type X

鷺町一平

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第二章

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第二章



「はい、わかりました。直ちに専門スタッフが回収に伺います」
 電話を受けた女性スタッフは静かに受話器を置いた。時計を見る。午後十時三十分。待機しているスタッフに向き直ると早口で言った。
「Wです。紀尾井町のリッツハイヤットジャパンホテル。2005号室。回収要請。状態は覚悟してください。惨殺レベルです」
「了解。ただちに回収に向かいます」
 ウンザリしたような顔でうなずくと待機していたベテランの男性スタッフが、若いもうひとりのスタッフを促し立ち上がる。
「太田さん、Wって誰なんですか?」
 若いスタッフが装備を点検しながらベテランのスタッフに尋ねた。二人ともブルーのツナギのような制服を着用している。それが回収班の制服らしい。
「友愛党の和久のことだよ」
「和久ってあの次期総理候補とか言われてる、和久徳一郎ですか?」
 若いスタッフは目を丸くしている。
「そうだよ」
「あの代議士、そんな性癖あったんですか!」
「いくら友愛党の大物議員だかなんだかしらねーが、あの変態親父が! 松永、お前はまだこの部署に移ってきてから日が浅いから知らないかもしれないが、和久は正真正銘のド変態だよ。typeXたってただのtypeXじゃねーぞ。スペシャルオーダーの特注品だ。それも金に糸目をつけない最高級の医療用シリコンボディを使ってるモデルだ。安い熱可塑性エストラマーなんかとはわけが違うんだ。和久の変態ぶりはつとに有名なんだ。知ってるか? 松永」
「いえ、全然」
「あ、そのクリーニングキットもクルマに積んでくれ。そう、それ」
 必要な装備をすべてクルマに積み込むと、黒のSUVは発進した。社用車であるが、回収班の車両ということもあり、社名のロゴなどは一切ない。ハンドルを握っているのは太田。助手席には松永が乗っている。
「和久はな、女の子の指を折るプレイが大好きなんだ。激痛に悶える女をみると最高に興奮するんだとよ! 風俗嬢に法外な金を払って、アノ最中に指を折らせてくれと頼むんだ。もちろん入院費からその間の休業補償もなにもかも面倒見るって条件で拝み倒すんだけど、最近じゃあもう知れ渡ってるから誰も和久につきたがらない。そりゃそうだろう。いくら金積まれたって、誰だってすすんで骨折なんかしたくない」
「なるほど~。それで和久はそういうプレイが思う存分に出来るウチのラブドールに目を付けたってわけですか」
 助手席の松永が腕組みをしながら大きくうなずいている。
「そういうこと。ウチの会社としても政治家とはコネをつけておきたい。だから和久の要求に応えてtypeXの特注モデル、いわば和久スペシャルを提供してるんだ」
「まさか、無償なんですか?」
「ああ、無償。気前いいよなぁ。出来るだけ恩を売っておきたいってわけなんだろ。和久にしてみりゃ、人間と違って遠慮することなく指折りプレイを楽しむことが出来るからなぁ。人間じゃないから面倒は一切ないし。だけどな、当初は感激してた和久だったんだが、最近では要求がエスカレートしてきてやっぱりただ『やめてください』『痛いです』とtypeXが言うだけじゃ面白くない、痛覚をもたせられないかとか無理難題を言ってきて開発陣を困らせてる」
 聞いていた助手席の松永は眉をひそめた。
「プレイのほうもよりエスカレートしてきて、近頃じゃナイフやのこぎりで切断するのが面白いらしい。どんだけ変態なんだよっ! 参るよな、全く!」
 黒のSUVはホテルに着いた。二人はフロントでキーを受け取りエレベーターで二十階まで上がり2005号室に入った。
「チッ、ひでぇ事しやがる!」
 太田は吐き捨てるように言った。
「聞きしに勝る酷さですねぇ。近頃ではラブドールの人権を認めろという団体も出来たし、アメリカあたりではラブドールに乱暴する男には機能停止する拒否権すらあるっていうのに……」
 バラバラになったtypeXの惨状とホテルの部屋いっぱいに残された和久の欲望処理の禍々しい残滓に二人は気分が悪くなりかけた。二人はのろのろと回収作業に入った。



