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生贄の条件

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「待たせたねー」

 朗らかな声がして振り返ると、家の横にある細い道に軽トラックが止まり、中から中年のおじさんが出てきた。この家の仮の管理人である今村だ。

「あ、大丈夫です!」
「ここで待ってるの暑かったでしょ? 本当は少し前に来てようと思ってたんだけど、ちょっと用事が入っちゃって」
「いえ、むしろ急なお願いをしてしまって申し訳ないです。ありがとうございます」

 朝陽は深々とお辞儀した。

「何十年ぶりに伊呂波さまのお嫁さんが来るって聞いてびっくりしたんだけど、まさか岡室さんとこのお嬢ちゃんだったなんてなぁ」

 今村は言いながら懐かしそうに目を細めた。
 よし江に紹介されて今村と連絡をとるまで、朝陽は今村のことを覚えていなかった。むしろ今でもおぼろげな記憶しかないが、今村は小さい朝陽の面倒をよく見ていてくれたらしい。特に夏祭りの際には、盆踊りを教えてくれ、朝陽は夢中になって踊っていた、とよし江は懐かしそうに言っていた。
 一方的に知られているような状況に少しの恥ずかしさを感じるが、初対面ではないと分かって少しだけ緊張が解けた。

「小さい頃はとても良くしていただいたみたいで……」
「さすがに覚えてないよねぇ。朝陽ちゃんまだこんなに小さかったし」

 今村は自身の腰のあたりで手を地面と水平にかざして当時の朝陽の身長を表した。多分、三、四歳くらいの時の話だ。
 身内以外に自分の知らない自分を知っている人がいるのはなんだか不思議な気分になる。
 
「時が経つのは早いなぁ……」

 感慨深そうに今村がつぶやく。

「ごめんね、思い出話なんかしちゃって」
「いえ、懐かしい気分になれて楽しいです」
「ありがとね。あ、そろそろ家の説明をしようか」

 そう言って、今村は古民家の小さめのドアの前まで移動した。
 朝陽も今村について行き、ドアの前に立った。

 よし江からは古い平屋の一軒家と聞いていた。実家は朝陽が生まれる前にリフォームしていて平屋という物件に住んだことがなかった。そんなこともあり、心配半分、好奇心半分で山を登ってきた。
 古い、と言っていたので、ある程度心に保険をかけていたが、想像の何倍も伊呂波さまの家は綺麗だった。綺麗、と一言で言ってしまうと語弊があるかもしれない。なんというか、大切にされて守られてきたもの、という印象が強い。

「ちょっと立て付けが悪いけど、下の方を持って引っ張ってやると上手く開くから」

 今村は年季を感じる木のドアをスライドさせた。ガラガラと大きな音を立てて扉が開く。何故かひやっとした空気が家の奥から流れてきた。外は相変わらず強い日差しに照らされて、空気がゆらゆらと波打っているのにも関わらず、だ。
 神様の家というだけある、独特の雰囲気に気圧される。
 少しだけ不気味だと思った。

 恐る恐る中を覗くと昼間だというのに薄暗かった。古い家特有の匂いが鼻をつく。嫌な匂いではないが嗅ぎ慣れない。

「今は雨戸全部閉めちゃってるから湿っぽく感じるかもしれないけど、週一で掃除してるから綺麗なはずだよ」

 朝陽の反応がいまいち良くないと感じたのか、今村は元気づけるようにそう言って何かを渡してきた。反射的に差し出した手に変色した鍵が一つ乗せられた。

「これ、鍵ね。スペアキーは用意してないから、無くさないように気をつけてね」
「はい、ありがとうございます」
「都会からの移住だから大変なこと沢山あると思うけど、困ったことがあったらいつでも連絡してね」
「本当にありがとうございます」

 今村が人の良さそうな顔で微笑む。
 正直、今村の協力があるのはとてもありがたかった。
 勢いで決めた管理人業務だが、案外上手くいきそうな気がしてきて、少しわくわくしてくる。初めて東京で一人暮らしを始めた時のような高揚感が全身を包んで気分が上がってくる。

 今村は軽く家の説明をすると、来た時と同じ軽トラックに乗って帰って行った。
 今村を見送ると、朝陽は肩に掛けていたボストンバッグを玄関に下ろした。本当は荷物を全部持ってこようかと思っていたのだが、もし、万が一にも早々にギブアップすることになってしまったら移動が面倒なので、必要最低限のものしか持ってこなかった。
 必要になったらその都度実家に取りに帰ればいい。そう考えていた。
 さっきまでは。

「お母さんに頼んで車で運んでもらうんだったかな……」
 
 今日歩いた山道を荷物を持ちながら何往復もする気力は、もうない。
 運動不足がたたって足はすでに悲鳴を上げ始めている。明日を待たずに筋肉痛が訪れそうな勢いの倦怠感に、朝陽は足を休ませたい一心で靴を脱ごうとしたが、不意に動きを止めた。

 この家に上がったら、あたしは神様への生贄になる。

 朝陽は真面目な顔で鼻から息を深く吸うと、思い切り吐き出した。
 よし江から聞かされた生贄の条件を心の中で反芻する。

 第一に伊呂波さまの家で生活し、お世話をすること。

 ようはこの家の管理人ということなので、そこまで難しいことはない。管理人だからと気負う必要はなく、適度に掃除をしていればいいらしい。人が住むことで家の劣化を防ぐのが目的で、神経質になる必要はないとも言っていた。

 第二に毎日欠かさず二人分の食事を用意すること。

 忙しい一人暮らしの割に自炊はしている方だった。二人分作ることくらいなんてことない。強いて言えば残った一人分の後処理をどうするか考えておかないといけないということぐらいか。

 最後に、生贄の間は結婚はしないこと。

 形式上とはいっても生贄、もといお嫁さんとして伊呂波さまに嫁ぐことになるのだ。神様に使えるのならそのくらいの覚悟が必要ということなのだろう。
 時代が時代なら、神様への生贄は殺されてしまっていた。それを考えると随分とハードルが下がったな、と思った。

 朝陽は恋愛禁止を掲げるアイドルと同じようなものだろうと深く考えていなかったが、最後の条件に朝陽の母親は難色を示した。ただでさえ結婚に関してだんまりを決め込んでいる娘の婚期が更に遅れるのだ。いい顔をするわけもなく、散々小言を言われた。
 気持ちは分かるが、何年も前に成人している娘の意向ぐらい尊重してほしいと思う。

 母親の小言を避けるため、またしても逃げるように無理やり引っ越しを決めた。
 最近逃げ回ってばかりだな、と逆に面白くなってくる。
 朝陽は覚悟を決めて靴を脱いだ。

「お邪魔しまーす……」

 勿論返事はない。返事があっても困るのだが。
 朝陽は自分の家に入るのに変な遠慮を感じたが、ここを自分の城にするのだという意気込みで足を踏み出した。
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