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いきなりのプロポーズ

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 不意に伸ばした手は、何か滑らかなものに触れた。
 覚醒しきっていない頭で、探るように手を動かすと、どうやら人の肌に触れているようだと分かる。

 …………拓真?
 あれ、昨日泊まりに来てたっけ?

 朝陽は夢と現実の境をゆらゆらと行き来しながら元カレの名前を呼んだ。

「…………たく、ま……?」

 口に出してから気づく。
 ここは東京のアパートではなく、拓真とはもう別れていて、引っ越しもした。
 自分がが今いるのは田舎にある山の中の一軒家だ。
 朝陽はものすごい勢いで覚醒すると跳ねるように飛び起きた。
 やっぱり泥棒か不審者が侵入していたのだと、今更気づいても、もう遅い。
 慌てて自分の隣を見れば、知らない男が気持ちよさそうに寝ていた。薄い着物のような服を着ていて、すこしだけ肌蹴ている。

「い、いやあああああああ」

 朝陽の絶叫が早朝の山中に響く。これが都会ならすぐに通報されて警察が駆けつけてくれるかもしれないが、あいにく朝陽の声が届く範囲に民家はない。
 せいぜい軒先に止まっていたスズメが飛び立ったくらいの変化しか起こらなかった。

 え、どうしよう。泥棒っていうか不審者……だよね、多分。

 あれだけ大きな声を出したのにも関わらず、男は微動だにしない。

 し、死んでないよね……?

 一向に男に起きる気配がないため、恐怖よりも心配が勝ってきた。もし仮にこの男が死んでいたとして、そうしたら朝陽の立場はどうなるのだろう。

 殺人疑い? それとも遺棄罪?

 サスペンスドラマで知っただけの薄い知識を総動員する。そんなことを考えている時点で冷静でないのは明白だが、朝陽はとにかく混乱していた。
 恐る恐る手を伸ばすと男をゆすった。
 男には人間が持っているはずの体温がなく、ひやりとした。思わず腕を引っ込める。
 いよいよ遺体説が濃厚になりはじめる。

「すみません! 起きてください!」

 朝陽は泣きそうになりながら男をゆすり続けた。なんでこんな目に合わないといけないのか。神様がいるならこの状況をどうにかしてほしい。

「お願いだから起きてぇ!」

 最大限のボリュームで叫ぶと男に微かに動きがあった。それを朝陽は見逃さなかった。四つん這いでスマートフォンが充電してあるコンセントの近くまで行くと震える手で電話をかけようとした。

「こういう時、どこにかければいいんだっけ? 警察? 救急車? あれ、救急車って何番だっけ?」

 混乱して正常な判断ができない。
 ようやく救急車の番号を調べると、通話ボタンを押そうとした、が。

「朝陽、おはよう」

 耳元で男性の低い声がしたかと思うと、次の瞬間には背後からのしかかられる様に首に腕を回され、朝陽は息を止めて固まった。
 ゆるく抱きしめられているような体勢に朝陽の頭の中は更に混乱する。
 顔を確認しようとしたが恐怖で身体が動かない。
 頂点まで達した恐怖は涙となって溢れ出す。ギリギリで呼吸をしながら音もなく涙を流し続ける。

「朝陽?」

 朝陽の涙に気付いた男は、ものすごい勢いで身体を離し、戸惑うような声を出した。

「ご、ごめん! そんなに嫌だとは思わなくて」

 知らない男にいきなり抱きしめられたら誰だって嫌だろう。
 この男は何を言っているんだと、今度は怒りが湧いてくる。男の身体が離れたのをいいことに、朝陽は文句を言おうと振り返った。

「いきなり何するん──」

 言いかけて口をつぐむ。朝陽の隣に寝ていた男が想像していたよりも遥かに美しい姿をしていたからだった。背中の中ほどまである髪の毛は綺麗な濡れ羽色をしているが、色素の薄い瞳を見るに、日本人ではなさそうだ。不思議な魅力を持つ目に一瞬釘づけになるが、それでも朝陽の怒りは収まらない。
 かっこいいからなんだというのだ。この男がしたことは立派な犯罪だ。

「あなた、誰ですか!」

 力を振りかざされたらとても敵いそうもない。朝陽が生き残る方法は一つ、強気に出てこの場の主導権を握ることだ。
 男が下手に出ている今がチャンスだと思った朝陽は、立て続けにまくし立てた。