 その日の夜遅く、開発部のラボに引き取られてきたtypeX和久スペシャルは、社員たちがふざけて“手術台”と呼ぶストレッチャーの上に寝かされていた。白衣を着た専門のスタッフが、状態を細かくチェックしている。回収班の太田と松永もその様子を見守っている。
「細かい傷は全身に無数。胸、脇腹、背中、鼠径部、大腿部の切創は特にダメージが大。いってみりゃあメッタ突き状態だな。ここまでやるか? 薬指、小指、第二関節より欠損。左手は人差し指第一関節、小指は第二関節より欠損。右足小指欠損、左足親指欠損……。人間だったらこれは猟奇殺人だ」
 状態を検証していたスタッフがあきれている。
「笑えねーよ」
 太田は渋い顔をして隣の松永と顔を見合わせた。スタッフは続ける。
「シリコンボディは全損。全く修復不可能。全交換。ヘッドセットも顔を切られてる。AIユニット取り外して記憶装置リセット頼む。スペシャルのボキャブラリー、バージョンアップしてるからバージョン間違えないように」
 言われたことをタブレット端末に記録していた白衣を着た眼鏡の女性スタッフがうなずく。
 指示を出していた白衣のスタッフが時計を見た。すでに午前零時をとうに回っていた。
「もう、こんな時間か。あとは明日にしよう! 働き方改革! みんな過労死したくないものな」
 おどけた声で言ったものの、午前零時過ぎまで働かせておいて、それはないだろうと太田は心のなかで思った。
 照明が消されて誰もいなくなったラボはひっそりとしていた。



「案外、簡単だったな。光彩認証」
 ワゴン車を運転しながら、茶髪の若い男がたばこに火をつけながら車内に流れているJポップのボリュームを上げた。
「兄貴、セキュリティシステムはそうかもしれないけど、typeXって結構重いし、だいたい暗いしなんかいろいろ脚とかぶつけたわ、オレ」
「仕方ねーだろ。監視カメラがあるから灯りつけたくなかったし、手早くやらねーと警備員が駆け付けるかもしれねーんだし、とりあえず作業台の上にあったtypeXのフルボディをビニールシートにくるんで運び出すだけで手いっぱいだったわ」
 男たち二人は、オリガント・インダストリーのラボに侵入して、typeXを盗み出してきたのだった。
「でも、兄貴。一体いくらで売れますかね?」
「そうだなぁ…。出たばっかりの最新モデルだからな~。最低でも五百万は下らないんじゃね~かなぁ!」
「マジっすか! タマラないですね~」
 二人ともテンションが高くて、自然と会話のトーンも高くなっていった。その時、ワゴン車の後部座席に積んであった青いビニールシートがガサガサと動き出した。運転していたヤンキースの野球帽を目深に被った男は驚いてハンドル操作を誤り、危うく対向車にぶつかりそうになるのを間一髪避けて、路肩にワゴン車を寄せて急停車させた。深夜でもあり、交通量はそれほど多くないので助かった。昼間だとこうはいかなかったであろう。
「おっとぉお、ビックリしたぁ! やべぇ。危うく事故るところだったぜ。 なんだ、電源切れてね~のかよ! アキラ、ちょっと見てみろ!」
 野球帽の男はシートベルトを外しながら首だけひねって後部座席のビニールシートを見た。助手席のアキラと呼ばれた若い男は後部座席のスライドドアを開けて中に入り、ビニールシートを点検しだした。青いビニールシートに包まれた物体、すなわちそれはtypeXであるのだが、もそもそと動いていた。
