奇跡を呼ぶ旋律

桜水城

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「セインテから……。それはそれは遠いところからようこそ。ゆっくりしていってくださいね」
 柔和な表情のうら若い女性が、そう言って出迎えてくれた。
 熊を担いで歩いて来たカルは、疲れを見せることもなく、案内された家の中でくつろいでいた。
「熊は久々に食うでなぁ……。酒で煮込むとこいつはやらかくなって美味くなんだべ」
 先ほど門のところにいた男が、そう言って顔をふにゃふにゃにしている。よほど熊を食べられるのが嬉しいのだろう。それでも、熊は昼頃仕留めたもので、それほど新鮮というわけでもないのだが……。
 熊は村人に引き渡され、残っていた肉をねぎとられ、男の言うように酒で煮込まれていた。焼いたときとはまた違った美味そうな香りが、鍋の方から漂ってくる。あれは私たちにも食べさせてもらえるのだろうか。
「私はセシルと申します。この村の村長です。何か困ったことがあったら私に言ってくださいね」
 出迎えてくれたうら若い女性がそう名乗った。意外だった。このような若い女性が村長とは……。この村は他の村とはちょっと違うのかもしれない。私はそう思った。
「じゃあ早速ですけど、一晩泊めてくれませんか? オレたちはあの山を目指して旅してきたんです」
 今は部屋の中で山は見えないのだが、カルはそう説明した。村の北西に山はあった。あの山に天馬がいる。私にとって登山は初めてのことだが、私たちは行くしかない。
「北岳に登るのですか……?」
 セシルさんは困惑した顔でそう呟いた。あの山を「北岳」とこの村では呼んでいる、などという情報はまあ置いとくとして。何か問題があるだろうか。
「何か問題がありますか? あの山は男子禁制とかそういうことでも?」
「いいえ、そんなことはないのです。ないのですけれど……」
 セシルさんの表情はますます困惑していく。差し障りのあることを私たちに説明するのにどう伝えようか迷っている、といった顔だ。私はカルに視線をやった。でも、彼が何を考えているのかまではわからなかった。
「でも、何かあるのですね?」
 私がそう訊くと、セシルさんは覚悟を決めたという顔で答えた。
「あの山に登って生きて帰った人間がいないのです。あの山には天馬がいるので……」
 予想外のことだった。この村の人間はあの山に天馬がいることを知っているのだ。いや、それよりも、山に登って生きて帰った人間がいない……? それはつまり……どういうことだろうか。
「天馬がいるとなぜ山に登った人間が生きて帰らないのですか?」
 私が訊くと、セシルさんは真剣な面持ちになって答えた。
「天馬は人間の侵入を許しません。山に登る人間は天馬に殺されるのです」
 言葉が出なかった。これから会いに行くつもりの天馬というのはそこまで人間が嫌いだというのか。私の胸の中がすうっと冷えていく。希望さえも持てないのだろうか。
「おい、まさか行くのやめるとか言わないよな?」
 カルが横から口を出してきた。私は言葉に詰まった。本音は、そんな危険なところには行きたくはない。けれど、ここまでついてきてもらった手前、そんな弱気なことは言えなかった。
「いや……その……どうしよう?」
 悩んだ末に出した私の答えは十分に弱気だった。カルが怒るのが手に取るようにわかる。
「どうしようじゃねえよ! 行くんだよ! ミラを見捨てるつもりか!?」
 湯気が出そうなほど、彼の周りは怒りに満ちていた。いや、ミラとミラの母親を見捨てるつもりなど毛頭ない。だが、北岳とやらの天馬に会いに行って、殺されてしまったら何にもならないではないか。
「見捨てる気は……ないが……」
 かろうじてそれだけ言った。しかし、カルの怒りは収まらない。
「とりあえず、わかりました。熊を持ってきてくださったあなた方を泊めることに問題はありません。一晩こちらでお休みになって、それからどうするかお考えになってはいかがでしょうか?」
 セシルさんが険悪な雰囲気の私たちの間を取り持ってくれた。
 私たちはひとまず、セシルさんの家に泊まることになった。

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