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生贄志願

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 聞いていたよりは綺麗だな、と朝陽(あさひ)は疲れ切った顔を僅かに綻ばせた。
 目の前にはこじんまりとした古民家が一軒。
 ここでなら思ったより快適に暮らせそうだと周囲を見回した。

 山の中なので当たり前だが、家の周りには草木しかない。車の音すら聞こえない。それなのに何かの鳴き声はずっとしている。

 鳥? 虫? それとも何か他の生き物……?

 前言撤回。少しだけここで暮らせるのか心配になってきた。
 自分で言いだしたこととはいえ、早々に自信がなくなってくる。

 朝陽はじりじりと焼けるような日差しを遮るため、近くの木蔭へと移動した。
 すると、足元の草むらから聞いたこともないような鳴き声と共に大きなバッタが飛び出してきた。

 うわ、気持ち悪い。

 大げさすぎるくらいに距離をとると、再び日の下に出てしまった。しかしバッタがいる木蔭に戻る気にはなれない。

 仕方ない、休むのは諦めよう。

 朝陽はスマートフォンを取り出すと履歴から電話をかけ始めた。

「もしもし、岡室です。今到着しました」

 それだけ言うと、電話の向こうから「あ、ちょっと待っててね~」と穏やかな声が聞こえた。

「分かりました! 家の前で待ってますね!」

 朝陽は、はきはきとした声で答えて電話を切った。

 流れ出てくる汗を拭いきるのを諦めたのは一時間ほど前だった。ちょうどこの山の入口に着いた頃で、辺りにはまばらだったがハイキングに来た人もいて、少し気が緩んでいた。
 入口からでも目的地が見えたため、そんなに時間はかからないだろうと思っていた。しかし歩けど歩けど距離は縮まらず、おまけに人通りも完全に無くなって、やけに大きな蝉の声を一人で聞き続けた。

 もしかしたら遭難したのではないかと不安を感じ始めたところに古びた道案内の看板を見つけて、やっとの思いで 今に至る。
 バス停で次のバスを確認して、二時間待ちの表示に怯んで、軽い気持ちで歩くことを決めてしまった過去の自分を殴りたい。次に移動するときは絶対にバスを使おうと固く誓う。


 朝陽が転勤でこの山の麓にある町に戻ってきたのは、一カ月前のことだった。生まれ故郷のこの町に降り立ったのは三年ぶりで、相変わらず開発の進まない駅前に安堵を感じた。

 東京で働くという夢を叶えて上京した朝陽はそれなりに楽しく暮らしていた。
 やりがいのある仕事に新しく出来た友達。それに優しい彼氏。
 しかしその彼氏が問題だった。
 付き合い始めてすぐに、結婚しようと言われたのだ。それ自体はすごく嬉しい申し出だった。感激に胸を詰まらせ、首を縦に振ろうとした瞬間、朝陽にとって決定的な地雷を踏まれた。

「結婚したら仕事は辞めてね」

え?
 頭の中が真っ白になった。当たり前のようにそう発言されたことに一周回って恐怖を感じた。
 仕事は楽しい。やりがいも感じている。なのに、まるでそうするのが当然かのようにそれを捨てろといってきた。
 あまりの価値観の違いに言葉を失った
 結局その場でお断りして破局。
 朝陽はタイミングを計ったかのように湧いて出た自分の地元への転勤の話に乗って、逃げるように東京から引っ越した。

 急な転勤だったため、一人暮らしの準備する余裕は無く、仕方なく実家に居候していた。
 居候の身であるにも関わらず『仕方なく』は贅沢だと思われるかもしれない。しかし、仕方なく、と言いたくもなるような事情が朝陽にはあった。
 それは両親からの「誰か良い人はいないのか」「結婚しないのか」攻撃だ。
 アラサーの女が急に単身で東京から田舎に帰ってきた時点である程度察して欲しいが、両親がそういう人種ではないことは二十五年接してきて嫌でも分かっている。