「ああ、兄貴動いてますよ。やっぱり。さっきまで動かなかったのに何でですかね? あれっ?」
 アキラは語尾の最後に素っ頓狂な大声をあげた。
「なんだ、どうしたんだよ?」
「兄貴、やっちゃいましたよ~。これダメですよ~。さっき運び出すときは暗いし夢中で気づかなかったけど、指ないですよ。キズモノ」
「マジかぁ…。売れねーじゃん。なんでよく見なかったんだよぉ! このタコ」
 兄貴と呼ばれた野球帽の男も運転席側のスライドドアを開けて後部座席に入ってきてビニールシートをあけて確認している。
「あちゃあ…。顔にも深い傷あるじゃねーか。つーか、見ろよアキラ、ほとんど全身傷だらけじゃねーかよぉ! こんなん、絶対誰も買わねーぞ!」
「えええっ、全部俺のせいっすか。そりゃあないっすよ。兄貴。兄貴だってラボから盗み出すときどうして気づかなかったんすか~」
 こうして兄貴とアキラが言い争いを始めたとき、ビニールシートの中のtypeXがもがきだした。
「い、痛いです…。やめてください……。堪忍してくだ…さい。痛い。痛いです……」
 怪訝そうな表情で顔を見合わせる兄貴とアキラ。
「あ、兄貴。聞きました? 痛いとか言ってますよ。typeⅩってこんなこと言わないですよね?」
「ああ、確かに“痛い”って言ったよな……。こんなボキャブラリーないはずだぞ。なんか変だぞ。このtypeⅩ……」
「……痛いです。許してくだ……さい」
「うわっ、また言った。兄貴、オレ、なんか気持ち悪くなってきた。指が切断されてるってそもそもおかしくないですか? そういえばカタログ見てもこんな顔したヘッドセットないし…」
 アキラは怯え始めた。
「やっぱ、変ですよ。、兄貴。これきっとなんかヤバい事情ありますよ。関わり合いにならないほうがいいっす、絶対。捨てましょうよ、こんなの。気味が悪いっすよ!」
 真顔になってアキラは、兄貴を説得し始めた。
 確かにそうだ。こんな変な話はない。発売されたばかりのtypeXなのに全身刺し傷だらけで、指も何本もないとかありえないと兄貴と呼ばれた野球帽は思った。たしかに苦労してラボに忍び込んで盗んできたtypeⅩだが、こんな状態では逆立ちしたって高価な値段ではだれも引き取ってくれはしない。捨てるしかないか。骨折り損のくたびれ儲けってヤツだったが仕方がない。野球帽は、これは深入りすると面倒なことになるという自分の直感を信じた。
「だな。オレもいやな予感がするよ」
 野球帽はワゴン車を発進させると幹線道路をはずれ、しばらく深夜の住宅街を彷徨った後に、住宅街の一角に設けられたごみ集積所の前にワゴン車を停めた。野球帽とアキラは手早くスライドドアを開けるとふたりで抱えるようにしてtypeⅩをその集積所に置き去りにした。アキラはワゴン車からビニールシートを引っ張り出して手足を動かしているtypeⅩの上に乱暴にかけると、そのシート越しにtypeⅩを足蹴にした。アキラの蹴りがどこに入ったのかわからなかったが動いていたtypeⅩは動かなくなった。そしてワゴン車は慌ただしく発進して深夜の住宅街を猛スピードで走り去っていった。

