にくぐり抜けると、彼は顎に手を当てながら思案しているようだった。
 正直、明日香にはこのあたりの土地勘がない。明日香が住んでいるのはここから電車で五駅ほど離れている場所なので、このあたりの地理をまったくと言っていいほど把握していないからだ。

「せいじくんが……行きたいところでいいよ?」

 明日香がそう答えると、彼は少しだけ驚いた表情を見せた。

「え……でも」
「私はどこでも大丈夫」
「ほんと?」
「うん」

 明日香がこくりと首肯しゅこうすると、彼は少し考え込むようにして視線を宙に彷徨さまよわせたあと、「じゃあ」と口を開いた。

「実は俺もこのあたりはよくわかってなくてね。明日から関西に出張だから、駅前の大通りのホテルに部屋をとってるんだ。ルームサービスとかもあるし、俺が泊まる部屋で飲もうか」
「え……?」

 思いもしなかった彼の提案に、明日香は目を見開いた。
 女性を部屋に誘う――それは、いわゆる「そういうお誘い」ではないのだろうか。
 けれど、彼の口調はどこか軽やかで、下心のようなものは感じられない。明日香の表情を見遣みやった彼は苦笑いしながら小さく肩をすくめた。

「あ、そんなつもりはないよ。なんなら、近くのバーでもいいと思ってた。だけど、明日香ちゃん、靴擦れできてるよ?」
「え……あ」

 指摘されて初めて気が付いたが、確かに右足のかかとが痛むような気がした。思わず身体をひねって足元に視線を落とすと、足首の裏の部分が赤く腫れ上がっている。
 明日香はそのことに驚き、思わず目を瞬かせた。
 ――美知代さんに選んでもらってから初めて履いたから……かしら……?
 そんな様子に気付いてくれただけでも嬉しいと思う反面、そこまで見抜かれていたことへの恥ずかしさもこみ上げてくる。

「だから、靴を脱いでも大丈夫なところがいいかと思ってるんだけど」

 彼の言葉を聞き、明日香は彼の優しさに触れたような気がした。思わず頬が緩んでいく。
 昔から彼はこういう人だったと思い出し懐かしく感じると同時に、きっと特定の誰かではなく、誰にでも優しいのだろうと想像できて、少しだけ寂しく感じてしまう。

「俺の部屋に来るの、嫌?」
「い、嫌じゃない……けど」

 明日香が慌てて否定しようとすると、彼はふっと優しく笑う。あでやかなその表情に、胸がどくりと大きく高鳴った。明日香は咄嵯に胸元を押さえる。
 今まで経験したことのない感情が次々と湧き上がってくることに戸惑ってしまう。
 ――いい……のかな……?
 今の自分が、彼のそばで同じ空間をともに過ごしてよいのだろうか。身なりからも、彼はやはり今でも上流階級に身を置いているのだろうと察せられる。
 全身の血流が激しくなっているのがわかる。どうしようもなく息苦しくて仕方がなかった。こんなことは生まれて初めてのことだった。
 ――せっかく会えたんだから……ちょっとだけ、なら。
 明日香は戸惑いながら彼を見上げると、視線が合った彼は再びにこりと微笑んだ。明日香は自分の心臓を落ち着かせようと小さく深呼吸をする。

「……うん。そうしてもらえたら助かる」

 靴擦れの痛みをこらえながらお酒を飲むよりは、誰かの部屋でゆっくり休ませてもらった方が断然楽に決まっている。彼の申し出をありがたく受け入れることにした明日香はこくりとうなずくと、彼は嬉しそうに破顔した。

「じゃあ、決まりだ。ちょっと歩くから、タクシー呼ぼう」

 明日香が控えめにうなずくと、彼はほっとした表情を見せ、目の前の道路に停車しているタクシーに声をかけた。
 豪華で幻想的なシャンデリアに、優美な文様の毛足の長い絨毯。窓のカーテンを開けると、宝石箱をひっくり返したような夜景を見渡せる。


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