1 / 7
君がいた日の月影-1
しおりを挟む
ふっと意識が浮上した。視界を占領する黒と赤。やけに低い視線。固い何かが、頬に当たっている。全身に力が入らない。指先の感覚は全く無いのに、全身を支配する熱い感覚だけは明確に感じている。
(……どう、したん……だ、っ、け…)
腕を動かして身体を起こそうと試みるけれと、何故だか身動ぎひとつ出来なかった。次の瞬間、お腹の奥から何かがせり上がってくる。不快なその感覚を堪えることも出来ず、せり上がってきたモノをごぽりと音を立てて口の中から吐き出した。
喉が痛い。視界に映る黒が、徐々に赤く侵食されていく。じわりじわりと、真っ赤な血溜まりが広がっていく。
(あ……わ、たし、くるまに、)
走馬燈のように脳裏を駆け巡るのは、愛おしい夫の、雪のように真っ白なタキシードを身に纏った凛々しい横顔。追憶の先で物理的現状を把握しようと眼球を動かしていく。頬に当たっている固い感覚が地べたということを理解すると同時に、愛おしい人で溢れ返っていた脳内の走馬燈が、数分前の――自宅近くのコンビニを目指し歩道を歩いていた私に向かって車が突っ込んでくる光景へと、急速に上書きされていく。
「聞こえますか!? もうすぐ救急車来ますからね!!」
焦ったような大声が頭上から落ちてくるけれど、小さく吐息を溢すだけの生体反応しか示せない。遠くにサイレンの音がしているような気がする。口の中は鉄の味でいっぱいだ。ヒリヒリと痛む喉の奥をどろりとした痰が渦巻いている。直後、ゴフッと音を立ててふたたび血の塊を吐き出した。
地面にうつ伏せで突っ伏している私の身体は、どうやら全身を苛む鮮明な痛みを熱と勘違いしているらしい。それもそうだろう、突っ込んできた車体の衝撃で、私の身体は免許更新時に見せられる啓蒙動画の事故例のような、見事な放物線を描いて弾かれたのだから。
目の前の赤い海に、ぷかぷかと一見優雅に浮かぶ血泡。自分が置かれた現状を理解した瞬間、急速に意識が遠のいていく。
(……つくり、おき…とちゅ、な、のに)
明日からの新年度の仕事に向けて、残業が続いても大丈夫なようにとやり始めた作り置き料理の途中で……醤油を切らしていることに気がついて、自宅近くのコンビニに買い出しに行こうとして。
(こー……ちゃ……)
肌感覚が失くなっていく。滲んだ意識が、ゆっくりと沈んでいく。視界がどんどん黒く塗りつぶされていく。
(ひ、とりで……だ、いじょ、ぶ、か……な……)
家事能力ゼロの幼馴染み。偶然にも就職した企業が同じオフィスビルに入居していて、それを知ったおばさんから時折様子を見に行ってやってくれないかと打診され、紆余曲折を経て恋仲になって、先月結婚した。プロポーズの時……『美琴がいねぇと俺は生きていけねぇや』と言って、頬をかきながら困ったように眉を下げたこーちゃん。
私は助からないだろう。だって、遠かったサイレンが更に遠くなっていく。今は熱さよりも、寒さのほうが強く感じる。永遠の孤独がひたひたと寄ってきている。こーちゃんの顔も、大好きだった低い声も、私を抱き締める手のあたたかさも、何もかも思い出せなくなってしまった。
「……ぁ、い……」
最期に一度だけでいいから、会いたかった。会って頭を撫でて欲しかった。
何度小言を言っても直らなかった靴下を裏返して脱ぐ癖も、洋服を脱いだら脱ぎっぱなしなところも、1伝えると10で返ってくる理屈っぽいところも、見てないのにテレビを点けていようとするところも、全部全部、愛してる。だから――私がいなくなっても。こーちゃんには、ずっとずっと幸せであって欲しい。
どう足掻いても、仕事中の彼には届かないとわかっている。けれど、それでも思わずにはいられない。
どうか、どうか。あなたがずっと、倖せでありますように――――
◇ ◇ ◇
ふっと。目が覚めた。
(……あれ…?)
