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いただきます

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「あ、起きた!」

 目を開けてすぐに視界に入る美しい顔のどアップ。
 そうか、ここが天国か、と我ながらベタな解釈をしたところで直前までの記憶が蘇った。

「朝陽、いきなり倒れこむからびっくりしたよ」

 伊呂波が朝陽の覗きこみながら笑う。
 朝陽は僅かに首を動かして状況を確認した。今自分は布団に寝かされている状態で、伊呂波が寄り添うように横にぴったりと付いている。

 近い。とにかく距離が近い。

「は、離れて!」

 耐えられなくなって叫ぶ。

「わ、ごめん、そうだった」

 伊呂波は素直に距離をとってくれた。そしてまたしても少し落ち込んだような顔をした。
 あの顔をされると少し弱い。
 朝陽は上半身を起こしながら伊呂波を見た。

「あ、えーと、伊呂波さまが、その、あたしをここまで……」
「うん。僕が抱き上げて移動したんだけど……あ! あくまで安静にしてもらいたくて、やましい気持ちとか、……ないって言ったら嘘になるかもしれないけど……でも心配してたのは本当で……また嫌な気持ちにさせちゃってたらごめん……」

 しどろもどろでまくし立てる伊呂波になんだか愛着が湧いてきた。
 しかし、こんなに低姿勢な神様なんているんだろうか。

「ありがとうございます……」

 朝陽がお礼を言うと、伊呂波は暗かった表情を一変させて、はにかんだ。
 悔しいぐらい笑顔が可愛い。神様に対して可愛いなんて言ってもいいのか分からず、朝陽は黙った。
 伊呂波も何も言わず、朝陽から一定の距離で所在なさげにしている。
 沈黙が気まずい。
 朝陽は立ち上がると、台所の方へ向かおうとした。

「まだ休んでた方が──」
「もう大丈夫です」
「でも、心配で」

 真剣に自分の身を案じてくれているのが分かるから、どんどん絆される。

「とりあえず、ご飯、食べませんか?」
「え?」

 ひと騒動あって忘れていたが、柱に掛けられた時計の針は九時を指している。いくら休日とはいえ、普段ならもうとっくに朝ごはんを食べ終えている時間だ。

「朝なので簡単なものになっちゃいますけど」
「う、うん!」

 混乱していて忘れていたが、この男性が本当に伊呂波さまだとすると、朝陽はご飯を作らなくてはならない。
約束だから、と思うわりには少しだけ軽い足取りで台所に入る。
 図らずも昨日頭を悩ませていた余った分の食事の処理問題が解決してしまったことも嬉しかった。

「あ、あれ……?」
「どうしたの?」

 冷蔵庫の中身を確認して間の抜けた声を出した朝陽に、未だに一定の距離をとりつつ後ろを付いてきていた伊呂波が声をかけた。

「ご飯……ない」

 昨日残しておいたご飯が全て無くなっていた。
 伊呂波の方を振り返ると満面の笑みで美味しかったよ、と言われた。
 元々伊呂波のために作ったものだから、食べてもらえるのはありがたい。しかし、一言かけてくれればいいのに、とも思う。

「冷たくなかったですか? 言ってくれれば温めたのに……」
「うーん、あんまり頓着したことがなかったから。朝陽がそうした方が良いって言うなら今度からそうする」

 素直な子どもを相手にしているような気持ちになってくる。見た目は朝陽より頭一つ分ほど背の高い成人男性なのだが。
 そのギャップに少しおかしくなる。

「すぐ作りますね」
「急がなくていいよ!」

 朝陽が腕まくりをすると伊呂波が慌てたように言った。

 ご飯に焼き魚、買っておいたきゅうりの漬物に味噌汁。
 結果、本当に簡単なものしか作れなかった。
 一応、神様ということを考慮して和食にしてみたが、洋食もイケるのだろうか。
 今度聞いてみよう、と思い立った自分に驚く。自然に伊呂波との同居を許容し始めていた事実に唖然とした。

「美味しそう!」

 瞳を輝かせて伊呂波が言う。なぜか台所に入ろうとせず、遠くから朝陽の行動を見ていた彼だったが、近づいて来たそうにそわそわし始めた。
 そんな行動を不思議に思いながらも、朝陽は今のテーブルにご飯を運び始めた。伊呂波は子ガモのように朝陽の後を付いてくる。

「伊呂波さま?」
「なに?」

 ご飯を並び終えても一向に席に着こうとしない伊呂波に痺れをきらし朝陽が声をかける。

「食べませんか?」

 そう言ってからハッとする。
 普通に考えたら、神様なのに人間と同じ食卓を囲むはずがない。
 伊呂波の印象があまりにも温和だったため、つい神様だということを忘れてしまう。

 こういう場合はどうしたらいいんだろう……? 神棚にお供えするとか?

 朝陽が眉間に皺を寄せて考え込んでいると、跳ねるような声がした。

「いいのっ?」
「え……」

 まさかのこちらの許可待ちだったのか。
 伊呂波の考えていることが分からず頭上にはてなマークが乱立する。

「朝陽が、離れててほしいって言ったから」

 先ほどの起きぬけに発した言葉を今まで律儀に守っていたらしい。
 神様というのは、もしかしたら変わっているのかもしれないと思った。

「伊呂波さまがあたしと一緒が嫌じゃなければ……」
「嫌なわけない!」

 ものすごい勢いで訂正してくるから可笑しくなる。
 朝陽は笑いながら椅子を引いた。

「伊呂波さまはこっちへどうぞ」

 伊呂波は言われるがまま席に着き、きらきらした瞳で料理を見つめる。
 簡単なものしか作れなかったため、あまり凝視されるのは恥ずかしい。

「いただきます!」

 伊呂波の気を逸らそうと、朝陽は大袈裟に挨拶をし、両手を合わせた。すると不思議そうな顔で伊呂波が首を傾げた。

「それはどういう意味?」
「へ?」
「その、手を合わせるの」
「挨拶……ですけど」

 あまりピンときていない様子の伊呂波に違和感を覚えるが、すぐに伊呂波という存在を思い出して納得する。
 食事の前の挨拶は、関わった全てのものに対する感謝を表す。巡り巡って、最終的には神に対する感謝も含まれるはずだ。感謝される側がこの挨拶を知らなくても無理はない。

「これは、感謝を表す挨拶です。もっとも、最近は食事の前のマナーみたいなものになっているので、伊呂波さまが無理にすることは──」
「いただきます」

 伊呂波は流れるように美しい所作で両手を合わせた。
 神が祈るという光景に思わず息を飲む。

「どう? ちゃんと出来てた?」

 少しだけ得意げな顔でそう言われ、やわらかい気持ちになる。昨日の緊張から打って変わって表情が緩みっぱなしなことに気付く。
 自分でも意外なほどに、伊呂波に気を許し始めている。しばらく人と関わるのが面倒くさいと思っていた筈なのに、今この瞬間は悪くないと思っている。

「完璧ですね」
「よかった」

 朝陽の返しに伊呂波はホッとしたように肩を落とし、食事をし始めた。
 そんな様子を眺めながら、朝陽も箸を手に取った。
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