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侵入者

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 何事もなく時間は過ぎ、日が傾き始めた。
 換気のために開け放っていた窓ガラスを順に閉め、ついでに雨戸も閉める。
 最初は少し不気味に感じた家だったが、過ごしているうちに段々と空気に慣れてきた。家の中は丁寧に掃除してあり、むしろ実家の自分の部屋よりも綺麗で朝陽は今村に感謝した。

 サプライズなのか、居間に備え付けられていたテーブルの上に薔薇の花が飾られていた。薔薇の花をプレゼントされた経験などない朝陽は、少しだけむず痒い気持ちになったが、嬉しさの方が勝った。
 にこにことしながら薔薇を眺め、作った晩御飯をテーブルに並べた。
 伊呂波さまの分はどうしたらいいのだろうと考えて、迷った挙句に自分の向かいに同じように並べた。

「いただきます」

 新居での初めての食事だから、と少し手の込んだものを作った結果、調子に乗ってお腹がいっぱいになるほど食べてしまった。苦しいと感じながらも幸せな気持ちになる。このところ煩わしい出来事ばかりで食欲もなくなりつつあった。それなのになぜだか今日はやけに食が進んだ。

 片づけを始めると、伊呂波さまのために並べた手つかずのご飯をどうするか問題にぶち当たった。
 一応神様へのお供え物なのだから、自分で手をつけるのは気が引ける。かと言って、このまま捨ててしまうのは勿体無い。

 悩んだ挙句、とりあえず冷蔵庫にしまっておくことにした。処理の仕方は明日にでも今村に聞けばいいだろうと思いながら。

「ごちそうさまでした」

 後片付けを済ませると、風呂の準備を始める。もしかしたら教科書でしか
見たことがないような薪をくべてお湯を沸かすタイプのものかもしれないと戦々恐々としていたが、なんと驚くことに追い焚き機能もついている湯沸かし器だった。
 家具や家電も最新のものではないにしろ、不便がない程度のものが揃えられていて、いよいよ快適すぎて逆に怖くなってくる。
 こんなに快適なのにお金を払わなくていいんだろうか。
 おいしい話には罠がある、タダより高いものはない、と言うが、今のところ場所が山の上にあるという点以外で不便に感じるところがない。

 まぁ、山の上にある時点でかなりの減点か……。

 朝陽は風呂が沸くまで寝転がりスマートフォンを弄りだした。
 適当にSNSを流し見しつつ暇を潰す。地元に戻ったことは本当に親しい友人数人にしか伝えなかった。勿論、元カレにも伝えてはいない。連絡先を全て消したため、伝える手段もないのだが。
 新しい環境でやり直すという気合を込めての行動だったが、やはり周りに友達がいないのは少し寂しく感じる。

 朝陽は急に一人ぼっちだという実感が湧いてきた。
 久しぶりの感覚に戸惑う。

「そろそろかな」

 暗い気持ちを打ち消すように呟くと、丁度いいタイミングで、風呂が沸いた音楽が流れた。
 汗でべた付いたシャツを脱衣所まで待たずに脱ぎ始める。下着姿でうろうろしながら下着や着替えを探すとお風呂まで一直線に向かった。

 新居の風呂場は一人暮らし用のアパートのものより広かった。そもそも元住んでいた家はユニットバスだったため、中々湯船には浸かれず、疲れがとれないこともしょっちゅうだった。
 湯船に浸かると足の疲労感がお湯に溶けていくような感覚がした。
 とにかく気持ちいい。
 はぁ~と息を吐きながら身体を沈める。顎にお湯がつくかつかないかのところで止まり、目を閉じた。
 東京と違ってここは静かだ。自分が物音を立てる以外の音はしない、そう思った瞬間。

 ガシャン。

 その音ははっきりと朝陽の耳まで届いた。
 途端に温まっていたはずの身体に鳥肌が立ち始めた。すぅーっと血の気が引いていく。

 何、今の音。

 雨戸を閉めた時に全個所施錠されていることは確認した。
 しかし、所詮は古い一軒家だ。セキュリティーなんて概念は無いに等しい。やろうと思えば窓を割れば簡単に侵入できるため、泥棒の可能性が捨てきれなくて鼓動がどんどん早くなっていく。

 嘘でしょ……

 最悪なのは今この状態で泥棒に遭遇することだ。
 朝陽は慌てて風呂から上がると、身体を拭くのもそこそこに服を着た。
 ゆっくりと音を出さないように音がした方に向かう。
 怖くて足が震える。
 しかし、音の原因が分からないことには、この家で一晩過ごすことはできない。勇気を振り絞って歩みを進める。

 息を殺して、壁の陰から音がしたであろう居間を覗きこむと、一見変わりはなかった。しん、としていて誰かがいる気配もない。
 不思議に思い足を踏み入れると、一つだけ変わっている部分があった。

「薔薇が……」

 花瓶に生けられていた薔薇の花が花瓶ごと倒れてテーブルが水浸しになっていた。
 朝陽は近づくと倒れた花瓶を起こした。すると、視界の端を何かがすごい勢いで駆けていった。

「え!」

 慌てて顔を向けるとそこには茶色のイタチがいた。二本足で立って丸い瞳でこちらを見ている。朝陽は口を閉じることを忘れてイタチを凝視した。

「え、うそ! イタチ!?」

 朝陽が大きい声を上げると、イタチはたちまち家具を登ってどこかに消えてしまった。音の正体はイタチだったのかと納得し安心したが、それと同時に想像以上の環境の中にある家なのだと再認識する。
 イタチって……。
 ネズミくらいは出るかもしれないと覚悟していたがまさかイタチとは。

 この先への不安がまた少し増えながら、朝陽は散らばっていた薔薇の花をかき集めた。何本かは花弁が落ちてしまっていたが、まだ元気なものもある。
 朝陽はもう一度花瓶に水を入れると、薔薇の花を生けた。
 最初よりはボリュームは減ってしまっていたが、美しさは変わらない。
 朝陽は花瓶を持ち上げると、玄関へと移動した。


 寝室のど真ん中に敷いた布団に大の字で寝転がる。
 ベッド以外で寝るのはいつぶりだろう。
 敷布団の固さが心地いい。朝陽は思い切り手足を伸ばすとふかふかの枕を片手で手繰り寄せた。頭の下に引き込み、もう片方の手でタオルケットを掛ける。
 なんだかんだで今日一日相当疲れた。山登りから始まり、掃除に、料理、そしてイタチによる泥棒騒ぎ。体力的にも限界を迎えそうだったところに、泥棒騒ぎで精神的にも止めを刺された。

 念のため、もう一度全部のドアの施錠を確認して、ついでにガスの元栓も確認した。懸念事項はもうない。
 いつもならダラダラとスマートフォンを弄りながら寝落ちるのだが、よほど疲れていたのか、朝陽はすぐに意識を手放した。
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