「なんであたしの布団で寝てたんですか! どこから侵入したんですか!」

 全力で声を張り上げすぎて息切れしてきた。男はきょとんとした顔で朝陽を見つめ続けている。

「とにかく今すぐ出て行ってください!」

 男の変わらない態度に朝陽の虚勢はそろそろ限界に近付いてきた。
 折れそうな心がぐらつく。

「え……なんで?」
「は?」
「僕、そんなに朝陽に嫌われるようなことした?」
「え、」
「嫌なところがあったら直すから! だから出て行けなんて言わないで……」

 いきなり悲しそうな顔でそう言われ、面食らった。
 泥棒が身の危険を感じたわけでもないのに許しを請うなんて。しかも自分より遥かに力のないであろう朝陽に対して、だ。
 話の雲行きが怪しくなってきたのを感じ、朝陽は警戒しながらも口調を幾分か和らげた。このまま強気な態度でいても埒が明かない気がしたからだ。

「あの、あなたの名前は……?」

 もしかしたら、万が一、宝くじが当たるくらいの確率で、この男は朝陽の遠い親戚かなにかで、仲良くしていたが朝陽が記憶喪失になり、それを思い出してもらうためにここに来た可能性が……あるわけない。

「僕? 僕は伊呂波。知ってるよね?」

 知ってます。あたしがここにいる理由を忘れるはずがない。
 だけど、あまりにも現実離れしすぎていて受け入れられない。

「いや、伊呂波さまっていうのは神様の名前で……」
「だから、僕がその神様」
「はは……、今時小学生だって自分のことを神様なんて初対面の人に言いませんよ」
「でも本当のことだしなぁ……あ、そうだ」

 伊呂波は何かを思いついたように立ち上がった。肌蹴ていた着物が更に着崩れるのも構わず駆けだした。完全に置いてきぼりにされた朝陽は思わず伊呂波の動向を見守った。
 伊呂波はすぐに戻ってくると、手にした薔薇の花を目の前にかざしてきた。
 イタチに花瓶を倒された時に傷がついたのか、花弁が折れてしまっている。

「見てて」

 伊呂波はおもむろに花に手をかざすと息を吹きかけた。すると淡い光に包まれながら見る見るうちに花弁が閉じていった。逆再生したかのように綺麗に畳まれていき、ついには蕾の状態まで戻ってしまった。

「え、なにこれ!」

 朝陽は思わず食いつくと、差し出された薔薇の花を受け取った。
 どこからどう見ても完璧に蕾に戻っており、今から花を開かせようとしているような生命力すら感じた。

「どうやって……?」

 仕掛けは見当たらなかった。マジックの類いだと思ったがタネが分からない。
 唸りながら薔薇の花を隅々まで観察し続けていると小さく笑われた。

「朝陽、かわいい」
「は……?」

 今のあたしのどこにかわいい要素があったのか。
 朝陽はわざと顔をしかめると伊呂波を見た。

「信じてくれた?」
「…………少しだけ」

 本当はまだ信じたくはないが、奇跡と呼べるものを目の当たりにしてしまうと頑なに否定し続けるのも苦しい。

「相変わらず朝陽は頑固だね」

 眩しい笑顔でそう言われ、思わず流しそうになるが踏みとどまる。

「相変わらずって……あたしのこと知ってるみたいな……」
「知ってるよ。朝陽のことならなんでも」
「は」

 もし彼が本物の神様なら朝陽のことを調べるなんて朝飯前だろう。そうだとしたら、朝陽のここに至るまでの経緯を全部知っていることになる。

「朝陽は僕の妻になるんだよね」
「あ……」

 そうか。そういうことになるのか。
 一瞬納得しかけて。

「えええええええ?」

 またしても朝陽の絶叫が山中に響いた。

「妻? 妻って!? え!?」
「そのつもりでここに来たんだと思ってたんだけど、違うの?」

 伊呂波の落胆したような顔に罪悪感が湧く。

「いや、そうなんだけど! でもあたし神様なんていないと思ってて、それで……」
 
 何を言っても言い訳にしかならない。事実、朝陽は伊呂波の生贄もとい嫁になる約束でここへ来た。
 一人前に覚悟を決めたつもりだったが、所詮、神様は言い伝え上の存在という前提があってのことだった。今の状況ではそんな覚悟はなんの役にも立たない。

「妻? あたしが? 神様の……」
「うん、これから末永くよろしくね」

 んん? 末永く……?

「一生大切にするからね」

 唐突な人生二度目のプロポーズは、朝陽の気絶とともに幕引きとなった。
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