奇跡を呼ぶ旋律

桜水城

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「いつまで寝てんだい! お客さま気分からそろそろ抜けておくれよ!」
 そんなお叱りの言葉とわき腹に受けた衝撃で私は目覚めた。
「あんたには今日からしばらくうちで働いてもらうからね。一宿一飯の礼は忘れないでおくれよ!」
 まだ寝ぼけている頭で私はぼんやりと思った。可愛らしい声だと。そして意識がはっきりとしてくると、慌ててかぶっていた布団をはねのけ、転がり落ちるようにベッドを下りた。
「す、すまなかった。この通りだ」
 ベッドから落ちた体勢から私は土下座の姿勢をとった。ミラの目の前で深く頭を下げた。これは決して私が自尊心を失って卑屈になっているせいではない。ただ感謝の気持ちが私の自尊心よりも遥かに勝っているからだけなのだ。断じて、断じて私は卑屈になってなど……。
「そんなことされるより、働いてくれる方があたしは嬉しいよ。ほら、さっさと立ちな」
 言いながらミラは私に布の塊を投げてよこした。受け取ってよく見れば、それは私の着ていた粗末な服だった。
 そして、私が受け取れないのを承知で革靴も投げつけてきた。私は少し悲しくなった。大事な靴なのに。何年も連れ添った伴侶のように大事にしてきたものなのに。ばらばらに転がった靴を拾いながら、私はせめてもの気持ちで丁寧にホコリを払った。
「着替えたら廊下に出て右の突き当たりの部屋まで来な。本当はもっとちゃんとした服を着て欲しいけど、今日はしょうがないからとりあえずその服だね。お客の前には出るんじゃないよ」
 言いたいことだけぽんぽんと早口で言って、ミラは出て行った。取り残された私は情けなくも涙目になっていた。
 
 * * * * * 
 
 身支度を整え、着せられていた色鮮やかな民族衣装を丁寧に畳んで大事に抱えながら部屋を出た。言われた通りに右の突き当たりの部屋を探す。そう遠くはない場所にその部屋はあった。
 廊下の床は部屋の中同様石でできていたが、革靴の私はそれほど足音を立てずに進むことができた。
 カタコトとあちこちの部屋の中から音が聞こえるが、私は気にも留めないふりをしながら、突き当たりの部屋へと向かった。
 意を決し、扉を開けると、そこは女の溜まり場だった。
「……なんだここは?」
 わいわいがやがや数人の女たちがおしゃべりをしながら水場の周りをせわしなく動いていた。そして、部屋に入った私をそのうちの一人が見つけ、こちらへと寄って来た。若い娘だった。顔の両側にお下げを垂らし、頬を赤く染めている。暑いのだろうか。
「ディンさんですね? 若女将から話は聞いています」
 にっこりと笑う娘はミラよりも若いだろう。美人と言えなくもないが、「綺麗」よりも「可愛い」の方が似合うと思われる。
「私のことはルーヴァと呼んでください。これでもここに勤めて三年目になるんですよ。ちゃんと先輩扱いしてくださいね」
 柔らかな微笑みに、私も笑顔を返さずにはいられなかった。しかし、顔の筋肉の硬い私は笑顔も引きつった。
「よろしくお願いする。ところで、この衣装はどうしたら良い? ミラ……若女将に借りたようなんだが……」
 ルーヴァと名乗った娘は首を傾げた。彼女もどうしたら良いのかわからないようだった。しかし、しばしの沈黙ののち、彼女は私に両手を差し出した。
「私が若女将に届けてきますね。ディンさんにはあまり外を出歩かせないようにと言われていますので。ここでのお仕事についてはあの方に聞いてください」
 ルーヴァが指差した先には長い髪を高く結い上げている女がいた。年齢は私よりも上くらいだろうか。その女を「リザーナさん」とルーヴァは呼び寄せた。
「ディンさんよ。ここでのお仕事について教えてあげてくださいな。私は若女将のところに行ってきますから」
 仕事の手を休めなければならなかったリザーナは少々苛立っているように見えた。
「わかったわ。でも、なるべく早く帰ってきて頂戴。今は忙しいから」
 リザーナの言葉に元気良く頷くと、ルーヴァは部屋を出て行った。
「あの……よろしく頼む……」
 私がおずおずとその言葉を口にすると、リザーナは眉をひそめた。
「『よろしくお願いします』でしょう? どこの貴族の出か知らないけれど、先輩に対する口の利き方がなってないとこの先苦労するわよ」
 厳しい言葉に私は震え上がった。確かにそうだ。私は貴族でなくなった今でも敬語を上手く使えないでいる。吟遊詩人としての仕事には差し支えないが、ここで働くためには気をつけなければなるまい。
「すみませんでした。改めてよろしくお願いします」
 私が頭を下げると、リザーナはふんっと鼻を鳴らして元いた水場へと戻った。私も慌てて後を追う。
「ここにある食器を全部洗って頂戴。綺麗によ」
 手渡されたのは太めの毛糸を編み込んで作られた何かだった。周りの女たちを見ると、それをたわしのように使って食器を洗っているようだった。私はその時点でやっと理解した。私は皿洗いの仕事に回されたのだ。しかし、困った。貴族育ちの私が、しかも男であるこの私が、皿洗いなどやったことがあるはずがない。
「ああ、もう、まだ汚れてるでしょう? どうしてそっちにやるの?」
 リザーナは手を動かしながらも私に文句をつける。仕方がないではないか。初めての仕事なのだから……と反論したい気持ちを抑えて私は慣れない仕事を頑張ってやった。
 
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