 四
 
 オリガント・インダストリー社内はピリピリとした緊張感に包まれていた。一夜明けて出勤してきたラボの研究員が昨夜回収されてきたtypeⅩのスペシャルモデルが消え失せていることを発見してからは、大騒動になった。
 調べていくと各所のセキュリティを潜り抜けているのは社員のIDパスワードが入力されていることが分かった。一番厳重だったはずのラボの侵入経路に関しても光彩認証が突破されていた。いずれもそれは営業部長、多岐川豊の物であったことが判明した。もちろん本人がそんな時間にラボに入ることはないのでIDパスワードが流出したことは間違いなかった。
「光彩認証はどうやって突破するんだ? あれは本人じゃなければ無理だろう?」
「ところがそうでもないのです。警察によると、光彩認証は対象者の、この場合部長ということになりますが……、赤外線によるナイトモード機能搭載のデジカメで対象者の写真を撮って、それをプリンターで印刷します。そして印刷された写真の光彩の部分にコンタクトレンズを貼り付けます。それを光彩認証カメラにかざせば突破出来てしまうのだそうです」
 ラボの研究主任は多岐川の前で語った。指紋認証も同様の手口で十分に突破可能なのである。導電性シリコンで採取した指紋から型をとって指紋を作り、その偽の指紋を指に張り付けて指紋認証を突破するなどは造作もないことなのだった。
 和久スペシャルであるtypeXが盗難にあったということは、最悪の場合、和久の性癖が世間に漏れる危険性があるということだ。typeXを切り刻む事は犯罪とは言えないが、少なくともその性癖が外部に漏れた場合の和久の政治家としてのダメージは計り知れなかった。と同時に和久に利益供与をしていたオリガント・インダストリーの企業イメージも地に落ちることは必至だった。それだけは何としても避けなければならなかった。
 そして、多岐川は自社のラボのセキュリティがそれほどたやすく突破されたことに頭を抱えると同時にそれが自身の指紋であり、光彩であったことに非常なショックを受けていた。そしてそれらの事柄には実は心当たりがあった。
 数週間前、多岐川は溺愛している中学一年になる一人息子、弘樹から珍しくキャンプに連れて行って欲しいとせがまれた。妻の佐智枝からどうやら学校でいじめにあっているらしいとの相談を受けていた多岐川は、弘樹に問いただしてみた。本人はいじめなど受けていないとあくまで否定した。多岐川としては、辛いことがあるなら、一人で抱え込まずにお父さんに相談しなさいと優しく諭したつもりであったが、弘樹はあくまで頑ななほどに否定して、いじめがあるという事実を認めようとはしなかったが、その目には涙をためていたのだった。いくら内向的といっても男の子だ。さすがに父親の前で自分がクラスメートからいじめを受けていると認めることはプライドが許さなかったのだろうかと多岐川は思った。
 一人息子の弘樹は、優しい性格で引っ込み思案で少し気の弱いところがあった。友達も多くなく、趣味は動物の飼育で、子供の頃からいろんな小動物を飼ってきた。最初は祭りの縁日で買った金魚から始まり、ハムスターや亀、インコなどを次々と飼っては、うまくいかず死なせたりしていたが、最近はニホンカナヘビというのに凝っている。カナヘビという名前だがれっきとしたトカゲである。どんなペットを飼っても長続きしなかった息子だったが、このニホンカナヘビだけは飼育に成功していた。結局それは、爬虫類がほかのペットに比べて手がかからなかったからであった。
 いじめの件を問いただしてからというもの、元々多岐川とは会話が少なかったのが目に見えて父親を避けるようになり、ニホンカナヘビがいる自室に閉じこもる回数が増えていたのだった。遊ぶ友達もなく話し相手がニホンカナヘビではと、多岐川や妻の佐智枝が心を痛めていた折に、弘樹が自分からキャンプに行きたいと申し出てきたのだから、両親とも渡りに船だとばかりにこの機会を逃すまじと張り切ったのは当然であった。
 とはいえ季節は真冬の二月初旬だった。夏のキャンプなら弘樹が小学生時分に何度か丹沢あたりに出かけたことはあったが、真冬のキャンプは初めてだったので、多岐川は周到に計画を立てて冬用のキャンプ用品を揃えて、親子三人で真冬のキャンプに出掛けた。例えばそれは薪ストーブやハッキンカイロを用意することはもとより、封筒形じゃなく保温力に勝るマミー型のシュラフを新調することだったり、真冬のテントの地面に直接寝ないようにコットと呼ばれる足つきの簡易ベッドを購入することだった。
 場所は奥多摩。河原に雪が残る雪中キャンプと相成ったが、改めて冬のキャンプの魅力はまずその澄んだ空気で星がとても美しく、そして夏のキャンプでは必ず悩まされる虫がいないことに妻の佐智枝は感激していたのだった。
 普段あまり感情を表に表すことがない弘樹も大喜びで持参してきたデジカメで雪中に設置したテントを撮ったり、多岐川が調理しているところや薪ストーブに薪をくべているところを盛んに撮ったりしていた。滑り止め付軍手の中に雪を詰めて渡してきて、多岐川が指を突っ込んで「冷めてぇ!」と叫んでビックリするのを笑い転げ、ごめんと言ってタオルとちゃんとした軍手を渡してきたりして面白がっていた。
「お父さん、こっち向いて! もっと笑って! お母さんも一緒に入ってよ!」
 夢中でシャッターを押し、三脚をたててタイマーをセットして妻と自分の間に入り笑顔を作り写真に収まる弘樹の姿に、多岐川は冬キャンプなんて来る前はどうなる事かと不安だらけだったが、来てよかったと心から思ったのだった。
 あの時は、普段ふさぎ込んでいる弘樹が明るく振舞っていることだけに感激していたのだが、今にして思えばあのすべてが計算高く仕組まれていたことだったのかと思うと悔しさばかりが先に立つ。あのデジカメでの家族写真の撮影も無邪気ないたずらと思わせた軍手の中に雪を入れたいたずらもすべて仕組まれたことだったのだ。親指だけ違和感を覚えたのは粘土が入っていたからなのだろう。朝起きて人差し指だけがベタベタしていたのは、寝ているときに型をとられたのかもしれなかった。きっと軍手のいたずらに見せかけた指紋採取には失敗したからなのであろう。こう考えていくとすべて説明がつく。それを弘樹が立ち直るキッカケにでもなればと良い方向にばかり考えて嬉しがっていた自分がどんなに間が抜けていたか、今日という日は頭から冷水を浴びせかけられたように多岐川は思い知らされたのであった。



