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最悪の送別会

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 最悪だ、と朝陽は居酒屋のトイレでうずくまった。左手首につけた金色のシンプルな腕時計に目をやる。二十二時。とっくに最終バスの時間は過ぎている。

「もっと早く逃げるんだった……」

 今更後悔しても、もう遅い。朝陽は顔両手で覆って溜息をついた。
 そもそも、なぜこんなに遅い時間まで飲んでしまったのか。その原因を作った男の顔を思い出して腹が立ってくる。
 今回の送別会の主役のである倉島祐樹。朝陽が転勤してきて直ぐに朝陽の教育係になった男だ。新しい環境とはいえ、新人ではないので指導してもらうようなことはほとんど無かったのだが、こちらにはこちらのやり方があるからと半ば強引に教育係になった。実際、ほとんど仕事を教えて貰うような機会はなく、完全に名ばかりの教育係だった。
 少し付きまとわられている自覚があったため、会社を辞めると聞いた時は清々した。金輪際関わることもないだろうと思い、最後の力を振り絞って愛想よく接していたら、相手が調子に乗ってきた。
 もう会えないかもしれないからと、ずっと朝陽を拘束し続けた。
 地味に顔がいい分、自分に構われて迷惑に思う女はいないだろうと思っているのか、こちらの都合はお構いなしだった。
 うちの伊呂波の方がカッコいいし。
 調子に乗るな、と啖呵を切りそうになるのをグッと堪える。ここにいるのは倉島だけではない。上司も同僚もいるのだ。社会人としてこの程度で場の空気を乱すわけにはいかない。

「戻りたくないなぁ」

 送別会はもうお開きになった。今頃は幹事がお金を集め終えて会計しているだろう。
 朝陽はどうやってこの居酒屋から逃げ出そうかと考えた。なるべく見つからないように数人にだけ挨拶して鞄を回収して帰りたい。幸い、倉島はかなり飲んでいた。呂律も回らないほどだったので逃げるのは容易なはずだ。

 朝陽は周囲に誰もいないことを確認すると、忍び足で女子トイレから出た。
 思った通り、送別会が行われていた大部屋では各々が帰り支度を始めていた。
 入口からそっと入り、姿勢を低くして自分の荷物に近付く。すばやく鞄を拾い上げると、隣にいた同僚に小さく声をかけた。

「ごめん、あたしもう帰るね」
「あ、そうなの?」
「うん、だから──」

 二次会は行かないと告げようとした、が。

「倉島さーん、朝陽もう帰るってー」

は?

「最後に挨拶しておいた方がいいでしょ」

 普通はそうなんだけど。そうなんだけど!
 真面目な性格の同僚に声をかけてしまったのが運のつきだった。
 同僚の無慈悲な声かけによって倉島がこちらに気づいてしまった。

「え、なに? 岡室さんもう帰っちゃうの!?」
「あ、はい。色々とお世話になりました……」

 ここまで我慢してきたのだ。やりとおしてみせる。

「えー、二次会行こうよ」

 言われると思った。
 朝陽は眉間に皺がよりそうになるのをなんとか堪えて引きつった笑顔を見せた。酷い顔だが、どうせ倉島は酔っていて分からないだろう。

「明日、用事があるので……」
「用事? なんの?」

 あんたより顔が良くて物分かりのいい伊呂波との約束だよ! とぶちまけてしまいたい。こんな時間になってしまって伊呂波が心配しているかもしれないと思うと余計に腹が立ってくる。

「色々です、色々。なので今日はもう帰ります」

 真面目に答える気にもならない。適当な答えで話を濁すと、帰ろうとした。
 しかし、倉島が朝陽の腕を掴んできた。酒のせいで加減ができないのか、強い力で引き留められる。

「今日は、って言っても、俺たち連絡先も交換してないじゃん。次の約束できないし連絡先教えてよ」

 次の約束なんてあるわけない。

「ス、スマホの充電切れちゃったので……」
「あぁ、なんだ。そうなの」

 やっと納得してくれた。
 喜びが顔に出そうになるのを抑えて掴まれている手を振り払おうとしたが、倉島は更に力を強めた。

「じゃあ、充電できる場所に行こうか」

 耳元でそう言われ全身に鳥肌が立つ。嫌悪感に声が出そうだった。
 朝陽は倉島の腕を全力で振り払うと、みんなに聞こえるくらいの大声で「お先に失礼します!」と挨拶をし、急いで居酒屋を出た。注目を浴びたタイミングで逃げてきたので倉島も強引なことができず、後ろを見ても追ってきている様子はなかった。
 走るとすぐに体力が尽きてしまうため、早歩きでなるべく遠くまで逃げる。
 徐々に田舎の小さい繁華街から遠ざかり、街灯の数も少なくなってきた。東京の夜とはさすがに比べものにもならないくらい人通りがない。道も薄暗く、歩いているだけで不安になってくる。

 どうしよう。

 倉島を振り払うことで頭がいっぱいでこの先どうするかを考えていなかった。
 さすがに初日のように歩いて山を登るのが危険なことは分かる。夜だと最悪遭難しかねない。
 と、なると、残された選択肢は一つ。なるべく頼りたくはなかったが、実家に帰るしかない。手軽に泊まれるビジネスホテルや漫画喫茶が選び放題だった東京に思いを馳せながら歩きだす。

「伊呂波どうしてるかな……」

 遅くなるとは言ってあったが帰らないとは言わなかった。もちろんそのつもりは無かったのだから仕方ないが。
 連絡を取る手段も思いつかなくて途方に暮れる。スマートフォンとは言わないまでも、せめて家に電話を設置しておくべきかもしれないと思った。
 伊呂波の心配そうな顔ばかり思い出し、胸が痛くなる。

「仕方ない、明日早朝のバスで帰ろう」

 少しでも心配している時間を減らしたい。
 それに。
 伊呂波のことを考えれば考えるほど早く会いたくなってきた。
 家に帰ったら伊呂波は怒っているのだろうか。それとも泣きそうな顔で抱きついてくるのだろうか。
 必要以上に近付かない約束をしているから、伊呂波から朝陽の許可なしに抱きついてくることはない。
 そう思うと、自分で提示した決まりごとなのになんだかもどかしく感じた。
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