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始まりの場所
しおりを挟むカイの風邪が移ったという『テイ』で俺は今日仕事をサボった。
もしかしたら、カイにはバレているかもしれないが、何も言ってこなかった。
ただ一言、後悔はするなと激励にも近い言葉を去り際にかけられ、不覚にも目頭が熱くなってしまった。シャロニカさんやニコラも営業前に駆けつけてくれ、罪悪感から本当に具合が悪くなりそうだと思った。
しかし、俺に具合を悪くしている暇は無い。
カイから聞いた話を確かめるべく、俺は誰にも悟られないように見世を出た。
逢魔時はとうに過ぎ、辺りを闇が包んでいる。この時間に見世から出るのは気が引けたが、一刻も早く自分の気持ちに決着をつけたかった。
アレに遭遇する可能性は勿論ある。夜柯さんの動きが変わったことでアレがどうなってしまっているのか、それすらも分からない。なるべくなら無傷のまま事を終えたいが、もし万が一のことがあっても、それはそれで運命だと思って諦めようとは思っている。それだけの事をしようとしているからだ。
この世界に来たぶりに見た夜の街は相変わらずネオンの光が騒々しく、しかし、確実に俺の瞳に馴染んでいた。
今思えばこの人気の無さもアレを恐れてのことなのだろうと分かる。どこの家もきっちりと戸が閉められており、他を寄せ付けない雰囲気を醸し出している。
そういえば、と俺はこんな時にどうでもいい疑問を思い浮かべた。見世に来る客は夜になってから帰る者も多い。あの見世から出て一人で帰るにはこの町は危険過ぎるような気がする。
俺は目的地に向かって歩きながら、気を紛らわせるために理由を考えてみることにした。
(明るい場所だけ選んで帰る……とか? もしくは護衛を雇うとか……?)
夜柯さん以外の人間がアレをどうにか出来るのかは疑問だが、俺がアレに襲われたのは二回とも薄暗い路地だった。アレを集めていた夜柯さんの部屋も暗く、光に弱い可能性は十分にあり得ると思った。
しかし、俺の想像を一刀両断するかのように、通りの先の角から派手な光を纏った『何か』が俺に近付いてきた。
それは人力車のような乗り物だった。形は間違いなく人力車。しかし装飾がこれまたネオンだらけだった。提灯のような形をした赤いネオンがぐるっと一周人力車を囲うように取り付けられていて、動くたびに同じ角度に揺れていた。人力車を引く人物は至って普通で、寧ろ夜道を一人で歩いている俺のことを不審に思ったのか、ジロジロと横目で見ながら通り過ぎていった。
(なるほど……)
あれはこの世界のタクシーなのだと思った。あれだけの光を纏っていたら確かにアレは近付いて来そうもない。
そんな便利なものがあるとは知らず、怯えながら歩いている自分が馬鹿みたいに思えた。しかし、今からタクシーを手配する術はなく、俺は仕方なく歩みを早めた。
***
カイが言っていた場所に辿り着いた。
昼間に来た時は綺麗な場所だと思っていたが、夜、しかも人気がなくなってしまうと不気味な場所に様変わりしていた。
カイがニコラと仲直りしたあの公園。
そこにあの『異世界橋』と同じような橋があるとカイは言っていた。この世界にもあの橋を夜に渡ると異世界に飛ばされてしまうという怪談があるらしい。実際、飛ばされてしまった人を見たことはないが、火のないところに煙は立たない、必ずオレたちの事と繋がりがあるはずだとカイは力説した。
それを確かめに俺はここに来た。
心はもう決まっている。後は自分の目で真実を確かめ、そして幕を下ろすだけだ。
辺りを見て回ると、確かにこの間来た時には気付かなかった橋があるのが分かった。元の世界と殆ど同じ形をしていたが、元の世界の異世界橋がボロボロだったのに対し、こちらの世界の異世界橋は比較的新そうだった。そんなところでも時間の流れの違いを感じて怖くなる。
本当にここは異世界なのだと、改めて強く感じた。
俺は橋のたもとまで近付き、足を止めた。そして橋を見渡してみる。ここを渡ればもしかしたら帰れるかもしれない。