 おそらく説明しても無駄だと思った朝陽は静かに耐えることにした。早く良い物件を探して出て行こう、そう考えていた矢先。
 その話を耳にした。

「伊呂波(いろは)さまのお嫁さんは今年も希望者はいないのかねぇ」

 朝、丁度ゴミ捨てに出たときだった。向かいに住むおばあちゃんのよし江が朝陽の母親にそう漏らしたのを聞いた。
 ただの世間話だ。そう思うのに、湧きあがる好奇心に勝てなかった。

「あ、あの」

 朝陽が声を掛けると、よし江は目じりの皺をより深くして微笑みながら挨拶をしてきた。朝陽の母親は内向的な娘が突然会話に割って入ってきたことに驚いたのか、口を開けたまま朝陽を凝視した。

「あら、朝陽ちゃん? 大きくなったわねぇ」
「あ、はい、お久しぶりです」

 東京から帰ってきてからというもの、仕事に行く以外は家から出ず、ろくにご近所挨拶もしていなかったことを思い出して少しバツが悪くなる。

 子どもの頃はよし江がよく遊んでくれていた。第二の祖母と言っても過言ではないくらい懐いていたのに、環境が変わってからは一度も気にしたことがなかった。
 それなのに、よし江は昔と変わらない穏やかな笑顔で朝陽を迎えてくれる。

「あの、伊呂波さまって……?」

 本当はもっと気のきいたことを言うべきなのに、上手く言葉が出てこない。沈黙するのも嫌で、思い切って気になったことを聞いてみた。

「伊呂波さまって言うのはこの辺りの土地を守る神様でねぇ。昔はよくお供えものをしに山に登ったんだよ」
「神様……?」
「ほら、よく夏祭りに連れて行ったじゃない」

 朝陽の母親がそう言う。確かに小さい頃は山の中腹にある集会所のお祭りによく行っていた。大きくなるにつれて段々と行かなくなって、存在自体忘れていた。
 あれは伊呂波さまを祀るためのものだったのかと今更知る。

 しかし、伊呂波さまが神様だとしたら、お嫁さんの希望者とは一体どういうことなのか。

「お嫁さんって……」
「あぁ……この辺りの地域には昔から伊呂波さまに生贄を捧げる風習があったんだけどね」

 いきなりの物騒な話に唖然とする。
 すると、ふふ、と朝陽の頭の中を読んだかのように、よし江が笑った。

「すごく昔の話よ」

 もしかすると、自分は今でも生贄を捧げているとんでもない所に帰ってきてしまったのかと焦った。

「でも、希望者って……」
「流石にこのご時世に生贄なんてしたら大問題でしょ? だから希望者を募って伊呂波さまのお嫁さんを探しているの」

 神様の? お嫁さん?

 あまりに突拍子もない話に朝陽が間抜けな顔をしていると、よし江は更に詳しく説明してくれた。

「もう形式上だけのことなんだけどね、伊呂波さまのお嫁さんっていう名目で山の頂上付近にある伊呂波さまの家で生活して、家の管理をしてくれる人を募集しているのよ。家賃はなし、それどころか管理費として毎月いくらか出るみたいなんだけど」

 家の管理、という言葉に朝陽は反応した。要するに住み込みの管理人ということだろうか。

「それって……今のところ希望者は……」
「条件が特殊でねぇ。ここ何十年も希望者がいないのよ。仕方ないとは分かってはいるんだけど、伊呂波さまが寂しくしているんじゃないかと思うと心苦しくてねぇ」

 今の最優先事項は実家を出ることだ。
 朝陽は目の前に吊るされた甘すぎる話に飛びついた。

「あたし! あたしやります!」
「はぁ!?」

 朝陽の母親の大きすぎる驚嘆の声の理由を朝陽が知ったのは、この後すぐだった。
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