ゆっくりと、瞬きをする。ぼんやりとした電灯が、曇天の狭間でぽつぽつと灯っている景色が視界に飛び込んできた。
普段眠っているときは意識が浮上するかのように目が覚めるのに。何故だかふつりと遮断された意識が急に戻ったように感じる。
瞬きを繰り返すと、黒いアスファルトと駐車場と思しき白線たちが横断歩道のように目の前に広がっていることが理解出来た。
(……いた、い)
全身が軋むように痛い。特にお腹の奥の痛みが強い。それに、身体を起こそうとするだけで気を失いそうになる。そして、かなり眠い。でも、喉がすごく乾いている。
(のみ、もの……)
喉を潤す何かを探そうと立ち上がろうとすると、地鳴りのような鈍い音が聞こえたような気がした。反射的にぴくりとひげが動く。
(…………?)
その感覚に違和感を抱くけれど、どんどんと大きくなっていく音から意識を逸らすことが出来ない。その音とともに、強烈な光が『徐行』と表現するくらいのゆっくりとしたスピードで近づいてくる。得体の知れない何かが近くにある恐怖感から、耳を伏せたまま尻尾を身体に引き寄せた。
その直後、一面を照らす強い光で目が焼かれる。まばゆい光にどうしようもなく目が眩んだ。低い場所に伏せたままの身体は硬直して一歩も動けない。
不意にギッと音がした。先ほどから聴こえている唸るような音は目の前の大きな物体から発せられているのだと理解すると同時に、この大きな物体は、私の生命をカンタンに奪い去れる力を秘めている、ということを本能的に悟った。
バタンと大きな音がする。目の前の物体から巨人かと思うくらいの人影が離れて、こちらへのしのしと無遠慮に近づいてくる。
(はなれ、な、きゃ)
この場所から早く離れなければ。そう思うのに、地面に足が埋まってしまったかのように身動きが取れない。
巨人の人影は私のそばまで歩いて、その場にゆっくりと腰を下ろした。先ほどからこちらを照らす光の影になって、その人相は判別できない。
大きな手がゆっくりと伸びてくる。私の頭にその手が触れると四肢が強ばり、びくりと身体が大きく揺れた――けれど。
(…………な、つかし、い、)
何故だかわからない。けれど、伸ばされた手の指先は、とても懐かしい感覚。ずっと前から知っている、ような。
「……キミ、迷ったの?」
落ちてきた声は、大好きでたまらなかった声。聴きたいと願った声。最期に一度でいいから会いたいと祈った、最愛の人、の。
(…………ぁ…)
安心感を得られたから、だろうか。頭を優しく撫でられている感覚に――ふたたび、意識が黒く、ゆっくりと溶けていった。
(……どう、したん……だ、っ、け…)
腕を動かして身体を起こそうと試みるけれと、何故だか身動ぎひとつ出来なかった。次の瞬間、お腹の奥から何かがせり上がってくる。不快なその感覚を堪えることも出来ず、せり上がってきたモノをごぽりと音を立てて口の中から吐き出した。
喉が痛い。視界に映る黒が、徐々に赤く侵食されていく。じわりじわりと、真っ赤な血溜まりが広がっていく。
(あ……わ、たし、くるまに、)
走馬燈のように脳裏を駆け巡るのは、愛おしい夫の、雪のように真っ白なタキシードを身に纏った凛々しい横顔。追憶の先で物理的現状を把握しようと眼球を動かしていく。頬に当たっている固い感覚が地べたということを理解すると同時に、愛おしい人で溢れ返っていた脳内の走馬燈が、数分前の――自宅近くのコンビニを目指し歩道を歩いていた私に向かって車が突っ込んでくる光景へと、急速に上書きされていく。
「聞こえますか!? もうすぐ救急車来ますからね!!」
焦ったような大声が頭上から落ちてくるけれど、小さく吐息を溢すだけの生体反応しか示せない。遠くにサイレンの音がしているような気がする。口の中は鉄の味でいっぱいだ。ヒリヒリと痛む喉の奥をどろりとした痰が渦巻いている。直後、ゴフッと音を立ててふたたび血の塊を吐き出した。
地面にうつ伏せで突っ伏している私の身体は、どうやら全身を苛む鮮明な痛みを熱と勘違いしているらしい。それもそうだろう、突っ込んできた車体の衝撃で、私の身体は免許更新時に見せられる啓蒙動画の事故例のような、見事な放物線を描いて弾かれたのだから。
目の前の赤い海に、ぷかぷかと一見優雅に浮かぶ血泡。自分が置かれた現状を理解した瞬間、急速に意識が遠のいていく。
(……つくり、おき…とちゅ、な、のに)
明日からの新年度の仕事に向けて、残業が続いても大丈夫なようにとやり始めた作り置き料理の途中で……醤油を切らしていることに気がついて、自宅近くのコンビニに買い出しに行こうとして。