俺はうるさくなり始めた胸を押さえ、大きく深呼吸した。そして大きな声を出した。
「夜柯さん!」
俺に名前を呼ばれた夜柯さんは、気まずそうに、しかし逃げることはせず、橋の近くにあった木の影から姿を現した。
「…………いつから気付いてた?」
「最初から、です」
これは嘘だった。そうだったらいいな、と思っていただけだった。
夜柯さんは少し困ったような顔をして俺のことを見た。
俺は今、夜柯さんを利用した。自分の心にケリをつけるために。
カイにこの橋のことを聞いた後、俺はカイに一つだけお願い事をした。夜柯さんに俺に異世界橋の怪談を聞かせたと伝えて欲しい、と。初めは訳が分からなさそうな顔をしていたカイだったが、俺が真剣な顔をしていたせいか最後には了承してくれた。
そうして俺は見世を出た。
夜柯さんが追いかけて来てくれるといいなと思いながら。
自分の気持ちを自覚するために人の気持ちを利用するなんて、本当に最低だと思う。
だから、この先は、絶対に夜柯さんを不安な気持ちにさせないと誓う。
俺は異世界橋と夜柯さんを交互に見た。
初めはあんなに帰りたかった。
その帰れる可能性と夜柯さん、最初から比べられるはずもなかったのだと、今になってようやく自覚する。
もう俺の心が揺らぐことはない。
『好きな人が出来てしまった。』
『それは元いた世界を捨てる覚悟ができる出来事なのだろうか。』
今ならはっきりとカイの気持ちが分かる。
「夜柯さん、俺――」
俺の言葉は夜柯さんによって遮られてしまった。
強く抱きしめられた背中が痛い。それ以上に耳元から聞こえる夜柯さんの震える声が胸に刺さった。
「亜莉寿、帰りたい? 僕と一緒にいるのは嫌?」
「夜柯さん……」
「何を差し出したら僕のそばにいてくれる? どうしたら――どうしたら――どうしたら……!」
強く拘束されていた腕を何とかほどき、俺は夜柯さんの背中に腕を回した。今度は誰にも邪魔されない。俺は仕返しとばかりに強く抱きしめ返した。
「……亜莉寿?」
困惑する夜柯さんの声が愛おしい。
大好きだと、伝わって仕舞えばいいのにと思いながら夜柯さんの瞳を眺める。あれほど怖いと思っていた金色の瞳が俺の瞳と出会った瞬間、熱を帯びて揺れた。
あ、もしかして、と思った頃には夜柯さんは俺の唇に触れていた。俺を拘束していた腕はいつの間にか俺の両頬に添えられており、違う意味で身動きの取れなくなった俺は、長くて優しいキスを受け止めた。
「…………僕のそばにいてくれるの?」
キスの合間に呟かれる言葉一つ一つが甘い。
この甘さは危険だと改めて思う。
「夜柯さんが言ったんじゃないですか、僕の存在理由になってって……」
照れ隠しにそう答えるが、夜柯さんはそんな俺を見て幸せそうに笑った。
「うん。でも、言葉が欲しい」
言わせるつもりだ、と経験値の差に少しの悔しさを感じるが、確かに言葉にすることは大事だとも思った。
「夜柯さんのそばにいます。………………夜柯さんのこと、好きなので」
「知ってた」
もしかして、俺がそう思った時、夜柯さんの瞳が熱を帯びて揺れた時、俺たちは初めて分かり合えた。その実感が今になって押し寄せてくる。
夜柯さんの気持ちを利用して、自分の心の駆け引きをしていたはずなのに。いつの間にか、俺は勝ち目のない夜柯さんとの駆け引きに乗っていた。
これが手練手管というやつか、と納得しかけるが、夜柯さんは遊女ではない。ただただ自分から罠にハマりにいってしまったんだとしたらこんなに情けない話はない。
(まぁ……それでも)
いいか、と思えるほど、夜柯さんは穏やかな顔で俺のことを見つめていて、俺もこの先その視線に応えていけるのだと思うと、自然に息を吐き出した。
「…………亜莉寿?」
不安そうな顔で夜柯さんが俺を見る。
これは断じてため息ではない。
幸せが溢れてしまった証拠なのだと夜柯さんに分かってもらうため、俺はもう一度、夜柯さんをきつく抱きしめた。
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