 後日、多岐川は常務に呼ばれた。役員室のデスクで常務の下川は気難しい顔をしていた。最近は個人の役員室を持たない会社も増えているのだが、オリガント・インダストリーは旧態依然の体質で、それぞれ役員は個室の役員室を持っていた。常務の下川の役員室は、彼の趣味でほかの役員とは違って観葉植物の数が圧倒的に多かった。一瞬部屋に入るとジャングルかと思うほどの観葉植物の繁茂にいつも多岐川は驚かされた。なにしろ部屋に呼ばれるたびに観葉植物が増えている気がするからだ。多岐川は植物の名前に詳しくないのでそれらがなんという種類かは知らないが、こんなに観葉植物を増やしては秘書が水をやるだけでも大変であろうといつも思うのであった。
 そのジャングルの奥で、下川は神経質そうに爪をいじっていた。この人が爪を気にしているときはたいてい機嫌がよくないときだということを多岐川は知っていた。五十代半ばにしてはたっぷりある髪をこれ見よがしにオールバックにするのではなく、横分けにしてメッシュを入れているのが自分ではダンディだと思っているのを多岐川は知っていた。ブローと呼ばれるフレーム上部にボリュームをもたせた眼鏡の奥から、彼の眼が入ってきた多岐川をとらえるなり、こう切り出した。
「取締役会で、君のことが出た。破られた生体認証が君の物だった件だ。なんとか私がかばって事なきを得たが、あれが表沙汰になっては非常にまずい。君もわかっているだろうが、和久先生に迷惑はかけられない。社内では社長を含めてほんの一部の人間しか知らない事だ。なんとかあれを取り戻すんだ。一任する。私が会社の実権を得たときには悪いようにはしない」
 多岐川は頭を垂れてうつむくしかなかった。下川常務は絞り出すような声で一気にそこまで言うとデスクの椅子を回転させて後ろを向いた。



 家に帰るなり多岐川豊は妻の佐智枝に弘樹が帰っていることを確認すると、居間にくるように命じた。弘樹は、豊と目を合わせようとせずにずっと下を向いていた。豊は内心、相当に弘樹に対して怒りを抱いていたが、出来るだけそれを表には出さずに、傍目からは事務的にも感じられるほどの冷静な声で、弘樹に会社で盗難事件があったことを告げ、生体認証破りに自分の光彩と指紋が使われたことを告げた。
 しゃべっていると怒りが増幅してくるのを感じた。自然と声の調子が強くなってくるのを抑えこむのには、かなりの忍耐力を必要とした。弘樹はいたたまれず泣き出した。そして、オリガント・インダストリーが新製品を出したことを知った同級生の不良の兄から、執拗に父親の光彩の写真と指紋採取を要求されていたこと、何度も断ったけれど、陰湿ないじめにあって断り切れなかったことを、ポロポロと涙をこぼしながら白状した。
「お父さんが、オリガントの社員だってなんでわかったんだ?」
「あ、あいつら、クラスメートの身上書持ってるんだ。それで調べて…」
「お父さん、ごめんなさい……。お父さんを困らすつもりは全然なかったんだ。あのキャンプの時は本当に楽しかったんだ。だますつもりじゃなかったんだよぉ。それだけは信じて……」
 息子は息子なりに、弱い自分の心を奮い立たせて父親を守ろうとはしていたのだ、父としてその気持ちだけは汲んでやらなければならないと豊は思った。たまらない気持ちになった豊は、泣きじゃくる弘樹の涙をそっと取り出したハンカチで拭いてやると、ぎゅっと抱きしめた。すると弘樹は抱きしめられた豊の腕の中でより嗚咽した。いつの間にか、そばに来ていた妻の佐智枝も唇をかみしめて泣いていた。豊は思った。この弱い弘樹を守っていかなくてはならない。いじめが頻繁におこる学校には置いておけない。さっそく転校の手続きをとらなくては、と冷静に考えていた。
 弘樹の話から出てきた人物を警察に話すと、芋づる式に犯行にかかわった者たちが検挙された。もともとそれほど周到に練られた窃盗計画ではなく、ずさんなものだったのが幸いしたのである。野球帽とアキラはいともたやすく犯行を自供した。だが、肝心のtypeX和久スペシャルは住宅街のごみ集積所に遺棄したことまでは分かったが、それからの行方は杳(よう)として知れなかったのだった。
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