(こー……ちゃ……)
肌感覚が失くなっていく。滲んだ意識が、ゆっくりと沈んでいく。視界がどんどん黒く塗りつぶされていく。
(ひ、とりで……だ、いじょ、ぶ、か……な……)
家事能力ゼロの幼馴染み。偶然にも就職した企業が同じオフィスビルに入居していて、それを知ったおばさんから時折様子を見に行ってやってくれないかと打診され、紆余曲折を経て恋仲になって、先月結婚した。プロポーズの時……『美琴がいねぇと俺は生きていけねぇや』と言って、頬をかきながら困ったように眉を下げたこーちゃん。
私は助からないだろう。だって、遠かったサイレンが更に遠くなっていく。今は熱さよりも、寒さのほうが強く感じる。永遠の孤独がひたひたと寄ってきている。こーちゃんの顔も、大好きだった低い声も、私を抱き締める手のあたたかさも、何もかも思い出せなくなってしまった。
「……ぁ、い……」
最期に一度だけでいいから、会いたかった。会って頭を撫でて欲しかった。
何度小言を言っても直らなかった靴下を裏返して脱ぐ癖も、洋服を脱いだら脱ぎっぱなしなところも、1伝えると10で返ってくる理屈っぽいところも、見てないのにテレビを点けていようとするところも、全部全部、愛してる。だから――私がいなくなっても。こーちゃんには、ずっとずっと幸せであって欲しい。
どう足掻いても、仕事中の彼には届かないとわかっている。けれど、それでも思わずにはいられない。
どうか、どうか。あなたがずっと、倖せでありますように――――
◇ ◇ ◇
ふっと。目が覚めた。
(……あれ…?)
ゆっくりと、瞬きをする。ぼんやりとした電灯が、曇天の狭間でぽつぽつと灯っている景色が視界に飛び込んできた。
普段眠っているときは意識が浮上するかのように目が覚めるのに。何故だかふつりと遮断された意識が急に戻ったように感じる。
瞬きを繰り返すと、黒いアスファルトと駐車場と思しき白線たちが横断歩道のように目の前に広がっていることが理解出来た。
(……いた、い)
全身が軋むように痛い。特にお腹の奥の痛みが強い。それに、身体を起こそうとするだけで気を失いそうになる。そして、かなり眠い。でも、喉がすごく乾いている。
(のみ、もの……)
喉を潤す何かを探そうと立ち上がろうとすると、地鳴りのような鈍い音が聞こえたような気がした。反射的にぴくりとひげが動く。
(…………?)
その感覚に違和感を抱くけれど、どんどんと大きくなっていく音から意識を逸らすことが出来ない。その音とともに、強烈な光が『徐行』と表現するくらいのゆっくりとしたスピードで近づいてくる。得体の知れない何かが近くにある恐怖感から、耳を伏せたまま尻尾を身体に引き寄せた。
その直後、一面を照らす強い光で目が焼かれる。まばゆい光にどうしようもなく目が眩んだ。低い場所に伏せたままの身体は硬直して一歩も動けない。
不意にギッと音がした。先ほどから聴こえている唸るような音は目の前の大きな物体から発せられているのだと理解すると同時に、この大きな物体は、私の生命をカンタンに奪い去れる力を秘めている、ということを本能的に悟った。
バタンと大きな音がする。目の前の物体から巨人かと思うくらいの人影が離れて、こちらへのしのしと無遠慮に近づいてくる。
(はなれ、な、きゃ)
この場所から早く離れなければ。そう思うのに、地面に足が埋まってしまったかのように身動きが取れない。
巨人の人影は私のそばまで歩いて、その場にゆっくりと腰を下ろした。先ほどからこちらを照らす光の影になって、その人相は判別できない。
大きな手がゆっくりと伸びてくる。私の頭にその手が触れると四肢が強ばり、びくりと身体が大きく揺れた――けれど。
(…………な、つかし、い、)
何故だかわからない。けれど、伸ばされた手の指先は、とても懐かしい感覚。ずっと前から知っている、ような。
「……キミ、迷ったの?」
落ちてきた声は、大好きでたまらなかった声。聴きたいと願った声。最期に一度でいいから会いたいと祈った、最愛の人、の。
(…………ぁ…)
安心感を得られたから、だろうか。頭を優しく撫でられている感覚に――ふたたび、意識が黒く、ゆっくりと溶けていった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
51
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる